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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 捨て聖一遍

 出自と修学

 一遍は延応元年(一二三九)に生まれた。父通広は河野通信の七男、母は新居玉氏の娘というから越智氏の同族である。通広は、兄通政らとともに西面の武士として朝廷に仕えていたが、病弱のためか、承久の乱のころは郷里に帰っていて難を免れた。「別府七郎左衛門」と俗称されているところから、浮穴郡拝志郷別府(現温泉郡重信町)を根拠地に別府荘を所領としたものであろうが、たしかな史料があるわけではないし、まして承久の乱後、その領地を安堵されたかどうかわからない。道後温泉本館わきの冠山(出雲岡)に七郎明神という小祠があり、今は児守社と呼ばれているが、これが通広を祀る社であるとされ、江戸時代にこの地を回国した遊行上人は必ずここに参詣した。
 父通広は、晩年出家して如仏と号し、宝厳寺(松山市道後湯之町)の地に隠棲していた。宝厳寺の門前にはかつて、中央の道をはさんで右に六坊、左に六坊のあわせて一二の塔頭が並んでいた。次第に廃絶していくそれら塔頭の中で最後まで残っていた林迎庵(来迎庵・林光庵とも)に祀られていた一遍木像を本堂に移したのが、重要文化財に指定された現存のものというから、あるいはこの庵が通広隠棲の場所であったかも知れない。
 したがって、一遍の誕生地をこの場所と推定し、一遍は宝厳寺の地で生まれたとするのであるが、父通広がここに住んだこともあわせて、たしかな記録は何もなく、ただ同族得能通綱が建武元年(一三三四)に建てたと伝えられる「一遍上人御誕生旧蹟」碑が何がしかの手がかりを与えているにすぎない。
 母については、『一遍上人年譜略』(以下『年譜略』と略記する)に「母ハ大江氏」と伝えるだけである。大江氏は鎌倉幕府の有力な御家人で、もとは京都の学問の家系であり、一遍の母と伝える女性は大江季光の娘ともみられる。また、一遍の生誕年を延応元年(一二三九)とするのはたしかであるが、二月一五日(釈迦入滅日にあたる)とするのも『年譜略』のあげるところでたしかとはいえない。
 一遍は幼名を松寿丸といった。七歳にして得智山継教寺の縁教律師に学び、のち、随縁と名づけられて学問に励んだというのも、『年譜略』などによるもので、継教寺が宝厳寺近辺の天台寺院であろうと推定されるにすぎない。一〇歳で母を失って無情の理を悟り、父の命によって仏門に入っていた。
 これ以後の伝記は『一遍聖絵』(以下『聖絵』と略記する)に詳しい。すなわち、「建長三年の春、十三歳にて僧善入とあひ具し、鎮西に修行し、大宰府の聖達上人の禅室にのぞみ給ふ」と浄土教学への転進を告げる。父のすすめと紹介によるものである。というのは、父如仏は、朝廷に仕えて都にいたころ、すでに仏道への志厚く、西山派証空に教えを乞い、その弟子聖達や華台を知っていたからである。その華台には、このあとすぐ聖達のすすめで浄土宗の章疏文字を学ぶことになり、華台によって随縁を智真と改め、一両年の修学の後再び聖達のもとに帰り、建長四年(一二五二)一四歳から弘長三年(一二六三)二五歳までの一二年間西山派の浄土教学を学んだ。
 弘長三年五月二四日父如仏が帰寂、その報に接した智真はただちに帰国、家庭の事情により妻帯して俗生活をおくること八年、しかし、「真門をひらきて勤行をいたし」(聖絵)ながら、仏門への志を捨てなかった。

