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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 河野通信の動向

 討幕の動き

 建久三年(一一九二)、権謀術数をもって武家政権に対抗し続けた後白河法皇は、志を得ないまま病歿した。その遺志は、孫の後鳥羽天皇(建久九年、譲位して上皇となる)によって、受け継がれた。いっぽう、鎌倉幕府では正治元年(一一九九)、頼朝が逝去し、以来急速に北条氏の権力が強大になった。それにともなって、権力の座をめぐって、有力な武将との間に紛争が相ついでおこった。しかし、北条氏は武力と謀略を駆使して、つぎつぎに競争相手である源氏恩顧の実力者を排除していき、頼朝の後継者である頼家や実朝も有名無実の無力な将軍にしてしまった。さらに、承久元年(一二一九)、将軍実朝が鶴岡八幡宮で殺害され、源氏の血統が三代で絶えてしまうや、執権北条義時は京都から九条頼経を将軍(摂家将軍)に迎えて、幕府体制の強化につとめた。
 武家の勢力を後退させて、王政復古の実現をめざしていた後鳥羽上皇以下の公家勢力は、これら幕府内部の混乱状態をみて、今こそ幕府打倒の好機と考え、ひそかに倒幕計画をおし進めた。後鳥羽上皇の招きに応じて京方軍に参加した地方御家人として多くの人物が知られているが、その中に伊予国御家人河野通信とその一族がいる。河野氏が、源平合戦時の勲功によって、幕府成立後御家人の地位を得、西国御家人としては異例ともいえる待遇を受けたことについては、これまでに述べてきたとおりである。同氏はこうして得た鎌倉御家人の地位を最大限に活用することによって、かつては競合関係にあった新居氏を圧倒し、一三世紀の初頭には、伊予国東中部に強い勢力を築きあげた。このように、河野氏が伊予国で大きな勢力をもつことができるようになったのは、鎌倉幕府というきわめて強力な支持者を得たことによるところが大きい。その河野氏が、承久の乱に際して、なぜ京方に参加したのであろうか。

 通信の京方接近

 この乱には、河野氏のほか多数の有力な鎌倉御家人が京方軍に参加しているが、その大部分は西国に地盤をもつ御家人であったし、御家人以外の武士、つまり幕府の支配下に属さない武士も、そのほとんどは西国の在地勢力であった。彼らが京方軍に参加した理由については諸説があるが、田中稔は、京方武士の中心は西国武士であったこと、さらに新補地頭補任地の中に院領荘園の占める割合の大きかったことから、院知行地の武士の多くが、院の招きに応じて京方についたと説いている。しかし、河野氏の場合、同氏が伊予国において知行していたと伝えられる所領五三ヵ所の中に、院領荘園が含まれていたかどうかさだかではない。また、石井進は、安芸国の有力な京方武士宗左衛門尉孝親の場合を例に、彼が守護としては鎌倉殿の御家人であるとともに、在庁官人として中央の貴族政権につながっていたことに、彼が京方に走るにいたった要因があるとしている。河野氏の場合、同氏が源平の内乱以前から在庁官人の地位を得ていたことは疑いないが、国衙のなかにおける御家人の存在形態から同氏と承久の乱のかかわり方をおさえることは困難である。さらに、上横手雅敬は、後鳥羽上皇が、洛中警固武士や在京御家人に検非違使や衛府の尉などの官職、あるいは北面・西面の武士の地位を与えて、それを自己の軍事力として再編することによって、畿内近国の幕府の御家人体制を、そのまま後鳥羽院政の軍事・警察機構に転用してしまったところに、在京御家人が京方武士化する原因があったと指摘している。
 次に、河野氏の場合をみてみよう。通信が京方軍への参加を決意した要因としては、その子通政が西面武士であったこと、北条氏との不和、源義経との親密な関係などがこれまで指摘されてきた。通政の西面武士化については、河野氏の動静をくわしく伝える『予陽河野家譜』に、院が彼を西面武者所に召したことを記している。また、『愚管抄』巻第六、承久元年七月一三日、大内守護源頼茂誅伐の条に、罪によって頼茂が内裏で討たれる時、「伊予の武士河野と言うを語らいけるが、こうこうと申したりけると聞こえき」と、河野氏も同類であると申し立てたと述べているところから、このころ、河野一族の誰かが在京していたことが明らかである。
しかし、以上の史料のみで、通政らが在京御家人として活動していたとは断定しがたく、今後の研究をまたなければならない。
 次に、北条氏との関係であるが、『予陽河野家譜』は、頼朝の死後天下の政務をほしいままにする北条氏の横暴ぶりを目のあたりにした通信は、その心がしだいに同氏から離れていったことを伝えている。しかし、『吾妻鏡』は、建仁三年(一二〇三)、通信が鎌倉を去るにあたって、幕府は彼の年来の奉公を賞し、守護の指揮を受けずに国内の近親郎従を従えるべき旨の御教書を与えたことを記しており、『予陽河野家譜』の記事をそのまま信ずるわけにはいかないであろう。また、義経との親密な関係が、通信の決起を促した一因であるという説は、屋島の合戦で通信が兵船三〇艘を率いて義経を助けたこと(吾妻鏡)や、壇ノ浦の合戦に一五〇艘を率いて参加したこと(平家物語)を根拠にするものであろうが、一時期両者が親密な関係にあったとしても、義経が討たれた文治五年(一一八九)から乱の勃発するまでには、三二年の歳月が流れていることを考えれば、これまた通信の決断に大きな比重をもったとは考えがたい。
 以上の諸説に対して、山内譲は、関係諸文献を詳細に検討した結果、伊予国の御家人支配の権限をめぐって、河野氏と伊予国守護との間に緊張関係が生じた可能性があること、さらに『予陽河野家譜』に収められている「通信主にくみせしむる所の一族国人等交名」にある諸士の名から、承久の乱の時点において、同氏の影響力が東中予のほぼ全域に及んでいるにもかかわらず、南予にはほとんど力が及んでいないことから、南予を拠点とする守護勢力の存在が、同氏の伊予における発展にとってひとつの桎梏となっていた可能性があることを示唆し、このような伊予国支配をめぐる難問を解決するのに、承久の乱というのは、通信らにとってまたとない機会であったろうと説いている。
 以上のように、河野氏が京方軍に参加した理由を確かな論拠をもって決定することは困難である。しかし、ここに記したような諸要因が複合して、通信を京方軍参陣へと駈り立てていったことは事実であろう。

