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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 文芸の発達

中世前期文芸の概観

 中世は、武家の時代ともいわれているが、また新仏教の興隆期でもあった。中世前期(鎌倉・南北朝時代)において、伊予の豪族河野氏の台頭や元寇の戦役での武勲は、『平家物語』や『八幡愚童記』などに、脇屋義助の伊予下向や、大森彦七と楠木正成の亡霊との葛藤などは、『太平記』に、文学素材として武家の活躍ぶりが生かされている。なお、『歯長寺縁起』のように戦記に和歌を挿入して潤いをもたせたものもある。
 仏教界においては、屈指の逸材を輩出した。学僧凝然と時宗の開祖一遍であり、同時期に新しい分野を開拓した。凝然は、越智郡高橋郷(現在の今治市高橋か別名?)の出自、その著『八宗綱要』は、わが国の体系的仏教教学書の先駆として、また各派僧侶の入門書として広く愛読された。本書は、二九歳のときの著述であり、その後、律と華厳との著述最も多く、法相・浄土・密教にも及び、著作目録には九八部とも一二七部ともいわれ、膨大な数に及んでおり、東大寺所蔵の肖像画中に「凝然上人像」があることによっても、尊敬されたことが知られよう。
 一遍は、伊予の豪族河野通信の孫、河野通広の次男として、道後宝厳寺通広館で誕生したと伝え、元寇の役で勲功をたてた河野通有は、一遍の従兄の子にあたり、凝然(越智家)とは同族で、一遍が一年前に生まれていた。三五歳以後一五年にわたって、衆生済度に全生命を堵し、全国を遊行し、仏教諸宗中最も平易な教義を説き(語録)、踊念仏を普及した(凝然・一遍の活動については、第一章第六節参照)。また和歌・連歌を嗜み、「偈頌和歌」には和歌六六首を収め、『一遍聖絵』などにも詠草を載せ、連歌は『菟玖波集』(一三五六)に発句を載録している。
 その門流として、京都四条道場の時宗僧顕阿・頓阿らは、応安二年(一三六九)ころ、「三首和歌」を大山祇神社に奉納しており、そのほかにも大三島との関連が深い。
 なお、黒島の鼠(古今著聞集、一二五四年)や、宇和鰯(玉葉和歌集、一三一二年)・南北朝時代にはい鷹(吉野拾遺)など、地域的な特色のある説話や産物など、中央において伝承記録され、平安朝以来の諸説話とともに継承されている。

中世後期文芸の概観

 中世後期(室町時代)は、武家については、文学的素材としての表現から、史的記述へと転じた。河野家については、『予章記』『予陽河野家譜』『水里玄義』など、その歴史を物語っているが、なお、軍記物的要素も多少存している。その伝承が近世になって『予陽河野盛衰記』(一七四七)や『南海治乱記』(一六六三)など、河野家盛衰の戦記物語や、長宗我部の伊予侵攻の記事となっている。
 中世後期の戦乱を、近世にまとめたものに『清良記』(成立時期には諸説がある)や、『澄水記(予陽金子軍物語)』(一六八四)などがあり、前者は農書としても利用されている。
 仏教については、一遍の遺徳は、地蔵信仰と結びついて、室町末期には「一辺(ママ)上人生死示事」(地蔵菩薩霊験記)などと、その教えを伝えたし、その門流は遊行上人として、全国巡歴し、教義・芸能をもって、衆生を済度し、謡曲「遊行柳」となり、伊予においては、伊予一の宮大山祇神社の法楽連歌にも参加した。
 能楽においては、風早郡北条(現北条市)にある宗昌寺二世月菴宗光には『月菴和尚法語』や『月菴和尚語録』などがある。中世芸道の第一人者世阿弥が、六二歳ころの能楽論『花鏡』(一四二四年)の中「万能一心綰事」の条に、見物人の批判として「せぬ所が面白き」という芸態をあげ、演者の秘する境として

