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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

1 中予地方の河川改修と新田①

開発の世紀

 一六世紀末から一七世紀末までの間、すなわち戦国時代から五代将軍綱古ころにかげての約一世紀間は、わが国の土木史上まれに見る新田開発の盛んな時代であった。中世までの水田は、主として谷戸地帯(小河川の谷間の地域)に形成されており、広大な沖積平野の大河川流域は手をつげられないまま放置されていることが多かった。そのため、平安時代から室町時代の中ごろまで、耕地面積の急増は見られず、約五〇〇年間で八万四、〇〇〇町歩が増加したにすぎない(表三-1参照)。
 戦国末期から近世初頭にかけて、荘園制が否定され、強大な一円支配権力が樹立されるようになると、それまで複数の権力によって支配されていた大河川流域の荒蕪地(あれはてて雑草の繁っている土地)が、豊かな水田地帯に変貌し始めた。
 戦国大名やそれに続く織豊政権・徳川政権が持つ用水上木技術によって、それまで自由奔放に流れていた大河川を堤塘によって制御し、また新規に用水路を開くことなどにより、沖積平野に広大な水田地帯を拓くことが可能になったのである。一四五〇年ころから一七二〇年ころまでにかげての耕地面積の急増は、こうした大河川のおさえこみの結果といえよう。
 『明治以前日本土木史』によれば、我が国における明治以前の大規模用水土木工事一一八件のうちで、約四〇特に当たる四七件が、戦国時代から江戸幕府三代将軍家光の晩年までの一八五年間に集中しており、開発の世紀と称するにふさわしい工事量が、全国的規模でこなされている。
 伊予における近世初頭の用水上木工事担当者として、足立半右衛門重信が著名である。重信は加藤嘉明に仕えた松山藩の重臣で、上木治水に精通し、伊予川(のち重信川)・石手川の改修によって知られている。

太閤検地と新田

 近世大名領国制の基盤になったのが太閤検地である。この検地で登録された耕地・屋敷を本田畑(以下本田と表記する、新田畑も同様に新田と表記する)、この検地以後開拓されたものを新田として区別している。伊予の太閤検地は、天正末~文禄年間及び慶長初期に実施されたものと推察される。このうち文禄・慶長のものについてはよく分からない。
 現在明らかになっているのは、天正一五年二五八七)の中島(大浦村・長師村ともに検地帳残存)・新居郡長安村(現、西条市玉津のうち永易)が最も早く、次いで翌一六年の宇和郡全域(『大成郡録』・『弌塹截』・『郡鑑』に記載)同一九年の今治周辺(鍋地村・鴨部中村・御馬屋村ともに検地帳残存)と川之江周辺(余木村・新宮村―文政八年「村々様子大概書」に記載)である。
 松山周辺の太閤検地の実施時期については、検地帳はもちろん、当時の村高などを収録した資料もないので全く分からない。しかし、中予は天正一五年から文禄四年(一五九五)まで、福島正則が蔵入地代官(豊臣秀吉の直轄地)として支配し、同年以降加藤嘉明が引き継いだ。したがってこのころに実施されたものであろう。
 文禄四年に加藤嘉明が松前城主として六万石で入部した際、彼の所領は伊予・温泉・久米・野間の四郡(蔵入地は浮穴・和気・温泉・伊予の四郡)に分布していた。その後嘉明は関ヶ原の戦の功によって伊予半国(二〇万石)を統治することになった(資近上一-87)が、寛永四年(一六二七)会津に転じた。前述の四郡の石高を、寛永一二年松平氏が一五万石を領有して入部した際のものと比較したのが表三-3である。
 表によっても明らかなように、松平氏入部時の石高が増加しているが、この増加分は新田の増加によるものではない。加藤氏入部以前の検地によって村高の概略は把握されていたものの、最終的な中予の太閤検地は、文禄四年以降に持ち越されたことを示すものであろう。というのは、加藤氏の入部から六年後の慶長六年(一六〇二)から同七年にかけて実施された石手川の流路変更によって、新流路となった地域、およびその後の城下町松山の建設などで温泉郡・久米郡の広大な本田が潰されている。これが太閤検地に含まれて処理されたものか、それとも関係村の石・畝改めで修正されたものか明らかでない。

