データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 伊予の荘園

 荘園の分布

 第一節~第四節では、河野氏をはじめとする武士団の動向を中心に見てきたので、本節では、少し視点をかえて別の方向から鎌倉時代の伊予国を見てみることにしよう。別の視点とはほかでもない、当時の人々の生活の基盤となっていた土地制度の問題である。平安時代中期以降(早いところでは奈良時代から)、荘園と呼ばれる土地制度が各地方で大きな位置を占めるようになったことについてはすでに述べたとおりであるが(第一編第三章第三節)、そのような傾向は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけていっそう顕著になった。中世における土地制度のあり方は、一方の国衙領のあり方ともあわせて、しばしば荘園公領制と呼ばれている。このような方向から鎌倉時代の伊予国を眺めてみようとするのが、本節の目的である。
 鎌倉時代における伊予国の荘園制社会の実態を、個別の荘園を通して具体的に見ていく前に、全体的な様相を一瞥しておくことにする。表1―3は、現在のところ史料上で確認することのできる荘園の、所属郡、荘園領主、在地領主、存在期間等を一覧表にまとめたものである(ただし、これはあくまでも現在の時点のものであるから、今後新史料の発見によって増加する可能性がある)。それによると伊予国では、各時代を通じて四〇余りの荘園を確認することができる(そのなかには、後述の古田郷のように、荘号はついていないが、実質的には荘園と異ならないようなものも含まれている)。これをいくつかの観点から整理してみることにしよう。
 まず時代別に見てみると、つぎのようになる。
  奈良・平安時代 一五
  鎌倉時代     二五
  南北朝時代    二二
  室町時代     一六
  戦国時代      九
  不明         一
  (いくつかの時代にまたがっている場合はどちらの時代にも含めた。)
 これによると、鎌倉時代が最も多く、南北朝時代がこれについでいる。このような結果は、鎌倉時代がさきに述べたような荘園公領制の全盛期であることをよく示している。そして、南北朝の混乱期を経て室町期に至ると一六か荘と大幅に減少し、戦国期にはわずかに九か荘となる。そしてこれらも、戦国の乱世の中で戦国大名や各地の土豪の侵略をうけ、最後には豊臣秀吉の太閤検地によって息の根をとめられることになる。
 図1―12は、それぞれの荘園の推定位置を地図の上におとしたものであるが、これによって地域別の分布状況をだいたい知ることができる。それをいちおう郡別に整理してみると、ほぼつぎのようになる。
  宇摩郡  三
  新居郡  五
  桑村郡  二
  越智郡  七
  野間郡  二
  風早郡  三
  和気郡  二  
  温泉郡  二
  伊予郡  八  
  喜多郡  一
  宇和郡  二  
  不 明  五
 これによると、越智郡の七か荘と伊予郡の八か荘が目をひく。おそらく前者の場合は、古くから国府の所在地であって、最も早く開発が進んだこと、瀬戸内海の島々の多くが荘園化されたことなどが、荘園が集中した理由ではないだろうか。また後者は、現在もそうであるように、伊予国最大の農耕地帯である道後平野の南部に位置し、荘園の設定に非常に有利な地理的条件を有していたことによると考えられる。
 それでは、すでに言及した忽那島荘や三島荘、あとで項を改めてとりあげる弓削島荘を別にして、いくつかの荘園を具体的にみてみることにする。