 成道

 文永七年(一二七〇)三二歳、このころ出家をとげた弟聖戒と共に大宰府の聖達のもとへおもむき、再び仏門に入る決意を師に伝えた。再発心の動機については、輪鼓の回るのを見て輪廻生死の理を悟ったから(聖絵)、親類に遺恨をさしはさむ者があって殺害されようとしたから(一遍上人縁起絵)、また、二人の妾の嫉妬に畏るべきことを知ったから(北条記)など三説がある。
 ここから聖としての生活が始まるわけである。智真のまずめざしたのは善光寺であった。文永八年(一二七一)、信濃の春はたけなわで、善光寺聖を中心に多くの聖たちが集まっていた。ここで参籠の日数をかさね、生き仏といわれていた一光三尊仏を仰ぐうち、二河白道図(中国浄土教の善導が散善義で説いた浄土信仰の譬諭を図にしたもの。水と火の河にはさまれた細い白道が此岸から彼岸へ通じ、此岸では釈迦仏が送り、彼岸では阿弥陀仏が招いている)を写しとると急ぎ故郷へ帰った。「この時己証の法門を顕し」(聖絵)とあるから、この二河白道図に悟りを見いだしたことがわかる。
 同年秋、別府河野の地から低い山を越えてほど近い「窪寺といふところ」(聖絵、現松山市窪野町北谷)に、一族の援助のもと、閑室を設けて足かけ三年の春秋、東壁にかけた二河白道図を本尊として勤行にあけくれるうち、善光寺参籠で感得した法門をよりたしかなものとして、己証の法門をひらいた。のちにいわゆる「十一不二頌」である。その意は、十劫の昔の弥陀の正覚と往生を願う衆生の一念は同じであって、ただ今の一念によって往生し成仏することができるという智真の教学の根本義に到達したものであった。ついで、智真は弘法大師の古跡岩屋寺に参籠、大師御作の本尊不動「明王を証誠として、(大師と)同時の正覚をちぎり」(聖絵)をたもうた。そして、大師の教えのもとに、「ながく舎宅田園をなげすて、恩愛眷族をはなれて堂舎をば法界の三宝に施与し、本尊聖教は付属をうけ」(同)た。これより一遍の捨て聖としての遊行がはじまる。
 あけて文永一一年(一二七四)二月八日、彼岸桜の咲く郷里をあとに遊行の旅に発った。この旅には、たっての希望をいれて妻超一房、一〇歳ばかりになった娘超二房、そして世話をしてもらうために念仏房の三人を伴った。時衆では、尼には一房号または房号をつけるのがならわしであった。弟聖戒は越智郡桜井まで見送り、このあと内子の願成寺に入った。
 やがてその年天王寺に参籠、この寺は聖徳太子ゆかりの寺であるが、浄土教が盛んで天王寺聖が多くたむろしていた。その西門のさきは難波の浜辺で、春秋彼岸の中日には西門の中央に夕日が落ちたから、極楽の東門といわれ、西方極楽浄土に往生を願う念仏者は、落日に向かい難波の海に入水して往生をとげるという熱烈な信仰があった。ひじりの道をめざす智真は一私度僧であり、東大寺戒壇院で正式の授戒を受けることをしなかった無戒の僧であったけれど、ここで「十重の制文をおさめて、如来の禁戒」を受け、さらに、「一遍の念仏をすすめて衆生を済度し」(聖絵)はじめた。すなわち、『聖絵』のこの場面では、西門の前で念仏札をくばっている一遍の姿がある。時衆の行儀である賦算のはじまりである。ここで賦算による「一遍の念仏」勧進がはじめられ、この時あたりから智真を一遍と称するようになったとみられる。
