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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 伊予の御家人

 御家人通信

 源頼朝の率いる東国武士団が源平の争乱で平家を圧倒した理由のひとつとして、彼らが頼朝との間に結んでいた強固な主従関係をあげることができる。源氏の棟梁と東国武士の間には、頼朝の先祖頼義や義家の時代から強い主従のきずなが生まれていたが、そのような、古くから徐々に形成された主従関係を、鎌倉幕府のもとで制度的に整えたのが御家人制である。すなわち御家人は、地頭等に任命されることによって父祖伝来の土地を安堵されたり、新しい領地を与えられたりして、鎌倉殿から御恩をうけ、そのかわりに京都大番役や鎌倉番役をつとめたり、戦時には、生命をかけて戦闘に参加するなどして、奉公に励むのである。
 したがってこのような来歴をもつ御家人制は、本来は東国武士と鎌倉将軍との間のものであった。鎌倉将軍の面前で実際に戦闘に従事し、手ずから恩賞を授けられることができる東国御家人の場合に、初めて鎌倉将軍との間に強固な精神的紐帯を形成しえたのであった。鎌倉将軍の指揮のもとでともに戦ったりすることのない、ましてや直接見参することなどもほとんどない西国御家人の場合は、おのずから事情が異なっていた。彼らは多くの場合、御家人たちの名前を書き連ねた名簿を鎌倉将軍に提出して臣従を誓い、初めて御家人として認められたのである。そのようなわけで、西国御家人の場合は、東国御家人に比して鎌倉将軍との精神的結びつきも、それほど強くないのが普通であった。
 そのようななかで河野通信は、鎌倉将軍頼朝に直接臣従することを許された数少ない西国御家人のひとりである。通信に対するこのような厚遇が、彼の源平争乱時におけるいち早い反平家行動によることはいうまでもない。通信は争乱終結後、鎌倉に出かけた。その目的は、当然頼朝から直接恩賞にあずかるためであろう。そして、その後もしばらく鎌倉に滞在していたことが、『吾妻鏡』等によって確認される。
 通信の鎌倉滞在中の最大の事件は、何といっても文治五年(一一八九)七月から九月にかけての奥州征伐であった。文治元年(一一八五)に平家が滅亡して以来、国内には頼朝に従わぬ勢力はほとんどなくなったが、奥州平泉に拠る奥州藤原氏だけは唯一の例外であった。そこで頼朝は、義経をかくまったことを口実にして、文治五年七月みずから一千騎の軍勢を率いて追討軍を発したが、その供をした御家人たちのなかに河野通信の名を見出すことができる。おそらくこのころ鎌倉に滞在していた通信にも従軍の命が下ったものであろう。なおそのほかに伊予国に関係ある人物としては、さきに守護として名前の出た佐々木盛綱、宇和郡地頭職を得た橘公業などが同じ軍中にある。さらに、この軍中において、通信が毎度の食事の時に「土器」を用いたことが、武蔵国都築郡の武士榛谷重朝が乗馬を毎日洗ったこととともに「珍事」であったと伝えられている(吾妻鏡)。
 通信の鎌倉滞在中のもうひとつの事件は、梶原景時の失脚である。梶原景時については、頼朝側近の有力御家人のひとりとしてすでにその名が高いが、その景時が、頼朝の死後ほどない正治元年(一一九九)一〇月、他の御家人たちの糾断をうけ、ついで翌年正月には攻め滅ぼされてしまった。『吾妻鏡』によると、正治元年一〇月二八日、千葉介常胤・三浦介義澄以下の有力御家人が鶴岡八幡宮の廻廊に集結して、一味同心を神前に誓い、景時を糾断する訴状に署名した。そのメンバーのなかにやはり河野通信の名を見ることができる。通信がこの反梶原の行動にはたしてどの程度かかわっていたのか明らかではないが、ほかのメンバーの顔ぶれからすると、鎌倉におけるその地位は決して低いものではなかったであろう。
 このように鎌倉において、奥州征伐に従軍したり、御家人たちの反梶原行動に加担したりしていた通信も、建仁三年(一二〇三)四月ようやく伊予に帰国することになった。帰国の前日には、親しく将軍頼家の御前に召され、幕下将軍(頼朝)の時以来殊に奉公を抽んじた故をもって、特別に御教書を賜わったという。その御教書そのものが残っていないのは残念であるが(『予陽河野家譜』はその御教書らしきものを載せているが、これは『吾妻鏡』の記事に基いて偽作されたものであろう)、『吾妻鏡』によるとそれは、「当国守護人佐々木三郎兵衛尉盛綱法師の奉行を懸けず、別して勤厚を致すべし、兼ねて又旧の如く国中近親并郎従を相従うべし」という内容であった。つまり、伊予国にはすでに佐々木盛綱が守護として任命されているが、通信の場合は、その守護の支配をうけず、国中近親郎従をこれまでどおり相従えてよいというのである。このようなところにも、通信が西国御家人としては破格の扱いをうけていたことがよくあらわれている。
 さてそれでは、このようにして故国へ帰ってきた通信の伊予国での存在形態は、どのようなものであったであろうか。