 感神院領桑村郡古田郷

 古田郷は、桑村郡の南西部の山麓に位置する(現周桑郡丹原町古田)。すでに、平安時代の初期に成立した『和名抄』に「籠田郷」と見え、郡内では早くから開発されていた地域であることがわかる。中世以来の古寺として著名な興隆寺は、当郷内の山中に位置している。その古田郷が感神院領となったのは、建保年中(一二一三~一二一八)であったといわれる。感神院というのは、京都祇園社(現在の八坂神社)のことで、神仏習合のさかんであった時代には、このような寺院号をもって呼ばれた。建保年中に感神院に寄進されたわけであるが、いったい何者がどのような事情で寄進したのかという点については、残念ながら明らかではない。私たちが知ることができるのは、寄進後八〇年ばかりたった鎌倉後期における現地の状況のみである。鎌倉後期の古田郷の在地事情の中で最も興味深い点は、まず第一に、現地の支配をめぐって荘官と守護代の争いが展開されている点であり、第二に、農民たちが荘官に対して抵抗を試みている点である。
 感神院領古田郷の荘官は、給主法眼栄晴と呼ばれる人物である。給主というのは、一般的には鎌倉後期から各地の荘園に姿を見せ始める所務請負代官、すなわち、一定額の年貢または代銭で、荘園管理を請負う人々のことである。本郷の場合、栄晴が所務請負を実際に行っていたかどうか史料上で確認することはできないが、後述するような彼の社会的地位からよく考えて、おそらく一定額の年貢を納入することを代償として、社家から荘園管理を一任されていたと考えてさしつかえないであろう。そのような栄晴が、執拗なまでに手中におさめようとした荘園所職は公文職である。公文というのは下級荘官の一種であるが、栄晴がこれを守護代と激しく争ったことからすれば、古田郷の場合、この公文職こそが現地支配の象徴だったようである。公文職争奪のもうひとつの理由に、「公文名」、「公文給」と呼ばれる公文職付属の名田がある。これらは年貢が免除されるのが通例であるから、ある意味では公文職そのものよりも、こちらの方が関係者にとっては魅力的であったかもしれない。いずれにせよ、公文職の地位を獲得し、それに付属の収入源としての公文名・公文給を手中にした者が、荘園の支配者として現地に君臨することができたものであろう。
 栄晴という人物について欠かしてはならないもうひとつの側面は、彼が感神院の有力社僧の一人であるという点である。元来感神院の社務執行職は、平安後期以来ずっと紀氏一族に血脈相続されてきたのであるが、栄晴はその紀氏一族に属し、この後には法師位を得て社務執行の地位にもつくことになるのである。したがって彼の活動の跡は、古田郷ばかりでなく、他にも近江国成安保(滋賀県蒲生郡か)、備後国小童保(広島県甲奴郡)などでも確認することができる。
 いっぽう給主法眼栄晴の抗争の相手となるのは、伊予国守護代(守護の代官)の地位にある孫六郎景重という人物である。残念ながら彼の姿を別の史料で確認することができないので、他の守護代の姿を参考にしながら、このころの守護代がいかなる存在であったかを見ておくことにしよう。たとえば正和三年(一三一四)七月二一日付六波羅御教書に「海賊人雅楽左衛門次郎の事、伊予国高市郷御代官景房搦渡しむるの由、守護代信重申の条、殊に神妙也」というような一節が見える(小早川家証文・四五八)。伊予国越智郡高市郷の景房という人物が海賊を搦め捕ったことを、守護代信重が報告しているわけであるが、ここに見える守護代信重は、「重」の字が通じていること、時代があまり隔たっていないこと等から考えて、あるいは古田郷に姿を見せる守護代景重と何らかの関係を有しているかもしれない。憶測をたくましうすれば、血縁関係にあると考えられなくもない。血縁の有無にかかわらず、この史料のなかに、海賊の追捕等、伊予国の警察機能のうえにおいて守護代が大きな役割を果たしていることを確認することができよう。本来一国の警察機能を担っているのは守護であるが、伊予国の場合、このころの守護は東国下野国に本拠を有する宇都宮氏であって、容易に伊予国に来国することができないことを考えれば、守護の代理である守護代が守護にかわって現地で大きな力を有するようになるのは当然のなりゆきであった。
 嘉暦二年(一三二七)七月二日には、忽那島で発生した所領紛争について、当事者の一人に陳状を出すことを命ずる六波羅探題からの問状が守護ならぬ守護代に発せられている(忽那家文書・五二三)。本来ならばこのような文書は守護に発せられ、守護がさらに守護代に遵行(命令の下達)状を発するのか正式の手続であるが、ここで六波羅探題が守護を経ないで直接守護代に発しているのは、守護代が伊予国においてはほとんど守護にかわらぬ役割を果たしていたことを示していよう。永仁期の守護代孫六郎景重の姿も、このような一連の守護代像との関連のなかで考えなければならない。

