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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 長門探題勢の侵入と星岡の戦い

土居・得能両氏挙兵の事情

 つぎに土居・得能両氏が皇室側に応じて挙兵するに至った原因について考察してみよう。宗家の河野氏が通有以来幕府の信任をうけて隆盛であったのに比較し、支族の土居・得能両氏の勢力はとうていこれに対抗できなかった。したがって、両氏はこの逆境を克服して、自家の繁栄をはかる機会を期待していたことであろう。この当時、全国的に惣領制の崩れる時期であったから、土居・得能両氏が宗家の河野氏に対しその統制をうけることなく、比較的自由な態度をとり得たに相違ない。ことに得能氏にあっては、その祖通俊が承久の乱に後鳥羽上皇側に味方し、最後の拠点であった風早郡高縄山城で戦死していることからすれば、北条氏に対し好感を持たず、むしろ反意を懐いていたと想像される。
 つぎに『土居氏系図』によると、通増が元弘三年(一三三三)二月に後醍醐天皇から討幕の綸旨を賜わったことを記している。これを傍証する正確な史料はないが、前述したように忽那重明が護良親王の令旨をうけている(忽那家文書・五四四)点からすれば、通増が天皇から綸旨をうけたことも、ありえないことではない。
 土居・得能両氏の挙兵の時期については、『太平記』によると「後(閏)二月四日伊予国より早馬を立てて、土居二郎、得能弥三郎宮方になりて旗を挙げ、当国の軍勢を相附けて」とあり、『正慶乱離志』―僧良覚の書いた実録で、前半を楠木合戦注文、後半を博多日記といい、前田育徳会尊経閣文庫所蔵―には「閏二月一日風聞(中略)、此外伊予国播磨国之悪党蜂起」とあるので、両氏は閏二月以前に挙兵していなければならないこととなる。
 まず忽那氏の状勢を明示した『忽那一族軍忠次第』(忽那家文書・六八一)によると、同年二月に忽那重清は挙兵の準備を完了すると、忽那島を発し伊予本土に上陸して喜多郡根来城主宇都宮貞泰を攻撃している。この史実から観察するならば、重清はおそくとも正月までに挙兵し、根来山を攻めていなければならないことになる。この戦いに土居氏の軍が参加したことは、『土居氏系図』以外に徴証はないが、久米郡を本拠とし、河野氏の権勢にとってかわろうとする土居氏がこれに関与しないで、忽那氏ばかりが独り兵を動かしたことはとうてい考えられない。したがって、周囲の情勢からすれば、この戦いに土居・忽那両氏が行動をともにしていたと解するのが妥当であろう。要するに、土居・得能氏の挙兵は元弘三年正月ころであって、おそくとも二月には出動していたのであろう。

石井浜の戦い

 この当時の伊予国における幕府方にとっても、皇室側にとっても最も注目されるのは、長門探題北条時直の存在であった。北条氏は承久の乱後、京都に六波羅探題を設置して、近畿および西国を警備するとともに、さらに元寇以来長府(現下関市)に長門探題を、博多に鎮西探題を設置して、各地域の統治と瀬戸内海の制圧とにつとめた。時直は伊予の反幕軍の蜂起に驚き、一挙にこれらを撃破しようとして、みずから伊予路に侵入することになった。
 そこで反幕府軍側でも、長門探題の来襲を予想して、その対策を講ずる必要があった。そのため、土居・忽那氏らは策戦を練った結果、軍勢を喜多郡から越智郡方面に転進させた。これは、越智郡府中城に守護宇都宮貞宗がいるので、長門探題の軍がこれと連携する可能性の存在したためであろう。土居・忽那両氏にとっては、まず府中城を占領して両者の連合を阻止することが急務であったに相違ない。そこで、閏二月一一日に府中城の攻撃がはじめられ、忽那重清・土居通増・祝安親らが戦闘に参加した(忽那家文書・三島家文書・土居氏系図)。
 いっぽう時直は探題の兵を率いて、越智郡石井浜(現今治市)に上陸しようとして、通増・安親らの要撃をうけて敗走した(三島家文書・五五〇)。石井浜は府中城の近くにあり、土居・祝両氏の軍が奮戦したところから見て、友軍である忽那・得能の両氏もおそらく参加していたであろうと推察される。
 石井浜の合戦の終了後、間もなく忽那重清・同義範らは方向を転じて喜多郡に入り、土居・得能・祝氏らの軍と協力して、再び宇都宮貞泰を根来城に攻撃した。そのため両軍の間には、翌三月一日から同月一一日におよぶ戦闘が継続した。その結果、反幕軍はついにこれを陥れ、この地域における重要な根拠地を完全に占領した(忽那一族軍忠次第・三島家文書)。なお『忽那一族軍忠次第』では、期日が二月一日からとなっているが、『忽那家文書』のなかの忽那重清軍忠状、および『三島家文書』のなかの祝安親軍忠状によって、三月のできごとであることが立証される。なおこの忽那重清軍忠状によると、この戦闘に弟の義範(下野房)が股を射られて負傷した旨を述べている。