古新田

 松山藩には、本田および新田とも区別された古新田と呼ばれるものがあった。古新田の免(税率)は本田と全く同率であったが、一方では新田と同じ扱いを受け、郷村帳高には含まれたものの、村高(本田高)には組み入れられることはなかった。
 古新田の分布は、伊予郡七一石六升六合(『伊予郡二十四ヶ村手鑑』元禄元年ころ)・和気郡一七五石六斗二升六合(『和気郡二十二ヶ村手鑑』享保一九年)・久米郡九二石七斗九升二合(『久米郡手鑑』万延元年ころ)などが記録されている。このうち伊予郡の古新田は表三-4にあるように、重信川を挾む両岸、すなわち北岸の余戸村・市ノ坪村、南岸の大開村・中川原村・北川原村に分布している。改畝(検地)で面積の大幅に修正さわたものもある。古新田の設定された年代ぱ、「古新田戌歳より分る」として、松平氏の人部した寛永一二年(一六三五)「亥歳」から免を順次記している。したがって戌歳は前年の寛永一一年と推察してよかろう。
 和気郡の古新円のうち、全体の六五パーセント、一一四石七寸余は太山寺村の枝村から独立した新浜村が占めている。
 慶安元年(一六四八)『伊予国知行高郷村数帳』に記されている松山周辺の新田石高によると、伊予郡八一石七斗六升六合、和気郡一六六石五斗六升二合、久米郡一三石二斗九升九合、温泉郡四三石二升五合、浮穴郡六二石三斗五升八合とある。このうち、伊予郡・和気郡は前述の古新田高とあまり大きな差異が見られない。これはたぶん改畝の結果で、久米郡の場合は、郡境の変更による変動であろうと思われる。

重信川の改修と新田

 『予陽郡郷俚諺集』によると、今出川上手から森松川までを伊予川と呼んでいる。重信川という名称は、加藤嘉明(左馬助)の松前在城の際、足立重信(半右衛門)が上手を築き、水脈を直したことから名付けられ、また左馬介殿堤の名称も今(宝永八年=一七一一)に残っていると記している。ところが、水脈を直す前、伊予川はとこを流れていたのか、また改修・開削の工事についても、慶長二年~同四年ころとされているが、これも明らかになっていない。

 改修前の伊予川がどこを流れていたかについて、三つのコースが町能性として考えられる。

 ① 砥部町八倉と松前町徳丸の境界付近からほぼ西へ流れ、松前湾頭に注ぐコース。
 ② 出合橋やや上手の栴檀投樋門(北川原・塩屋の漂漑用水取入口)付近から、北川原~筒井~松前湾頭に注ぐコース。
 ③ 蛇行した部分などは多少開削したところはあるが、ほぼ現在の流路を流れていたとするコース。

