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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

三 鎌倉期の伊予の寺院

 浄土教の布教

 浄土教の本尊阿弥陀仏は、浄土教が行われる以前、すでに仏像伝来からほどなく渡来し、奈良時代までに多く祀られていた。また、浄土教も三論宗などと共に中国から取入れられていたが、それが、末法思想の影響もあって、平安時代の末期天台宗のなかに根づき、源信を経て法然によってわが国独自の浄土宗として開宗せられることになった。
 その源信(一〇一七年寂)により、天台宗として寛和三年(九八七)に再興されたと伝えられる寺に川之江市仏法寺がある。現に浄土宗であるが、浄土宗になったのは、下って寛永四年(一六二六)とみられる。また、吉田町福厳寺も、長和五年(一〇一六)ごろまでに、源信を開山として始まったと伝える天台の寺院であったというから、天台浄土の寺であったのであろうが、天文初年(一五三二)ころには五山派になり、現に臨済宗である。源信が伊予に来錫したとは思われないから、勧請開山であろうが、これらが伊予における浄土系寺院のさきがけであろう。いずれも平安時代末期のことである。ついで寿永年間(一一八二~四)、義円による開創と伝えられる大洲市寿永寺がある。平家の落人が讃岐に創立、のち当地に移建したという。また、中山町浄光寺は寿永二年の創建と伝え、のち寿永寺末であったから、あるいは寿永寺の創建もそのころであったかも知れない。
 下って鎌倉時代の建久九年(一一九八)八月、師法然の命を受けて伊予に下った聖光(弁長・弁阿、浄土宗鎮西派の祖)は、一〇月までの三か月間滞在、その化に従う者数を知らずというありさまであったという(円光大師行状画図・聖光上人伝)。『勅修伝翼賛』に記すように、かつて空也が三年間修行したという浄土寺(松山市鷹ノ子)に聖光は滞在して、この地方への布教につとめた。松山市正法寺は建久九年聖光を中興開山とし、同市弘願寺・長建寺・不論院にも同年に聖光を開山として建立したという説があるが明らかでない。また、久万町法然寺は、承元元年(一二〇七)一二月の創建で、法然を開山とするが、建永二年(一二○七、一〇月承元と改元)二月土佐に流されることになった法然が、実際は讃岐にとどまり、代わって弟子瑞運(蓮とも)が土佐に赴き、一二月に許されて帰洛の途中久万に留錫して念仏をひろめたのを機縁に創建したものと伝える。さらに下って永仁三年(一二九五)以前、開山を心寂(永仁三年没)とする城辺町真宝寺(浄土宗)がある。開創年代が不明なので、開山の没年以前としたわけであるが、この寺を浄土宗の本寺として御荘町の浄土宗がひろまることになる。
 つぎに少し下った時代に、同じ法然の弟子証空に始まる浄土宗西山派の流れがある。永和四年(一三七八)、西山深草流の静見(深草流の祖顕意の孫弟子)の勘録になる『法水分流記』の中から、伊予に関係のある法系を摘出すると次頁のとおりである。
 ここに一遍が登場するが、そのことについてはしばらくおき、その師聖達はもと伊予に住み、川野(河野)執行の未亡人を後妻とした妻帯僧で、顕意(道教)は継子であった。そして、一遍と同世代に蓮宿、つぎの世代に聖入・成信、さらに快善と伊予出身の西山派の僧を輩出している。これらの僧がどの寺院に住みどのような活躍(図表 0411の「『法水分流記』の中から、伊予に関係のある法系」 参照)をしたか、また聖達や顕意の影響などについては全くわからないが、西山派の念仏布教がかなり行われていたことは想像できる。