 法眼栄晴の訴え

 さて、永仁三年(一二九五)七月二八日、給主法眼栄晴は、守護代孫六郎景重の非法を京都にいる知行国主(西園寺氏か)に詳細な申状を以て訴えた(祇園社記・三四五)。栄晴の一方的な申し立てであるから、それをすべて鵜呑みにするわけにはいかないが、いちおう彼の言葉に従うとすると、言わんとすることは、ほぼつぎのようなことであった。
 ①守護代孫六郎景重が弘安八年(一二八五)の年貢を奪い取り、公文名作稲を苅取った。
 ②そこで、そのことを武家に訴えたところ、正応二年(一二八九)から六か度も押領物を返すよう下知が下されたが、景重は一向に改めようとしない。
 ③つぎの手段として、事情を関東(幕府)に注進して、その判断を仰ごうとしたところ、罪科にとわれることを恐れた景重は、知行国主から国宣を賜わって自分の正当性の根拠にしようとした。
 ④当郷公文職は、寄進当時から郷司進止ということになっていて、自分が正当な公文職の所有者であるから、早く景重に与えた国宣を破棄し、自分に国宣を賜わりたい。
 ここにはっきり表われているように、両者の紛争の種は公文職とそれに付属の公文給にある。すなわち伝統的な職の所有者栄晴に対して、新しく台頭してきた守護代景重が実力でそれを手中にしようとしたところに争いが発生しているのである。栄晴の言葉を聞く限りにおいては、不当なのはあくまでも守護代景重であるが、その申状を慎重に検討してみると、守護代にしても何の理由もなしに古田郷公文職に介入したわけではなさそうである。栄晴の申状の中に「当国守護代景重、縫殿入道幸然の後家尼自性の語いを得」という一節が見える(前掲祇園社記・三四五)。もとより縫殿入道幸然の後家尼自性なる女性がいったい何者であるか判然としないが、何らかの形で古田郷公文職に関与する人物であったに相違ない。守護代景重はその縁から公文職に接近したようである。さらに彼が、まがりなりにも一度国宣を与えられているという事実も、彼の主張が必ずしも栄晴のいうような「奸謀」ばかりではなかったことを示していよう。
 さて、永仁三年の栄晴申状に対して、知行国主からは、彼の主張をほぼ全面的に認める内容の国宣が下されたが、両者の紛争はそれだけでは解決しなかったようである。永仁六年(一二九八)一二月、栄晴は再び申状を知行国主の許に提出した(祇園社記続録・三六四)。例によって「猛悪の企、言語道断の次第也」とか、「所行の企、希代の奸謀比類なきものか」などと口をきわめて守護代の行動を非難しているが、その非難の口調がエスカレートすればするほど、彼のおかれている状況は不利になっているとみてさしつかえないであろう。
 この第二の申状に見られる事態は、第一のそれとさしてかわるものではない。栄晴の側は依然として、知行国主の発する国宣の権威をかりることによって事態の好転をはかろうとし、守護代の側は、いっぽうでは、公文職所縁の女性とのつながりを強調し、他方では「数十人の乱使」を郷内に放ち入れるなどの武力行使をし、硬軟両様の面から栄晴にゆさぶりをかけている。両者の紛争の推移は、史料の制約によってこれ以上たどることはできないが、ここにはこのころ各地の荘郷で展開されていたに相違ない、伝統的な職の所有者たる社寺勢力と、次第にたくわえてきた実力で新たにそれに介入しようとする武士勢力の対立のひとつの姿があるといえよう。

 古田郷の農民たち

 実は、給主法眼栄晴が古田郷の経営を維持していくうえで、このころ直面していた困難な問題点は、守護代景重の公文職押妨ばかりではなかった。ほかに鎌倉中期以来めざましく成長してきた農民層の抵抗という問題があった。同じように栄晴の言葉を通して、このころの農民の姿をみてみると、守護代との紛争にまだ決着のついていない永仁五年(一二九七)九月二六日に、栄晴は百姓の行動を訴える申状を提出している(八坂神社文書・三五八)。そこにはほぼつぎのような内容のことが書かれており、断片的ながら、古田郷の農民たちの行動をうかがい知ることができる。
 ①本郷における感神院領の面積は、古くから起請田として一七町八段半(半は一八〇歩)であったが、弘安九年(一二八六)に検注が行われた時、百姓らは検注使の目を欺いて二町余少なく検注結果を出させた。そのため、その分だけ「御祇禱用途」が不足することとなった。
 ②本来の良質の土地を隠して「最薄田」(不良田)を表に出し、また「河成」(河川の氾濫による荒廃)や不作を口実にして所当を弁済しない。
 ここには、いろいろな工夫をめぐらして、自分たちの手許に少しでも多くの余剰を確保しようとする農民たちと、それを厳しく摘発して年貢を維持しようとする荘官との攻防のありさまが、実に生き生きと興味深く表現されている。そこに見られる農民たちの行動は決して積極的でもなければ派手でもない。それどころか検注使の目を欺き、いろいろの口実を設けて年貢を減らそうというやり方は、卑小ですらある。しかし、ここで重要なことは、今まで支配され続けるばかりであった農民たちが、いかにささやかであれ、このようにみずからの生活を守るために何らかの行動をおこすようになった事実そのものにある。そのような目で見る時、検注の際に検注使の目を欺いて二町の余田を生み出した農民の行動のなかには、土地に根をおろして現地を知悉している者のみがよくなしうる巧妙さがあるし、「河成」を口実にして年貢を弁済しなかった行動のなかには、支配され続けてきた者独特のしたたかさがあると思うのである。
 そして、古田郷の農民たちの抵抗は、たしかに以上に尽きるのであるが、それはただ単に古田郷だけのものにとどまらなかった。私たちは同じような農民たちの姿を、のちに述べる弓削島荘においても見出すであろう。

