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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

2 松山新田藩の廃止と御償新田・高外新田

松山新田藩

 享保五年に松山藩主松平定直が逝去した際、その遺志によって四男定章に一万石が分知され松山新田藩が成立した(資近上二-6)。定章が与えられた一万石は、領内に散在する新田で与えられたため、特定の知行地はなく、一万石の知行高に対応する米を松山藩の蔵米のうちから支給されることになっていた。ただし、幕府への報告書には、知行所からの徴税という形をとっていた。表三-20は、松山新田藩の享保一二年から同一六年の徴税状況である(参考として松山藩併記)。一見して明らかなように、本藩である松山藩と同率の年貢収入になっている。他の伊予諸藩の場合、新田からの税収は本田からの収入と比較して極端に少なく、同時期の今治藩(本田分四六・六パーセント、新田分三七・七パーセント)、西条藩(本田分四〇・五パーセント、新田分三二・九パーセント)の例に見られるように、本田よりも一〇パーセント程度は低いはずである。にもかかわらず松山新田藩の税収が松山藩と同率であるのは、行政の繁雑さを避けるため藩庫を統一していたことの証左となろう。
 ところで、松山新田藩は明和二年に廃止された。本藩である松山藩の松平定功が逝去したため、新田藩二代目の定静か本家を継ぐことになった結果、新田藩は廃止となり、幕府は一万石を上知するよう通達を出した(資近上二-9)。
 これまで同一の藩庫によって運営していた松山藩と同新田藩であるから、一万石の上知を命じられて非常に困惑したが、結局桑村郡と越智郡のうちで本田畑と新田畑とをとり合わせて一万石を上知することになった。内訳は桑村郡五、三七一石七斗八升八合、越智郡四、六二八石二斗一升二合であった(資近上二-9(1))。

御償新田

 その結果、実質的に約一万石減少した松山藩では、本田高の減少(九、一四四石二斗四升三合)した分を、領内の既開発新田高を編入することを幕府に願い出た結果、明和七年五月一日許可を得ることができた(資近上二-10)。この本高に編入された新田を御償新田と呼んでいる(御償新田には古新田と明和二年までに竿請された新田を含み、これ以外の新田及び明和三年以後竿請されたものを高外新川と呼ぶ)。
 この結果、松山藩領のほとんどの新田は、郷村帳高として実質的に村高に含まれることになった。しかし、免(税率)については、従来通りの扱いを受けた。

高外新田

 御償新田に対して、明和三年以降に竿請された新田を高外新田と呼んで区別している。松山藩の場合、統計処理の都合から、江戸時代前半期の開発を御償新田、後半を高外新田(江戸時代末に開発され、明治になってから鍬下年季の終了した大可賀新田などを除く)として区分し、郡別に表示したのが表三-23である。松山藩の幕末期における実質石高は、一五万七、一八四石余であり、そのうち新田高は一〇パーセントで、新田高に占める御償新田の割合は五六パーセントとなっている。高外新田は四四パーセントであるが、江戸時代後半の開発率としてはかなり高率であるといえよう。高外新田のうちで群を抜いているのは越智郡の八三パーセントである。

浜村の居屋敷新畑の開発

 伊予郡松前村(現、松前町筒井・浜・東古泉・西古泉)は、慶安元年(一六四八)の石高が一、九一一石余の大村であったが、寛文一一年(一六七一)四か村に分かれた。浜村はこのうちの一村で、松山藩内には他にも浜村があり、区別するため「松前浜村」と通称されている。松前浜村は、分村当時八一石余であったが、改畝(検地)の都度石高が増加して、幕末には三〇二石弱となった。この増加には浜村における新田開発分は含まれていない。表三-24に示したように本高の操作に伴うものである。
 浜村における新田開発高は一一四石六斗五升五合で、このうち江戸時代後半の高外新田が七〇パーセントを占めている。高外新田八〇石四斗六升九合のうち六五パーセント(五二石九升三合)は畑方であるが、その大部分に当たる四九石六斗九升三合(六町四反一畝五歩)は「居屋敷新畑」である(明治四年「伊予郡各村貢米納仕掛帳」)。
 開発された場所は、浜村のうちにある砂丘で、開発時期については、明和三年以後ではあるが、明確な年代は不詳である。
 浜村は、元禄元年(一六八八)には一九二戸・七四五人であった(『伊予郡二四ヶ村手鑑』)が、天保九年(一八三八)には五〇七戸・二、〇四二人と増加している(「御領内伊予郡分有増帳面差出帳」)。『松山叢談』によれば、文政のころから漁人(漁師)ここヘ一軒、二軒と移り住み、今は百数十軒の浜村の枝村となる、と記されている。これは現在の松前港南岸の地区のことであろう。漁船も元禄元年の八二隻が、天保九年には一〇二艘となっている。
 この居屋敷新畑は砂丘地帯を開発したため、面積は六町余と広大であるが、年貢は石高四九石余に対して、わずかに四石余できわめて低率であった。
 浜村における居屋敷新畑以外の高外新田としては、塩新田(一〇石余こ町歩余)と一一筆からなる一八石余(一町七反余)の新田があった。この一一筆の新田にはすべて「床替」という文字が注記されている。一般の新田の免率(税率)よりも高い税が徴収されていることから、湿地帯に堆積した泥土を採集して、水田の肥料、土壌改良に役立てていたためであろうと推定される。

