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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

三 中世城郭の終末

伊予平定軍の進攻と伊予の城郭

 鎌倉初期ころから戦国初期にかけて、伊予全国にわたって漸次形成された数百にのぼる中世城郭のうちには、戦国末期の戦乱のうちに、敵の攻撃をうけて陥落し、城としての戦力を失ったものが相当数あり、なかには城主を失って、まったく廃城となったものもあった。
 天正一一年(一五八三)、土佐長宗我部勢二万の攻撃をうけて落城した東宇和郡三瀧城(北之川殿式部大輔紀親安居城)・甲の森・鐙ヶ鼻・猿ヶ瀧・大番・白岩・白石などの諸城、同年長宗我部と通じた大野直之を伐つために、河野氏が出動を要請した安芸毛利勢一万によって陥落した喜多郡上須戒(向居)・下須戒(大陰)・鴾ヶ森などの諸城(予陽河野家譜)などその一例であろう。
 しかし伊予国所在の城郭の大部分が、開城落城の憂目にあい、やがて廃城の運命をたどるきっかけは、羽柴秀吉による四国平定の戦いであった。
 『予陽河野家譜』によれば、天正一三年七月秀吉の弟秀長を総大将とする四国征討軍のうち、伊予方面に進撃した軍勢は、小早川隆景に率いられて、新居浜・宇高の二か所に上陸し、新居郡の高尾城を攻撃した。この城には宇摩・新居の連合軍が金子元宅を総大将として立籠って防戦したがついに陥落した。この戦果の影響で高外木・横山・生子山ならびに岡崎・金子本城が開城し、「下伊予表」にも四か所の城が明け渡された(資料編二四六五~二四八二)。(いっぽう吉川元春の率いる別軍は、川之江の仏殿城を陥入れた)。小早川勢はさらに西北進して、周敷・桑村・越智郡方面に入り、剣山・獅子ヶ鼻(以上周敷郡)・鷺森・象ヶ森(以上桑村郡)・霊仙山・国分・老曽山・重茂山・鷹取・龍門・鷹ヶ森・大西・幸門・近見(以上越智郡)の諸城を陥れた。小早川勢は南進して野間郡に入り、人遠・重門・怪島(小松邑志・二四六六)・菊間・黒岩の諸城を攻略したが、さらに南進して風早郡に進入し、日高山・高穴・横山の諸城を陥れたので、和気・温泉・久米・浮穴・伊予など各郡の諸城は、この情勢をみて城を明け渡した。和気郡湊山・久米郡高井・同土居・浮穴郡大除の諸城など、この時に落去した。
 河野氏の本城である湯築城は、小早川氏の大軍の包囲するところとなったが、河野通直は隆景の降伏勧告をいれて開城した。伊予国きっての最大最強の大名であった河野氏の降伏は、宇和郡の西園寺氏、喜多郡の大野氏ら南予諸将の帰順を誘うこととなり、天正一三年(一五八五)九月には、伊予全土あげて豊臣政権下に置かれることとなった。

