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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

三 国郡支配の再編成と富豪層

 郡制の再編

 伊予国の郡制については前章に詳述されているが(第一節)、そこでもふれられたように九世紀に入ると郡制再編の動きを伝える史料が頻出するようになる。これは全国的趨勢とほぼ軌を一にするものであり、貞観八年(八六六)一〇月、浮穴郡において少領一員が増員されたのを皮切りに、宇和郡・久米郡・喜多郡・新居郡において郡司員数の増加が相ついで認められる(表3-1)。いっぽう貞観八年一一月には宇和郡の北部地域を割き、新たに喜多郡が設置されたが(三代実録)、これも、結果的には他郡と同様、郡司増員政策の一環となっていることが注意される。すなわち、従前の宇和郡は喜多郡へ分置した三郷を含む六郷を管下において下郡の格付けを得ていたから、郡司定員も大領・少領・主帳各一名ずつであったことになるが(八世紀前半からそうであったことは天平八年伊予国正税出挙帳で確認できる)、宇和喜多分郡後は、両郡ともいったんは少郡で領・主帳各一の構成となったものの、定員総計は四となり、さらに貞観一六年(八七四)、元慶八年(八八四)にそれぞれ下郡に昇格したから郡司員数は計六名となり増員しているからである。
 判明する限りにおいてその事由を整理すれば、(1)徴税等の郡務強化によるもの、(2)戸口増益によるものに大別できるが、基本的には前者を重視すべきであろう。この改編によって郡司定員数のうえでは久米郡・桑村郡・喜多郡は下郡に、新居郡は中郡に昇格したと思われるのに、『和名抄』などによってもこれらの郡がその時点で規定の管郷数(戸令では下郡は七~四郷、中郡は一一~八郷と規定する)を満たしていたとは考えられず、これらの郡に関しては戸口増益による郡勢発展といった傾向はうかがい得ないからである。九世紀以後の地方支配、ことに律令的収取体制の危機に直面し、律令国家は郷数の多少とは別に郡司定員の加増を行うことによって、地方行政機構の強化をはかり、徴税を中心に、より緻密な支配を目ざしたのであろう。特に新居郡の郡司定員増の申請理由に「郷戸少なしと雖も部内曠遠にして出挙収納の往還多劇なり」としているのは(類聚三代格・二八)、その点を如実に物語っていると思われる。
 しかし郡司定員拡大の意味はそれだけにとどまらない。前記したように九世紀の伊予国の社会においても、公地公民制の動揺は一方に大量の重税に苦しむ貧窮農民や浮浪・逃亡者を生み出すとともに、他方では従来の地方豪族層に加えて新興有力層の登場を促した。富豪層と呼ばれる彼らは営田、私出挙や活発な商業活動により財富を形成すると同時に、中央の院宮王臣家と結びついて国司の支配に対捍し、課役を忌避して一般農民、浮浪人への私的支配をすすめた、いわば反律令的ともいうべき存在であり、九世紀の社会変動の主要な担い手も彼らのような階層であった。このように理解すると、律令国家はより確実な地方支配の手段として従来の伝統的地方豪族層の枠にとどまらず、広くこれら新興の富豪層をも地方行政機構のなかに組み込み、彼らの在地における支配力に依拠し、これを利用する必要が生じる。九世紀の伊予国で進められた郡制再編による郡司定員拡充のより基本的意味はそこにある。後述する海賊対策という意味も含めて、これを通して国家は在地社会を掌握し、あわせて国家的収取を確保しようとしたのである。

 戸口増益と南予地域

 さて貞観一六年(八七四)、宇和郡が戸口増益を理由に郡司定員の加増を申請した。前記のとおり宇和郡の三郷を割いて喜多郡が分置されたのは貞観八年であったから、わずか八年間のうちに同郡では一郷分の戸口増をみたことになる。戸口増益とは各地方の生産力を維持・向上させることによって民力を安定させたり、あるいは偽籍などによる戸籍への未登録者を摘出したりして戸籍登録者(戸口)を増加させることである。調庸を負担する課丁数の維持・増大を存立の要件とする律令国家は、早くからこれを国郡司の重要な責務としていた。
 ところが、九世紀には浮浪・逃亡、偽籍等により課丁数が激減するのが全国的傾向であり、反面戸口増益と称して老人・女性・幼少者等課丁以外の戸口の水増し申告を行い、口分田を不正に集積しようとする国司の動きが指弾されている史料などもあり、この時期の戸口増益を言葉どおり単純に信用することはできない。従って伊予国も例外ではなく、この宇和郡の戸口増益をめぐっても見解の対立がある。しかしこの場合については、宇和郡から分置された喜多郡の課丁数が、すでにふれたとおり元慶八年の段階で一二〇八名を数え、同じ管郷数でありながら桑村・久米両郡の課丁数七百余名を大幅に越え、「調庸を輸貢すること多く、彼の郡(桑村・久米を指す)に倍す」とされている(類聚三代格・二七)以上、それが単なる戸口一般ではなく課丁数の増加であるだけに信憑性は高く、無視し難い。
 おそらくは分郡前後の宇和郡においても同様に、課丁も含めた戸口全体の増加現象が顕著にみられたのであり、喜多郡の分郡もそれを契機としたと考えるべきであろう。ただこれを自然人口増とみるには増加率が急激であり、かつ南予地域が桑村・久米など東・中予地域に比べ生産諸条件において劣っていたとみられるだけに問題が残る。これはおそらく、浮浪人の流入に基づく戸口増であろうとする見解があり、これに従うべきであると思う。九世紀の地方社会において浮浪・逃亡者が激増するいっぽうで、すでに讃岐国で菅原道真の「寒早十首」に描かれていたように、他地域から流入する浮浪人も相当数にのぼったものと推測されるからである。
彼らを招き寄せて営田のための労働力として投入、使役したのはやはり富豪層であり、その意味で国家は、富豪層を地方行政機構にとりこみながらあわせて浮浪人を課丁として掌握し、安定的支配、税収奪を維持してゆく必要があった。郡制再編の動きが特に南予地域に顕著であるのも哩由のないことではない。