 河野氏の本拠

 河野氏の本拠が、中世に風早郡河野郷とか河野土居分とか呼ばれていた地域(現北条市河野)にあったことは、ほぼまちがいなさそうである。この河野郷の故地には、今なお善応寺という古刹が残っており、河野氏発給のものを中心とした中世古文書数巻を所蔵している。この善応寺は、鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍した河野通盛が、一族の本拠を河野郷から道後湯築城に移すにあたって、それまでの居館を寺院に改めたものといわれている。もしそのとおりであったとすると、現在の善応寺の周辺こそが、河野通信の本拠の地であったことになる。近くに政所、土居などのホノギが見られることも、そのような推測を裏付けている。(図1―7参照)。また実際に現地に赴いてみると、この地が、中世武士の居館が所在するのにふさわしい条件を備えていることがよくわかる。すなわち、善応寺は、河野川と高山川が背後の山なみから流出して平地に接する微高地上に位置し、両翼と背後の三方を山に囲まれ、前方のみが風早郡の平野にむけてひらけている。このことは、中世武士の居館に最も必要な防衛機能を十分に満足させるものであり、同時に、前面にひらけた農耕地の水がかりのよさを予想させるものである。
 防衛機能といえば、善応寺のすぐ背後に、雄甲・雌甲と呼ばれる二つの小丘陵がそびえていることも見逃しえない。これらはともに中世城郭のあとと伝えられ、麓にあった居館と互いに補いあう関係にあったものと推測される。さらに善応寺の位置する微高地の北辺を流れる前記河野川を背後の山中に溯ると、標高九八六メートルの高縄山に至る。この高縄山は諸記録にしばしば見えるところであり、戦乱時には重要な軍事拠点となった。また善応寺の境内にたって前方(西方)に目を向けると、風早郡の平野の向こうに斎灘が広がっており、それを隔てて忽那七島を指呼の間に望むことができる。このことは、河野武士団と海との親近性を強く示唆するものである。
 居館の主である河野通信の所領については、必ずしもはっきりしない。中世武士の場合、居館の周辺に門田と呼ばれる直営地を付属させて、農業経営の中心としているのが普通であるから、通信の場合も、現在の善応寺の周辺にそのような土地を所有していたことが想像されるが、今のところその実態を明らかにすることができない。またそのような直営田のほかに風早郡の平野部には、いろいろな形で所領を有していたであろう。たとえば、建保三年(一二一五)二月に通信から一族の池内公通に所領が譲られているが(池内文書・一三〇)、これなどは、そのような所領の一部であったと思われる。そしてさらに、そのような本貫地河野郷とその周辺の所領以外に、地頭職を得ることによって手にした所領や、在庁官人としての権限によって何らかの権利を有する所領があったはずである。『予章記』は前述のように、これらをすべてあわせて「当国他国領所五十三ヶ所、公田六十余町」と表現しているが、今となっては、これを復原することは容易なことではない。それは前にも述べたように、通信が承久の乱で京方に味方して所領を没収されてしまったからである。