  生死去来 棚頭傀儡、一線断時、落々磊々

の偈をあげている。この偈は、月菴の提唱したもので、『法語』に掲載されているが、月菴の弟子香林宗蘭が、応永二八年(一四二一)大徳寺第二一世として入寺、世阿弥は香林を通じて、その奥義を能芸に活用したとみるべきであろう。
 連歌に関しては、道後の湯築城主河野通直(教通)を中心に、文安二年(一四四五)から、大山祗神社宮司大祝家を中心に、大永五年(一五二五)から、千句・万句・世吉・歌仙など、計二八〇余帖が、大山祗神社に保管されている。伊予における地方文学の最初の作品として、とくに注目すべきであろう。南予においては、天文六年(一五三七)今城肥前守能親が京都の宗碩門周桂の庵で、伊勢神宮法楽として『伊与千句』(続群書類従に所収)を巻くなど、地方で、また京都に上洛して、座の文芸が次第に流布してきたのである。
 紀行文には、板島丸串(現宇和島)城主、西園寺公広の連枝宣久が、天正四年(一五七六、推定)の伊勢参宮紀行を記しており(宇和旧記に所収)、ようやく文学作品が見られるようになった。なお、文禄三年(一五九四)薩摩大口城主、『新納忠元上洛日記』や、文禄五年『玄与日記』など、他国の人の眼に映った「みつくれ」(瀬戸町三机)や青島(長浜町)などが描かれている。

大山祗神社と文芸

 伊予一の宮としての大山祗神社は、『伊予風土記』以後、文芸作品中にも「三島明神」としてあがめられている。平安朝においては、神社の額に藤原佐理が筆を揮ったこと(大鏡)、能因の雨乞歌奉納の話(金葉集、俊頼髄脳、袋草紙など)があり、中世においては、説話・和歌など、いずれもその霊験を賛えたものである。中世前期の作品について、ここにまとめておこう。
 『神道集』は、南北朝末期に編纂されたようで、神々の本地や神社の縁起を説いている。このうち「三島大明神事」という話がある。伊予国三島郡に住む長者橘清政は、長谷寺の観音に祈り、財宝の代わりに男の子「玉王」を得た。その玉王は、鷲にさらわれ、阿波の国で育てられ、終に宮中で寵愛されるが、四国から上洛した百姓に、その出生を聞き、四国へ下向し、実父母を探して再会、両親は死して三島大明神となり、玉王は一宮と顕れたという。申し子譚で、鷲にさらわれたが親子再会する話で、類例は少なくないが、三島明神と新居浜の一宮明神が最後の結びとなっている点、伊予の国の説話としての特色がある。
 御伽草子「みしま」は、ほとんど同じ内容を伝え、古い語りの趣がある。
 古来武将達の信仰あつい大山祇神社には、多数の甲冑刀剣が奉納され、国宝・重要文化財の八〇余パーセントが指定をうけている。和歌もまた南北朝第一の歌人頓阿らの「詠三首和歌」と、管領細川頼之らの「続百首和歌」などがある。頓阿の三島社への和歌奉納のはじめは、自撰の『草庵和歌集』(一三五九)のつぎの歌であろう。

     入道左兵衛督家三島社奉納せられし歌に
   いにしへのなはしろ水のためしあれば此の手向にや心ひくらむ    (巻一〇 神衹歌)

 入道左兵衛督は、足利尊氏の弟直義で、直義の入道、貞和五年(一三四九)以後、間もないころ、能因の歌をふまえての作を奉納している。
 「詠三首和歌」は、これより約二〇年後、花・春月・神衹を詠じたもので、頓阿と、時宗の京都四条道場にいた顕阿、風交のある法印顕詮(衹園法師)、吉田神社の青年神宮卜部兼凞と、河野家と思われる沙弥道雄、越智盛文らの作品で、河野・越智家の発議で、一遍の門流頓阿らに依頼したものであろうか。「春日陪三嶋社宝前同詠花和歌  従四位下行内蔵権頭卜部宿禰兼凞」の官職から、応安二年(一三六九)ころ道雄と兼凞と社参し、社家の越智久軌社頭詠を添え奉納したのであろう。
 「続百首和歌」巻子一巻は、細川頼之(源頼之朝臣)を中心に、その弟頼有・頼基・詮春や一門関係者、僧侶顕阿ら二〇名参加、巻頭五首目まで欠損のため、年時や奉納趣旨は明らかでない。春二〇首(?)夏一五首、秋二〇首、冬一五首、恋二〇首、雑一〇首からなる。顕阿は、三首和歌の作者と同一人であろうか。弟頼有は、応安五年讃岐から伊予を攻略し、三島社造営と天下安全、家門の繁昌を、応安八年(一三七五)立願(大山積神社文書・九六九)している。京都から讃岐に帰った頼之が、康暦元年(一三七九)伊予を侵攻。河野通直(通堯)は討死している。そのいずれかの時の奉納であろう。
 京都から讃岐から、三島大明神法楽和歌が奉納されたが、地元からは室町期になって連歌が奉納された。