 石清水八幡宮と玉生荘

 さて、これまで感神院領桑村郡古田郷に生活する人々の姿を見てきた。そこには、荘園の内側に主要なテーマが存在した。そこでつぎには、目を転じて荘園の外観を中心にみてみることにしよう。その際とりあげようとするのは石清水八幡宮領伊予郡玉生荘である。
 玉生荘の荘園領主石清水八幡宮は、現在も京都府八幡市に鎮座する、日本でも有数の神社である。貞観二年(八六〇)に豊後国の宇佐八幡宮を京都郊外の男山に勧請したのが起源といわれ、皇室の尊崇が篤く、すでに平安時代には大きな勢力を有していた。さらに鎌倉時代にはいっても、源氏が八幡神を祖神としたことから武家の崇敬をあつめ、各地に末社がさかんに勧請された。したがって、当然のことながら膨大な社領荘園群を有し、その数は保元三年(一一五八)には宮寺領(石清水八幡宮はその神宮寺である護国寺と一体であったので社領はこう呼ばれた)だけでも百か所を数え、それらの分布する国は三三か国に及んだという。しかも同社には、宮寺領の他に、護国寺の宿院である極楽寺の所領が別に存在し、それらも保元三年に三七か所を数えた。
 そのような状況は伊予国にもそのままあらわれ、伊予の荘園を荘園領主別に整理すると最も多いのが、ほかならぬこの石清水八幡宮関係荘園なのである。たとえば、前記保元三年の百か所の宮寺領のなかには、石城島(現越智郡岩城村)、生名島(現同郡生名村)、佐島(現同郡弓削町)、味酒郷(現松山市)が含まれている。味酒郷を除く三所はいずれも芸予諸島に位置する島々であり、石清水八幡宮が、このように瀬戸内海の島々に荘園を有しているのは興味深い。また鎌倉初期の元久二年(一二○五)一二月の日付を有する同宮別当道宗等の処分状には、吾河保 (現伊予市)が、鎌倉末期の嘉元四年(一三〇六)の文書には神崎出作(現松前町)がそれぞれ見え、さらに、応長元年(一三一一)一二月一五日の日付を持つ検校法印尚清譲状には、井於郷別名(現新居浜市のうちか)が見える(石清水文書・一二六・三九八・九四四)。そのような伊予国の石清水八幡宮領荘園のなかでも、最も関係史料が多く残されているのが、伊予郡玉生荘である。
 玉生荘は、石清水八幡宮領のうちでも、社家東竹坊の管領する宝塔院所属の荘園のひとつで、正確には石清水八幡宮宝塔院領とでも称すべきところである。その玉生荘がはじめて史料上に姿を現すのは、平安末期の承安元年(一一七一)のことである(石清水八幡宮記録・九七)。この年、宝塔院主法印成清の訴えに応じて官宣旨が下され、玉生荘以下一二か荘が、宝塔院に確保されている。その後同荘は長く石清水領であり、史料上で確認できる最後は戦国時代の享禄四年(一五三一)である。したがって、鎌倉期における武士勢力の台頭、南北朝期における社会的混乱のなかでも衰退することなく、引続き社領として維持されたわけで、伊予国でも息の長い荘園のひとつとなっている。
 それにもかかわらず玉生荘の場合、その内部における人々の生活や荘園支配のしくみなどを、古田郷のように詳細にたどることはできない。それにかわって、同荘が提供してくれる興味深い問題点は、荘園の故地の現地比定ということである。玉生荘は、他荘に比べて現地比定をかなり厳密に行うことができ、現在に残る景観を今なおこの目で見ることができる。その現地とは、伊予郡松前町昌農内の一帯である。「昌農内」は「庄ノ内」が転じたものであるから、すでにその大字名が荘園との関連を思わせる。さらにその内部には、玉生・古宮・別当・荘田等の小字名が現在も残っている(図1―15参照)。玉生や荘田という小字については、まさにそのものズバリであって多言を要しないが、古宮については、かつてこの地に石清水八幡と呼ばれる小社が祭られていたことを土地の人々が伝えているのが注目される。さきにもふれたように、京都の石清水八幡宮は、その隆盛期に多くの末社を各地に分祀したが、特にそれが宮寺領荘園が所在して、宮寺とのつながりの深い地方に集中的に行われたであろうことが容易に想像される。古宮の地における石清水八幡宮の末社の存在は、この地域と荘園領主石清水八幡宮のつながりの強さを示唆している。また別当という地名も、石清水の社務職を管掌する別当職と何らかの関係を有することは明らかであり、あるいは現地の荘園管理機関でもおかれていたのかもしれない。このように見ていくと、昌農内の一帯がかつての玉生荘の故地にあたることはまず疑う余地がないようである。なお、玉生荘の面積は、鎌倉末期の記録によると、三六町五反五〇歩であったという(御裳濯川和歌集裏書・四七五)。
 中世荘園の荘域がこのように厳密に比定できる例は伊予国では珍しく、その意味では、玉生荘の存在は重要な意味をもっている。この地域は、明治末年には耕地整理が実施され、現在は宅地化が進んでその景観は徐々に変貌しつつあるが、今なお多く残されている美田には、中世荘園の面影が残されている。

