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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 仏教文化の広まり

1 延暦寺別当光定

 出自

 光定は、宝亀一〇年(七七九)に生まれた。時に最澄は一三歳、空海は七歳であった。その出自については、門人円豊らによる『延暦寺故内供奉和上行状』(以下『行状』と略記する)に、「俗姓贄氏、予州風早県人也、其先武内宿祢六男葛木襲津彦之後焉、母風早氏」とあり、『文徳天皇実録』にも「光定、俗姓贄氏、伊予国風早郡人也」と見える。これらがもとになったのであろう、『天台座主記』以下にも同様に記されている。
 父の出自である贄氏は、武内宿祢の六男襲津彦以後大和の葛城地方に住して葛城氏を称し、その末流がいつのころからか伊予に下向して贄氏といった。天平八年(七三六)の正税出挙帳に「郡司少領従八位上贄首石前」とあるのがそれで(正倉院文書・一)、この年は光定の生まれた宝亀一〇年をさかのぼることわずかに四三年であるから、一世代ほどのへだたりに過ぎない。つぎに、母系風早氏のことも明らかではない。ただ時代はやや下るが、天長元年(八三〇)に風早益吉の女が節操を賞せられて田租を免除され(類聚国史)、承和六年(八三九)に風早豊宗らが善友朝臣の姓を与えられた(続日本後紀)ことなどからすれば、伝統的勢力を有する一族であったことはまちがいないであろう。
 光定の出身の地が風早郡であることは、冒頭に引用した諸書や、母が風早氏であることなどから明らかであるが、それ以上のことは何も記されていない。だが、「松山市五明の山門派仏性寺および吉祥寺も開山光定で、同市堀江の同派医座寺では中興開山となしている」(三浦章夫『愛媛の仏教史』)といわれ、現在数少ない天台宗の寺が、これらを中心に、松山市祝谷から伊台・五明にかけて集中していることもあって、仏性寺のある五明あたりが光定ゆかりの地であろうか。

 修学と受戒

 その後弱年期から比叡に上るまでの郷土における生活については、『文徳天皇実録』によると、弱冠に至るに及んで父母の喪にあい、俗を離れて隠かに山林にいたとあり、『行状』にもほぼ同様に記しているから、一〇歳を過ぎたころ(一〇歳のころ、母は光定に対して懐妊のときの瑞兆を話し、お前は必ず出家するであろうと告げたと伝えられる)、それまでに父を失い、今母を失って世の無情を感じた光定は、服喪を終えると、家を捨てて山林に住み、斎戒を修習したとみられる。すでに、石鈇山を中心に、この地方では石鎚の山岳宗教があり、一説に、小松町横峰寺(四国霊場六〇番札所)では、光定を開山第二世としているから、光定の修業の場とした山林は石鎚山系の山々であって、若い日の光定は、一人の山岳修業者であった。
 郷土における光定の生活はこれだけしかわかっていない。その後、『行状』によると、僧勤覚から都に上ることをすすめられ、大同年間の初め、都に上って師を求めていたところ、ある人から、叡山に最澄という僧がいて、慈悲の心に住して止観宗を伝えていることを聞き、大同三年(八〇八)、叡山に登り止観院に寄寓して師事することになった。時すでに光定は三〇歳に達しており、晩学であった。光定が叡山に登ったとき、天台宗はすでに開宗していた。すなわち、延暦二五年(八〇六)正月二六日、天台宗に対して年分度者允許の官符が下ったことをもって、天台宗の開宗とするからである。延暦寺のはじまりは、延暦七年の最澄による一乗止観院(のちの根本中堂)という草堂の創建であり、朝廷によって公認されるまでは、私寺の禁により圧迫を受けていて、比叡山寺と呼ばれた山内の練行場に過ぎなかった。その後、ようやく最澄が認められて入唐を果たし、天台を将来した翌年、上の官符によって公認され、天台宗の開宗となったものである。
 晩学の光定が最澄の門に入ったとき、すでに同学の先輩円澄(八歳年長)・義真(二歳年少)は叡山にあり、後輩の円仁は光定入山の年の七月最澄の門に入っている。したがって光定は、最澄の教えを受けるほか、円澄や義真からも天台業を学んだことであろう。ことに、光定より二歳の若年とはいえ、義真はすでに最澄の渡唐には訳語僧として従った新帰朝の知識であったから、指導を受けることが多かったであろう。
 ところが、これに飽き足らなかったのか、奈良大安寺の高僧勧操の名に引かれたのか、摩詞止観を携えて大安寺に行き、勧操に法華経を学ぼうとした。大安寺は南都七大寺の一つに数えられ、当時は三論業の寺とされていたが、勧操はこの寺の出身で、東大寺別当にも任ぜられた大僧都であり、天台にも好意を示し、また空海の師でもあり、最澄とも深い関係があった。勧操は光定に対し、最澄の下に帰って人に遅れないように努力せよと戒めた。
 光定は以後叡山にあって教えを蒙り、試業に励んだ。すなわち、この年の夏は三部の大乗について大義を学び、七月には大学に行って漢音を修練し、一一月には宮中の綱所で七大寺の名徳たちから試業内容である文意や義旨を、また、大学の音博士から漢音を試された。その結果、大同五年(八一〇、九月弘仁と改元)正月一四日、宮中で行われた金光明会において、天台の年分度者として得度した。光定時に三二歳であった。四年前に天台業の得度は官許されていたが、他業の得度とともにこの年まで得度が行われず、これまでの毎年得度すべき数をあわせて二一人が得度したなかで、天台業の得度は八名であった(天台法華宗年分得度学生名帳)。そのうち最澄を師主とする者は光定を含めて三名であるが、うち山にとどまった者は光定一人のみで、ほかは叡山を去ってしまった。光定は止観業の得度者であった。
 得度のあと光定が山に帰って最澄にあいさつしたところ、最澄はわが思いは一乗止観と三平等にありといい、これについて教授し指示をした。これを聞いて光定の心は明月の照らすように明るく、思いは一乗にとどまるようになった。「一乗」とは、「法華一乗」のことで、天台の一乗思想は法華経にもとづく。「止観」というのは天台で重視した修業法で、一切の環境からくる乱想に動じないで心を一つの対象にそそぐ「止」と、それによって得る智慧によって対象を正しくみる「観」を大切にするところからこの名がある。この教義を体系づけたのが天台智顗の「摩詞止観」で、止観業の宝典とされた。また、天台は法華に依拠するから「天台法華宗」といわれ、法華経にもとづく一乗思想を「法華一乗」といい、その実践法として止観を重んじ、これを「一乗止観」といった。さらに「三平等」であるが、奈良仏教を代表する法相宗では、衆生が生まれながらに備えている性質に五段階あり、最下位の無性の者は永遠に迷界にあって成仏し得ないという「五性各別」説をとったが、同じ奈良仏教でも、華厳と天台では平等を説いた。ここにいう三平等というのは、法性の五性をおおまかに三段階に区別しながら、それらはすべて仏性を備えることにかわりはないとする平等思想なのである。最澄の説き聞かせた「一乗止観」と「平等」の思想は、光定の生涯をかけての思想となった。
 弘仁三年(八一二)、光定三四歳の四月一一日、東大寺戒壇院において具足戒を受けた。得度により僧籍が与えられていたとはいえ、その上に僧として戒律を守ることを誓う儀式を経なければならなかった。天台に戒壇が許されていなかった当時は、東大寺で受戒しなければならなかった。ついで七月上旬、重ねて登壇し、菩薩の三聚浄戒(摂律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒)を受けた。これはさきの小乗の具足戒の上に受ける大乗戒の意味があった。これが後に天台に置かれることになった大乗戒壇の授戒に相当する。
 ついで同年一一月一四日に行われた高雄山寺における空海による金剛界結縁灌頂を師最澄とともに受け、さらに一二月一四日、胎蔵界灌頂をも受けた。当時、最澄は空海より六歳の年長であり、社会的地位や名声では空海よりはるかに上であったが、密教については空海を師として仰いでおり、光定もこれに従っていた。