 やがて、一遍の姿は高野にあった。それは、女人禁制のため従者を域外に残しての孤独の参詣であった。ここにも真言念仏者ともいうべき高野聖を中心に、融通念仏の聖、天王寺聖、善光寺聖が集まっていた。ここに参詣したのは、その奥の院に生き仏として禅定に入っている弘法大師と「九品浄土同生の縁をむすばむため」(聖絵)であった。
 この年の夏、高野を発って熊野に向かい、中辺地を通って熊野に入った。郷土における河野氏の氏寺石手寺には熊野十二所権現がまつられ、熊野信仰に篤かった祖父通信以来の信仰が一族にあったし、何よりも阿弥陀仏を本地とする権現の霊験を信じていたからである。そして、熊野の山で出会った一人の僧に念仏札を渡そうとして、「いまの一念の信心をこり侍らず」(聖絵)と断られようとした話が象徴するように、不信の者に札を渡すことへの疑念を抱いたままの熊野入りであった。この疑念は、熊野権現の啓示でとけた。すなわち、証誠殿の前で願意を祈誓していると、山伏姿の権現があらわれ、「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」(同)とのお示しであった。

 遊行

 熊野本宮から舟に乗り、熊野川を下って新宮に至り、さらに那智社に詣ったとみられ、ここで妻超一房以下の従者を郷里に帰し、海岸回りの大辺地を通り、由良興国寺に法燈国師の教えを受け(聖絵にはない)、都に立ち寄って誓願寺に参詣(誓願寺縁起)、建治元年(一二七五)秋伊予に帰った。その時、「われまづ有縁の衆生を度せんために、いそぎ此の国にきたるよしかたり給き」(聖絵)とあるから、成道後の本格的な念仏賦算をまず郷国で行おうとした喜びと意気込みがよくわかる。この時「国中あまねく勧進して」(同)とあるから、弟聖戒の住持する内子願成寺を訪ねたであろうし、南予を中心に有縁の人や寺を訪ねて念仏賦算したことであろう。そして、つぎにおのずから向かう所は師聖達のいる大宰府であった。師に自分の到達した一遍の念仏を報告するためであった。
 これからが「衆生を度せんため」の遊行のはじまりである。建治二年(一二七六)、筑前国のある武士の屋形では、この汚れてみすぼらしい狂惑者に見える一遍に対し、その屋形のあるじは、庭におりて礼儀正しく念仏を受けた。酒宴に招かれていた客人が、どうしてあんな者の念仏を受けたかとなじると、武士は、「念仏には狂惑なきがゆへなり」(聖絵)と答えた。のちに一遍は人に語って、普通の人は人を信じて法を信じないのに、あの人は法によりて人によらずという道理をよく知っていたとほめた。ここに、人とか、さらには仏像とかではなくて、真理である法を尊ぶ一遍教学の真髄があらわれている。それから九州の西海岸にそって南下する遊行の旅は孤独で、結縁の人も少なく、供養を受けることも稀であった。わずかに、大隅八幡宮(現鹿児島県蛤良郡隼人町鹿児島神宮)で受けた神の啓示による歌とされる「とことはに南無阿弥陀仏ととなふればなもあみだぶにむまれこそすれ」(聖絵)は、のちの宗門で尊ばれるようになった。
 ついで日向の国を北上した一遍は、豊後の大友頼泰の帰依と援助を受けて滞在する間、その所領大野荘にあった東西阿弥陀堂にいた念仏聖を時衆化したとみられる。大友家は源頼朝の子能直(政子の子実朝の異母弟)に始まるといわれ、母方の大友を称し、相模国大友郷を領したが、豊前・豊後の守護として下向、その孫がこの頼泰で、一遍に帰依したのは五七歳、すでに入道となり道忍と号していた。『聖絵』には書かれてないが、別府鉄輪温泉の開湯も一遍によるという伝えもあり、頼泰は一遍のためこの鉄輪の地に温泉山松寿寺(現永福寺)を開創した。