 その後の菊万荘

 野間郡(現在は越智郡)の菊万荘(中世においては「間」のかわりに多く 「万」の字を使用している)と佐方保が京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)の社領の一部であり、源平争乱末期の寿永三年(一一八四)、源頼朝の下文によって安堵されたことについてはすでに述べた(第一章第一節)。両荘保は、他の上賀茂社領とともに、源平争乱期の社会的混乱の中で武士たちの乱妨に直面し、まさに廃絶の寸前にあったのであるが、新たに武士の棟梁として登場してきた頼朝の命によって、上賀茂社領として確保されたのである。ここでは、そのような両荘保のその後の展開について見ていくことにする。
 まず両荘保の荘域については、菊万荘が現在の菊間町の一部、佐方保が同町佐方にそれぞれ比定されることはすでに見たとおりである。しかし、それでは荘域があまりにも漠然とし過ぎており、もう少し荘域を限定してみる必要がある。それには菊間町内に上賀茂神社の末社が二社勧請されていることが参考になろう。ひとつは、同町大字浜字宮本に鎮座する加茂神社であり、ほかのひとつは、同町大字佐方に鎮座する賀茂別雷神社である。この類似した社名をもつ両神社の由来等については、諸説があって必ずしも明確ではないが、両社がともに中世の賀茂別雷社領との関連で勧請されたであろうことは、容易に想像のつくところである。また大字浜には、余庄田、庄ノ谷等の、同高田には重近等の荘園関係地名と思われるものが残っていることも、荘域を考える際の参考となる。このように考えていくと、菊万荘の場合は、加茂神社の南方にひろがる菊間川中流域の平坦部、佐方保の場合は賀茂別雷神社の北方にひらける佐方川流域の小平地が、それぞれ荘域として最もふさわしい地域であるといえよう。この両平坦地は、耕地の状況、水がかりの具合等の地理的環境から見ても荘園設定にふさわしい条件を有している。なお鎌倉末期の伊予国の荘郷の面積を記した記録によると、菊万荘は一三〇町、佐方保(郷)は二四町一二〇歩であったという(御裳濯川和歌集裏書・四七五)。
 さて、私たちの最も知りたいところは、そのような両荘保において、鎌倉期においてどのような歴史が展開したかということであるが、残念ながらそのようなことについて多くを知ることはできない。他の多くの荘園の場合と同じく、当荘においても現地にほとんど史料が残されておらず、いきおい荘園領主の手許に残された記録や、文書に頼らざるをえないからである。京都上賀茂神社にわずかに残されている鎌倉時代の関係文書から知りうることは、菊万荘の支配をめぐって領家たる上賀茂社と預所との間に紛争があったらしいということである。嘉禄元年(一二二五)の官宣旨によると(賀茂別雷神社文書写・一四〇)、鳥羽院の時、時の神主保久の女上総という女性が菊万荘と若狭国宮河荘の預所職を得、それ以来上総の縁につながる女性(多くは院に仕える女房であったようである)たちがその職を伝領していった。この預所職は、荘園経営にあたる荘官の一種としてのそれではなく、領家職の下位に位置して年貢の得分権のみを有する荘園領主職の一種であったようである。ところが、時代を経るに従って、領家職を有する社家にとって預所職の存在は次第に荘園支配の障害となってきた。そこで、あくまでも預所職を維持しようとする上総の後継者たちと、職を手中に収めようとする社家との間に紛争が生じた。このような事態に対して、弘長二年(一二六二)に、数度にわたって後嵯峨上皇の院宣が下され(座田文書・一九〇、賀茂別雷神社文書・一九一、鳥居大路文書・一九二)、いずれも讃岐という女房が預所職を安堵されており、依然として職が上総の後継者の手中にあったことがわかる。
 しかし、その弘長二年の院宣を最後にして、女房が預所職を有している徴証は見られなくなる。たとえば延慶三年(一三一〇)、文保元年(一三一七)、正慶二年(一三三三)にも、それぞれ院宣や綸旨が下されているが、これらはいずれも上賀茂社の神主に対して相伝に任せて知行すべき旨を伝えたものである(早稲田大学所蔵文書・四三九、賀茂別雷神社文書・四七六・五五九)。したがって、弘長年間から延慶年間にかけての数十年の間に、結局預所職は女房たちの手を離れて社家の手にかえったようである。そしてこれ以後は、上賀茂社が唯一の荘園領主として菊万荘と宮河荘を支配する時代がくるわけである。ところが、時あたかも南北朝内乱の前夜であり、社家にとっては新たな困難が待ちうけていた。南北朝内乱期の菊万荘の状況は史料を欠いていて詳かにすることができないが、内乱終結後数十年をへた永享年間には在地領主得居氏が荘園支配に大きく関与するようになってきている。このようなことからも南北朝期以降の菊万荘がこれまでとはおのずから異なった時代を迎えることになることが予想される。これらについては、また章を改めて述べるであろう。

