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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 忽那氏の制海権拡大

元弘の乱と忽那一族の進出

 忽那七島は伊予の小富士の名で知られる松山市興居島から、二海里ばかり西北に位置する群島である。古くは風早郡に含まれ、いま温泉郡に属する。その中心になるものを忽那島(現中島)といい、七島のうちで最も大きく、面積約三二平方キロメートルに近く、その東に牟須岐(現睦月)・野忽那の二島があり、また西に怒和・津和地・二神の三島が散在する。さらに津和地島の西方に柱島が存在するが、この島はいま山口県に属している。忽那氏の事績を記述した『忽那島開発記』―戦国時代末期に編集されたと推定される―によると、忽那島以下の島嶼を忽那七島と総称する。
 これらの島々を含む海域は、伊予国のなかでも最も古い歴史を有する地域のひとつである。早く奈良時代に、忽那島には法隆寺の荘倉がおかれ、平安時代には律令政府の官牧が設定された(第一編第三章第一節参照)。また平安時代の末期には長講堂領となり、開発領主忽那氏は下司の地位を確保していた。さらに鎌倉時代になると、忽那氏は鎌倉御家人の一人として大きな勢威を有するに至り、所領相続をめぐる一族の内紛を頻発させながらも、忽那七島の海域への支配を強化していった(第二編第一章第二節参照)。鎌倉末期から南北朝時代にかけての動乱の波は、そのような忽那氏や忽那島の周辺にも次第に及んでくることになった。
 元弘元年(一三三一)、元弘の乱がおこると、皇子護良親王は大和国十津川に挙兵し、ついで吉野に入り諸国に幕府討伐の令旨を伝えた。この時、忽那氏一族も土居・得能両氏らとともに幕府に反抗する準備を整えていたと思われる。忽那氏では、重義の子重清(東浦地頭職)、その弟義範(柱島地頭職、のち神浦館による)、および重清の甥重明(津和地島地頭職)らがその中心であった。
 つぎに同氏挙兵の事情を見ると、忽那島が長講堂領であり、皇室と緊密な関係にあったこと、忽那氏が幕府の論旨に従わないほどの在地勢力を形成し、悪党的な組織となっていたこと、伊予本土における土居・得能両氏の積極的な行動の刺激のあったことなどがあげられる。これに対し、現存する元弘三年(一三三三)四月一日付の護良親王の令旨(忽那家文書・五四四)をうけてたちあがったと論ずるものもあるが、忽那氏はこれより二か月まえの同年二月から三月にかけて伊予本土に渡り、幕府の与党との間に戦闘を交えているから、令旨をうける以前に旗幟を鮮明にしていたと断ずべきであろう(忽那一族軍忠次第、三島家文書・五五〇)。
 しかし、同氏の挙兵の期日については明確でないけれども、同氏の動静を「楠木合戦注文」(『正慶乱離志』のうち)の閏二月一日の条に書かれている「伊予国播磨国之悪党蜂起」の記事から考えると、元弘三年正月ころとするのが穏当であろう。
 挙兵以後の忽那氏の活動は、友軍であった土居・得能両氏のそれと密接不離であり、また連合軍を組織して同一行動をとった場合が多い。それ以降の忽那氏の活躍は前節の土居・得能両氏のそれと重複することとなるから、詳細は前節を見ていただくこととし、ここでは事績の概略を列記するにとどめることを諒承されたい。
 重清らは二月に一族を率いて喜多郡に入り、まず宇都宮貞泰を根来山城に攻撃した(忽那一族軍忠次第、忽那家文書・五四三)。ところが、長門探題北条時直が伊予国における反幕軍を撃滅しようと企図したので、忽那氏らはまず宇都宮貞宗のよる越智郡府中城を奪取し、幕軍の拠点を覆しておく必要があった。そこで、重清らは喜多郡から越智郡に転進し、閏二月一日に府中城の攻撃が開始された(忽那一族軍忠次第、三島家文書・五五〇)。やがて貞宗は城を捨てて、敗走するに至った。
 いっぽう時直は府中に近接した石井浜(現今治市)に上陸しようとしたが、反幕軍に撃退されたので、方向を転じて久米郡石井郷の土居氏の根拠地を急襲した。このため、時直の探題勢と重清をはじめ忽那一族・土居・得能・祝氏らの連合軍の間に星岡合戦が展開した(楠木合戦注文、忽那一族軍忠次第、忽那家文書・五四三、三島家文書・五五〇)が、時直は多数の死傷者を出して敗走した。