大山祗神社法楽連歌

 伊予の地方文学といえば、雑芸催馬楽「伊予の湯」は庶民の歌なので、創作としては大山祇神社に奉納された連歌二八〇余帖が最初であろう。文安二年(一四四五)から、近世の寛文一一年(一六七一)の二二七年にわたる連歌であり、中世期に限れば、文禄二年(一五九三)までの約一五〇年間、二七四帖(一般には巻子になっているので「巻」というが、もとの懐紙の綴のままなので「帖」としておく)が、同社宝物館に保管され、昭和四七年には国重要文化財に指定されている。
 現存連歌のうち、中世期の作品について、西暦・年号・形式・願主・発句作者・連衆の主な者をあげ、大山祗神社連歌の全貌を概観することにする。

    (図表 表4-3 大山祇神社連歌(中世の部) 参照)

総計、万句二、千句九、百韻追加の初折も含む八一、世吉九、歌仙一。大破の帖もその数にいれた。よって、その作者層の推移から、つぎの二期におけて略述しよう。
前期 室町中期(一四四五~一五〇七)六〇余年間
  湯築城主河野教通(通直)や同通宣を中心に、河野家一門の武家、道後宝厳寺の時宗僧其阿・弥阿ら、石手寺の僧、盲法師も加わっており、中央連歌と関連があると考えられる。ことに長禄千句(一四五九年)の寄合や句上表は、全国的にも貴重な資料であり、文明一四年(一四八二)万句が五二巻も現存しており、ともに珍しい。
後期 室町後期(一五二五~一五九三)約七〇年間
  大山祇神社宮司大祝家や社家が中心となり、河野家一族の配下の武将らも参加。無名の人、女性、生れ年のみを掲げた子年女など、地方連歌の様相を次第にあらわしている。天文・弘治・永禄年間(一五四九~一五六一)の世吉連歌九帖、天正四年(一五七六)万句連歌、天正二〇年歌仙連歌は、形式上注目すべきものである。
 右の二期中にも、現存の連歌には空白の時期があり、河野家の多難の時期や、連歌盛衰の状を物語っている観があるが、河野家一門の武家や時宗僧から、大祝家・社家や武家層へ、さらに庶民層へと、推移の状が察せられる。
  〔主な連衆〕作品中には名前のみで、姓名を明示したものはない。よって諸史料の中から照応しうる人物を推定し、連歌の連衆を想定することとする。
  〈前期〉 河野教通(通直)。前期の連歌の多くは教通の主催したものである。幼名犬正丸、元服して教通、のち通直、道治、道基と号し、『三島家文書』には河野家書状中、教通五通、通直六通、道治二通、道基三通、計一六通ある。幼少から在京、将軍足利義教に愛され、父通久が豊後で戦死するや、予州守護職を賜り、諱も授かり「教通」と称した。嘉吉の乱には山名持豊と赤松満祐を攻め、応仁の乱(一四六七)にも活躍した。この在京の間連歌を嗜む機会があったと思われる。
 その連歌は、教通(文安二年百韻)、通直(文明一二年千句一一句、文明一四年万句五二回中三六回参加)として、讃岐細川氏を撃退した後の祈禱満願のため興行し、大山祇神社に奉納した法楽連歌である。
 河野家一門。通定は、教通の妹婿忽那因幡守通定(文安頃)。九郎は、教通の弟通元の子伊予守通春(文明千句)。通重は、越智通重(蔵王権現宝倉扉銘文)。通安は、土居美作守(水里玄義)。通貞は、高山右近太夫通貞(二神文書・一四九九)。通里は、一族得能通郷(里ィ)。通三は、土居通三。そのほか通利・通幸など三〇余名、和歌丸などの幼名、為之ら家臣であろうか。通直の作は優れており、在洛中の修練か、それとも代作であろうか。
 時宗僧。前期の重阿・芳阿・其阿・弥阿・眼阿・臨阿・覚阿ら、阿号の者二〇余名、阿号必ずしも時宗僧とは限らない。しかし、宝厳寺蔵「一遍上人木像」(国指定重要文化財)の銘には、つぎのように記されている。