 山家学生式

 これまでのことは、光定の『一心戒文』にみずから記すところに依ったのであるが、これによってさらに後の活動をも述べよう。弘仁五年(八一四)、光定三六歳、この年、光定は最澄に従って南都興福寺に行き宗義を論じた。この前々年、藤原冬嗣は、氏寺であるこの興福寺に南円堂を建て、ますます信仰を深くしていた。その冬嗣も同席して、義延大徳と高義を論じ、天台の奥義が法相よりも秀でていることを示すことができ、高名を得たと記している。この義延は「義解の大徳」といわれる法相の碩学であったところから、光定の学問が著しく進んでいたことがわかる。
 弘仁六年(八一五)、光定三七歳、天台の興隆とともに光定の名もあらわれ、朝廷の信任も厚くなりつつあったのであろう、三月一七日、天皇の御前で、興福寺僧で玄蕃寮頭であった真苑と天台の宗義を論じ、わが宗の深義が真苑の説く法相の立義に勝ることがわかったと述べている。『行状』は、この年から承和の年まで、毎年のように宮中に召されて光明会に列座したと記している。
 弘仁七年と八年の両年は、『一心戒文』は何も語らず、光定の伝記上空白の年になっている。そして、弘仁九年(八一八)には光定の生涯をかけての大活躍が始まる。光定は四〇歳である。二月七日、光定は、最澄から大乗寺を建てるようにとの命を承り、汝に「一乗」の号を授けようといわれた。一乗大乗の教えにもとづき、大乗戒を保持する僧の住む大乗寺を建てなければならないといわれたのである。光定は一乗の号を受けた。最澄はさらに、嵯峨天皇にこのことを上聞し、左近衛藤原冬嗣にも願い出るがよいとひそかに光定に命じた。光定は師に命ぜられたとおり実行した。さらに、四月二三日、最澄は、大乗寺建立の上表文を冬嗣に託して請願したが、しばらく待てという返事であった。五月八日、請願の結果を良峰右大弁にただしたところ、同じ返事がかえってきた。
 こうした経過の後、五月一三日、「天台法華宗年分学生式」を上奏した。いわゆる「六条式」、後に発せられる「八条式」「四条式」とあわせて「山家学生式」といわれる。これらは、延暦二五年(八〇六)、桓武天皇の勅許による天台宗年分度者の修業年限や課程を規定しており、大乗戒壇設立に向けて、勅許内容を実践するための規定であった。六条式の冒頭には、「国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心あるの人を名づけて国宝となす」という格調の高い理想がうたわれている。「国宝」を育成しようという天台の教育目標の高揚である。また、五月二一日に上表して、天台の年分を、毎年三月一七日に、勅使一人を派遣してもらって、比叡山で大乗によって得度せしめられたいと願い、叡山の独立を実現しようとした。
 こうした性急な運動も効を奏せず、朝廷からは何も示されなかった。そこで、八月二七日、「勧奨天台宗年分学生式」すなわち略称「八条式」を上奏した。「式」の意味は、得度の勅許を具体化する細則ということで、桓武天皇の遺志を継承するという背景のもとに、天台の意図を宣布しようとするものであった。この八条式は、さきの六条式を詳細にし、補正するものであるが、俗人の別当二人を天台に派遣して宗務にあたらせてもらいたいということなどが目新しい。ここにいう俗別当は弘仁一四年(八二三)実現し、藤原三守と大伴国道が延暦寺俗別当に任ぜられ、以後この二人は天台宗の外護者となっている。大乗戒壇建立への一歩前進である。
 翌弘仁一〇年(八一九)三月一五日、最澄の命を受けた光定は、「天台法華宗年分度者回小向大式」を宮中に上達した。いわゆる「四条式」である。「回小向大」というのは、小乗を禁じ大乗によって授戒することを意味するもので、大乗授戒の作法を述べ、これまでの主張を完成した形で押し出した。これまではすべて南都出身の僧綱たちによって黙殺されたが、今度は六人の僧綱による表啓文がかえってきて、もちろん否定された。

