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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 南予の戦雲

西園寺・宇都宮両氏の性格

 戦国期の南予には、喜多郡に宇都宮氏、宇和郡に西園寺氏という二大勢力があり、たがいに対立・抗争を続けていた。宇都宮・西園寺両氏の存在形態は、基本的には国人であろうが、その動向からすると、単なる国人というだけではとらえられない側面もある。永禄六年(一五六三)の「光源院(足利義輝)殿御代当参衆幷足軽以下衆覚」に「外様衆大名在国衆」として宇都宮遠江守(豊綱)、河野左京大夫通宣の名が見え、幕府からみれば、河野・宇都宮両氏は大名とみなされている。いっぽう西園寺氏(松葉実充)は、足利義輝の将軍就任(天文一五年一二月二〇日)のとき、宇都宮氏・土佐一条氏(房基か)らとともに太刀一腰、馬一疋を献じて新将軍を祝賀し(室町殿物語巻二)、また足利義昭の将軍就任の際(永禄一一年一〇月一八日)にも、伊予西園寺氏はさっそく、土佐一条氏(兼定)、甲斐の武田信玄、武相を中心に関東に威を振るう北条氏政、越後の長尾輝虎(上杉謙信)らとともに太刀一腰、馬一疋を祝儀のため進上したという(室町殿日記)。
 このように宇都宮・西園寺両氏は、河野氏と同様、室町幕府が滅亡するまで中央とのつながりを保ち、それぞれほぼ一郡を勢力圏とする小規模な戦国大名的性格をも有していたとみられる。『長元物語』は「西園寺・宇都宮・御庄・川原淵・北ノ川、この五人は往古より大身」と記し、つぎにその外の国侍二一人をあげるが、西園寺・宇都宮両氏と御荘・川原淵・北ノ川の諸氏とを同列に扱うことは問題である。西園寺・宇都宮両氏は、ほかの国人(国侍)とは別格であろう。とくに西園寺氏の場合をみると、宇和盆地の久枝・三善・上甲・多田・野村宇都宮氏等の直臣団を中核に、宇和郡の他地域の国侍(国人)を外様衆として組織したものと思われ、いわば山間部に割拠する国侍の盟主的存在であった。ほかの戦国大名のように家臣に対して本領安堵・知行宛行・軍役賦課・偏諱授与等を実施した事例に乏しい。その具体相については、本章第二節にゆずり、ここでは、南予における戦国期の軍事状勢を主として叙述してみよう。