 一遍に有縁の寺院

 文永一 一年(一二七四)、三六歳であった一遍は、超一、超二をともなって熊野に向けて旅立ったが、これを桜井(現今治市)で見送った弟聖戒は、このあと内子町吉祥院(願成寺)に入った。建治元年(一二七五)熊野から帰国した一遍は、国中を勧進したというから、おそらく聖戒の止住する願成寺を訪ねたであろう、同寺の『相続縁起記』によると、この時の留錫は三日間となっている。また、これよりさき、文永八年(一二七一)秋、二旬ばかり滞在したと記されているのは、ちょうどそのころ窪寺の庵室で修行中のことであるから、ここまで足を延ばしていたものとも解せられる。このあと、一遍の生活は遊行ばかりで、ほとんど郷里に足跡をとどめていない。九州をめぐって弘安元年(一二七八)夏伊予に帰ったときと、一〇年にわたる大遊行のあと、正応元年(一二八八)伊予に帰り、帰らぬ旅に出るまでの数か月を過ごしたときとに、伊予に数少ない足跡をとどめた。
 そこで、右の二寺のほかの一遍にゆかりの寺であるが、まず、父通広を開基として建治元年(一二七五)に開創したと伝える大洲市大禅寺(現臨済宗)がある(万年山大善禅寺観音縁起)。永禄年間(一五五八―七〇)、河野一族のト星建洞が再興して臨済宗にした寺であるが、その開創の建治元年には一遍の父通広は在世しなかったから、一遍の開創としなければならない。この年一遍は熊野から帰って国中を勧進しており、河野の勢力下にあった大洲地方のことだから十分にあり得ることである。
 同様のことが松山市堀江光明寺(現浄土宗)・重信町下林浄土寺(現真言宗)についてもいえる。光明寺は、古くは北寺と言われた華厳の寺であったが、文永一〇年(一二七三)一遍が再興したと伝えられる。一遍がしばしば厳島など中国筋に渡るのに出発した堀江であるから、地縁としては条件に叶うけれど、寺伝に不確実さと矛盾があり、にわかに信ずることはできない。浄土寺は、現在真言宗醍醐寺派の寺院で、江戸時代に改宗した本山派修験道場であったが、それ以前は時宗で、文永一一年(一二七四)一遍の開創と伝える。この地はもと別府河野氏の本拠地でもあり、一遍が承久の乱に倒れた将士を供養するために建立したとする寺伝に不自然さはない。
 東予市上市の観念寺(現臨済宗)は、一般には鉄牛継印を開山とする禅宗寺院とされている。同寺の創建については、延応二年(一二四〇)説と文永年間(一二六四―七五)説があって、後者の可能性が高いことがすでに指摘されている。ところが、近年草創期の観念寺は念仏の寺であったとする説が出されている。そこでは、同寺の開基越智盛氏の妻尊阿以下定阿・智阿・弥阿と続く者はいずれも念仏者で、同寺は創建以来「不断念仏の道場」であったが、盛康の代に禅宗寺院とし、元弘二年(一三三二)中国から帰朝してまもない鉄牛を迎えて開山とした、とされている。そして、創建を文永年間とした場合、一遍上人と結びつけてみると、一遍が熊野から帰国した建治元年(一二七五)は四月二五日に文永から建治に改元されており、一遍の帰国は秋であるから少々無理があるが、河野氏同族である越智氏のことであるから、右の数代の念仏者が時衆であったことは十分考えられる。
 そのほか、戦後廃寺となった今治市石中寺は、天台宗寺門派に属する石土修験道場であったことはたしかであるが、神護景雲二年(七六八)寂の法仙を開山とすることや、奈良時代の伝承など不明のことが多い。一遍が当時この寺に住持していた親族の僧を訪ねたという伝承もあいまいさを免れない。また一遍が、康元年間(一二五六―七)に草庵を結んだ浄念寺(松野町次郎丸)を前身だとする松野町正善寺(現曹洞宗)の旧記の伝承は、康元のころ一遍は一八、九歳であって正確を欠くが、のちのこととすれば、河野氏と関係の深かった西園寺氏の勢力圏内のことでもあって理解できる。