 天台受戒      

 障害の壁の厚さを改めて知らされた最澄は、直ちに『顕戒論』の作成にとりかかった。これに「顕戒論を上る表」を添えて天皇に上奏したのは明けて弘仁一一年(八二〇)二月一九日であった。光定がこれを携え、藤原是雄を通じて奉った。『顕戒論』は、僧綱の表文に逐一反駁を加えながら、これまでの学生式(六条式・八条式・四条式)の主張の根拠を述べ、裏付けとなる証文を集めたもので、大乗戒壇設立論の集大成である。
 光定は都にとどまって奔走し、朝廷では、玄蕃助大神船公と光定に天台・法相の宗義について論争させたあと、『顕戒論』を玄蕃寮頭真苑宿祢に預けられた。真苑は法相学を学んだ学僧で、かつて弘仁六年光定と天台・法相の教義について論争したことがあった。こうした立場の真苑に『顕戒論』が預けられたということは、天皇の判断がつきかねている証拠で、直ちに勅許を得る見通しは立たなかった。『顕戒論』をめぐる論争は、僧綱をもって代表する南都仏教と天台との間に行われたが、朝廷内にあっては、真苑と船公による法相の立場と、冬嗣・安世・是雄の擁護下にある最澄・光定との争いであった。翌弘仁一二年(八二一)三月、最澄は『顕戒論縁起』二巻を上進した。これは大乗戒壇の勅許の下らないことに対し『顕戒論』を補説するものであった。この年のでき事について、『一心戒文』はほとんど記すところがないが、最澄に対する僧位賜贈問題が目につく。すなわち、師最澄への僧位の賜贈が、僧綱たちの図らいにはばまれて下らないことへの不満であった。さきに最澄が伝燈法位を授けられたのは弘仁元年(八一〇)であった。それから一一年を経過し、その間、最澄より六歳年少の空海は弘仁一〇年に伝燈大法師位を賜わっていた。一二月になって冬嗣を通じて天皇に上奏すると、天皇直接の決裁で、翌弘仁一三年(八二二)二月一四日、最澄は伝燈大法師位を授けられた。
 三月に入って師最澄は病床に臥し、病勢は日々につのるばかりであった。三月一七日の桓武天皇国忌にあたり、光定は、生命を法海に捨てる覚悟で嵯峨天皇に直接委曲を奏上した。宮中における外護者藤原冬嗣・良峰安世・藤原是雄・藤原三守らの取計らいと光定の努力により、天皇の心を動かすところまでは来たが、勅許にまでは至らなかった。六月四日、全山の悲しみのうちに最澄が遷化した。春秋五六歳であった。その七日後の六月一一日、突如天台の大乗戒壇が勅許された。最澄遷化の直後であっただけに、光定の感慨はひとしおであった。この勅許内容は得度授戒を叡山で行うことを認めるもので、すなわち大乗戒壇の設立許可である。
 翌弘仁一四年(八二三)二月二六日、勅額を賜わり、比叡山寺を改めて延暦寺と呼ぶことになり、三月三日、藤原三守と大伴国道が延暦寺別当(俗別当)に任ぜられ、桓武天皇国忌の三月一七日には年分二人の得度が行われた。そして、いよいよ四月一四日、かねて大師の遺命により、内供奉禅師義真が戒和上となり、天台初めての菩薩の大戒が授けられた。この時受戒した者一四名、そのなかの一人が光定であった。最澄を助けて天台戒壇設立に至った光定の労が認められ、光定の戒牒には特に嵯峨天皇の宸筆を賜わり、さきに光定の進言によって実現した太政官印の捺印がなされた。これが国宝「嵯峨天皇宸筆光定戒牒」として今日に伝えられている。
 この年四月嵯峨天皇は淳和天皇に譲位、翌一五年(八二四)正月天長と改元。天長三年(八二六)七月六日、叡山に戒壇院を設立すべき宣旨が下り、建立の成ったのは翌四年(八二七)五月であった。