遠交近攻策

 南予(『長元物語』などは西予とする)に並び立った宇都宮・西園寺両氏は、土佐長宗我部氏が伊予に進出する以前においては、たがいに遠方の諸侯と同盟し、対抗した。いわゆる遠交近攻策である。戦国期の南予の軍事状勢は第一段階として、中国地方の大内氏が存続した時期、つぎに大内氏滅亡後土佐一条氏が存続した時期と二段階に分けられる。
 天文元年(一五三二)七月、大友義鑑は、安芸の熊谷民部少輔に書状を送ったが、このなかで大内氏討伐のため、豊前・筑前への発向の決意をのべ、武田・尼子両氏との提携からさらに海上警固を河野通直・宇都宮・村上宮内大輔に依頼している(熊谷家文書・一六六五)。そうして同年末と思われる義鑑の三崎安芸守(綱範)充ての書状にも、宇和表の干戈、豊前・筑前への発向、河野・宇都宮両氏の協力、佐田岬の突端三崎に蟠居する三崎水軍への兵船派遣依頼などが見え(児玉韞採集文書)、このころの軍事情勢がうかがわれて興味深い。このようにこの時期の宇都宮氏は豊後大友、河野氏と結び、宇和西園寺氏より優位に立ったと考えられる。なおこのころの土佐一条氏と宇都宮氏との関係は、あまり明らかでないが、土佐の一条房基の次男が大内義隆の養嗣子(晴持。足利義晴の偏諱拝領)となっていたので(大内義隆記・中国治乱記)、大内・土佐一条両氏の同盟からみて両者は敵対関係にあったのであろう。
 大内氏の滅亡後、毛利氏が台頭してくると、南予をめぐる情勢も一変した。それは、宇都宮・西園寺両氏の争いに、河野・毛利・大友・一条等の近隣の有力諸大名が介入して宇和郡に進駐したからである。とくに伊予中央部のみを活動範囲としていた河野氏が、安芸の毛利氏の援助をえたとはいえ、はじめて土佐一条氏の伊予侵攻を阻止し、宇都宮氏を救援するため、喜多郡、さらに宇和郡から土佐幡多郡にまで軍を進めたことはかつてなかったことである。
 さて、永禄元年(一五五八)土佐の一条兼定は、宇都宮元綱(豊綱か)の女をめとったが(古城伝承記)、同七年、兼定はその妻の宇都宮氏を離別、新たに豊後の大友宗麟の女をめとったという(大友記)。永禄七年(一五六四)に宇都宮氏と土佐一条氏とが絶縁したというのは、後述するように疑問であるが、おそくとも大友宗麟が、女婿の一条兼定を援けて宇和郡に侵攻した元亀三年(一五七二)以前であろう。永禄年間のすえには、宇都宮氏は孤立化して勢力衰退してしまい、長宗我部氏が伊予に侵攻するまでに、家臣の菅田直之(浮穴郡の国人大野氏の一族)に実権を奪われたといわれる。西園寺氏は、旧来の関係から河野氏と好みを通じ、宇都宮氏を圧迫、土佐一条と対峙したのである。つぎに具体的に近隣諸大名の宇和侵略について述べよう。