星岡合戦とその影響

 石井浜の敗戦後の時直の動静については明確でないが、おそらく伊予への再度の襲撃の準備に余念がなかったのであろう。時直は反幕軍の潰滅を期して、土居氏の本拠を衝くことになった。時直は水居津に上陸するとともに兵糧米を整備し、西進して石井郷(現松山市)に軍を進めた。水居津の位置は明瞭でないが、おそらくいまの松山市今出あたりか、あるいは三津浜付近であろうと推察される。
 さきに、根来山城を攻略し得た土居氏ら連合軍は、この時までに軍をかえしたと見え、すでに石井郷付近には得能・忽那・祝氏らの兵が陣をとり、時直の軍をむかえた。時直は優勢を誇って付近の村落を焼き払いながら、急に襲撃を開始したので、石井郷付近に壮烈な白兵戦が繰りひろげられた(忽那一族軍忠次第、三島家文書・五五〇)。
 『正慶乱離志』のなかの「楠木合戦注文」によると、両軍の戦線は単に星岡付近ばかりではなく、久米郡平井城(現松山市)の辺まで延長していて、この城をめぐっても攻防戦が展開され、広い地域にわたる大規模な戦闘であったと想定される。
 激闘のすえ、時直の軍は連合軍の精鋭のために撃退せられ、多数の死傷者と馬鞍・兵糧米等を捨てて逃走した(正慶乱離志・忽那家文書・忽那一族軍忠次第・土居氏系図)。『正慶乱離志』によると、時直側の敗因には長門勢のなかで厚東・高津氏らの態度が明確でなく、戦いの途中で反覆するのではないかとの風聞があり、そのため時直が退却を決意するに至ったこと、長門・周防国の御家人の戦死者が百余人に及んだことをあげている。また同書に主たる戦没者の氏名を掲げていること等によって、探題勢の損害の大きかった事情が知られる。時に三月一二日のことであって、これを星岡の戦いとよぶ。
 時直は星岡戦後も、連合軍に追撃せられ、わずかに身をもって越智郡に落ちのび、便船を得て長府へ逃れ去った。やがて時直は鎌倉幕府の滅亡を聞き、筑紫に赴こうとしたが、鎮西探題北条英時がその地の豪族少弐貞経に誅せられたのを知って、やむなく貞経のもとに降伏した。そこで長門探題府を中心とする北条氏の勢力回復策は、明らかに失敗に帰した。そのうえ、星岡の戦いにおける反幕軍の勝利は、早くも京都に喧伝せられ、北条氏およびその与党の心胆を寒からしめた。
 星岡の戦いからおよそ二か月のちの五月七日に、土居・得能・忽那・祝氏らの連合軍は、長駆して讃岐国鳥坂(香川県三豊郡三野町と善通寺市の境)で幕府の与党を粉砕した(忽那一族軍忠次第、三島家文書・五五〇)。残念なのは、この時の連合軍の行動が具体的に明らかでないことである。