 別当大師

 さかのぼって天長五年(八二八)、光定五〇歳、この年朝廷から伝燈法師位を賜わったことが『行状』に記されているが、『一心戒文』には何も記されず、このような状態は天長八年(八三一)まで続く。天長九年(八三二)のおそらく夏安居には、招かれて南都法隆寺で一乗の経を講じ、翌年の夏も同様に出講した。天長一〇年(八三三)三月、淳和天皇に代わって仁明天皇が即位すると、天皇は光定を愛し、しばしば宮中に召して祈禱を行わせた。
 七月四日、初代天台座主義真が忽然として遷化すると、伝戒の師を失った天台は、第二代座主をめぐって大いに動揺した。そして、第二代座主の決定した承和元年(八三四)二月に至る七か月間のことを、光定は悲傷の心が朝夕に多く、伝戒の師は戒場を持たず、伝法の人は山にとどまらなかったといっている。叡山の動揺が手にとるようである。義真示寂の時光定は奈良にあった。七月下旬、光定が奈良から帰山した日、再三、義真の弟子円修と、時の叡山の三綱道叡・乗天・戒宣のあわせて四師と談語し、伝法のことを話したが聞き入れられず、一〇月二八日、光定は反対派の推す円修を排して、天台第二代座主に円澄を任命していただきたいと表文を奉るとともに、伝法の由来を記した文を大納言藤原三守に呈した。しかし、座主は任命されず、争論は続いた。この争いは、天台第二代座主をめぐる円澄派と円修派の対立であった。ここに最澄の弟子の系譜を簡略に示すと左のとおりである。(図表 最澄の弟子の系譜 参照)
 このたびの争論はもとより、天台教学上はおろか日本仏教史上における大事となった山門(延暦寺)派と寺門(園城寺)派の抗争は円仁と円珍に始まるのであるが、その萌芽はすでに最澄入滅の直後にみられる。その原因を作ったのは最澄自身であったともいえる。すなわち、『一心戒文』の記すところによると、さる弘仁三年(八一二)五月八日、おりから病床にあった最澄は、遺書をしたため、山寺の総別当には泰範を、伝法の座主には円澄をあてることを明らかにした。その後泰範は空海のもとに去った。ところが、弘仁一三年三月、最澄は重病の床にあって、付法の印書を義真に授けた。光定は不審に思い、さきには後継者を円澄と定め、今は義真を指名される、付法の書を二人に授けられたが、どちらを首座に置かれますかと尋ねた。最澄は上﨟(受戒をさきに終えた者)の師を衆の首となすべきで、義真が上﨟であるから首座に置くといい、光定はこれに従った。義真は円澄より一〇歳の年少であっても、最澄の通訳としてともに渡唐し、最澄といっしょに唐で受戒しているし、すぐれた学僧でもあったからである。したがって、光定の頭の中には、義真のつぎは円澄というのが師の遺命であるという考えがあった。もちろん、円澄に反対の勢力はあるし、仁忠のように義真・円澄の双方に反対する勢力もあったが、この時はどうにかおさまった。
 ところで、義真の入寂は突然で、光定は南都法隆寺の夏安居に出講していたから、臨終にあたって義真の遺命を聞いていなかった。円澄は山にいたが、これまた同様であった。その真相は明らかでないが、『天台座主記』によると、義真が円修に授けたのは「院内雑事」であり、そうとすると、『元亨釈書』に円修に私授したとあるように、円修派が勝手に座主といい出したことになる。ともかく、光定が山に帰ってみると、円修が座主に擬せられており、これを擁立する一派があって、これらと談合したが光定の主張はとおらなかった。円修らの一派は、叡山の雑事を聾断して全山を支配し始めた。光定はついに意を決し、一〇月二四日まず大納言藤原三守あてに書をさし出し、ついで同月二八日天皇に上表して、義真法師なきあと、最澄法師の遺風を伝えるのは円澄法師だけであるが、円澄は耳順の年になり余命いくばくもないから、最澄法師の遺命のとおり円澄法師を立てたいと思うと上訴した。それにいっぽうの円修は、弘仁五年(八一四)に遮那業で得度したが、興福寺に僧籍を置き、最澄を師主としながら、長く高雄山寺の弘法大師のもとにあった。弘仁一四年の最澄一周忌における行事には講複師として名があがっているから、そのころまでには帰山していた。客観的にみて円澄の方に理がある。争論は越年し、けっきょく明けて改元して承和元年(八三四)三月一六日、円澄を第二代座主とする官符が下されて決着した。敗れた円修の一派五〇余僧は大和の室生寺に退き、叡山は平静をとりもどした。
 前述のとおり、『一心戒文』の記事は承和元年一〇月一八日のできごとで終わる。これまでは『一心戒文』によって記述を進めてきたが、このあとなお二四年間の伝記は、主として『延暦寺故内供奉和上行状』に依らざるを得ない。
 承和二年(八三五)、光定は内供奉十禅師に補せられ、天皇に召されて天台学を講ずることになった。承和三年の冬に入る前までに、『伝述一心戒文』の巻中・巻上を書き加え、これを完成して円澄に示した。その円澄は一〇月二六日に入寂した。天台座主としてわずかに三年、六六歳であった。時に光定は五八歳、悲しい別れであった。第三代座主位をめぐって叡山は再び紛争状態にもどった。円仁が座主に補任されたのは仁寿四年(八五四)であるから、座主の空位は一八年にも及んだ。円仁はその間承和五年(八三八)に渡唐し、承和一四年(八四七)に帰朝、それから七年目に座主になった。叡山動揺の深刻さがよくわかる。
 その間、承和五年(八三八)四月、光定は法位として最高の伝燈大法師位に叙せられ、授戒の戒和上にも任ぜられ、座主空位のまま光定によって授戒が行われた。すなわち、座主空位の間光定は叡山第一の地位にあったことがわかる。そして、仁寿四年(八五四)四月三日、光定は勅によって延暦寺別当に補せられ、別当大師と呼ばれるようになった。また同月、円仁が第三代の天台座主に任ぜられ、座主円仁、別当光定と新しい体制のもとで叡山の再興に着手した。こうみてくると、光定は第三代座主に任ぜられてもよい立場にありながら、全山の平和のため対立抗争の火中に入らず、退いて別当位に甘んじたといえる。この間、円仁対円珍のいわゆる山門派・寺門派の対立が始まり、光定の立場も微妙であったと想像される。
 天安二年(八五八)七月、光定が満八〇歳に達したことが上聞に達し、天皇はこれを祝って重い恩賞をもって報いた。この時、光定は病床にあり、下賜品をいただいて感涙にむせび、一部を自分の療養費にあてたほかは天台宗に納めた。八月一〇日、山内の八部院で八〇年の生涯を閉じた。奇しくも同月、文徳天皇は三二歳の若さでなくなった。『文徳天皇実録』は光定のひととなりを、質直にして服餝を事とせず、帝其の質素を悦びて殊に憐遇を加うと記している。
 光定の著述は、『山家祖徳選述篇目集』によると、『日本名僧伝』・『本迹為二経』・『後伝法記』(二巻)・『唐決』・『一心戒文』(三巻)・『法華儀軌』の六部があり、さらに『日本国天台章疏目録』によると『仏土義私記』が加えられて七部になるが、うち現存するのは『一心戒文』と『唐決』の二部のみである。