土佐一条氏の戦略

 応仁の乱中、前関白一条教房が、土佐国高岡郡の国人大平氏の支援のもとに、その家領である幡多荘に下向し、中村に御所(館)を構えて土着した。教房の子房家の流れを土佐一条氏というが、房家の時代に幡多郡から東の高岡郡に進出しはじめ、武家的な性格を帯びて公家大名になったとみられる。房家の子房冬は、伏見宮邦高親王の女玉姫をめとり(二水記・伏見宮御系譜)、いまだ公家的性格を残していたが、つぎの房基は、天文一三年(一五四四)ころ、豊後大友氏(義鑑)の娘をめとり、いちだんと武家的要素を加えた。同一五年には、津野・大平氏を降して高岡郡を平定した。さらにその余勢をかって同年、一条氏は津野元高を遣わして郡内(喜多郡)に侵入させた(土佐国編年紀事略)。天文年間には、これ以外に伊予に対し、目立った動きを示していないが、同盟関係のあった大内氏の滅亡後、永禄年間に入ると、同七年(一五六四)豊後の大友宗麟の娘が一条兼定に嫁し(大友記)、一条氏は父子二代にわたって大友氏との姻戚関係を結んだ。典型的な政略結婚であるが、この関係を後楯に一条氏は、南予に侵攻した。永禄八年(一五六五)ころ長宗我部元親は、一条兼定の依頼をうけて、家臣の江村親俊を三間郷(三間郡とする書もあるが、誤記)に侵攻させた(異本元親記)。『清良記』によると、前年に三間郷の国人らが一条氏から自立を図ったので一条氏から侵略されることになったという。また『土佐国編年紀事略』(巻五)もこのころ伊予国美間郷(三間郷)は、一条兼定の領分としている。史料的には検討の余地があるが、事実であった可能性も大きい。
 土佐国幡多郡から伊予への侵入路として最も重要な下山口から河原淵を経て、三間方面に至る道路を確保するためであろうか、一条氏は、房家の子教行(『清良記』は東小路法行とする)の男教忠を河原淵の領主であった河後森城主政忠(庄林時忠の末孫、渡辺氏とする説もある)の養子としたという(清良記・宇和旧記)。たしかに教行・教忠父子は、天文一八年(一五四九)にともに従五位下に叙せられており(歴名土代)、公家的性格をもっていた。教忠が河原淵殿へ入嗣した時期は、明らかではないが、永禄三年(一五六〇)一一月に黒土郷鑰山村(現在の日吉村鍵山)の山王宮を再建した「大旦那藤原朝臣兵部卿教忠」が土佐一条氏一門の教行の男教忠と同一人物であるとすると、永禄初年のころであろうか。このように一条氏出身の者が、予土国境の交通の要地に位置していたので、一条軍が侵攻するたびに日和見をきめこんで一条軍と戦わなかった。そのために永禄九年(一五六六)正月、それに憤激した三間郷の今城・土居・河野(中野殿)・竹林院らの国人は、教忠の処罰を西園寺氏に要求したという(清良記)。しかし教忠の処分は、行われなかったといわれる。たしかに長宗我部元親から西園寺氏の執事(右筆)久枝宇都宮又左衛門(興綱)に充てた書状にも「教忠の義、当分指し放たれ難き儀に候」とあり(宇和旧記・一九九四)、教忠の処分が容易にできなかったことがうかがわれる。
 土佐一条氏の西園寺氏への戦略は、これのみにとどまらない。幡多郡宿毛からの侵入路に位置する御荘氏は、本来、青蓮院門跡の坊官(谷氏)が南北朝末期ごろ同門跡領の御荘(観自在寺荘)に土着して武士化(国人化)したものである(前述)。永正~天文年間ごろに土佐一条氏の家司勧修寺流町(町口)氏の顕賢が御荘氏の名跡を嗣いでいる(尊卑分脈・諸家知譜拙記・断絶諸家略伝)。また勧修寺流御荘氏三代目の顕古は、実は町顕量の末子で、天文一七年(一五四八)に従五位下に叙任されているが(歴名土代)、おそらく土佐一条氏の推挙によったのであろう。さらに顕古の母は、権大納言一条房家の女といわれ(尊卑分脈)、一条氏との緊密な関係がうかがわれる。
 また、一条氏は、宇和海に臨む法華津浦(吉田町)の領主、清原姓法華津氏と親密な関係を結び、それに幡多郡の海辺部中村・宿毛方面に所領を与えている(長宗我部地検帳)。法華津氏は、豊後水道・宇和海・宿毛湾を舞台に活動する海賊衆であり、当初は土佐一条氏、のち豊後大友氏と深い関係を結んで、強力な水軍力をほこった。天正四年(一五七六)、法華津範延は、日振衆中に掟書を発し(清家文書・二一九四)、出入する船の商売物・寄物・流れ物の報告などを義務づけており、宇和海の島嶼の海賊衆を統制して配下にしていたことがわかる。このように一条氏は、法華津氏と同盟を結び、宇和侵攻のための海上の道を握った。