 忽那氏の出自

 忽那氏は、忽那島を本拠とする御家人である。忽那島は瀬戸内海の西部に廻廊のように点在する防予諸島の一画をなし、海上交通上に占める位置が非常に大きい。そのゆえか、この島の歴史は古くまで溯ることができる。すでに奈良時代に法隆寺の荘倉がおかれ、平安時代には律令政府の官牧が経営されていたことは、これまでにも述べられてきたところである(第一編第三章第三節参照)。そのような忽那島に平安末期から姿を見せはじめるのが忽那氏である。今のところ同氏についての最も古い確実な記録は、元久二年(一二〇五)に兼平・家平兄弟の争いに裁許を下した関東下知状であるが(忽那家文書・一二二)、前後の事情から、忽那氏の存在は彼ら兄弟の父俊平の時代まで溯ることが可能である。しかし、それ以前のことについては正確なことはわからず、それを知ろうとすれば、どうしても後世の記録や、それに基いた推測に頼らざるをえない。
 戦国末期に成立した『忽那島開発記』という記録によると、忽那氏の先祖は摂関家の藤原道長であるという。道長の曽孫に親賢という人物がいて、彼が遠流に処せられて忽那島にたどりつき、住みついて忽那氏を称したというのである。もとより親賢などという人物は道長の子孫には見当らず、この話をそのまま信じることはできない。おそらく、後世忽那氏がしばしば藤原氏を称したところから、その祖を藤原摂関家に仮託して成立した伝承であろう。すると、草創期の忽那氏のほんとうの姿は、どのようなところに求めればよいのであろうか。それについては、今のところは、平安時代に営々として島の開墾につとめ、そのなかから成長してきた開発領主としかいいようがなさそうである。
 このような開発領主忽那氏が鎌倉時代にはいって幕府から御家人の地位を与えられた理由についても判然としない。たとえば河野通信が、屋島や壇ノ浦におけるめざましい勲功によって御家人の地位を得たのと同じように、忽那氏にしても源平合戦時に源氏方にくみして、何らかの働きがあったに相違ないが、それを史料上で確認することができないのは誠に残念である。忽那氏は南北朝期には、伊予国有数の水軍を有するようになるが、そのようなことから考えてみれば、あるいは古く源平合戦期に、それなりの水軍力を擁し、河野氏などとともに源氏方水軍の一画を形成していたのかもしれない。いずれにせよ、鎌倉初期に忽那氏が得た鎌倉御家人の地位は、このあと鎌倉末期まで続く。