2 寺院の建立と遍歴の僧

 道後地方の天台寺院

 天台宗の開宗は延暦二五年(八〇六)、光定が叡山に登ったのはその直後の大同三年(八〇八)であった。そして、最澄を助けてその願いを果たそうとした光定の努力が実を結び、大乗戒壇設立の勅許を得たのが、最澄示寂七日後の弘仁一三年(八二二)六月一一日、完成したのは天長四年(八二七)五月で、これにより天台宗の基礎は確立した。
 光定の出身地は風早郡南東部であったとみられ、この地方から和気郡・温泉郡にかけた地域に、光定の影響によって天台寺院が創建され、あるいは既成寺院が天台に転宗し、伊予における天台宗の中心となった。すなわち、現松山市東大栗の医座寺は、天長六年(八二九)光定による再興と伝え、のちに作られたとみられる光定の木像を祀っており、同じく現松山市菅沢の仏性寺(旧風早郡)は、承和五年(八三八)光定開創と伝えられる。そのほか、直接光定によることは明らかではないが、今は仏性寺に併合されて廃寺となった松山市城山吉祥寺(同じく旧風早郡)があり、また、おそらく貞観(八五九―八七七)ごろの創建とみられる西法寺(現松山市下伊台)、貞観二年(八六〇)建立と伝える円福寺(現松山市藤野々)など、いずれも天台寺院にふさわしく、道後平野北東部の山間にある。
 このほか特筆すべきものに、早く廃寺になった弥勒寺(現松山市横谷)がある。『類聚国史』によると、天長五年(八二八)この弥勒寺は定額寺となり、同書および『続日本後紀』によると、同七年(八三〇)天台別院となっているほど、この地方きっての天台の大寺であった。この寺が定額寺であったということに関して、『愛媛面影』の著者半井悟菴は、定額というのは、『続日本紀』や『続日本後紀』に記されているように、寺院に与えられた人員の定数という意味であり、また、『類聚国史』一八〇巻の天武天皇九年四月勅によると、「官府に治る処の大寺を二箇寺若くは三箇寺と定て是を定額寺と」いうのであろう、だから、伊予の定額寺は、国分寺とこの弥勒寺だけであって、ほかにはないはずであり、諸寺の縁起に勅願所などといっているのは私言であろう、といっている。ともあれ、弥勒寺はこのような大寺であったが、いつのころかほとんど焼失し、わずかに残っていた薬師堂は石手寺に移建され、また毘沙門堂は、加藤嘉明松山城築城の際、城山東山麓に移され、そこに毘沙門坂という名が残ったといわれる。こうして、旧食場村山中横谷にあった寺趾には、大門・弥勒堂・毘沙門堂・薬師堂などという地名を残すだけである。
 平地部に下ると、貞観年中(八五九―七七)、慈覚大師(円仁)創建と伝える祝谷常信寺があり、天台別院弥勒寺の塔頭だったとする説もあるが、いずれも明らかでない。このことはさておき、松平定行入封後の慶安三年(一六五〇)八月、再建されて祝谷山常信寺と号し、この時以来天台宗となり、寛文八年(一六六八)定行卒去してこの寺に葬られて以来、松平家の菩提寺となり、東叡山輪王寺門跡寺院として、塔頭二院に加え、前記の西法寺・円福寺・仏性寺・吉祥寺・医座寺のほか正観寺を末寺とし(弘化二年松山藩寺院録)、天台宗の触頭をつとめる寺院であった(明治五年寺院明細帳)。なお、ここにみえる正観寺(松山市北梅本)は、神護景雲三年(七六九)創建と伝える古寺で、その真偽は不明としても、この地方に天台が布教され始めたとき以来の天台寺院であったことは、まちがいないであろう。なお、現在は時宗である道後宝厳寺にも、天長七年(八三〇)にこれまでの法相宗を天台宗に改めて天台別院になったという伝えと、光定留錫説(同寺縁起)があり、同寺の位置などからゆえなしとすることはできないであろう。
 以上は、光定に直接・間接かかわりのある道後地方の天台寺院であるが、このほか、現在は真言宗で六〇番札所横峰寺(小松町石鎚)は、白雉年間(六五〇―四)修験者石仙の開創、第二世を光定としているが、両者の間に年代の開きがあるので、強いていえば光定が再興して天台となったとみることもできなくないが、つづいて大同年間(八〇六―一〇)弘法大師の留錫が伝えられ、今日も古義真言宗高野派の寺院であるから、光定を第二世とする伝えもたしかでない。