鳥坂峠の戦い

 永禄一〇年(一五六七)に入ると、河野氏は喜多郡上須戒(現大洲市)の城戸氏一族に五か所の所領安堵を行い(大野芳夫氏所蔵文書・一九七二)、宇都宮氏の勢力圏内に楔を打ち込んだ。そうしておいて、河野氏は、同年九月末、来島通康・平岡房実の両宿老を宇和郡内深く進攻させた。河野軍は、土佐一条軍の侵攻を阻止するため、土佐の通路口(三間から下山口にかけての地域)に一城を築き、土佐勢の来攻に備えた。これに対し、一条氏は、長宗我部元親に下山境目に進発を依頼した(土佐国編年紀事略)。同年一〇月二日、病をおして出陣した河野方の主将来島通康は、養生のため道後に帰り、そのまま快復することなく死去した(乃美文書正写・一九九七、来島氏系譜によると一〇月二三日)。
 越えて永禄一一年(一五六八)正月、「高島」において土佐一条軍と道後衆(河野軍)とが懸合々戦をした。一条氏はこのときの間崎(中村市内間崎か)孫次郎の忠節を賞した(間崎文書・一〇〇八)。高島とは、幡多郡竹島(中村市。『清良記』に土居清良の一七歳のときの寄寓地を高島とする)とする説もあるが、同年と推定される三月一一日の小早川隆景書状(乃美文書正写・二〇二六)に「一条殿高島へ差出され」とあるので、幡多郡中村付近であったとは考えにくい。前年の七月にも、宇和郡明間(現宇和町)で合戦が行われ、一条兼定の執事(奉行人)康政の奉書によって明間兵部尉(兵頭氏か)は、一〇貫文の地を与えられており(宇和旧記・一九九三)、西園寺氏の本拠地(黒瀬城)周辺で戦いがあったらしい。高島とは、あるいは、宇和島の沖合に浮かぶ小島の高島であったかもしれない。
 この年二月、戦国期の南予における最大の合戦が、喜多郡と宇和郡の境界付近の多田・鳥坂峰で行われた。河野氏と宇都宮氏は、連携する時期もあったが、このころは対立関係にあった。河野氏が宇都宮氏討伐に乗り出すと、土佐一条氏は、宇都宮氏との縁故(姻戚関係)によって伊予に出兵、宇都宮氏を救援した。河野氏は、これに対して中国地方の有力大名毛利氏に助けを求めた。これによって毛利元就は小早川隆景を大将として三備・芸・防・長の大軍を伊予に送った(萩藩閥閲録・二〇五八)。西園寺氏は、宇和衆・三間衆とともに河野氏に味方し、多(現宇和町)に布陣し、一条軍を背後から包囲した。なお一条軍は幡多郡および高岡郡の津野氏(定勝)の軍勢から編成されていたようである(土佐国蠧簡集拾遺巻三・二〇一四)。鳥坂峰(現宇和町鳥坂峠)に誘動され、取り詰められた土佐勢は河野軍の切り崩しをはかったが、かえって大敗した。やがて、大津・八幡両城に楯籠って抵抗していた宇都宮豊綱も毛利の大軍に包囲され、ついに降参した(萩藩閥閲録・二〇五八・二〇三三)。やがて同年五月までに隆景は、勝利を収めて帰国した。この鳥坂峠の合戦に、西園寺氏(公次と記す)の軍勢に久枝興綱・摂津親安(現八幡浜市)が加わっていたことが確認できる(宇和旧記・二〇二一)。
 なお、三間の大森城主土居清良の一代記である『清良記』(巻一)は、この合戦にふれてはいるが、宇都宮氏と西園寺氏との境相論から発展した合戦として大きくはとりあげていない。ましてや、毛利軍の参戦のことには一切ふれていない。戦国期の宇和郡の軍事状勢について、『清良記』の記述が全面的には依拠しがたいことがわかる。
 鳥坂峠合戦に敗退した一条氏ではあったが、翌年一一月には、「東表」(現在地未詳)の合戦に勝ち、長山伯耆守に「切敷」(所在地不詳)のうち六町を与えた(土佐国蠧簡集拾遺巻三・二〇七七)。長山氏は、甲之森城(現城川町)主で、北之川殿越智氏の家老といわれる。北之川氏そのものが一条氏の陣営に入ったのか、長山氏が北之川から離反して一条方になったのか、判明しないが、ともかく一条氏が、予土国境の交通の要地、土佐高岡郡梼原と伊予とを結ぶ交通の結節点に位置する土豪層を味方に勧誘したらしい。ついで元亀年間に入ると、一条兼定は舅の豊後大友宗麟と示し合わせて再度、伊予の宇和郡へ大攻勢をかけることになる。