 ①のコースを流れたと仮定すると、東西方向約六キロメートルにわたって配列していた旧河床は、当然新田に開発されたはずである。ところが、これに対応するような新田は分布しない。しかし、近世ごく初期のことであるから、開発された新田が本田畑として村請されたことも考えられる。それにしても広い川幅であるから、引き続いて古新田もあったはずであるが、これも確認できない。また伊予川の流れを変える位置に築造したのが、左馬介殿堤であるとして、『松前町誌』では砥部町八倉付近を流れていたと推定しているが、左馬介殿堤の位置については、これ以外の場所とも推定する説があって、堤の位置をもって確実な証拠と言うことはできない。
 ②のコースについては、出合橋付近の堤防を左馬介殿堤と呼ぶ(建設省松山工事事務所『松山工事四十年史』)。付近には流路を推定させるような地割、すなわち北川原・筒井にかけて、寛文六年(一六六六)以前の江戸時代初期の新田が帯状に分布している。
 松前海岸は典型的な砂浜海岸で、その中央部には深い湾入部があり、また周辺の黒田~塩屋にかけて一~一・三キロメートル幅に砂丘が分布している。この堆積地形を現在の長尾谷川・国近川が形成したとするのはやや無理で、相当程度の河川が流人していたとするのが自然であろう。
 ③のコースは、蛇行部分の手直しであり、伊予川がほぼ現在の河道を流れていたとする説である。
 伊予川の旧流路を確定できる絶対的な決め手は残念ながら無い。新田開発と太閤検地とのかかわり、また加藤嘉明の松前入部の際の各村高が明らかになれば、旧流路を確定できるものと思われる。
 伊予川の流路が①・②・③のいずれのコースであったにせよ、足立重信による堤防の構築が実施され、川を堤防内に封じ込めたことによって、従来は水禍もしくは水不足に悩まされてきた地域が、安全で豊かな水田地帯に変貌したことは間違いのない事実であり、この結果新田開発が進められ、受益田地の水利は飛躍的に向上したのである。

足立重信の石手川改修

 伊予川の改修によって、松前城を洪水禍から救った足立重信は、加藤嘉明の勝山(現、松山城)築城に際して、城下町予定地の安全を図るため、嘉明の命によって勝山の南麓を流れていた石手川の流路付替工事を実施した。石下川は、重信による改修工事以前は松山市米野町字成畑~石手寺の南~道後公園~二番町~南江戸町を流れて古田浜へ注いでいたと考えられる(分流は宮前川へ流人)。工事は築城に先立って進められたであろうが、正確な年月日は不詳である(推定工期は慶長五~六年、松山城の築城開始は慶長七年一月一五日)。
 重信は岩堰(松山市溝辺町と石手一丁目の境界付近)の岩盤を掘削して、流路を南西に転じ、城下町の南を通り、和泉・保免を経て出合において伊予川に合流させた。工事の最大の難関は岩堰の開削であり、口碑によれば重信は工期促進と人夫の士気を鼓舞するため、人夫達の掘った岩屑一升に対して米一升を与えるという破格の優遇措置をとったとされる(明治五年でも官費の日給は米七合五勺であった)。
 石手川の河道付替工事は、松山城下町を洪水から守るとともに、広大な新田を生み出した。通説によれば、受益水田は、新河道分を差し引いても約三〇〇町歩に達したという。
 もっとも、石手川は四国の大半の河川同様に急流で土砂の流出量が多かったから、中流部の開発(肥草山の開発など)が進むにつれて河床の上昇が見られ、特に延宝元年(一六七三)の洪水による河床の上昇は著しく、享保六年(一七二一)の大洪水は領内に大きな被害をもたらした。
 松山藩では、延宝元年の洪水に際しては、川浚えを実施するなど一時的な対策を講じ、享保二年には、石手川筋浚えのため新規に普請組として一五〇人を雇用した(「本藩譜」)。しかし、享保六年の大洪水では、三、七一六町歩余が被害を受け、三万五、〇六五石余の損毛となったこともあって、根本対策の必要に迫られた。藩庁は、享保八年二月二〇日、石手川普請場条目を定めて大普請手代へ通達し、同年五月一五日には、川普請に精通している大川文蔵を抜擢して石手川改修に専念させることとした。
 文蔵は、川幅を狭くし、「曲出し」を構築して、川の中央部の流速を早めて土砂の堆積を防止する工法を採用した。また同時に堤防の補強工事を実施したので、石手川は安全性を増し、大雨の時にもほとんど氾濫を見ることがなくなった(『通史近世上』二章一節)。