 その他の天台寺院

 道後地方につづいて現在も天台寺院の多いのは東宇和郡である。南予でも宇和町は古くから開けた土地で、宇和郡全体の中心であった。この宇和で天台の古寺と伝えられるものに福楽寺(宇和町河原、康保二年、九六五開創と伝える)・歯長寺(宇和町伊賀上、治承年間、一一七七―一一八一、足利忠綱再興と伝える)の二寺がある。
 以上にあげた天台寺院はすべて山門派(延暦寺末)であるが、この地方における寺門派(園城寺末)の代表的古寺に明石寺(宇和町明石)がある。天平六年(七三四)の開創と伝えるが、のち聖護院寿元によって天台宗寺門派寺院となり、下って近世には天台系修験道の中心寺院であった。なお、天台宗寺門派の寺院は各地にあり、わけても松山には六か寺あるが(昭和四四年『全国寺院名鑑』)、特に修験の寺であったことで有名な常楽寺(六角堂、松山市持田町)は貞和元年(一三四五)の開創というから、平安期には存在しなかったであろう。
 ついで、南予で天台寺院の多いのは北宇和郡である。等妙寺(広見町)はこの地方天台宗の中心寺院で、延暦二二年(八〇三)延暦寺聖明を開山とすると伝える。この時期は天台開宗以前にあたり矛盾を感ぜざるを得ないが、平安期の開創はまちがいないであろう。ほかに、妙覚寺(三間町、延暦年間の開創と伝える)・福厳寺(吉田町、現臨済宗、源信開創と伝える)なども平安期の天台寺院であったとみられる。
 一般に、東予・中予地方は早くから仏教文化が開け、寺伝の上で奈良時代に開創されたとするものが意外に多く、そのまま信ずるわけにもいかないけれど、それらの寺院のなかには、平安時代に入って天台に改宗したものもあろうが、ほとんどわかっていない。東予地方で注目される天台の寺院の一つは道場寺(東予市河原津、現臨済宗)である。寺伝によると、のちの延暦寺座主円仁(八六四年寂)の開創で「河原道場」あるいは「三井道場」といったとあるが、三井寺を創開したのは讃岐出身の円珍(八九一年寂)であるから、円珍を円仁ととりまちがえたためであろう。隣国出身である円珍の影響による寺門派寺院の建立が伊予でも多かったともみられる。
 もう一つ問題なのは戦後廃寺になった石中寺(寺門派、今治市中寺)で、神護景雲二年(七六八)示寂の法仙による開創との伝えは直ちに信ずることはできないけれど、天台系修験に石土修験道が結合して、戦前まで修験で著名な寺院であった。

 空海と伊予

 空海二四歳(延暦一六年、七九七)の作といわれる『三教指帰』と『聾鼓指帰』によると、一八歳で大学にはいった空海は、ほどなく中退、二四歳までは山岳修行者として近畿・四国の山々をめぐったとみられる。二一番札所大龍寺の地である「阿国大瀧嶽」と、二四番最御崎寺の地である「土州室戸崎」で修行したことはたしかであり、ついで「伊志都知能太気」すなわち石鎚山(石鈇山)で修行したこともまちがいなく、さらに、「加禰能太気」(金巌)を金山出石寺(長浜町)とする説もある。空海はこうした僻陬の海浜や山嶽の霊地に籠って求聞持法を修し、虚空蔵菩薩の来臨影向を感得することができたといわれる。
 ところで、右の加禰能太気については、大和の修験の霊地金峰山とする説があるので、これを金山出石寺の地と決定するわけにはゆかないが、同寺には、養老二年(七一八)創立、開基道教(猟師作右衛門)、のち大同二年(八〇七)弘法大師護摩供を修して本堂を建立、金山出石寺と名づけたという伝承があり、今も寺の前方に、その傍で護摩供を修したという「護摩が岩」があり、毎日朝・昼の二度護摩がたかれているということである。
 伊予には弘法大師の開創または改宗と伝える多くの真言寺院があり、年代は大同年間(八〇六―八一〇)と弘仁年間(八一〇~八二四)となっており、ことに大同二年(八〇七)に集中し、弘仁六年(八一五)というのもいくらかある。右の金山出石寺の改宗も大同二年であるが、これは空海が唐から帰朝した翌年であり、また弘仁六年は、空海が高野山を賜わった前年のことであって、ともに四国を巡錫したとは考えられない。このように、空海の伊予巡錫と真言寺院開創の年代は、たとえ明記されていても頼りにならない。

 札所寺院

 伊予における四国霊場札所寺院は二六か寺、うち明石寺(天台宗寺門派)を除いてほかはすべて真言宗(うち古義派一三、新義派一〇、真言律宗一、石鈇派一)であり、真言宗のうち空海開創と伝える寺は観自在寺(大同二年、八〇七)・龍光寺(同)・仏木寺(同)・岩屋寺(弘仁六年、八一五)・泰山寺(同)・栄福寺(不明)・吉祥寺(不明)等であり、ほかは古くからあった寺に大師が巡錫して真言寺院に改宗したもので、寺そのものの開創はほとんど古代に遡ると伝える。すなわち、寺の縁起によると、その創立年代は、太山寺(用明二年、五八七)・横峰寺(白雉二年、六五一)・仙遊寺(天智代六六二―七一)・大宝寺(大宝元年、七〇一)・南光坊(大宝三年、七〇三)・浄瑠璃寺(養老五年、七二一)・石手寺(神亀五年、七二八)・国分寺(天平末、七四八ごろ)・円明寺(天平勝宝元年、七四九)・三角寺(天平勝宝年間、七四九―五六)・繁多寺(孝謙天皇代七四九―五七)・前神寺(延暦二四年、八〇五まで)、そして、不明とせざるを得ないものに八坂寺・西林寺・浄土寺・延命寺・香園寺・宝寿寺がある。ただし、国分寺以前に七か寺もあることからも気付くように、その後のものをもあわせて、寺の縁起というもののたしかでなさそうなことを感ぜしめられる。このことは、本稿にあげるほかの寺院についても同様である。
 札所としての真言寺院のうち、大師に関する具体的な伝承をもつものとしてまず三角寺(川之江市)がある。境内に三角形の池があり、そのなかの島で弘法大師が護摩の修法をした三角の護摩壇の跡といわれ、これが三角寺という寺名になった。つぎに、今は枯死したが、泰山寺(今治市)の「不忘松」にまつわる伝承に、「土砂加持」の秘法を修して蒼社川の水害から農民を救ったというのがあり、大師信仰の一つの代表的類型を示している。また、石手寺(松山市)という寺名にまつわる衛門三郎伝説はあまりにも有名である。発端となった大師との出会いの場所をこの寺の境内とするものと、恵原の里の自宅とするものとの二類型があり、最後の出会いを阿波焼山寺下の杖杉庵の地とするのは同一であるが、この伝承は四国霊場信仰を貫く大師信仰の根本を示すものである。ことに、大師伝説を色濃く残すのは岩屋寺(美川村)で、不動明王を本尊としてこの寺を開創、のち一遍上人はこの大師の霊跡に参籠して遁世の素意を祈った。