豊後大友氏と伊予

 相模国大友郷(現神奈川県小田原市)を発祥の地とする大友氏は、鎌倉末期以降豊後国に移住し、やがて守護大名からそのまま戦国大名に順調に発展した伝統的豪族である。義鑑の時代に娘を土佐の一条房冬、河野通宣にそれぞれ嫁せしめ、さらに北九州に進出しようとする周防・長門の大内氏と対峙した。のち義鎮の時代にそれと和睦し、弟晴英(義長と改名)を入嗣させた。天文元年(一五三二)末、大友義鑑は、大内方の豊前・筑前への進撃にあたって、豊後水道を隔ててあい対する佐田岬の三崎氏と連絡し、その水軍力を利用して海上から大内軍を牽制しようとした(兒玉韞採用文書)。
 ついで同一九年(一五五〇)二月一〇日、家督継承をめぐる争いから事変(いわゆる二階崩れの変)が発生、大友義鑑は襲われて負傷し、まもなく死去した。義鑑のあと、大友氏の家督を嗣いだのが義鎮(のち永禄五年に入道して宗麟と号す)であった。義鑑の晩年から義鎮の家督継承後まもないころは、大内氏との抗争、二階崩れの変などのことから、大友氏は、伊予の宇和郡侵略を果たす余裕がなかった。『清良記』によると、天文一五年(一五四六)五月、七月に宇和郡日振島に押渡り、そこから海辺部各地を襲ったという。ただこれも裏づける確かな史料がない。なお、このとき豊後勢の来襲に備えて立間(吉田町)に石城が築かれ、土居氏が守備の任にあたったという。そして永禄三年(一五六〇)六月、大友方が艦船一〇〇余艘で日振島に来襲、そこから保内・高山・法華津・御荘・津島・板島等の各地へ手分けして攻撃したという。とくに臼杵乗雲(鑑速のことか)、戸次道雪(立花道雪、鑑連のことか)らが土居氏の守る石城(現吉田町)に押し寄せたがすぐ引きあげた。しかし、八月に入って大友方は七か国の人数、三万五千余騎の大軍で侵略し、土居一族は石城に籠って、大友軍の猛攻撃を防いだが、多勢に無勢、一族のほとんどが自刃して果てたという(清良記)。
 これは、『清良記』冒頭の劇的な記述であり、清良の一条氏を頼っての土佐落ちに至る前提をなす事件であるけれども、いくつかの疑問な点がある。まず、当時の状勢からいって永禄三年(一五六〇)の段階で大規模な伊予遠征が大友氏に可能であったかどうかという点である。永禄二年六月に大友義鎮は豊前・筑前・筑後の三か国守護職に補任され、それまでの豊後・肥後・肥前三か国守護職と合わせて六か国守護職を併有したが、実際、弘治~永禄年間は豊前・筑前において毛利氏と、肥前では龍造寺氏と激しい抗争を続けていた時期であり、とうてい大友氏領国の総力をあげて伊予征服をすることは不可能である。なおこのときの伊予攻撃の記述は、『清良記』以外にはなく、しかも遠征軍の大将戸次鑑連が、入道出家して道雪と称したのは、元亀二年(一五七一)のことであるから、このとき道雪といったのは疑わしい。彼は、ふつう筑前立花氏の名跡を嗣いだので立花道雪という。これらの点から『清良記』の大友勢の大攻撃の記述は検討を要する。大友氏が本格的な伊予遠征を行ったのは、元亀元年(一五七〇)二月、毛利氏と和睦したのち、大友氏の全盛時代にあたる元亀三年(一五七二)のことであった。