重信川・石手川沿いの新田

 足立重信が伊予川(重信川)・石手川の改修や開削を行った際の築堤法は、広い川幅と低い堤防を基本としており、水除け(水制工)は千鳥掛け、すなわち鎌投法であった(『松山叢談』)と言われている。
 図三-2は重信川沿いの新田開発状況を、江戸期前半(ただし明和二年=一七六五以前)・後半に区分して示したものである。これによると、二四か村のうち新田石高が一〇〇石以上の村が一一ある。このうち江戸期前半の開発比率が高いのは、徳丸村(九八パーセント)・保免村(九六パーセント)・牛淵村(九三パーセント)・余戸村(八七パーセント)の順である。一方北川原村(三五パーセント)・井門村(五二パーセント)・垣生村(五七パーセント)などが低い。
 図三-3は、宝暦八年(一七五八)か、その直後のものと見られる伊予郡絵図である。この中に井門・中川原西部~大間にかげて、堤防を雁行状に配列させたものがある。川の中央に向かって湾曲した鎌投のあるものもある。堤防の配置は、下戸にあるものが順次外堤防としての役割を果たしている。足立重信によって築造されたとする二重式堤防がこれであろう。この二重式堤防は、前述のように享保八年(一七二三)以後一重式の構造に改修され、従来の広い川幅から新河道を引いた部分が新田として開発されることになったが、この場合改修は下流から進んだことが絵図からもわかる。井門村において江戸後半期の新田が激増しだのは、改修の遅れたことを意味している。また、石手川沿いの保免(七九石余)・藤原(五六石余)・立花(八九石余)・持田(一〇七石余)各村に新田の多いのも堤防改修のためである。
 南方村(現、川内町)の地籍図を図三-4に示した。村の西側を重信川が流れ、千鳥掛けの二重式堤防が順次下手に配置されている。堤防相互間には空白の部分があって、氾濫の際はここから濁流が流れ込むが、逆流になるので流速が押さえられ、被害を最小限度に食い止められた。またかぎ状の鎌投の部分に土砂が堆積する。この堆積地には最初松が植えられる。松は洪水時に切り倒し、堤防決壊を防止するための「切り付け」を目的とした。堆積地はやがて新畑、さらに新田として開発された。
 図の左側にある鎌投の新畑では、安永三年(一七七四)のものが最も古い(「南方村大手鑑」)。堤防の空白の部分を鎌口と呼んでいる。ここは低湿で、沼となっている場合もある。肥沃な粘土(タル)が堆積して、冬季になると農民によって水田に運ばれ、江戸期から昭和二〇年代まで水田の土壌改善に利用された。
 次に開発の具体事例をあげてみよう。

志津川出作

 重信川が平地に出て、横河原扇状地を形成したのち、流路を南から西に転ずるあたりは、中世末から近世初頭にかげて開発が行われた。特に重信川右岸の見奈良村・志津川村(志津川町村とも)・田窪村にかけての地域は、扇状地に共通する水不足に悩まされながらも、重信川の水を菖蒲堰などから引くことによって開拓が進められた。久米郡志津川村のうち八反地地区は代表的な開拓村で、『伊予国知行高郷村数帳』の浮穴郡田ノ窪村(一、六五六石余)の項に、「志津川村より出作共」と記されている。元禄一三年(一七〇〇)『領分付伊予国村浦記』では「田窪村枝郷 志津川入作(七六八石三斗四合)」と表記されている。郡を越えての入作であったためか、徴税手続の関係からか、もしくは耕作権とのかかわりからであろうか、久米郡のうちに入れるべきものが、浮穴郡のうちに含まれているのである。この地域が新田集落であることは、「出作」・「入作」の語句からも明らかであろう。
 志津川村入作の所属問題については、天保一〇年(一八三九)一二月二〇日に代官所裁定で解決して、久米郡志津川村の一部に編入されることとなった。
 このほか、浮穴郡牛淵村(現、重信町)から久米郡梅本村(現、松山市北梅本町・南梅本町)への出作があった。出作地域は徳威原と呼ばれる台地化した扇状地で、志津川村出作と同様水不足に悩まされながらの開拓であった。近辺に溜池の多いことからも開発の苦労のほどがしのばれよう。また、重信川の氾濫原に位置する見奈良村は、江戸時代後半に開発が活発化(石高増加率二四九パーセント)した村である。