 もう一つ特記すべきことは、一遍の後継者真教をこの地で得たことである。当時真教は現大分市の近郊にある瑞光寺にいた浄土宗鎮西派の僧で、一遍より二歳年長の四一歳であった。草庵における一夜の閑談を契機に師弟の契りを結んだことは『奉納縁起記』に詳しい。この時真教は「他阿弥陀仏」という仏号を一遍から受け、後継者となることが運命づけられていた。
 弘安元年(一二七八)夏伊予へ帰るときは、真教はじめ同行七、八人の随逐者があった。これまでは孤独の旅であったので、はじめての仲間を得たわけで、いわゆる「時衆」のはじまりである。
 郷国でほとんど休む暇もなく、これから一〇年間の大遊行に発つにあたり、曽祖父通清の百回忌供養を粟井坂(現北条市小川)で営んだとみられる。そして、堀江の浜を出て安芸の厳島に参詣、それから舟便によって備前牛窓あたりに上陸し、藤井(現岡山県西大寺市藤井)の備前二の宮(現安仁神社)に詣って、神主の子息の妻女を仏門に入れたのをきっかけに、福岡の市(現岡山県邑久郡長船町福岡)では二八〇余人もの時衆を得るという盛況ぶりであった。ここで随逐者を増した一行は、おそらく舟便によって東行し、淀川を溯って京に入ったのであろう。翌弘安二年(一二七九)の春、一行の姿は因幡薬師(現京都市下京区松原烏丸平等寺)にあった。ここではあわや宿泊さえ断られようとしたが、薬師の夢告に驚いた僧のはからいを受けた。
 この年八月都を発った一行は、四八日かかって信濃善光寺に詣り、千曲川沿いに南下、めざすのは承久の乱に破れて流謫地に没した叔父通末の霊の眠る佐久小田切の地(現長野県南佐久郡臼田町中小田切)である。ある武士(小田切氏か)の館の庭の一隅に祀る通末の墓前にささげた鎮魂の踊りが、以後一遍時衆の行儀としての踊り念仏となった。その踊りの輪の中で鉦を打っているのが、かつては一遍の妻であり、今は法弟である超一房であると栗田勇はいう(『一遍上人―旅の思索者―』)。このあと、冬の佐久路を北上、伴野の市庭(現長野県佐久市野沢、伴野氏居館趾ならびに時宗の名刹金台寺がある)、大井太郎の館(大井荘の中心地、現佐久市岩村田付近)、平原大井の館(現佐久市平原時宗十念寺付近、このことについては聖絵その他にも記されていない)などに踊り念仏の跡を残した。
 寒期の碓氷峠越えは難行であったであろう。上野国に入って大きい宿場板鼻での賦算は、その後にできた古刹聞名寺のあることによって、その成功を知ることができる。ついで、下野国小野寺(現栃木県下都賀郡岩船町小野寺、当時天台宗大慈寺があり、のちに時宗住林寺ができた)、白河明神(現福島県白河市旗宿白河関趾)に遊行の跡を残して一路北上、めざすは祖父通信墳墓の地江刺である。
 承久の乱に破れた通信は、奥州総奉行平泉検非違使葛西清重へ預けられ、稲瀬極楽寺末安楽寺に閉居せしめられ、二年後の貞応二年(一二二三)五月十九日、六八歳をもって逝去した。一遍が訪れたのは五七年後のことである。墓はこの寺に近く、長く「聖塚」とだけ伝えられてきたが、昭和四〇年、安楽寺住職司東真雄によって通信の墓と断定された。奥州遊行最大の目的を果たした一遍時衆の一行は、冬の奥州路を南下、平泉・松島・塩竈を経、常陸を通って武蔵国石浜(現東京都台東区石浜)に着いたのは弘安四年(一二八一)のことであった。そして、おそらく当麻(現神奈川県相模原市当麻、無量光寺がある)の地を経、ながさご(現藤沢市長後という説が有力)を通って鎌倉入りをめざした。