大友氏の宇和侵攻

 元亀三年(一五七二)四月、西園寺公広が土佐の一条兼定に挑戦したので、大友宗麟は、女婿の兼定を救援して、佐伯惟教・鶴原宗叱・深栖大蔵少輔・若林鎮興らの大友氏の水軍の主力を伊予に派遣した。そして萩森治部少輔を従えた佐伯惟教らは、長串山(松野町中串山か)に陣し、さらに西園寺氏の本拠黒瀬城を攻撃して西園寺氏を降参させ、同氏を宗麟の旗下に組み入れたという(大友家文書録)。もちろん西園寺氏が宗麟の旗下に組み入れられたというのは疑わしいが、ほかは、ほぼ信用できる。まず萩森氏を従えたのは、同氏が、宇和遠征軍の総大将佐伯惟教と深く結ばれていたからである。惟教の妹は、萩森氏(宇都宮房綱か)の妻となっていた(豊後諸氏系図)。さきに、佐田岬の三崎氏が、大友氏に属する水軍であったことを指摘しておいたが、三崎半島という豊後に近い地理的位置から、宇和の西園寺氏よりむしろ大友氏と結びつくことが多かったのではないかと思う。ましてや萩森氏は、本来は宇都宮氏の分流といわれ、その影響もあったであろう。それに対して、おそらく隣接する摂津氏などの西園寺方が、萩森氏の拠る飯森城(現保内町)を激しく攻めたてたのであろう。同年七月飯森城口で、佐伯惟教・鶴原掃部入道(淡路入道の誤りか)・若林鎮興らの被官人の多くが負傷している(大友興廃記・大友家文書録・豊後若林文書・豊後鶴原文書・二一二六~二一三二)。なおこの佐伯惟教は、弘治三年(一五五七)五月に義鎮に恨を抱いて一族を率いて豊後を退去し、伊予の西園寺公広の許に赴いて、その庇護をうけ、さらに野村殿宇都宮氏の被官となった(増補訂正編年大友史料・緒方氏由緒・耶蘇会士日本通信)。同年五月、大友氏は、佐伯惟教の逃亡先を探索し、伊予の御荘氏(三庄殿と記す)一族に対し、その方面に落ち行けば、討ち果たすように依頼している(大分県史料一一巻所収工藤文書)。御荘氏については、前述したので詳細は省略するが、同氏は法華津氏などと同様、西園寺氏との結びつきは弱く、むしろ土佐一条氏、豊後大友氏と親しい関係にあり、かなり独立的な存在であったのであろう。このときの大友氏奉行人の連署状のなかにも「此節御入魂を以って」とあり、大友氏との関係の浅からぬものを感じさせる。やがて惟教は豊後に帰国して大友氏に再び仕え、伊予野村に残った惟教の子孫(惟実・惟照)は、野村殿宇都宮氏にかわって白木城主となり、白木、あるいは緒方氏と称し、西園寺氏の直臣となった(宇和旧記・野村郷土誌)。