 動乱の勃発と終結

 承久三年(一二二一)、後鳥羽上皇は武力倒幕を決意し、北条氏に不満や反感をもっていた地方豪族・守護らをひそかに京都に集めた。そして、そのなかには、鎌倉幕府の実力者の一人であった三浦義村の弟胤村の姿などもあった。『承久記』によると、同年四月二八日、上皇は城南寺で仏事を催すと称して、守護のために甲冑を着けて参加するように命じたが、この参加者のなかに、伊予国の河野四郎入道(通信)の名が見える。そして五月一四日、上皇は鳥羽離宮で流鏑馬を行うことを理由に、諸国の武士や諸寺の僧兵を召集して、北条義時追討の院宣をくだし、千七百名におよぶ将兵の意気は大いにあがった。
 いっぽう、鎌倉幕府では、短期決戦を決意し、軍を三道に分かって、京都への進撃を開始した。それに対して、京方は木曽川沿いに防衛線を敷いて、幕府勢に対抗しようとした。しかし、たのみの山門衆徒は京方への参加を拒み、六月五・六日の戦闘で、第一線の防衛線は、すべて幕府勢に破られるありさまであった。そこで、京方は六月九日、緊迫した状勢のなかで、京都を防衛するため、諸将を水屋崎・勢多・宇治・淀・広瀬の諸方面に進発させた。その時の軍勢の手分けについて、『承久記』は、「承久三年六月九日、月卿雲客さるにても打手を向けらるへしとて、宇治・勢多方々へ分け遣わさる、(中略)河野四郎入道通信・子息太郎、五百余騎にて広瀬へとそ向かいける」と、河野一族が広瀬へ出動したことを記している。『吾妻鏡』は、京方軍勢の手分けについて述べた六月一二日の条には、河野氏の名を挙げていないが、ともかくも、宇治瀬田川に布陣した京方の第二線は、同月一三・一四日の両日の戦闘で総くずれとなった。その結果、京方の指導者藤原秀康や三浦胤義らは、戦場をのがれて上皇を頼ったが、上皇は門を閉じて彼らを入れず、かえって宣旨を取り消して、秀康や胤義らの追討を命ずるありさまで、短日時で勝利は幕府方の手に帰してしまった。
 ところで、『承久記』で広瀬に出陣したという河野通信は、おそらくは決戦に臨むことなく兵をまとめて帰国し、通政やその弟の通末・通俊らとともに、高繩山城に拠って反抗を続けたものと思われる。『吾妻鏡』承久三年六月二八日の条によれば、それは「当国勇士等」を相従えたかなりの規模のもので、『予陽河野家譜』は当国御家人等数千の強兵を率いて抗戦したといい、この時通信と行動をともにした一族国人一二九名の姓氏をくわしく記している。
 河野氏の挙兵に対して、幕府は伊予国御家人の忽那国重・宇野頼恒といった反河野党の面々に命じて、高繩山城を攻撃させた。しかし、彼らの力では同城を攻略することはかなわず、七月一〇日には阿波・土佐・讃岐の御家人が数千の強兵を率いて寄せ来たり、さらに備後国太田荘の有力御家人三善康継らの遠征軍も加わって(高野山文書・一三八)、激しく攻め立てたので、同一四日、得能通俊は忽那国重に討たれ、通信もまた城を脱出しようとして傷を負って宇野頼恒に捕えられた。また、通政やその他の諸士も、降伏し、あるいは逃亡して、同城もついに落城したという(予陽河野家譜)。
 こうして、伊予における承久の乱は終おったが、この高繩山城攻防戦は、承久の乱をめぐる諸事件の中でも、きわめて稀有の例とされている。それは、乱中に行われた戦闘は数多いが、それらはいずれも尾張から京都にかけての一帯において、西上する幕府勢とそれを迎え撃つ京方勢との間で行われたものであって、京方の武将がその在国において兵を挙げた例は、ほとんど知られていないからである。

図1-9 承久の乱における幕府・京方両軍軍勢配置図

図1-9 承久の乱における幕府・京方両軍軍勢配置図