 源実朝と新居・西条荘

 西条市福武の金剛院という真言宗寺院の境内に、高さ三メートル余のみごとな七重の石塔がある(県指定有形文化財)。一見して中世の様式をよく伝えている文化財であることがわかる。寺伝ではこれを鎌倉三代将軍源実朝の遺髪塔と伝えている。しかし、訪れる人の多くは著名な鎌倉将軍実朝の名が突然出てくることに、奇異の念を禁じ得ないであろう。いったいなぜ、実朝とゆかりがありそうにも見えない西条地方の片隅に、このようなものが存在しているのであろうか。そして上記のような寺伝には根拠があるのであろうか。これを後世の仮託であると一笑に付してしまうのはたやすいことであるが、それは必ずしも正しくない。なぜなら金剛院の実朝供養塔は、新居・西条地方の荘園の歴史と密接に関係しているからである。
 中世の西条地方に西条荘が存在していたことはよく知られている。同荘は、鎌倉末期八か村からなっていたが、それらは四か村ずつ二つにわかれていた(覚園寺文書・五六三)。ひとつは、京都遍照心院(大通寺ともいう)領に属する末久村村山一河・菊一村・鶴久村・村名不詳の一村であり、ほかのひとつは鎌倉覚園寺領に属する得重村付山大保木池内・得恒村付山黒瀬・福武村・稲満村である。現存する地名から考えて、前者は、西条市福武から同市之川にかけての加茂川東岸一帯、後者は加茂川から大保木川にかけての山間部にそれぞれ位置していたと考えられる。このうち金剛院は、遍照心院領の菊一村に属していたのであるが(それは善応寺文書中に、金剛院の古名光明寺が「西条庄内菊壱名光明寺如来堂」と見えることによる)、その京都遍照心院が、実朝に因縁浅からぬ寺なのである。
 実朝が承久元年(一二一九)甥公堯の手にかかって非業の死をとげたことはよく知られているが、その死後後室(八条尼といった)は、実朝の菩提を弔うために京都の西八条の地に一寺を建立して遍照心院と名付けた。彼女は、鎌倉初期に関東申次として公武関係に重きをなした坊門信清の女であり、図1―16に示したように、近親者の中には皇室に入内したものも少なくない名門の出である。関東武士の棟梁であったにもかかわらず、京都の貴族文化にあこがれることの強かった実朝が、強いて望んだ婚儀であったが、それだけに実朝の死が彼女に与えた衝撃は大きかったものと思われる。この後彼女は、都に帰って出家し、遍照心院で亡き夫の菩提を弔いながら生涯を過ごした。
 さて実朝の死は、母政子にとっても同じように大きな心痛であったに相違ない。実朝暗殺の背後に北条氏と結んだ政子の意志が潜んでいるとはよくいわれるところであるが、もしそうであればなおさら、彼女は実朝の死を深く悲しんだことであろう。そのゆえか政子は、八条尼によって遍照心院が建立されると、さっそくこれに寺領を寄進した。それが伊予国の三か郷であり、後の新居荘である。この新居荘については、八条尼もその置文において寺領として違乱のないことを強くいい残し、幕府側においても関東下知状等においてしばしば安堵を確認した(大通寺文書・二一一・二一五・三四八・三四九)。このようにして遍照心院領新居荘が成立した。
 上記のような新居荘と遍照心院の関係を示す『大通寺文書』の中に、さきに示した末久村以下の西条荘の遍照心院領のことが見えないのは奇異であるが、同じ新居郡内で近接している両地域のことであるから、遍照心院領新居荘の西端部がのちに西条荘と呼ばれるようになったか、あるいは本来西条荘内にあった地域がのちに遍照心院領に併合されたかのいずれかであろう。いずれにせよ、鎌倉末期の時点において新居浜から西条にかけての一帯に実朝の菩提寺遍照心院の荘園が存在していたことはまちがいのない事実である。そして、前記金剛院の供養塔も、以上のような由来を有する荘園領主遍照心院の意をうけて在地の何者かが建立したものと考えられる。
 なお、南北朝期以降においても遍照心院領は存続した。西条荘の部分は、応永六年(一三九九)に足利義満が地頭職を寄進しているし(大通寺文書・一一一九)、新居荘の部分は、嘉吉二年(一四四二)に雑掌が細川氏の押領を訴えていることが知られる(森田清太郎氏所蔵文書・一二七三)。しかし、これらを最後にしてこの後史料上に見えなくなるところを見ると、遍照心院領は、細川氏を始めとする有力武士の進出によってやがて衰退していったものであろう。