中野・高井河原分の開発

 重信川の流路のうち、高井・野田付近は出水の際、流れの中心が次第に南から北へ移動し、滑走斜面に当たる南岸には、次第に土砂を堆積した。東西の長さ三・五キロメートル、中央部の膨んだ中州状の堆積地形が形成された。
 この周辺地域(浮穴郡)は、豊臣秀吉の蔵入地であったが、慶長五年(一六〇〇)加藤嘉明領に加えられ、やがて開発されることになった。同九年、浮穴郡に分布する川原の開拓に関して、足立重信が河原与三右衛門に与えた文書がある(資近上一-100)。これによると、開拓初年である今年の年貢は、反当たり一斗、三年目からは一斗五升、年貢以外の諸役は免除するとしている。また人里から離れているので、防御のための道具(武器)を所持することを認めている。この開拓について具体的な内容はわからないが、寛文四年(一六六四)の松平定長宛領知目録には、三一石七升・高井川原分とあり、両村人作と註記されている。この両村とは、もちろん高井村と高井川原分であることはいうまでもない。
 このことから、河原与三右衛門も含め、高井村からの開拓であったものと推定される。石高の三一石七升は、慶安元年の『伊予国知行高郷村数帳』にも「河原分共」として高井村の村高に含まれている。これは新田高ではなく、本田高として取り扱われたことを示している。名称は、高井村河原分、高井村の内河原分などと呼ばれているが、開拓者与三右衛門の姓か、それとも荒地の河原から採ったものかよくわからない。
 中野村の開発過程を記したものに「中野定書」がある。これは、中野村初代庄屋宮内与三兵衛から、八代与次右衛門の寛政一一年(一七九九)までの記録一巻を、牛淵村三島神社(現、重信町浮島神社)の相原宗乗が原文のまま筆写したものである。これによると、宮内与三兵衛は、慶長八年一二月、三八歳のとき氏神の三島神社に参籠して、開拓地が一村として成立すること、安住できる土地であることを祈願した。彼は翌九年一月、藩に開拓を願い出て、足立重信からの免書(許可状)を受け取っている。農民は主として牛淵村・津吉村の出身で、同年末までには田方五反、畑方二町九反を開拓した。
 与三兵衛は、慶長一八年庄屋役に任命されたとあるが、二代与三兵衛の項に「田畑を追々開き、百姓ありつき、家数拾一軒と成り、よって中野村の号を下され、本高を請る也」とあるので、村として成立するのは、慶長一八年か、それとも初代与三兵衛の没した寛永三年(一六二六)以降か明確ではない。
 中野村の慶安元年の村高は二一○石三斗一升二合で、これまた高井村河原分と同じように本高として取り扱われている。この場合、太閤検地とのかかわり、また、いつどのような経過で本高に組み入れられたか明確ではない。この地域における重信川堤防内の水脈は異常に北寄りに流れているが、大洪水の場合は、まともに被害を受ける位置に当たっていた。したがって東側・北側は開発せず、松林及び竹林として残した。明治三六年陸地測量部作成の地図(図三-5)に、なお広大な森林が残されている様子を読み取れるので、近世初頭の開発以後は、新田開発はほとんど実施されなかったのではなかろうか。
 なお、中野村の領分に、津吉村の村高に含まれる一五四石一斗九升三合の出作分かあるが、位置的にも南部の津吉に接しているところに分布するもので、新田ではない。この出作分は、明治に入って中野村に組み入れられた。