 化益

 弘安五年(一二八二)春、鎌倉入りを前にして一遍は、「鎌倉いりの作法にて化益の有無をさだむべし、利益たゆべきならば、是を最後と思べきよし」(聖絵)を示して時衆たちに覚悟を促した。もし化益ができなければ、死を覚悟せよというのであった。三月一日こぶくろ坂から鎌倉に入ろうとすると、乗馬の武士を先頭に一行を阻止した。応答のあげく一遍がひらきなおって「ここにて臨終すべし」というと、最後に武士が「鎌倉の外は御制にあらず」(同)と述べるので、その夜は山中の道端で野宿した。すると、念仏している時衆のまわりに鎌倉中の道俗が集まり、食物などの供養を受けた。そして翌二日、迂回して片瀬(現神奈川県藤沢市片瀬町)に至り、館の御堂に四日間滞在し、断食して別時念仏を行じた。その後往生院に招かれ、さらに片瀬の浜の地蔵堂に移ったところ、果たして「貴賤あめのごとくに参詣し、道俗雲のごとくに群集」(聖絵)した。ここでは板ぶきの踊り屋(道場)を仮設して踊り念仏を行じた。踊り屋を造って踊ったのはこれがはじめで、以後しばしばこのような図が見える。この片瀬における賦算の成功をはじめとして、以後至る所で歓迎を受け、おびただしい道俗が化益を受けた。
 七月一六日に片瀬を発った一行は、夏の暑さと箱根の嶮阻に悩まされながら伊豆国三島に着き、三島大社に詣でた。ここは、一遍が氏神として崇敬する伊予の三島の神の分祀である。富士川のほとりでは鰺坂入道の入水というできごとがあり、尾張の甚目寺(現愛知県海部郡甚目寺町)では毘沙門天の奇瑞によって供養を受け、さらに尾張から美濃にかけては「悪党」の保護を受けて無事に過ぎ、いよいよ叡山からの圧迫が予想される近江路に入った。『時衆過去帳』によると、一一月二一日、これまで一遍をささえて時衆の世話をしてきたかつての妻超一房が死没していることを特記しておく。いっぽう『聖絵』によると、守山の焔魔堂(現守山市物部町十王寺本堂)に滞在中、延暦寺東塔桜本の兵部竪者重豪が叡山の使者として偵察に訪れ、かえって帰依したこと、草津に留錫中一度に一三人もの時衆が病気にかかったことが記されている。
 やがて入洛を前に、叡山の圧迫が予想されるなかで、横川の真縁上人という助人があらわれ、「たがひに芳契」(聖絵)をかわした。また、『一遍語録』に見える弘安七年(一二八四)四月二二日付けの真縁あて書簡の末尾に、「阿弥陀経百巻、仰のごとく結縁仕り畢ぬ」とあるから、真縁の指示に従って阿弥陀経百巻を書写して叡山に納めたのであろう。天台念仏の僧と見られる真縁の仲介によって、叡山の理解が得られるきっかけになったわけである。しかし、これは山門の側でのことで、対立している寺門側の園城寺は別である。やがて関寺(現滋賀県大津市逢坂二丁目時宗長安寺)に入ろうとすると、当時この寺が園城寺の末寺であったこともあって、果たして制止を受け、のち許されて二七日の行法を修した。
 そして、いよいよ閏四月一六日都に入って四条大橋にさしかかると、「貴賤上下群をなして人はかへり見る事あたはず、車はめぐらすことをえざりき」(聖絵)というありさまであった。釈迦堂(現京都市中京区新京極通四条上ル中ノ町染殿院の地)・因幡堂(現下京区松原烏丸東入ル平等寺)・三条悲田院(廃絶)・蓮光院(現中京区神泉苑姉小路上ル姉西町)・雲居寺(廃絶)・六波羅蜜寺(現東山区松原通大和大路東二丁目)・市屋道場(空也の遺跡、もと平安京東市、現西本願寺のあたりにあったが、秀吉の都市計画で移され、現在は下京区河原町六条西入ル金光寺、隣りに市場の神であった市比売神社がある)と巡錫し、前後四八日間にわたる都の遊行が終わった。なかでも釈迦堂と市屋では道場を仮設して踊り念仏を行じ、道俗貴賤が群らがったが、わけても空也の遺跡市屋道場での数日は、一遍にとって最も感慨深いものであった。
