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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 年貢輸送と梶取

商業の発達

 前節では、南北朝の動乱を経て室町時代に至って、荘園の経営が次第に困難になり、なかには消滅・解体の運命をたどる荘園も出てきたことを見てきたが、このような状況は、別の面で社会のなかに新しい要素を生み出した。それは、商業や貨幣の流通がいっそう発達したことである。これまで商業は、京都等の一部の大都市を例外として、荘園制の束縛のなかで、細々と続けられているにすぎなかったが、ここにきてひとつひとつの荘園の枠を越えて、広範囲に展開されることになった。そして、このことは、当然ながら物資の流通の活発な展開と密接に関連している。特に伊予国をはじめとする瀬戸内海周辺部では、水運による物資の輸送が頻繁に行われるようになるのである。
 南北朝・室町期の伊予国で、最も広範囲に流通し最も活発に取引きされた商品は、何といっても塩である。弓削島を中心とする瀬戸内海の島々で多量の塩が生産されたことはすでに見てきたとおりであるが、これらが商品塩として重要な役割を果たすことになった。そこで、ここでは、弓削島産の塩を中心にして、その商品化のありさまや、瀬戸内海における水運の状況等を見ていくことにする。そのためには、まだ荘園制が全盛であった鎌倉時代にまで溯り、この時代における塩の流通の状況を見てみることから始めなければならない。

梶取

 鎌倉時代にも、弓削島荘からは大量の塩が輸送された。しかし、それはまだ商品化されていない年貢塩で、大部分は京都の荘園領主のもとに届けられた。
 鎌倉期の弓削島荘が負担した年貢塩の額は、記録が完全に残っているわけではないから、必ずしも正確ではないばかりでなく、年による変動も少なくないが、年間最低七四石から最高二七八石に及ぶ。したがって、ほぼ一〇〇~二〇〇石の塩が毎年弓削島から京都へ送られていたと考えてさしつかえないであろう。そして、そのような年貢塩の輸送に従事したのが、梶取と呼ばれる人々である。梶取とは読んで字の如く、ある種の操船技術者をさす言葉であるが、鎌倉時代の弓削島荘には、そのような技術者が特別にいたわけではなく、ほとんどは百姓農民が兼ねたものであった。弓削島荘の農民は、二〇余名の名主級の上層農民と、それ以外の多数の作人級の中下層農民とからなるが、主として前者が梶取の役をもつとめた。たとえば、彼らの姿は、つぎのような形で史料上に登場してくる(東寺百合文書・二七七)。

運上

 弓削島領家御方御年貢送文事
 合
一大俵塩玖(九)拾(十)玖俵
 除車力玖俵
 正塩玖拾俵三分一加定
右、付梶取成正、運上如件
建治三年九月十三日 公文沙弥     (花押)
              預所法橋(定円)(花押)

 これによると建治三年(一二七七)九月に、弓削島荘の荘官である公文と預所は、百姓成正を梶取とする船に積んで、大俵(一俵は五斗)九九俵の塩を京都に向けて積み出した。文中の「除車力玖(九)俵」とは、途中京都の南郊鳥羽で車に積みかえる際、陸上輸送を担当する「鳥羽の車力」に支払う運賃である。したがって実際に東寺の手許に届いた塩の額は車力に支払った九俵を除いた九〇俵(四五石)ということになる。
 梶取としてこの運送に従事した成正(成正というのは、実際には本名ではなくて、彼が保有している名田の名である)は、前に述べた二〇余名の名主級百姓の一人である。弓削島荘では文治五年(一一八九)に田畠の検注が行われ、そこで検出された田畠の面積が鎌倉時代を通じて基本的な面積とされたが、その際の作畠検注取帳によると(東寺百合文書・一一三)、成正は、四反の畠地を有していたことがわかる(田地の面積は不明であるが、弓削島全体の田地面積が三町三反であったことを考えれば、ほんのごくわずかであったであろう)。この四反という面積は、この時確定された二二名の名主級百姓のなかでは下位に属する数値である。いずれにせよ、鎌倉時代の弓削島荘の年貢塩は、このような名主級百姓が梶取として乗りくんだ船で都まで運ばれた。