松前の廃城と新田

 松前(現、松前町筒井)の地先にあって、砂丘と後背湿地、それに入江に立地したのが松前城である。城は加藤嘉明の入部以前からあったとされているが、近世的城郭として整備されたのは、嘉明の入部した文禄四年(一五九五)以降であろう。
 嘉明は砂丘に城郭を設け、川や海を防御線に活用し、内濠には入江を利用した。ところが嘉明が松山に移ったため、慶長八年(一六〇三)廃城となった。
 城の跡地付近は、低湿で農耕地としては極めて不利な自然条件下にあったため、近世ごく初期の新田開発対象としては適地でなかった。このため寛永一二年 (一六三五)松平氏が松山に入部するまでの間には、新田として開発されていない。これは、城地に含まれている範囲には古新田の分布していないことでも明らかである。
 表三-5は、筒井村において元禄元年(一六八八)までに開発された新田一七か所について、新田名・開発年・竿請年・石高・畝高・免率)を『伊予郡二四か村手鑑』より抽出したものである。
 表中の新田のうち、開発年を寛文六年(一六六六)以前としているものが四か所ある。このうち篠堀新田(図三-6参照)は外濠か、川の旧流路か、もしくは旧流路を外濠として利用していたものか不明である。しかし新田として開発し、村中で割作をしている。この篠堀新田の区域は極めて低湿で、昭和一〇年代までは田下駄が使用されていた。旧二之丸を開発した二ノ丸新畑も、篠堀新田と同様に村中割作である。
 宗意新田は、松前の豪商で後に松山に移ったとされる武井五郎左衛門による町人請負新田であろう。五郎左衛門は、松前在住中に宗意庵(現、日蓮宗妙覚寺)を建立している。過去帳には、義忠院殿宗意日法居士、延宝三年(二八七五)没とある。
 千石新田・堀川新田は、入江(内濠)を埋め立てた新田であろう。表三-5のうち、6・8・10は、新田の名称は無いが、堀川新田に当たるものであろう。
 元禄元年(一六八八)の筒井村の免率は、本高に対する比率が一・〇三(一〇三郷であり、村高以上の年貢が徴収されている。ちなみに、明治初年は〇・九三六である)であった。これに対して、新田の免は、最高の千石新田で〇・六八(明治初年〇・七二)と低く、その他表中の小規模な新田も、砂丘・低湿地に分布するもので免率も低い。
 新田石高の増加は、元禄元年まで一六七石二斗九升五合、同二年~明和二年(一七六五)の間は極めて少なく、八石二斗一升五合である。
 以上、重信川・石手川流域の新田開発について述べたが、次に風早郡立岩川流域の開発を例示しよう。

風早郡の桧垣新田

 慶安元年の『伊予国知行高郷村数帳』によれば、風早郡の新田高は一石八斗八升と記されている。これを単純に信用するならば、風早郡における近世初期の開発は皆無に近いことになる。ところが、それからわずか五八年後の宝永二年(一七〇五)には、四六一石九斗一升一合、四三町五畝の新田が確認されている(「宝永二年風早郡村々新田畑御定免井御請証判」)。これらの新田畑は村高に組み入れられることはなく、免(税率)も本田畑よりもかなり低く設定されていた。右のうち最大のものが桧垣新田である。
 桧垣新田は、北条市街地の北部を西流する立岩川の左岸南部に築造された、一二二石二斗一升二合・八町六反三畝二七歩の新田である。「新田由緒書」(桧垣家蔵)によれば、慶長一一年(一六〇六)藤堂高虎の開発免許を受けた桧垣新兵衛が、会津より伴ってきた家来一三人と共に開いたものであるとしている。由緒書によれば、開発された田畑は桧垣家一党の経営地として免税の特権を得ていたが、寛永五年(一六二八)桧垣家の当主交替時の内紛に乗じて新田を横領しようとするものがあったため、当時の領主である加藤泰興(大洲二代藩主)に願い出て、年貢米を納入する代償として新田の経営権確保に努めた。この時新田は初めて五〇石として登録された。
 寛永一二年以後、辻村は松山藩領に転じ、桧垣新田の評価高も五〇石から、慶安二年の九四石一斗九升七合(六町六反一畝)、元禄一五年(一七〇二)の一二二石二斗一升二合と増加した。年貢率は田方二ツ九分(二九賀)・畑方一ツ(一〇パーセント)と比較的低率であった。高汐対策・樋門の修理などが自弁という特殊事情も加味されたためであろう。
 桧垣新田以外の新田は、そのほとんどが、いわゆる切添と呼ばれる小規模なものである。一〇石を超える比較的まとまった開発は、六八例のうち一〇例にすぎない(桧垣新田を除く)。