 凝然と伊予

 凝然がいちおう学業成って伊予に帰り、ゆかりの円明寺(現今治市延命寺の前身)で、『八宗綱要』を撰述したのは文永五年(一二六八)のことである。この寺と凝然との関係は第二項に記したところであるが、祖父の弟西谷房(小千三郎)の住坊で書いたらしいことがその奥書でわかる。なお、この時代を少し下って、文永八年には予州の人了印房が、また文永一一年には伊予の三島の人善性房が、凝然の師でもある円照に受戒しており(円照上人行状)、善性房は、弘安五年ごろ凝然が管理していたとみられる戒壇院僧房に住み、のち帰郷して寺を建てたという。また、このころ実甥禅明房も戒壇院に住んでいた。
 建治二年(一二七六)に撰述した『梵網戒本疏日珠鈔』の裏文書は、おそらく同年または前年の書簡で、親族または知己の僧から凝然にあてたものと推定されるが、ある願主によって郷土に「八十一品道場」(八十一品の煩悩を放下するための修行道場)が建立されることになり、その準備と故西聖房の三年忌供養のため、凝然の帰郷を求めたものであった(同文書・二七五)。その後の八月四日付け自筆書簡によると、今秋下向したとあり、また、帰洛は来春になるかも知れないと記している(同文書・二七一)。要するに、諸種の資料から、八十一品道場完成の供養は建治二年二月一〇日に行われたようである。この八十一品道場がどこに建立されたかは不明であるが、朝倉入道のもとで工事が進められたようであるから、朝倉村の寺の境内に建立されたものであろうが、片山才一郎はそれを、建長七年(一二五五)の伊予国神社仏閣等免田注進状(国分寺文書・一七四)に見える「法燈寺」(現廃寺、地元では「ほんどうじ」と呼ぶ、「品道場」の転訛か)と推定している。
 さらに、弘安八年(一二八五)、四六歳、帰郷中の円明寺で『華厳経五十要問答』に加点したことが同書の奥書で知られ、また、正応三年(一二九〇)四月二二日の書簡で、伊予に下向中のところ、三月下旬奈良に帰ったことがわかるが、この時、自らの家系を記した『与州新居系図』を作成したものと推定される。ついで、永仁元年(一二九三、五四歳)一〇月三日、予州道前の久妙寺(現丹原町久妙寺、真言宗)で『倶舎論頌疏』を書写し終えたことが同書奥書でわかり、同四年(一二九六)には予州久米郡清水寺で『華厳心要義』を書写したと記されているが、この清水寺がどこであるかはわからない。
 また、嘉元三年(一三〇五)九月ごろ伊予小池寺に帰り、翌年五月ごろまで滞在していた甥禅明房あて凝然の書簡があるが(探玄記洞幽鈔裏文書・三九〇)、この小池寺は現朝倉村にあったものとみられる。さらに、佐礼寺楼門供養に講ぜられたが辞退したという内容の書簡にある佐礼寺は、現佐(作)礼山仙遊寺(現玉川町、五八番札所)である(同・四二一)。凝然は当時六六歳になって帰郷の旅に堪えられなくなっていた。また、嘉元三年一一月ごろの書簡に、「繁多寺の大工を替えさせ給ひ候え(へ)」とか、「繁多寺の大工、童子下向候」という言葉が見える(同・四二四・四二五)。これはおそらく現松山市畑寺の繁多寺のことであろう。その当時、この寺は京都泉涌寺の末寺で、凝然は師円照を通じて泉涌寺と関係が深く、したがってその末寺である繁多寺と交渉があったのであろう。嘉元四年三月以後の書簡によると、繁多寺の長老が上洛しているらしいから、京都から大工を招いていたものと推定される。これよりおよそ一八年前の正応元年(一二八八)、ふるさとのゆかりの寺に別れを告げるため、繁多寺に三日間参籠した一遍は、父如仏が京都にあって証空に学んでいた際に愛読した浄土三部経を繁多寺に納めた。このことは、繁多寺が浄土教にも関係のあったことを示しているが、これは繁多寺が「天台・密宗・禅・浄土四宗兼学」であったこと(予陽塵芥集)から理解される。すなわち、繁多寺が兼学を目標とする鎌倉旧仏教系の学問寺であったことを示している。鎌倉旧仏教を代表する凝念との関係が明瞭であるが、この寺を介しても凝然と一遍の交渉は認められない。
 右にあげた凝然と関係のある寺々は、円明寺がそうであったように、各宗兼学の学問寺か、華厳宗と律宗の寺であったに違いない。今治市真光寺は、白鳳元年(六七二)越智守興による開創との伝承を持つ寺であるが、鎌倉時代、越智氏出身の凝然により一時東大寺戒壇院末となり、以後河野氏一族の信仰を得ていたといわれる。また鎌倉時代後期、朝倉村満願寺も東大寺戒壇院末となっており、さらに、今治市国分寺は真言律宗の西大寺の末寺になっているから、律学の権威凝然にとっても深い有縁の寺であったろう。

『法水分流記』の中から、伊予に関係のある法系

『法水分流記』の中から、伊予に関係のある法系