 忽那島荘と地頭職

 忽那島は、平安末期には長講堂領になった。長講堂は、もとは後白河上皇が造営した持仏堂であったが、その後膨大な荘園群が寄進されたことで有名である。伊予国では、のちに東寺領として著名になる越智郡の弓削島荘と、同じく越智郡の三島荘が、忽那島荘とともにこれに含まれている。建久二年(一一九一)の長講堂所領注文によると(京都大学文学部所蔵文書・一一七)、忽那島は、簾・畳・砂金・兵士役等の各種の寺役をつとめていることがわかる。忽那島が長講堂領化される事情は必ずしも明確ではないが、鎌倉期の『長隆寺文書』には、先祖俊平が長講堂に寄進し、田畠所当二百余石を納めたと見える(長隆寺文書・五五五)。おそらく平安時代の末期、俊平は何らかの理由で、それまで開発を進めてきた島内の所領を長講堂に寄進して、その保護のもとにはいらなければならない事情に追い込まれたのであろう。そして、その保護の代償として納めたのが田畠所当二百余石であったに相違ない。
 こうして長講堂領忽那島荘が成立し、忽那氏はそのもとで下司職を留保した。したがって現地での在地支配の実権はいちおう忽那氏によって確保されたものと考えられるが、都の荘園領主の領主権のもとでは微力なものであった。忽那氏は荘園領主の意志に従わなければならなくなり、忽那島はもはや自らの意のままになる所領ではなくなった。このような悲哀は、ひとり忽那氏のみならず、貴族政権の時代の、多くの地方在地領主たちがひとしく味わったものであった。したがって彼らはいちように、みずからの利益を守ってくれる政権の出現を期待していた。もし忽那氏がさきに推定したように、源平合戦で源氏方に味方したとすれば、その背景にあったのは、そのような事情であったはずである。そして、源平合戦に勝利し、続いて鎌倉幕府を樹立した源頼朝は、そのような各地の在地領主の期待に応えた。それが地頭の設置である。幕府の成立後御家人となっていた忽那氏も、ここに新たに地頭職に補任され、島内の地位ははるかに安定したものになった。彼らは東方武藤名と西方松吉名を地頭名として与えられ、かつての下司の流れをくむ地頭として荘園管理に従事したものと思われる。忽那氏のうちで最初に地頭職に補任されたのは兼平である。彼は元久二年(一二〇五)一一月に時の将軍源実朝から地頭補任の下文を与えられ(長隆寺文書・五五五)、その後地頭職はその子国重、孫重俊へと順次伝えられていった。
 しかし、このようにして忽那氏が地頭に任命されて在地支配を強化させていくことは、荘園領主にとって決して望ましい事態ではなかった。そこに荘園領主と地頭との間にしばしば紛争が発生する素地がある。忽那島においても両者の紛争は鎌倉時代を通じて何回か見られるが、その最初のものは、貞永元年(一二三二)国重の時代に発生した。この年国重は、領家方雑掌から島内松吉名を押領していると訴えられた。彼は、それまでに得ていた地頭職補任状等を証拠として陳弁にこれつとめ、やっと六波羅探題から、領家方のいい分か不当であるとの裁許を得ることができた(長隆寺文書・五五五)。また建長五年(一二五三)には、領家の派遣した預所が山狩寺(長隆寺)の別当職と寺領田畠を押領するということがあった(同・一六八)。長隆寺は、今も忽那島に残る古刹で、早くから忽那氏の菩提寺として知られたところである。したがって別当職(その当時、忽那氏の一族静慶阿闍梨が有していた)や寺領は、忽那氏にとってきわめて重要な意味をもつものであるが、それに預所が介入しようとしたのである。幸いこの場合も、幕府の裁許によって預所の行動が停止されたが、このように忽那氏の在地支配は領家方とたえず紛争をくり返しながら維持されていくのである。
 忽那氏の在地支配をおびやかす要因は以上のような荘園領主との紛争ばかりではなかった。他に所領所職をめぐる一族内部の争いも忽那氏をしばしば悩ませるものであった。すでに早く元久二年(一二〇五)には、俊平の子兼平・家平兄弟の間で所領紛争が生じた。さきにも述べたように、忽那氏は島内東方の武藤名と西方の松吉名を地頭名として得ていたが、そのうち兄の兼平が武藤名を、弟の家平が松吉名を、それぞれ俊平から譲られていた。そのようななかで、家平のいい分によると、兼平が松吉名において「乱妨を致」したのである。兼平の側からすれば、おそらく兄弟に分割相続されていた所領を惣領のもとにまとめようとしての行動であったのであろう。しかし、そのような兼平のもくろみは、家平の訴えをうけて下された鎌倉幕府の下知状(忽那家文書・一二二)によって否定され、いちおう西方松吉名については、家平の領知が認められた。しかし、このあと兼平の子国重の時代になると、松吉名は国重の所領として見えるから、あるいは家平一期ののちは、再び惣領家の所有に帰したのかもしれない。
 さらに建長六年(一二五三)には、国重の遺領をめぐって、その子重俊と重康とが争った。この紛争は、両者の和与によっていちおうの結着を見たが、東浦を惣領重俊分、西浦(松吉名)を弟重康分としたところなどは、さきの兼平、家平の時代と全く同じ様相を示している。国重の子の世代には、ここに姿を見せた重俊や重康のほかに、通重という人物もいて、事態をいっそう複雑なものにしている。彼は、西浦惣追捕使職を手にしていて、それを建長五年に子実重(幼名弥亀丸)に譲り、実重はさらにそれを同八年に幕府から安堵された。このような所職の分割相続は、このあと一族の領有形態をいっそう複雑なものにし、そのゆえにまた所領をめぐる紛争を頻繁に誘発させる素因ともなった。