 その他の真言寺院

 札所以外で弘法大師の開創または留錫を伝えるものも多い。新宮村仙龍寺(三角寺奥の院、弘仁六年、八一五)・新居浜市円福寺(弘仁年間、八一〇―八二四、留錫)・丹原町久妙寺(同)・丹原町安養寺(延暦一三年、七九四)菊間町遍照院(弘仁六年、八一五)・北条市十輪寺(大同二年、八〇七)・重信町福見寺(同)・重信町香積寺(同)・重信町道音寺(大同四年、八〇九)・砥部町理正院(大同二年、八〇七)・肱川町本願寺(大同元年、八〇六)などである。
 空海示寂(承和二年、八三五)後の開創または改宗を伝えられる平安期の寺院には、松前町金蓮寺(空海法孫明実による改宗、天安元年、八五七)・新居浜市宗像寺(承和一一年、八四四)・伊予市称名寺(開基宗貞、嘉祥三年、八五○)・新居浜市吉祥寺(その前身神宮寺、貞観年間、八五九―八七六)・今治市乗禅寺(延喜年間、九〇一―九二三)・北条市蓮生寺(紀氏ゆかりの寺、延長年間、九二三―九三一)・松山市安楽寺(中興了快、長保元年、九九九)・松山市久谷大蓮寺(中興実善、延久四年、一〇七二)・川内町金毘羅寺(長寛年中、一一六三―一一六五)などがある。
 もとより、これら寺院のほとんどはもと真言宗古義派の寺であって、稀に最初から新義派真言の寺院が含まれているかも知れないが、この時代の新義派寺院は少なく、創建されたとしてもその時代は中世に入り、ことに今日伊予に多い新義真言宗の寺は明治四三年以来のものがほとんどである。
 新義派というのは、派祖覚鑁から出た真言宗である。覚鑁、諡号は興教大師、一三歳で仁和寺に入り、二〇歳のとき弘法大師を慕って高野山に入住、鳥羽上皇の外護を得て大伝法院を建立、やがて金剛峰寺を兼摂して一山を支配したが、かえって正統を主張する旧派の反撃を受けるに至り、覚鑁の意図しない結果に終わった。弘法大師を尊崇することにおいて人後に落ちない覚鑁は、高野の座主を東寺から奪還することに成功し、一山の刷新をはかり、全山の要望にこたえて大伝法院も造立したが、かえってねたみを買い、高野を追われた覚鑁は根来寺(和歌山県那賀郡)に入った。康治二年(一一四三)閏二月根来寺の落慶供養が行われ、同年一二月覚鑁は寺内円明院に没した。その後も高野と根来の抗争は続き、合戦に及んで大伝法院は焼失(仁治三年、一二四二)、三〇余年後の文永九年(一二七二)に再興されたが、以後の活動には見るべきものがなかった。そこで、覚鑁の遺志を継承する大伝法院学頭頼諭は、正応元年(一二八八)大伝法院と密厳院をはじめ諸寺を完全に根来に移し終え、新義派は独立した。
 覚鑁を中興開山とする真言寺院に土居町五智院(密厳寺、現真言宗高野派)がある。同寺は延喜二年(九〇二)理源(聖宝)を開山とすると伝える。理源(延喜九年、九〇九寂)は貞観年中(八五九―八七七)醍醐寺を草創した人で、重信町護国寺(金比羅寺、天安二年、八五八開創)も開山を理源と伝える。ともあれ、五智院の中興開山を覚鑁とすることは、この寺を「密厳寺」とすることとも関係がある。覚鑁が高野に建立した密厳院の密厳は、大乗密厳経に説く浄土で、そこは大日如来のいる現世そのままの密厳仏国であり、覚鑁は現世の浄土を密厳浄土と呼んだ。覚鑁がこの寺を中興した時期は明らかにされていないが、覚鑁が伊予を巡錫したというたしかな記録はないから、覚鑁系の高野聖が中興したものであろう。なお、根来の寺僧瑞長を開山とし、保延六年(一一四〇)に開創したと伝える波方町長泉寺(現新義真言宗豊山派)がある。また、西条市金剛院(現古義真言仁和寺末)の本尊不動明王像は、興教大師巡錫の際、一堂を八堂山に建てこれを自刻して安置したものと伝え、丹原町久妙寺(真言宗御室派)にも興教大師作と伝える不動明王像があり、さらに、伊予市八倉入仏寺(現真言宗智山派)には覚鑁の木像を安置している。おそらく覚鑁系高野聖の影響によるものであろう。