塩屋新田の開発

 伊予郡北川原村(現、松前町)は、新田高三九七石余(四一町四反余)で、そのうち高外新田が六三パーセントを占め、開発の中心は江戸時代の後半にあった。塩屋は、北川原村の枝村で、沿岸部に成立した新田集落である。寛文三年(一六六三)に開発された塩屋新田(九八石余、六町五反余)をはじめ、国近川沿いの開発は寛文期でほぼ終了し、明和年間以後は海岸部の開拓が急速に進められた(図三-16)。北川原村の高外新田二五九石余(二九町八反余)のほとんどが塩屋地区に集中しており、地租改正の時には面積が三三町六反余に増加している。
 文政三年(一八二〇)当時北川原村塩屋の組頭であった戒田甚平が、防潮・潮留を祈願するため、摂津から住吉神社を勧請した(現在の和多津見神社)。塩屋における干拓が急速に進んだのは、この前後の時期であろう。

大可賀新田

 大可賀新田(五〇町歩余)は、温泉郡山西村(現、松山市)の庄屋一色義十郎によって開発された新田である。新田の完成は安政五年(一八五八)であるが、明治二年の松山藩から民部省への報告書(「償新田畑・新田畑高帳」)には含まれていない。同報告書によれば、山西村の御償新田高は二〇石一升七合、高外新田高二石九斗四升八合となっている。大可賀新田の年貢納入が開始される明治四年に検地が実施されたためである。
 山西村の北に隣接する和気郡古三津村や南隣の北吉田・南吉田村は共に新田が多い。こうした村と同様に干潟や低湿地があるにもかかわらず、山西村の新田石高は極めて少なかったのである。
 嘉永四年(一八五一)大可賀新田開発が始められたが、山西村地先を干拓可能地と最初に目をつげたのは、当時和気郡代官であった奥平貞幹であるといわれている。山西村庄屋一色儀十郎は、早くから奥平貞幹と接触を保っていた。儀十郎は干拓予定地を詳細に測量し、開発計画書を作成した。計画の骨子は、①忽那山北麓から北に延びる潮留波戸を築造すること、②このようにして仕切られた海面に、宮前川から西へ、別府村との境界線に沿って新川を開削して放流させ、土砂を堆積させることであった。これは完成までには長期間を必要とするが、その反面、経費・労力を極限まで削減することができるものであった。儀十郎は、この計画書を添えて藩庁に請願した。
 藩側では、①開拓がすべて完了した上で半分を収公する。②経費は利子・口銭付きの二五年賦で貸与する。③漂漑用水については、本田に障害のないようにする。必要ならば山手に池を築造することも考える。④支出を帳簿で明確にしておくこと。⑤新田への入植(入百姓)は、島方・他所から来住させ、近隣の本田村に迷惑をかけないこと、などを主な内容とする一〇か条からなる「定」を遵守することを条件として、嘉永四年一二月二八日に許可を与えた。
 なお、この定書の中に、普請に関しては一切を任せるので、事ごとに伺いを立てるには及ばないから存分に取り計らうように、と指示している。一色儀十郎に対し全幅の信頼を寄せていることを示すものである。
 儀十郎は早速工事に着手し、翌五年八月からは、山西村の又兵衛、別府村の喜三左衛門らの協力を得た。工事は、安政元年一一月五日から七日にかげての大地震によって一部破損したところもあったが、ほぼ順調に進み、着工から七年を経た安政五年九月、潮留堤防南北四八〇間(八六四回)・東西三六〇間(六四八メートル)に囲まれた六六町九反三畝(うち田方五〇町二反二畝二六歩)の干拓に成功した。
 当時の松山藩主松平勝成は、この成功を祝して大可賀新田(大いに賀すべしの意)と命名したといわれている。藩は定書の通り、新田五〇町二反余の半分を収公し、残る二五町一反余のうち七町九反余は二分して、半分を一色儀十郎へ、残る半分は協力者に配分し、一七町二反余は新田移住の百姓に割り当て、永代小作地とした。
 大可賀新田の経営は米価の高騰にも助けられて、藩から貸与された経費の償還も予定より五年早く終了した。年貢の納入は、明治四年から開始されることになったが、この時に実施した検地の竿請面積は五六町六反余であった。なお当時の戸数は六七、人口は四〇三人に達していた。

表3-20 松山新田藩徴税状況

表3-20 松山新田藩徴税状況


表3-21 松山藩郡別御償新田高

表3-21 松山藩郡別御償新田高


表3-22 御償高100石以上の村

表3-22 御償高100石以上の村


表3-23 松山領内の郡別新田高内訳

表3-23 松山領内の郡別新田高内訳


表3-24 村高の変遷

表3-24 村高の変遷


表3-25 床替と表示のある浜村の高外新田

表3-25 床替と表示のある浜村の高外新田


図3-16 北川原村のうち塩屋西地籍図

図3-16 北川原村のうち塩屋西地籍図


図3-17 大可賀新田付近

図3-17 大可賀新田付近