 五月二二日桂に移り、ここで発病して、以後北国の旅は苦痛に満ちた。篠村(現京都府亀岡市篠町)では野宿して穴太寺(現亀岡市曽我部町穴田)に参詣、丹後の久美浜(現京都府熊野郡久美浜町)、丹波の「くみ」(現兵庫県城崎郡竹野町―もと美含郡竹野―か)、伯耆国おほさか(現鳥取県西伯郡中山町逢坂、古社逢坂八幡がある)、美作一の宮(現岡山県津山市一宮町中山神社)を経て天王寺へたどり着いたのは、弘安九年(一二八六)であった。
 それより住吉神社(現大阪市住吉区)・磯長太子廟(現大阪府南河内郡太子町)・当麻寺(現奈良県北葛城郡当麻町)を経て吉野・熊野に入ったとみられる。このあと石清水八幡宮(現京都府八幡市)に詣で、この年の歳末別時念仏は三たび詣った天王寺で行った。
 以上で畿内の遊行を終わり、病身をはげまし、帰国を急いで山陽道を下る。尼崎、印南野の教信寺(現兵庫県加古川市野口)を経て播磨の書写山(現姫路市書写、天台宗円教寺)に詣ったのは早春であった。
それより播磨の国中を巡礼、この時の法話が時衆たちによりまとめられて『播州法語集』・『播州問答集』となった。また、松原八幡では念仏和讃(別願和讃)を作って時衆に与えた。このあと遊行は備中国軽部(現岡山県都窪郡清音村)を経て備後一の宮(現広島県芦品郡新市町宮内吉備津神社)、安芸国厳島に参詣、一〇年前に出発した堀江の浜に帰着した。
 正応元年(一二八八)ふるさとに帰ると、病身をもかえりみず、期するところあるもののように、縁故の寺社を訪ねた。かつての修行地岩屋寺・窪寺、そして繁多寺には三か日参籠、さらにふるさとと祖神への最後の別れと、一二月一六日大山祇神社に参詣、一度別宮(現今治市別宮町大山祇神社)に移り、明けて正応二年再度大山祇神社に詣って祖霊に祈請、そして、この年の晩春か初夏にかけてのころ、故郷の山河に別れを告げ、帰らぬ旅路についた。
 陸路を讃岐へ、曼陀羅寺・善通寺、そしておそらく郷照寺(現綾歌郡宇多津町、時宗、七八番札所)にも立ち寄ったものと思われる。さらに、阿讃の山間部を越え、吉野川に沿って下り、大鳥の里河辺(現徳島県麻植郡鴨島町敷地に河辺寺跡がある)に参詣したころ心神異例で病悩は日とともに加わり、「おもふことみなつきはてぬ」(聖絵)との思い切なるものがあった。ついで、鳴門から淡路の福良へ、二の宮(現兵庫県三原郡三原町掃守大国魂神社)、そしておそらく一の宮(津名郡一宮町多賀)を経て志筑天神(津名郡津名町志筑)へと淡路島を縦断、明石の浜へ来た迎えの舟にまかせて兵庫の観音堂へ。最後にわずかに持っていた経典まで焼き捨て、正応二年(一二八九)八月二三日の早朝、禅定に入るように往生をとげた。時に五一歳。まことに、「一代の聖教みなつきて南無阿弥陀仏になりはて」(聖絵)てしまった。神戸市兵庫区松原通時宗真光寺はその観音堂のあとで、境内に廟所がある。なお最後に、一遍の以上のような長い遊行のあとを地図に示しておくことにする(図1―18)。

図1-18 一遍上人遊行回国図

図1-18 一遍上人遊行回国図