 真言の古刹

 以上にあげたものは平安時代建立と伝えられる寺院であるが、現在も真言の寺院で、すでに奈良時代末期までに開創していたと伝えられる古寺は多い。やや煩わしいがこれを列挙してみることにする。
 六世紀末の創立と伝えるものに小松町法安寺(推古六年、五九八)。七世紀に、松山市善宝寺(推古三二年、六二四、開山宥全)・新居浜市河内寺(推古三六年、六二八)・東予市実報寺(舒明一二年、六四〇、開山恵隠)・丹原町興隆寺(皇極代六四二―四)・朝倉村無量寺(斉明代六五五―六一、開山無量)・玉川町仙遊寺(天智代六六二―七一)・北条市高縄寺(同)・今治市真光寺(白鳳元年、六七二、開山道昭)・伊予市宝珠寺(天武二年、六七四)・朝倉村竹林寺(天武代六七二―八五、開山観量)。
 八世紀に入ると、松山市大宝寺(大宝年間、七〇一―四)・玉川町光林寺(大宝元年、七〇一)・川内町医王寺(大宝二年、七〇二)・吉海町高龍寺(大宝四年、七〇四、開山興遍)・保内町真願寺(養老元年、七一七、開山快順)・伊方町法通寺(同)・長浜町出石寺(養老二年、七一八、開山道教)・川内町上福寺(同)・新居浜市明正寺(同)・松山市長楽寺(天平二年、七三〇)・朝倉村満願寺(天平六年、七三四、開山道慈)・松山市善喜寺(同年ごろ、開山同)・丹原町道場寺(現浄明寺、天平二年、七三〇)・松山市蓮華寺(天平一五年、七四三)・小松町清楽寺(聖武代七二四―四八)・東予市神宮寺(同)・西条市王至森寺(天平勝宝元年、七四九)・松山市儀光寺(天平勝宝年間七五〇―七五七)・松山市極楽寺(同)・東予市道安寺(孝謙代七四九―七五七、開基恵顕)。なお、奈良時代の創建とのみ伝えられるものに新居浜市正法寺がある。このように、伝承で見る限り、伊予の古代真言寺院はまことに多くて壮観であるが、もちろんその創立年代は伝承そのままをあげたもので、たしかな立証のないものがほとんどであって、にわかに信じがたいものが多いことに注意を要する。

 遍歴の修行僧

 空海の入寂後、空海を慕って四国の遺跡を遍歴する真言僧は次第に多くなるが、最初の著明な僧は高弟真済である。真済の通称は高雄僧正・柿本僧正、また、紀氏出身のため紀僧正、空海に師事して高雄山神護寺第二世、後東寺長者になった。空海の遺著『遍照発揮性霊集』をまとめた人でもある。その入寂は貞観二年(八六〇)、空海に遅れること二五年であるから、空海入寂直後の四国遍歴であるが、遍歴の具体的内容、特に伊予における遍歴のことは不明である。この真済をもって四国遍路の創始者とするものに真念の『四国遍礼功徳記』(元禄三年、一六九〇)があり、四国遍路の創始について、「一説に、大師の御弟子高雄山にましませる柿本の紀僧正真済といひし人、大師の御入定の後、大師をしたひ、御遺跡を遍礼せしよりはじまり、世の人相逐て遍礼する事となれりといへり」といっている。もとより、真済をもって四国遍路の創始者とするのはあたらぬことであって、四国遍路は多様な性格の霊地を巡る霊地巡礼であるけれど、次第に弘法大師信仰の性質を強め、大師の入定を信ずる人びとが、四国を巡るとどこかで大師にめぐり会えるという大師信仰が基になっていることからすると、真済をもって四国遍路の創始者とするのもあながち不当ではない。
 少し遅れて、同じく弘法大師の弟子真如法親王の四国巡礼説がある。平城天皇の第三皇子高岳親王は、嵯峨天皇の皇太子になったが、薬子の乱により廃太子となり、空海に従って仏門に入り真如と号した。山陰・山陽・南海・西海の諸道を回国しようと、それぞれの国司にあてた貞観三年(八六一)三月二九日付けの官符まで得ていたが、その二か月後には志を変え、貞観四年には入唐、さらに天竺に赴く途中越衹国で遷化したと伝えられる。ところが、『四国遍礼霊場記』(寂本、元禄二年、一六八九)によると、真如が入唐のため瀬戸内海を航行中難風にあって土佐に上陸、三五番札所清瀧寺にあらかじめ墓をつくって唐に向かったという墓があると記している。伊予でもわずかに国分寺の伝承に真如留錫のことが見えるけれど、真如の四国巡錫は信ぜられない。さらに、康平年間(一〇五八―一〇六五)ごろ、真言僧とみられる善範は、讃岐曼陀羅寺に詣って仏堂の再建を志したというから、あるいは伊予も回国したかもわからない。このように、四国の遍歴は、修験者につづいて真言僧によって行われたが、聖といわれる僧たちについてもいくつかの例がある。
 空也(天禄三年、九七二、七〇歳寂)が諸国を遊行したことは著名であるが、伊予では松山市久米浄土寺に滞在した伝承以外あまり知られていない。年代は明らかでないが(天徳ごろ)三年間空也谷に草庵を結んで滞留していたという。のちに造立された空也像が今に伝えられている。
 西行が讃岐に下ったのは、保元の乱に敗れて讃岐の配所で長寛二年(一一六四)になくなった崇徳上皇を弔うためで、没後わずか三年後の仁安二年(一一六七)のことであった。その後西行は弘法大師の跡を慕って曼陀羅寺の近くに草庵を結び、讃岐の寺々を巡歴したほか伊予にも足跡が及んだとされるが明らかでない。これよりさき、西行とも交わりのあった重源が、保延三年(一一三七)に四国の辺地を修行しており、それは一七歳のときのことであるが何もわかっていない。
 これら四国の遍歴者は名を残した僧であったが、修行のため、あるいは大師の跡を慕って遍歴する人びとは次第に増加し、のちにいわゆる四国遍路が成立するようになる。

最澄の弟子の系譜

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