建武新政の混乱と忽那重清

 前節に述べたように、建武新政は矛盾に満ちた至難な問題をかかえ、政局は著しく不安定であった。伊予国でも早くも建武二年(一三三五)二月に、北条氏の残党であった赤橋重時が風早郡立烏帽子山城に、野本貞政・河野通任らが越智郡府中城に兵をあげて新政政府に反抗した。重清は土居・得能両氏と協力し、三月~五月を要して立烏帽子山城を攻略した。さらにすすんで大森長治の拠る周敷郡赤瀧城を奪取した(忽那一族軍忠次第、三島家文書)。
 同年一一月に、足利尊氏は鎌倉に拠り、武家政治の再興を呼号して、新政政府に反抗した。皇室では、新田義貞らに命じて、東海・東山の両道から尊氏・直義兄弟を征討させた。この時、忽那氏の惣領職を留保した重清は上洛していたので、洞院実世(東山道の征討大将軍)の配下に属して東山道に進んだ。重清の軍は東進して信濃国に入り、大井庄で武家方の小笠原・村上氏らの大軍を撃破した。この戦いに重清が奮闘した様子は「一見了」の証判のある重清軍忠状(忽那家文書・五八二)によって知ることができる。
 いっぽう、この当時の伊予国の状勢を見ると、宮方には忽那義範をはじめ土居通世(通増の弟)・重見通宗らがあって、中予地域を中心に勢威を振るっていた。これらに対し、武家方の河野通盛ならびにその与党の大森盛長らがあり、両軍の間には戦闘の絶え間がなかった。なかでも活躍の顕著であったのは忽那氏であって、建武二年(一三三五)一二月から翌年二月までの間に、武家方の一根拠地であった会原城(もと下浮穴郡、現松山市)の討伐に従事したことは、『忽那一族軍忠次第』(忽那家文書・六八一)に明記されている。忽那氏一族を統率した武将の名については明確な記録はないが、おそらく義範か、あるいは重清の子重勝であろうと推察される。
 さて東海道に向かった義貞の軍は、躍進して一時箱根に迫る勢であったにもかかわらず、脇屋義助(義貞の弟)の軍が駿河国竹ノ下で尊氏の攻撃をうけて敗れた。そのため形勢は逆転し、部下の将兵にも離反するものが多かったので、義貞はやむを得ず西帰した。尊氏は直義とともに鎌倉を出てそのあとを追い、翌延元元年(一三三六)正月にはいったん京都に入った。しかし宮方でも、奥羽および東山道に向かっていた軍が来会したために士気大いに振い、義貞・正成らは力を合わせて尊氏らの軍を集中攻撃した。
 この時、重清は再び洞院実世の軍に属して奮闘し、同月二七日に武家方の与党を賀茂河原に攻め、すすんで上北小路、河原口方面に追撃し、さらに四条河原で高橋党を撃退したことは、二月三日付の新政政府の「無相違」の証判のある重清軍忠状(忽那家文書・五八五)のなかに詳記されている。
 宮方の攻撃をうけて一敗地にまみれた尊氏は、九州へ逃走して再挙を期した。六か月ののち、尊氏・直義は権勢を回復し、九州・四国地方の将士を率いて東上した。延元元年(一三三六)五月に兵庫国湊川に楠木正成をたおし、宮方の諸将の軍を排除して京都を占領した。忽那氏にとって注目されるのは、この間に重清が急に武家方に呼応したことである。重清が尊氏に属した時期については明確でないが、当時の忽那島の状勢を忽那島関係史料のうえから類推すると、おそらくこの年五月以前であろうと思われる。
 さらに憶測すると、尊氏は西上するにあたって、九州・四国の諸豪族を勧誘して、自己の配下に入れたが、この時重清もこれに応じたのではなかろうか。事実において、尊氏が京都に入った際、重清は明らかに武家方の武将として活躍している。建武三年(一三三六)七月付の重清軍忠状(忽那家文書・六〇四)によると、五月上旬京都に到着し、二八日から翌六月五、六日にかけて軍奉行五井右衛門尉に属して奮戦し、七・九・一一・一九・二〇日の京洛の合戦、さらに晦日の只須河原の合戦に身命を賭して戦った旨を述べ、奉行所の「承了」の証判をうけている。なお重清は、その後ほどなく帰島したように観察される。