本田・新田と改畝

 松山藩領内では、本田・新田とも改畝(検地)が行われている。改畝実施に際して本田と新田では取り扱いが異なっている。伊予郡四か村の本田分について、慶安元年と藩政期末の石高・面積を比較したのが表三-7である。いずれの村も石高(村高=田方・畑方石高の合計)には全く変化がない(但し、田方・畑方の石高・面積には移動がある)。ところが面積は、徳丸村の一三パーセントをはじめ、すべて増加している。この場合、合計面積の増加は新田開発による増加ではない。田方面積の増加は畑方からの転換によるものや、圃場・水田の整備によって生み出されたものであろう。
 新田改畝の例として浮穴郡下林村(現、重信町)を取り上げてみよう。下林村は、表川が重信川に合流する下手南岸に位置している。同村の慶安元年の石高は九八八石三斗、うち田方が九四竹を占めている。
 耕地は重信川の左岸にある段丘(集落の中心部)と重信川に注ぐ拝志川・左古川の谷底部、及び重信川沿いの低地に分布している。新田は主として重信川沿いの低地にあり、洪水の際には侵食あるいは氾濫によって砂礫が堆積するという、きわめて不安定な場所である。
 下林村には、天和三年(一六八三)から文政三年(一八二〇)までの検地帳(畝改帳)を中心とした新田関係の記録が残っている。表三-8は開発状況を整理したものである。
 この新田検地のうちで、元禄一五年(一七〇二)と明和三年(一七六六)のものは、再検地(改畝)による出畝である。元禄一五年の改畝は、この年以前に竿請されているすべての新田について実施され、石高・畝数もすべて変更されている。減少しだのは、わずかに畑方の一件のみで、他はすべて増加し、中には石高で二・七倍になったものもある。合計の出畝高は九反七畝二六歩、石高は九石八斗一合増加している。本田分については石高に増減は見られず、増加分はすべて新田であり、直接年貢増徴とかかわっている。
 御償新田畑(六一頁参照)を設定した翌年の明和三年再度新田の改畝があった。この場合は、元禄一五年の検地とは異なり、特定の新田についてのみ実施され、しかも一筆内からも抽出したものもある。したがって内容は非常に複雑になっている。
 この改畝による出畝は七反三畝一一歩、石高は七石三斗三升六合の増加であった。この出畝分は御償新田には、もちろん含まれてはいないが、松山藩全体としては、前年の時点で架空分かあって、これを補てんする目的をもって実施されたものであろう。いずれにしても、新田増加を統計的に処理する場合、出畝分を区別して取り扱わなければ、実際より新田が大幅に増加することになる。

表3-3 加藤・松平氏入部時の石高

表3-3 加藤・松平氏入部時の石高


表3-4 伊予郡の古新田

表3-4 伊予郡の古新田


図3-2 重信川流域の新田開発状況

図3-2 重信川流域の新田開発状況


図3-3 伊予郡絵図(宝暦8年ころ)

図3-3 伊予郡絵図(宝暦8年ころ)


図3-4 南方村地籍図

図3-4 南方村地籍図


図3-5 高井・中野付近(明治36年陸軍地測部発行地形図使用)

図3-5 高井・中野付近(明治36年陸軍地測部発行地形図使用)


図3-6 筒井村絵図

図3-6 筒井村絵図