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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

三 河野教通と永享・嘉吉の乱

河野教通と永享の乱

 永享七年(一四三五)六月に通久の戦死のあと、河野氏の家督をついだのは、その子犬正丸であって、のちに通直・教通と称した。同年一〇月に将軍足利義教は通久の戦死に対し弔意を表し、その勲功に報いるために、豊後国臼杵荘を給与した(河野文書臼杵稲葉・一二四四)・なお、河野氏が臼杵荘を領有するについて、その当時豊後国の実力者であった大友親綱が翌八年(一四三六)二月一八日付で、教通に対して諒承した旨を通告している(明照寺文書・一二四七)。
 義教は前節に述べたように、幕府の権力を自己の掌中に集めるため独断専行し、徹底的に将軍としての権威を復活しようとした。義教にとって、つぎに克服しなければならない問題は、かねてから横暴で幕命に従わない関東管領足利持氏を打倒することであった。持氏は前将軍義持の時代に、その後継者になろうと期待していたから、義教が将軍職をつぐと、その就任を認めなかった。したがって、その後両者の対立は激しさを加え、その衝突は避けられない状勢にあった。永享四年(一四三二)九月に、義教は冨士遊覧を口実として、諸将を率いて駿河国に赴き、持氏に対する示威運動をおこない、反持氏派の結集をはかった。ここに永享の乱の遠因が存在した。
 いっぽう持氏は甲斐国守護武田信長、駿河国守護今川範政の後継者、信濃国の村上頼清らの問題について、幕府の意見と正面から衝突した。またこれらのことがらについても、持氏は関東管領上杉憲実と意見があわず、鎌倉府に内紛をまきおこすことになった。憲実はもとから幕府と親しかったので、義教は彼の権勢を通じてつねに持氏の行動を抑制しようとした。
 同一〇年(一四三八)六月に持氏の子賢王丸の元服のことから、持氏と憲実の意見が対立し、ついに持氏は武力に訴えて憲実を攻撃しようとした。そこで、憲実はいったん上野国に逃れたので、義教は持氏の横暴を責め、諸将の兵を派遣して、一挙に関東の平定をはからせた。関東の将士のなかにも、持氏に従わないものが多かったので、持氏は孤立して本拠の鎌倉を奪われ、永安寺に幽閉された。『淀稲葉文書』に掲げられた同一一年(一四三九)閏正月二四日付の飯尾貞連(幕府奉行人)から河野氏にあてられた奉書によると、関東の情勢によって美濃国に待機して指令をうけるよう要望している(同文書・一二五六)。これによって、教通も永享の乱に動員されて出征していたことが知られる。
 永享の乱が鎮定されたので、憲実は幕府に持氏の助命を嘆願した。しかし義教はこれを許さなかったばかりでなく、かえって持氏を攻め滅ぼすことを強要した。憲実は同年二月に、持氏を永安寺に包囲し、ついに自害させるに至った。