鎌倉幕府の滅亡と河野通盛の隠棲

 この前後、護良親王は西国に盛んに令旨を下して、各地の豪族の奮起を促した。すでに述べたように四月一日付で、忽那重明は同親王の北条氏討伐の令旨をうけている(忽那家文書・五四四)。また忽那家の惣領職を継承した重義は、当時隠岐島にあった後醍醐天皇から綸旨をうけているが、四月一九日の日付によって、天皇が隠岐から伯耆国船上山へ脱出する二〇余日前のものであることがわかる(同・五四五)。
 さらに周囲の状勢を考察すると、星岡の戦いのあったころ、九州の菊池氏が兵をあげたのをはじめとして、御家人・非御家人に限らず荘園領主・荘官あるいは悪党たちも次第に皇室に加担するものが多く、その勢威は日に隆盛に赴いた。幕府から船上山攻略の指示をうけ進発した足利高氏(のちに尊氏と書く)が、四月に丹波国で幕府を裏切り皇室側に帰順したので、形勢は一変した。高氏がただちに京都に引返して、赤松則村とともに六波羅探題を攻撃するにおよび、滞京していた河野通盛は彼らの軍と内野で激戦を交えたけれども、ついに衆寡敵せずして敗北した。この戦いに、通盛は多数の将兵をうしなった。五月七日に六波羅も陥落して、探題北条時益は戦死し、北条仲時も近江国に走ったが、一族とともに自殺した。
 この悲境のうちに、わずかに身をもって逃れた通盛は、孤影悄然として鎌倉に下った(予章記・予陽河野家譜)。これよりさき、上野国の新田義貞も兵をあげ、奥羽・関東の軍とともに鎌倉を総攻撃し、北条高時らは自殺して幕府は同月二二日に滅亡した。前途に希望をうしなった通盛は出家遁世の志をたて、建長寺の長老南山士雲について削髪した。これには異説もあるが『予章記』・『予陽河野家譜』等の記述に従っておく。彼が法号を善恵(彼自身善慧とも書く)と称して、一時俗界を離脱したことによって、河野惣領家の勢力は衰え、一時得能氏がその地位を占有することになった。
 これよりさき、後醍醐天皇は六波羅探題の陥落を聞き、五月二三日に伯耆国船上山を発して、同月三〇日に兵庫国の福厳寺に帰着した。土居・得能氏らが軍船を兵庫の沖に回漕して天皇を迎えたことは、『太平記』巻七、先帝船上に臨幸の事の条に「四国には、河野の一族土居二郎、得能弥三郎御方に参りて兵を挙け候に、(中略)四国の勢悉く土居得能に属し候間、既に大船を揃え御迎へに参るへし」とあり、『天正本太平記』に「同日暮程に、河野入道土居得能伊予の国の勢を率し、大船三百艘にて参着す」とあるので知られる。ここに書かれた河野入道とは、『善応寺本河野系図』をはじめ『越智氏系図』等の河野通種(通有の子)の子通時の箇所に、建武の際皇室に応じた旨を注記していることからすれば、父通種を指したのであろうと推察される。
 要するに、伊予国における幕府与党の惨敗は、武家政治の権威を失墜させ、ひいては瀬戸内海沿岸における時局転換の気運をつくり、さらに中央における形勢を推進させるうえに、偉大な効果をもたらしたということができる。伝統的な権勢を維持した河野氏宗家が後退したのに対し、支族の土居・得能の両氏が在地領主蜂起の雰囲気のなかに、一時的にこれに代わって政界に登場した。また物資流通の要地にあり、悪党的な性格を有した忽那・祝両氏が、郷土の舞台に活躍したことも留意すべきであろう。したがって、伊予国の反幕軍の活動は、直接的にも、間接的にも、中央における皇室側の難局打開に寄与するところ至大であった。