 三島荘と大祝氏

 河野氏・忽那氏とならぶもうひとりの伊予の御家人に大祝氏がいる。大祝というのは、本来大山祇神社の神官の職名であったが、それが世襲されていくうちにいつのまにか氏の名に転じたものである。したがって、大祝氏の御家人としての姿を見ていくうえでも、大山祇神社との関係をぬきにすることはできない。大山祇神社の鎮座する大三島は、鎌倉時代には三島荘と呼ばれて、先の忽那島と同じく長講堂領であった。前掲の建久二年の長講堂領目録によると、三島荘も忽那島荘と同じく、種々の名目で、伊予簾・垂布・砂金・牛・畳・油等の雑物を納めている。ただ大祝氏が忽那氏と異なる点は、忽那氏が忽那島荘の地頭職をえて、島内に確たる基盤を有していたのに対して、三島荘内における同氏の位置が必ずしも明確ではないというところにある。すでに鎌倉初期において、三島荘には何人かの地頭の姿を確認することができるが、その中に大祝氏を認めることはできず、現地では、国神主やその代官がもっぱら在地支配に関与している。これは、古く大祝氏は、越智郡高橋郷(現今治市)を居館の地として、神事のたびごとに渡海していたと伝えられていることとも関連があろう。
 いずれにせよ、最初に史料上で確認することができる御家人は、建長五年(一二五三)の祝太郎安俊である(『三島大祝家譜資料』所収の「大祝継統表」では一八代とされている。なお、安俊の前に、元久二年閏七月の関東下知状に見える大祝安時がいるが、これには、前にも述べたように史料的に若干問題がある)。このころ安俊は、貞光名三町五段の土地をめぐって、江左衛門尉長忠と紛争をおこしており、その解決のために六波羅探題から江長忠との対決を求められた(三島家文書・一六七)。この時安俊がどのような地位にあったのか、文書上には明記されていないが、六波羅探題から召文を発せられたことからすれば、このころすでに御家人であったことはまちがいないであろう。そして、それから一〇余年後の文永二年(一二六四)に下された六波羅施行状には「当国御家人祝太郎安俊」と明記されていて、そのことがはっきりと裏付けられる(同・一九六)。ただ、大祝氏がこのような御家人の地位を、いつごろどのような事情で得るようになったのかは、残念ながら明らかではない。
 安俊は、この後建治二年(一二七六)には大祝に任ぜられた(同・二六二)。この補任が、国司から留守所に発せられた国宣によってなされているのは、このころ大山祇神社が伊予の一の宮であったからであろうか。御家人にして大祝である安俊の地位が、伊予国内でいやが上にも高くなったことは、この後の彼の行動を見てみるとよくわかる。安俊は、この後自分の息子安胤を代官にしたてて前掲貞光名や越智郡鴨部荘の確保をめざしてつぎつぎと訴訟をおこし、六波羅から御教書や下知状を得てそれに成功していくのである。鎌倉末期から南北朝期にかけての大祝一族のめざましい活躍は、よく知られているところであるが、その基礎は、このころすでに築かれていたと見ることができよう。

図1-7 善応寺周辺

図1-7 善応寺周辺


図1-8 鎌倉前期の忽那氏系図(景浦勉作成図による)

図1-8 鎌倉前期の忽那氏系図(景浦勉作成図による)