渡辺関と淀の魚市

 彼らは弓削島を出て、瀬戸内海を東に向けて航行し、備讃瀬戸をぬけ、播磨灘を通過し、そして大坂湾にはいったはずであるが、その間どのようなコースをとり、どのようなところに寄港したかといった航海の詳細については明らかではない。ただ摂津国兵庫(現神戸市)で東大寺が関銭の徴収を始めた延慶元年(一三〇八)以降は、おそらく同関に寄港したことであろうし、大坂湾から淀川に入る川口に設けられた渡辺関に立寄ったことも知られる。渡辺関では、弓削島塩をめぐってひとつのトラブルが生じたことがある。すなわち徳治二年(一三〇七)、本来関銭を徴収されないはずの弓削島の年貢塩に、渡辺関の沙汰人が関銭を課したのである。おそらく、沙汰人が年貢塩を「売買物」(商品)であると誤認したためであろう。東寺はさっそく弓削島塩は「不売買物」(非商品)であることを申し入れてことなきをえたが、このようなトラブルが発生する背景には、鎌倉末期にはすでに塩の商品化が進み、商品塩を年貢塩と偽って関銭を免れようとする船があったのであろう。
 渡辺関をすぎてさらに淀川を溯ると、まもなく淀に到着する。ここは、平安時代以来、大規模な魚市の置かれたところであり、瀬戸内海の海産物の多くはここで取引された。弓削島塩の場合も、京都へ運ばれる前にここで換金される場合も少なくなかった。たとえば正応五年(一二九二)、弓削島塩を扱う問丸が東寺にやってきて、つぎのような話をした(東寺百合文書・三二六)。すなわち、正月一〇日ころ弓削島から一九〇俵の年貢塩が淀に届いたので、これを備後弥源次が扱った。弥源次は、それを一俵二百文で京都七条坊門の塩屋商人に売った。ところがこの塩屋商人は、二、三日後に同じ塩を一俵四百文でほかへ売却したというのである。弓削島塩の扱われ方を知る話として興味深いと同時に、鎌倉末期における淀魚市の活発な商取引き、さらには塩の商品としての重要性をうかがい知ることができる。
 淀で換金されなかった塩は、船でさらに上流の鳥羽まで運ばれ、ここで陸あげされる。そして、これ以後は、前述した鳥羽の車力によって陸上輸送されることになる。鳥羽の車力には当然運賃を支払わなければならなかったが、それは前掲の史料にも示されているように、運送量の約一割というのが相場であった。こうして、鳥羽の車力によって京都へ運び込まれて、弓削島塩の長い旅は終わりをつげる。

海難と海賊

 この間、いったいどのくらいの日数を要したであろうか。文永一一年(一二七四)に平延永を梶取として運送された塩は、七月二五日に積込まれて、八月二七日に東寺供僧の手許に届いている(東寺百合文書・二二三)。これによると約一か月の船旅であったことになる。当然のことながら、運送に従事する梶取たちにとって、この一か月の船旅は決して容易なものではなかった。この航海の途中彼らが最も恐れたものは、海難と海賊であった。海賊については、次章で詳述することにしてここでは海難についてみると、彼らがしばしば海難にあった理由の一つとして、塩の積出し時期との関係を指摘することができよう。『東寺百合文書』のなかに残されている年貢送進状を月別に整理してみると、ほぼつぎのようになる。

一月…○ 二月…二 三月…○ 四月…○ 五月…○ 六月…○ 七月…二 八月…三 九月…五 十月…三 十一月…一 十二月…四

 もちろん、年貢送進状のすべてが残されているわけではないので完全な手がかりとはなりえないが、それでも年貢の積出しが、七月から一二月にかけての秋・冬に集中する傾向があることは指摘できよう。おそらくこれは、気候的に製塩に適した春・夏に焼き出された塩が、秋・冬になって集中的に積出されるという事情によるものであろう。しかし、このことが、台風や季節風によって必要以上に彼らの航海を危険ならしめ、場合によっては海難に遭遇することにもなる原因をつくったことはまちがいない。
 ある塩年貢の運送関係者は、みずからが遭遇した海難の状況について、つぎのように述べている(東寺百合文書・四九九)。百余艘の船が、播磨灘の沖合を航行している時、突然の大風にあい、多くの船は遭難して積荷の塩をぬらしてしまった。自分の船も難破するところであったが、大師三宝のはからいであろうか、かろうじて破損を免れ、百余俵の積荷の塩のうち、一二俵をぬらすにとどまった。であるからこの一二俵の損失分については、何とか免除してほしいというのである。これなどは、一二俵の塩の損失ですんだわけで、ある意味では幸運な方であったであろう。おそらくは、記録に表われない、もっと悲劇的な海難が数多くあったであろうことは、想像にかたくないところである。
 このように頻発する海難の理由のひとつとして、あるいは水運に慣れない百姓が梶取として船に乗りこんだことも指摘できるかもしれない。そのようなことへの反省があったのであろうか、鎌倉時代の後期になると、次第に梶取をつとめる百姓が固定化されてくる傾向にある。わずかに残された送進状から見る限り、弘安年間(一二七八~一二八八)以前には二度にわたって梶取をつとめた百姓はひとりもなかったのに対して、弘安一〇年(一二八七)以降同一人物が何度も梶取をつとめる例が見られるようになった。たとえば弘安一〇年に大俵二四五俵の塩を運んだ宗弘は、その後正応三年(一二九〇)・同四年・永仁二年(一二九四)の各年にも梶取をつとめていることが知られる。このことは、梶取の職務が特定の百姓に次第に固定化しつつある傾向を示しているといえよう。別の面から見るならば、年貢運送者の専業化が進んでいるわけである。このようにして、鎌倉時代の弓削島荘に成立していた百姓=梶取による年貢輸送の体制は、その末期から次第に変貌をとげはじめる。そして、このような専業化した梶取のなかから、まもなく水運の専門家としての船頭が登場してくることになる。