 西園寺氏と宇和荘

 以上のように、東予の新居・西条の二荘が鎌倉三代将軍実朝と密接な関係を有していたのに対し、南予の宇和地方が、実朝のつぎの将軍頼経の縁につながる西園寺公経と結びついているのは興味深い事実である。公経は源頼朝の女婿一条能保との所縁によって早くから鎌倉幕府に接近し、廟堂貴族のなかでは有力な親幕派の一人として知られている。実朝の横死後、その後継者を都から招くことがきまると、九条道家の男子(公経にとっては外孫にあたる)を頼朝の血筋をひくという理由で強く推し、第四代の将軍の位につけることに成功した。それが摂家将軍、のちの源頼経である。そのような幕府との余りの親密さのゆえに、承久の乱の時には、後鳥羽上皇によって一時幽閉されるという憂き目を見たが、乱の終息後は、鎌倉将軍の外祖父として京都の政界においていっそう重きをなし、その権勢は並ぶ者がないといわれるほどであった。
 そのような西園寺公経が宇和地方を手中にした経緯は、いささか強引なものであった。このころこの地域には、宇和荘の他に宇和郡にも地頭職がおかれていたが、問題になったのは後者の方である。公経以前に宇和郡及び宇和荘の地頭職を有していたのは橘一族である。この一族は、はじめ平家の家人であったが、源平合戦中に源氏方に加わって多くの軍功をあげ、合戦後においても橘公業(成)を中心にして多くの足跡を残した。公業は鎌倉に常駐して諸行事に参加するとともに、奥州合戦でも勲功をとげて出羽国小鹿島(男鹿島)を与えられた。さらに承久の乱後は、長門守護・薩摩守・下野守等を歴任して、有力な鎌倉御家人であったことがわかる。このような橘一族が宇和地方に関与するきっかけについては、橘氏自身の主張にくい違いがあって必ずしも明確ではない。すなわち『吾妻鏡』は、遠祖遠保が藤原純友を討取って以来の父祖伝来の土地であるとし、嘉禎四年(一二三八)の公業の譲状は、頼朝より勲功賞として賜わったとしている(小鹿島文書・一四九。なお、本章第二節第一項の「伊予の地頭」参照)。史料的価値からすれば、後者の可能性が高いが、いずれにせよ、嘉禎年間ころ橘一族が宇和荘を含む宇和地方に大きな勢威を有していたことは紛れのない事実であろう。そしてこれに、西園寺公経が触手をのばした。公経は、宇和郡は父祖伝来の地であって、咎なくして召放たれるいわれはないとしきりに「愁歎」する公業の主張にもかかわらず、たびたび書を鎌倉に送って同郡の入手を強要した。彼の書状には、「この所望の事行はざれば、老後の眉目を失ふに似たり、今においては、わざわざ下向せしめ、所存の趣を申さるべし」と書いてあったというから(吾妻鏡)、これはもはや一種の脅迫に近いものであるといえよう。そしてこの頃の公経には幕府に対してこのような横車をおすことができる権勢があったことも事実である。また公経が、建仁三年(一二〇三)以来伊予の知行国主として国務の実権を有していたのも、このような強硬姿勢と無関係ではないであろう。いずれにせよ、このようにして宇和郡地頭職は公経の手中にはいった。