 良吏群像

 地方行政に直接責任を負う国司制についても、前章第一節に述べたように、伊予国でも八世紀末から京官による兼任や員外国司が増え始め、九世紀に入ると弘仁元年(八一〇)の安曇広吉の権介就任(日本後紀)を初見として権任国司が一般的となっていった。これらは国司の俸禄のみを目的とし、直接現地に赴任しない遙任の場合が多かった。いっぽう実際に赴任した国司の場合も、公廨稲などの官稲を恣意的に運用したり、偽籍に関与して中央へ虚偽の課口申告を行うことによって調庸物の横領をはかったり、私的利潤の追求に走る例が多くみられた。また巨額にのぼる官物の未納・欠損、京進物の未進をめぐってしばしば新旧国司の交替が紛糾するという事態も生まれた。八世紀末から九世紀にかけて、律令制地方支配が動揺するなかで政府はいろいろな国司統制策を打ち出したにもかかわらず、上のような傾向が常態化するとともに、国司による地方支配力もまた確実にゆるんでいった。
 そうしたなかで政府は天長元年(八二四)官符を発し、新任国司(守・介)には「清公美才の者」をえらび、賞物を与えて厳しく民政にあたることを督励し、治績がとくに優れた者については、位階を昇叙して中央官に抜擢することとした。すなわち国家は改めて地方支配の要である国司の力量、治政に期待することによって、動揺する律令支配体制の維持、再建をはかろうとしたのである。これ以後中央政府の期待にこたえて「善政」をしき、みるべき治績を残した国司が数多く現れた。彼らは一般に「良吏」と呼ばれ、九世紀の伊予国司補任者のなかにも該当者を何名か見出すことができる。
 まず早く延暦二〇年(八〇一)ころ伊予介となった紀末成は、以後出雲・常陸・越前などの国守を歴任したが、「並びに幹済をもって聞ゆ」とされた人物である(類聚国史)。また承和初年に伊予守となった紀深江や備後・信濃・陸奥などの国守を経て承和一一年(八四四)に同じく伊予守に補任された藤原大津らも、その卒伝にそれぞれ「治名有り、擢きて従四位上を授く。性寛和にして事に動ぜず、履行するところ百姓これを安んず。遠近これを称して循吏と為す」(続日本後紀)とか「頗る声誉ありて民庶恩を歌う。(中略)歳餘豊稔にして百姓富贍」(文徳天皇実録)と称されている。彼らの伊予国司在任中における治績の具体的内容は明らかでないが、いずれも国家の要請によくこたえて治政に励み、民生維持につとめた良吏であったのだろう。しかし特に注目されるのは、貞観六年(八六四)正月、伊予権介に任ぜられた橘良基の場合である。彼は仁和三年(八八七)の卒伝(三代実録)によれば「早く風概有りて明らかに治体を練り、清正にして己を立つ」とされた人物で、早くから良吏としての資質を期待されていたが、貞観六年の伊予権介を皮切りに、以後常陸介・越前守・丹波守・信濃守を歴任し、卓越した治績を残した。
 彼の伊予権介在任期間は貞観一一年正月までの五年間であるが、その施政に対しては「政能聲有りて、号して職を称さんとす」という評価がなされている。彼の伊予権介在任時代の国内での最も顕著な動きは、前記の郡制再編が開始されていることである。このうち貞観八年一〇月の浮穴郡における少領一員増、および同年一一月の宇和・喜多両郡の分割が良基の在任期間に相当している。その意味は前記のとおりであるが、彼は南予地域を中心に浮浪人の掌握に努めることによって戸口(課丁)増益をめざし、離反しつつある貧窮農民を体制内につなぎとめようとした。また富豪層を行政機構のなかに吸収することによって、その在地での支配力を利用し、国家への負担納入を安定させるなど、律令国家の期待にこたえる忠実な努力を行ったのであり、上記の評価もこれに対して与えられたものであろう。卒伝ではさらに信濃守時代の治政に対し「農耕を勧督しその租課を軽んず。(中略)調庸の輸貢、戸口の増益は常時の最たり。時人循良を以て相許す」と評価されたことがわかるが、その文言はそのまま伊予権介時代の治績に対してもあてはまるものであろう。貞観一一年正月の従五位昇叙も、伊予国司としての功労によるものと思われる。ともあれあらゆる意味で橘良基は、良吏の典型的存在であったといってよい。