南朝残党の討伐に参加

 これよりさき、正長元年(一四二八)七月に、称光天皇が二八歳でなくなり、持明院統の後花園天皇(崇光天皇の孫)が継承すると、南朝の残党は幕府の措置に憤慨し、伊勢国の北畠氏と提携して兵をあげた。義教はこの好機を利用し、南朝の皇統を絶って禍根を除こうとした。後亀山天皇の皇子小倉宮泰成親王―皇位を要望し後花園天皇のライバルであった―の与党を討伐して、宮およびその皇子を僧籍に入れ、後村上天皇の孫相応院宮を謀叛の疑いありとして殺害し、同じ孫の護正院世明王の子二人を相国寺・鹿苑院の侍童としたのも、みなその現われであった。
 義教の弟に大覚寺義昭があり、かつて将軍職の継承について兄とはげしく争ったが、それ以来両者の間は不和であった。義昭は機を見て義教を排斥しようと考えていたから、ひそかに説成親王(後村上天皇の皇子)の子円満院円胤(あるいは円悟ともいう)と結んで現政権の打倒の計画をめぐらした。幕府がこの間の事情を察知したので、義昭は身の危険を感じ、円胤とともに大和国の豪族越智維通のもとに赴き、挙兵を促した。維通は同地の箸尾氏および旧宮方の与党と結んで兵をあげ、一時その勢力ははなはだ強大であった。
 義教は永享九年(一四三七)正月に、一色義貫・土岐持頼らの諸将を遣わして、叛徒を討伐させた(看聞日記・大乗院日記目録)。諸将は義昭を同国天川に攻め、翌一〇年八月に維通らの拠った多武峰を占領して、その残党を追うことに成功した(看聞日記・管見記・東寺執行日記)。翌一一年(一四三九)三月に幕軍は大和国吉野山を捜索して、維通を捕え殺害した(大乗院日記目録)。この時、義昭の行方はわからなかったが、のちになって薩摩国にのがれ去ったことが知られた。義昭・維通らの反乱にあたって、同月に河野教通も動員され、幕命に従い吉野に向かって進発した(長州河野文書・一二五八)。教通あての飯尾貞泰・同為種連署の室町幕府奉行人奉書によると、現地に結集した諸国の軍勢の間で喧嘩口論があり、不慮の災禍がおこる危険性があるから、厳重に注意すべきことを命じている。また飯尾為種・同上連連署の教通あての奉書によると、吉野発向については讃岐国の細川成之と協議すべき旨を指令している。なお教通は翌一二年(一四四〇)八月に、義教から近江国馬淵荘北方を給与されているが(長州河野文書・一二六二)、おそらく義昭・維通ら与党の反乱の平定によって賞与されたのであろう。

嘉吉の乱における教通の播磨出向

 相つぐ永享年間の事変によって、関東および大和地域における将軍の統制力の強化に成功した義教は、播磨・美作・備前の三国の守護赤松満祐の権勢を、同氏の内紛に乗じて徹底的に削減しようと企てた。ところが、これを察知した満祐が、機先を制して将軍を抹殺し、禍根を絶とうとした。満祐は嘉吉元年(一四四一)六月二四日に、関東平定を賀する祝宴を京都の自宅で開き、義教をはじめ諸将を招待したが、宴たけなわのなかで、にわかに義教を殺害した。諸将は狼狽のすえ、おのおの自邸に逃げ帰ったばかりで、満祐の責任を追求しようとするものもなかった(看聞日記・管見記・蔭涼軒日録・建内記)。
 そこで満祐は京都の屋敷を焼き払い、一族とともに播磨国に引きあげ、足利直冬(尊氏の弟直義の養子)の孫義尊を奉じて京都に攻め上ろうとした(赤松記・建内記)。この時、山名持豊・細川持之・河野教通らは幕命によって、丹波・但馬国から播磨国に下って、満祐の軍勢を破った(建内記・東寺執行日記)。九月一〇日に諸将の包囲攻撃をうけた満祐は、ついに同国の木山城(城山)で自殺したので、この反乱も鎮定される見込みもついた。教通はさらに幕府から讃岐国の細川成之と協議して、同国広山に拠る赤松氏の残党を殲滅するよう指令をうけ(長州河野文書・一二六八)、広山陥落ののちも同地の戦後処理に時間をかけるよう注意されている(同文書・一二六九)。
 このように教通は永享の乱に、また越智維通の反乱に、あるいは嘉吉の乱に幕命を奉じて、征討軍に参加して活躍した。このころまで、河野氏は幕府の指令に応じて、中央政界に活躍する能力を有していた。南北朝の合一(一三九二年)により、従来南朝側であった忽那・村上・土居・得能の諸氏をその配下に入れ、外は細川氏との和睦を保ちながら、いちおう守護大名としての体制を整えていた時期と見ることができる。