 以上のような宇和郡地頭職の交替が宇和荘に対してどのような影響を与えたかについては、必ずしも明らかではない。ただ一般的にいって、同荘に対しても西園寺氏の影響力が強まったであろうことは、容易に推測することができる。正安四年(一三〇二)ころの室町院領目録に、後高倉院法華堂領として宇和荘が見え、それに「西園寺」という注記が付されているところからすれば(集八代恒治氏所蔵・三七七)、このころ宇和荘は、室町院(後堀河天皇第一皇女疇子内親王)を本家と仰ぎ、西園寺家がその下で領家職を所有していたのかも知れない。西園寺家の領家職獲得の時期ははっきりしないが、推測をたくましうすれば、前記のような公経の宇和郡地頭職に対する強い執着の背後には、宇和荘の権利確保の思惑が潜んでいたとも考えられ、もしそうであるとすると、その時期は鎌倉時代のかなり早い時期であったことになる。なお室町院領というのは、承久の乱後幕府に没収された後鳥羽院領の一種で、後高倉院守貞親王、式乾門院利子内親王等の手をへて、室町院に伝えられたものである。室町院の死後時をへて、大覚寺統の後宇多天皇の手中に帰し、大覚寺・持明院両統の抗争のひとつの火種になったことで有名である。
 いっぽう西園寺公経の強請によって宇和郡地頭職を放棄することを余儀なくされた橘氏は、その後どうなったであろうか。公業は宇和郡地頭職のかわりに肥前国長島荘(佐賀県武雄市)を与えられ、一族の主力はそちらへ移ったようである。そして彼の子孫たちは、その地を開発して新たな在地領主制を展開させていったことが知られている。しかし、橘氏はその後も宇和地方との関係を完全に絶ってしまったわけではない。宇和郡地頭職を失ってから百年程経た元弘三年(一三三三)に、公業の曽孫にあたる橘公有(智蓮)が「いよの国宇和庄訴訟のため」という文言を含む文書を残している(橘中村文書・五五三)。これから判断すると宇和荘地頭職の方は、郡地頭職放棄後もひき続いて橘氏によって保持され、それは鎌倉末期まで続いたようである。しかし、南北朝期になると、橘氏の足跡はほとんど見えなくなり、かわって西園寺氏の影響力が大きくなる。同家が伊予知行国主、宇和郡地頭職の地位を挺子にして宇和荘支配を強化していったであろうことは、容易に想像のつくところであり、橘氏が去ったあとは、地頭職・領家職を一体として所有していたのではないだろうか。そしてそのことが、また南北朝の動乱を経たのちも同家が依然として宇和荘に対する支配権を維持し続けた理由でもあるであろう。なお、宇和荘の荘域は必ずしも明確ではないが、宇和盆地を中心にして、立間・三間地域、津島地域にまで広がっていたと考えられる。鎌倉末期の記録には面積が三〇一町六反三〇〇歩と見え(御裳濯川和歌集裏書・四七五)、その広大さがしのばれる。
 以上、鎌倉期の伊予の荘園について全体を概観するとともに、いくつかの個別荘園をとりあげて、具体的に見てきた。そこでは、在地の人々の生活、遺構の残存、立荘の事情等の諸側面について、それぞれ興味深い姿を見ることができた。しかし、伊予の中世荘園を語る時にはどうしても見落とすことのできない荘園がほかにもうひとつある。

表1-3 伊予国の荘園一覧①

表1-3 伊予国の荘園一覧①


表1-3 伊予国の荘園一覧②

表1-3 伊予国の荘園一覧②


表1-3 伊予国の荘園一覧③

表1-3 伊予国の荘園一覧③


表1-3 伊予国の荘園一覧④

表1-3 伊予国の荘園一覧④


図1-12 伊予国荘園分布図

図1-12 伊予国荘園分布図


図1-13 古田郷の故地とその周辺

図1-13 古田郷の故地とその周辺


図1-14 現在の松前町昌農内周辺

図1-14 現在の松前町昌農内周辺


図1-16 八条尼関係系図

図1-16 八条尼関係系図