長宗我部元親の南予平定

 長宗我部氏は土佐国長岡郡宗部郷を本拠に発展し、室町期には、土佐国の守護細川氏の被官となり、やがて戦国期には土佐国を平定し、さらに四国全土の征服をなしとげた。その過程の一齣である南予平定のさまを略述してみよう。
 天正二年(一五七四)土佐一条氏を豊後に逐った長宗我部氏は、一条氏と戦わずして無傷のまま高岡・幡多両郡を収めた。翌年舅の大友宗麟を頼って豊後に赴いていた一条兼定は、その支援のもと伊予に帰国した。一条氏の帰国にあたっては、大友氏水軍の真那井衆が活動したという。なお兼定は豊後にいる間、キリスト教徒となり、洗礼名をドム・パウロといった(ルイス・フロイス『日本史』)。彼は、土佐国境付近の南予の国人、法華津・津島・御荘らの支援をえて、幡多郡の恢復を企図し、宿毛城(長宗我部右衛門大夫が城主か)を抜いて栗本・具同両城に拠った。これに対し急遽、中村に赴いた長宗我部元親は一条軍と、渡川(四万十川)で戦い、これを潰滅させた。
 さて、翌年早々、長宗我部氏は、四国征服への道を歩みはじめた。長宗我部氏は幡多・高岡二郡の兵をもって伊予を攻めさせ、安芸・香美両郡の兵で阿波に侵攻させ、長岡・土佐・吾河三郡の兵をもって東西に備えさせたという(長元記)。同五年(一五七七)、元親は、智将の久武内蔵助(親信。親定とも記す)を南予二郡の軍代に任命し、南伊予侵略の指揮を任せた。このころ、予土国境に位置する川原淵城(河後森城)主芝一覚、西ノ川・北ノ川・魚成らの諸氏が長宗我部氏に内通し、郡内(喜多郡)の菅田(大野)直之(大津地蔵嶽城主、主家宇都宮氏にとってかわる)と提携して、西園寺氏を包囲した。この状勢に脅威を感じた河野氏は、毛利氏の援助をえて菅田直之を攻撃した。長宗我部氏も妹聟の波川玄蕃に命じて直之を救おうとしたが、玄蕃が勝手に河野軍と和睦して帰国したので、直之は孤立して討死した。同七年、元親は、征服のおくれた伊予の平定を久武内蔵助に命じ、三間表に侵攻させた。しかし、土居清良を中心とする三間衆は、これを迎えて大いに破った。天正八年(一五八〇)三月一八日の三善治部少輔充ての法華津前延の書状(阿波国徴古雑抄・二二四八)によると、久武親信をはじめ主だった者数百人を討ちとり、勝利を得たと記している。また河野通直も、土居清良に感状を与え、久武蔵人助(親信)をはじめ凶徒を討ちとり、岡本城を奪い返したことをほめている(土居甚内文書・二二三五・二二三六)。このようにして三間表からの長宗我部氏の伊予侵攻作戦は、総司令官たる久武親信の戦死によって一頓挫をきたした。
 その後、天正八年(一五八〇)~九年にかけて、長宗我部軍は、一転して北之川氏を三瀧城(城川町)に攻撃し、北之川親安を戦死させたという(元親記・土佐物語)。ただし、三瀧城落城の年次については、天正八年末~九年初とする説と一一年説(予陽河野家譜・北之川記)とがある。前者は土佐側の史料、後者は伊予側の史料である。『宇和旧記』(北之川殿之事)に収める天正一一年正月一五日の緒方藤蔵人(惟照)充ての西園寺公広書状によると、土佐勢が北之川表に来襲したとき、諸家(国侍)はこぞって長宗我部氏に内通して、謀反を企てたが、白木城に拠る緒方氏(前述)は、長宗我部軍の攻撃をよくもちこたえたという。この文言からすると、これ以前には、いまだ北之川表の西園寺方の諸将は土佐方に抵抗しており、ようやく天正一一年に至って降伏したとも考えられる。翌一二年(一五八四)八月、久武親直が伊予の軍代に任じられた(元親記)。親直は、先の岡本城合戦で戦死した親信の弟である。親直は、かつて兄親信が奪取できなかった三間表に侵攻、深田の竹林院氏(西園寺氏流)を攻略して降した。いっぽう、前年の冬、幡多郡宿毛口から侵攻した幡多郡の長宗我部軍(吉奈城主十市備後守、宿毛城主長宗我部右衛門大夫)は、御荘氏(勧修寺流、『南海通記』は御荘越前守とする)を常盤城の一城にとじ込め、翌一二年正月、これを降伏させた(金子文書・二四〇六)。やがて黒瀬城の西園寺氏も長宗我部氏に和を乞うに至った(清家文書・二四〇九)。ここに長宗我部氏の南予平定は完成したのである。

図4-4 南予をめぐる同盟・敵対関係図(1)(天文元年~同20年)

図4-4 南予をめぐる同盟・敵対関係図(1)(天文元年~同20年)


図4-5 南予をめぐる同盟・敵対関係図(2)(永禄元年~天正2年)

図4-5 南予をめぐる同盟・敵対関係図(2)(永禄元年~天正2年)


図4-6 戦国期南予における主要戦場

図4-6 戦国期南予における主要戦場