忽那重清と同義範

 前述のとおり忽那氏の勢力は、延元元年(北朝建武三=一三三六)以降、重清が武家方となったため、おのずから重清方と南朝側の義範方とに二分されるに至った。義範は重清の弟で下野法眼と称し、はじめ忽那七島の最北端にある柱島の地頭であったが、のちに居館を忽那島の神浦に構えた俊傑であった。見とおしの難しい混沌とした内乱期において、兄弟がおのおの武家方・宮方に連携しておくことは、忽那氏一族の保全をはかるうえに最良の政策であったとも考えられる。
 翌延元二年(北朝建武四=一三三七)三月に、尊氏は一族の吉良貞義を遣わして、忽那島を管理させることとした。貞義はまずこの島を占領するため代官を派遣したが、義範は土居通世の協力を得て、彼らを島外に放逐することに成功した(忽那一族軍忠次第・土居氏系図)。
 やがて、讃岐国では武家方の驍将の細川皇海(同定禅の弟)が、尊氏の命によって伊予宮方の勢力を打破しようとして東進した。伊予国武家の棟梁河野通盛部下の兵が細川氏を後援したと推察される(予章記・予陽河野家譜)。忽那氏は土居通重(通増の子)と提携して、細川・河野氏の連合軍を和気浜(現松山市)に撃破した(忽那一族軍忠次第・土居氏系図・予陽河野家譜・忽那島開発記)。
 その後も、忽那氏らの活躍は目ざましく、南下して温泉郡に入り、四月二四日に河野通里(通盛の兄)の拠った温泉郡桑原城(現松山市)を包囲して、これをおとしいれた(忽那一族軍忠次第)。さらに義範は土居通世とともに、同年四月から五月にかけて、河野氏の与党のたてこもった浮穴郡井門城(現松山市)を攻撃した。さらに注目されるのは、七月一〇日に河野通盛勢と再び和気浜に戦ったことである。この時、忽那重明(重清の従弟)が武家方に属して、義範らと干戈を交えたことは、奉行所へ差出された彼の軍忠状(忽那家文書・六二九)によって明らかである。この文書の証判は通盛のものであろうといわれる。ここで留意すべきは、『忽那一族軍忠次第』によると、この和気浜の戦いの年次を翌延元三年(北朝建武五=一三三八)のこととしているが、いちおうさきの軍忠状の日時に従っておこう。
 いっぽう、武家方であった忽那重清も活動を続けたようで、延元三年(建武五=一三三八)三月に安芸国沼田荘に蜂起した小早川相順・同景平を幕命によって襲撃した(同年三月一一日付の重清軍忠状、忽那家文書・六三七)。
 ついで義範側では土居通重の応援を得て、同年六月から一か月の戦闘を続けたのち、大森春直の拠る久米郡高井城(現松山市)を攻略した(忽那一族軍忠次第・土居氏系図)。そのほか義範らは、風早郡河野城(現北条市柚井谷)およびその周辺部の武家方を討平し、さらに転じて越智郡宮山城を攻め、進んで新居郡西条方面に出撃した。このように忽那氏は東奔西走し席あたたまるに暇のないありさまであったが、同年九月に久米郡播磨塚、および左河河原に河野氏の与党と戦闘を交えた(忽那一族軍忠次第)。
 これらの戦闘において、宮方の忽那氏一族を統率した人物がだれであったか、史料のうえでは明らかでない。この当時忽那氏のうちで、義範のほかにはこれに該当する人物を認めることができないばかりでなく、『忽那一族軍忠次第』のなかの事績が、ほとんど義範に関係したものであったこと、ことに義範が重清の逝去ののち、次第に忽那七島に勢力を伸ばした史実などから総合して、統率者は義範であろうと考える。なお忽那家の惣領職は、重清の子重勝に継承されたようであるが、『忽那家文書』の実体からすれば、真の実力者は義範と断ずべきであろう。