 当住 其阿弥陀仏」 檀那 通直」 願主 弥阿弥陀仏」 文明七年乙未十一月十九日

 文明七年(一四七五)通直の寄進であり、其阿・弥阿はいずれも連歌を嗜んでいる。『新撰菟菟波集』(一四九五)には、遊行他阿上人、其阿・覚阿らを載せ、時宗七条道場での延徳四年(一四九二)百韻三種に、宗衹や兼載と同席した一〇数名の連衆中に、其阿・覚阿・弥阿らの名が見え、あるいは関連があるのであろうか。
 真言僧。石手寺権僧正信禅(石手寺棟礼・一四九六)。信承はその弟子か。慶進は脇院家の最勝院新坊慶進か。
 盲法師。芸能史・文芸史上、中央と地方との文化交流に貢献した者に盲法師がある。文明万句中の永一(栄都)清一ら、その句は多くはないが、文化伝達者としての意義を考える必要がある。
 〈後期〉 大祝家は、元久二年(一二〇五)大祝安時が鎌倉幕府から吉岡荘を賜ったと伝える。大永・天文の間、周防からの来襲のさい、大祝安用・安舎ら奮戦撃退し、河野通直から賞賛されている。前期には河野家の法楽祈禱をしているが、後期天文以降は、大祝家や社家が中心で、連歌を奉納している。
 三三代大祝安忠は天文、三四代安国(周か)は永禄、三五代安任は天正年間以後に参加、そのほか、安家・安

          (図表 「大祝家略系」 参照)

清・安秀・安連など、大祝一統であろう。なお、越智・菅原姓の社家多く「大山積 宮政所」によれば、越智盛次・通秋・通重・盛勝・通昌、菅原秀祐・秀泰、宗方宗弘ら社家が中心となっている。
 大三島周辺の武将など。河野家の配下に大熊城主戒能備前守通森。甘崎城主村上(来島)出雲守通康。村上河内守吉継。吉継は、大祝宮寿丸(安任の幼名)や安家らとしばしば一座、作句数も多い。なお『高野山上蔵院文書』などと名前の符合する者十数名あり、帖の末尾「武運長久、宿願成就」の八字は、その背景に戦乱の世を示唆している。
 大永五年「申歳女願主」をはじめとして、発句に「酉歳」「甲辰歳女」など干支のみで、女性の祈願はその数を増し、脇以下社家独吟の連歌が多い。永禄四年「伊勢女」は、明確な女性名としては初見である。僧侶・盲法師は各二名のみ、次第に祈願・宿願成就の連歌が巻かれたものである。
 大山祇神社連歌は、神の御心をやすめる法楽であり、河野家を中心として、時宗僧が主な連衆であり、戦勝祈願、出陣戦勝感謝祈念が主であったと思われる。しかし、大祝家を中心に催すようになり、今治・大三島周辺の武将、さらに女性も加わり、庶民の宿願成就、感謝祈禱連歌となり、天正一三年河野家滅亡後も続いたのである。
 大山祗神社法楽連歌は、長期にわたる中世の作品を大量に、しかも原懐紙のままで保有されている。しかも、他に類のない多様な様式を残している。地方的特性を示す万句連歌、百韻よりも簡易な「世吉」(四四句)、近世の「歌仙」(三六句)の先?(あしへんに従う)もすでにあらわれているなど、他に類のない地方文学資料といえよう。(『愛媛県史文化Ⅰ(文学)』参照)。
 讃岐においては、明応五年(一四九六)神谷社百韻が最古で、一六年後白峯千句となっており、伊予の連歌の史的意義を改めて省みる必要があるであろう。

表4-3 大山祗神社連歌(中世の部)

表4-3 大山祗神社連歌(中世の部)


大祝家略系

大祝家略系