 「王朝国家」への道

 こうした国家による良吏登用策が、律令制地方行政の維持にある程度の効果をあらわしたのは事実である。しかしいかに良吏が「善政」を施そうと、それが従来の儒教の徳治主義的な政治倫理による民衆支配観を前提に、あくまで律令体制の枠内にとどまる支配方式に基づくものである以上、激しく流動する九世紀の在地社会の新しい動向に、柔軟に対応しきれるものではなく、そこに一定の限界をもっていた。橘良基は、治国の道はと問われ「百術有りと雖も一清にしかず」といい放つほどの清簾潔白をもって称された官吏であったが、彼のような人物が、国家の要請に忠実にこたえて律令制的支配の維持に努めれば努める程、すでに律令制的支配論理では割り切れなくなっている地方社会の現実との矛盾・軋轢も、深刻とならざるを得なかったはずである。良基は伊予権介時代を含め各地で優れた治績をあげながら、いっぽうで丹波守時代に近衛府官人らによる陵轢事件に、また信濃守在任中には、同国国人の愁訴に関して中央から派遣されて来た推問使に自ら対捍するという事件に巻き込まれている(三代実録)。その背景にはいずれの場合にも在地の富豪層との厳しい対立が想定されており、そこに橘良基の置かれた立場の根本的矛盾をうかがうことができる。
 そもそも九世紀になると良基のような良吏自体がすでに少数であり、前に記したように律令法を逸脱した手段で私的利潤の追求に走る者は絶えることがなかった。さらに後の藤原純友等にみられるように任期終了(秩満解任)の後も現地に土着し、大量の営田を所有したり、私出挙活動を通したりして私富の形成をはかる国司も増え始めていた。これに対し郡司・富豪層など在地有力者を中心とする、国司の非法・苛政への抵抗も徐々に激化する。隣国讃岐では天安元年(八五七)正月、前守弘宗王が百姓らによって不正を訴えられ、推問使により禁固されるという事態が発生しているが(文徳実録)、このような愁訴事件や、やがては武力による国衙襲撃事件が全国的に頻発し始めるに至った。
 このように律令国家体制は、九世紀末にはもはや如何ともし難い事態に直面し、中央政府は従来の律令制的支配の原則を固守することを放棄して現実に対応した新たな地方支配方式へ転換してゆくことを余儀なくされていったが、その要諦は「名」支配と国司請負制の導入にあったとされる。すなわち個別人身支配を前提とする賦課方式では正税出挙の運営や課役徴収自体がすでにおぼつかなくなり、政府はその課税対象を人から土地(公田)へと変更するようになった。その場合の徴税単位が「名」であり、請負責任者として掌握されたのが「負名」である。従来の田租や、すでに地税化しつつあった正税出挙はもちろん、調庸雑徭などの課役もすべて公田の「名」単位に賦課され、新たに前者は官物、後者は臨時雑役と呼ばれるようになった。
 いっぽうその収納に関与する国司に対する政策についても変更が見られ、国内支配の権限を従来以上に大幅に国司に移譲することによって中央との関係修復をはかり、そのことによって中央上進物の定額確保を請負わせるようになった。またこれにともなって、官物や臨時雑役の徴収基準となる各国ごとの公田数は、これを記載した国図ともども一〇世紀以降完全に固定されていたとも指摘されている。そしてこれと同時に、九世紀には中央の院宮王臣家と部内の郡司以下の富豪層との結託により一時停滞を余儀なくされていた国衙支配も、再度強化されていった。伊予国においてもそれは、第二節に触れるように承平・天慶の乱後、越智氏など伝統的在地豪族層が、在庁官人などとして国衙機構のなかに吸収されてゆく形であらわれてくる。
 このような新たな方式に基づく支配体制は「王朝国家体制」と呼ばれ、その転換は一〇世紀初頭の藤原忠平政権下で行われたといわれる。王朝国家は、律令国家から中世国家へ移行する過渡期の体制概念であるが、藤原純友や平将門による承平・天慶の乱は、まさにこの新しい国家体制下の初期に勃発した事件であった。

表3-1 九世紀伊予国の郡制再編一覧表

表3-1 九世紀伊予国の郡制再編一覧表