城割

 天正一三年閏七月六日付および八月一八日付で、羽柴秀長および羽柴秀吉から小早川隆景に宛てた書状に、「尚々予州の城々を念を入れて受取ったうえ、其方へ渡し進ぜましょう」(小早川家文書・二四七九)とか、「予州国中の諸城を受取られたか。もし滞るようなことがあれば、蜂須賀正勝と相談のうえ、此方へ申し越されたい」(同・二四八六)とあり、戦後伊予の城々の受取りを、遅滞なく入念にするよう命じている。隆景はこの指令に応じて、戦後の処理につとめたらしく、天正一三年一一月一日村上掃部頭(元吉)・同大和守(武吉)の両人に宛てた起請文のなかで、持城の務司・中途の両城を渡して、下城するよう指令し(村上文書屋代島・二四八九)、三島村上氏発祥当初の城郭から村上氏を退かせている。
 これについで、翌天正一四年三月五日には、つぎの指令を麾下の部将乃美宗勝に発して、東・中・南予の一部地域における城郭の淘汰整理、いわゆる城割を大規模に実施した(浦家文書・二四九一)。すなわち
 (前略)
一 (喜多郎)曽禰(根)、恵良(風早郡)・しらされ三か所の城は破却済みにして、道具以下当湯築城へ引き取られたい。   
一 祖母谷(喜多郡)滝之城、下須戒、これも一所につづめたい。どの城を抱え、どの城を捨てるか、考えを承って引合せ議定しよう。
一 当湯築、大津(洲)、せり(浮穴)、本尊、興居嶋、賀(鹿)嶋、来嶋、小湊、櫛籩(桑村)、壬生川の肝要な十か所の城を抱えておけば、中間の城は不要である。第一領地も無いのに、城をもちくさしにしていたのでは、役に立つまい。右の十か所も、支配領地が二万貫余でなくてはなるまい。
 (後略)
 以上文面によると、政治・軍事上の拠点となる城、それも二万貫以上の領地を支配する大きな城、一〇か所のみを残して、ほかを破却することとし、おそらくすでに落城してしまった城は、そのまま廃城とし、曽根・恵良・しらざれの三か城など、なお戦力を失っていない城は破却して、その道具を湯築城に引取るというように、既存の城の破壊整理を断行している。
 このように秀吉による四国平定を契機として、その城割策は強力に推進されて、多くの城が廃城となり、主要な少数の城に整理されるにいたった。さらにこの傾向を一層助長したのは、四国平定以降新たに伊予に就封した他国出身の諸大名による城割の強行であった。諸大名は郷村に散在する城を中心に、在地勢力を振るっていた土豪たちに対して、兵農分離を断行し、彼等の根拠とする城を破壊したうえ、彼等を城下町に集住させるか、または彼等を農民身分に編入して、村役人に任命するかなどした。
 宇和郡の場合についてみると、天正一五年六月西園寺公広は、旗下の魚成・川原淵・深田・中野などの諸城主に対し、それぞれ下城を命じ豊臣・毛利両氏に対して恭順の意をあらわしたが、八月に入ると吉川元春が来予して、西園寺領内で西園寺公広と土居清良・法華津秋延・御庄勧修寺の三部将の在城を許し、そのほかの城主三四人に対し悉く下城を命じたことは、宇和郡内における城割の前提として、大きな意味をもっていた。
 同年秋小早川隆景転封のあとをうけて、宇和・喜多・浮穴の三郡の領主として入部した戸田勝隆は、「入部之時、公広卿黒瀬ノ城ヲ明テ御開アレハ、岩成勝右ヱ門ト云者ヲ政信(勝隆)ヨリ黒瀬ノ城代ニ据、板島(宇和島)ノ城ハ、戸田与左ヱ門預リ入城シ、其外郷々領主尽ク改易シ城ヲ割、公広卿ヲ謀討ント云々」(清良記当時聞書追攷)など、徹底した中小城主土豪の潰滅策をとって、彼等の城を破壊し、庄屋などの農民身分におとした。

中世城郭の廃絶

 秀吉の四国平定、小早川隆景の伊予平定を契機とした伊予の中世城郭の整理統合廃絶は、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦い後急速に進展した。この年一二月当時正木(松前)城主であった加藤嘉明と板島城主であった藤堂高虎とが、関ヶ原役の戦功によって、それぞれ一四万四百石宛の加増をうけた際、新増封地配分についての協約書(清良記當時聞書追攷)を交換したが、そのなかに

 一 越智郡之内国府之城、風早郡之内鹿島、野間郡之内来島両城並城付之町之儀、何之郷組たりという共、村組に混ぜずニッ割に申付ける事。

とあるところからみると、天正一三年小早川氏が整理して一〇城につづめていた東・中予地域所在の城は、さらに松前・国府・来島・鹿島の四城くらいに整理されているように思われる。
 慶長七年には大根城として、天守閣を伴った近世城郭の建設がはじまり、正月加藤嘉明が松山城を、六月藤堂高虎が今治城を、それぞれ建築に着手する。両城ともそれぞれの領内の政治経済上の核心となる地点、平田広野の連なる中の丘陵・海浜の地形を選んで、まったく新規な縄張りで構築されたもので、石垣・櫓・門などの築城資材を、付近の旧城湯築・正木(松山城へ)、国府(今治城へ)などからとりよせ、それらを利用して領内の中世城郭の集大成という形でなされた。なお大根城の建設は、旧城を再興・拡張・補修することによっても推進された。慶長元年から六年にかけて、藤堂高虎によって修築された板島城、同一三年以降脇坂安治によって再興整理された大津(洲)城などその一例であろう。このように漸次城郭としての軍事的政治的価値を逓減しつつあった群小散在の中世城郭は、大根城の出現を契機としてごく少数の近世大城郭に吸収集中されて、廃城古城となり果てた。元和元年(一六一五)の一国一城令の公布は、伊予における中世城郭の廃絶を決定的なものにした。

図4-11 伊予における主要中世城郭所在図

図4-11 伊予における主要中世城郭所在図