データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

二 林野の利用

分一と運上

 林野の使用についても種々の形で租税を負担した。入会山への自家用の柴草刈り取りに対しても必ず山役銀が課せられた。宇和島藩では万治三年(一六六〇)に上、中、下、下々の四段階に分けて、軒別に賦課した。寛文一一年(一六七一)の改正額では上が一匁、以下七分・五分・三分である。吉田藩の寛文六年の規定は、合計額で銀一貫九一八匁九分二厘であった(『郡鑑』)。松山藩では馬割木札・歩札・歩柴札といった村毎の割り当ての鑑札の種類に応じて上納した。同藩の入木銀は、家中用の薪炭の負担で、初期は現物であったが、後に銀納化したものである。
 林産物の生産や販売については、村や個人等に分一税が課せられた。分一は生産物の何分の一を税として納めるという意味から出た税目であり歩一とも書く。宇和島藩では「山方歩一定」により、産額の五~一〇分の一を上納した。材木は藩が価格を公定した。万治四年の価格を改定した寛文七年の規定では、炭一俵が一分三厘、枝松の城下積み回りは帆一反について二匁二分であった。
 商品として他領に移出される場合は、問屋に運上が課せられた。新谷藩享和四年(一八〇四)の規定では、荷夫木・大束は三分、小割木・松葉は一分で、番所通過時に数量を調べて徴収した(久保家文書)。藩有林が保護と管理のため、村や庄屋に預けられる場合は極めて多いが、この下草や枝木、時に用材の利用についても運上銀を上納した。預けられる期間は数年からその身一代、また永年と多様であった。
 野間郡新町村の庄屋井手家は、元禄年間に同郡五か村の肥草山であった九王村花木山に植林を命じられ請山となった。運上は銀六匁を毎年上納して明治に至った。なお五か村民の肥草山の替地は、花木山よりはるか遠隔地の宮崎村内で与えられた。同郡には三三か村全村に六反から七七町歩まで合計六七六町四反余の永年請御林があり、運上は銭札ニハ貫九三〇匁であった(村瀬家文書)。藩有林の伐採や枝払時は入札による事も多く、享保二一年(一七三六)一一月、小松藩箱谷山・茶臼山の伐採では、九貫一一〇匁の運上で、周布村与三左衛門が落札した(小松藩会所日記)。
 竹材は建築補助用や日用具として、藪は防災上重要であり、藪改帳を作成して厳重に保護された。延宝五年(一六七七)六月の「宇和島藩御山竹方定」によると、その管理は庄屋の責任であり、伐採期は七月~一一月、伐採量は村ごとに定められ、山切手なしには一本も伐れなかった。上納は原則として現物であり、吉田藩の寛文六年(一六六六)五月規定の竹役は、二尺五寸結縄で二、六八七束であった(『郡鑑』)。大洲藩では竹の上納に筏も利用されて、藩蔵のある桝形へ並べて役人の計量を待つので往復に三日もかかり、百姓には大きな負担であった。なお、後期に増加する山畑や切替畑は、検地を受けて農地としての年貢が課せられた。

用材の生産

 用材の育成や販売は、特に藩の強い管理下にあり、その意味では民間の自由な林業は存在しなかった。しかし直営は少なく、請山として杣の他、村人の夫役としても伐採・製材されるので、農村の維持には役立った。松山藩では郡単位に大庄屋格庄屋が御林山用掛りとなり、各村の御林は庄屋が管理した。藩用材の必要があると、庄屋と山守が責任者となって調達地を決定し、秋に伐採して藩の極印を受げ、翌年春から運搬を始めた。材木運上の例を寛文四年(一六六四)一一月、西条領大保木など五か山にみると、以下のようである。

  一銀六百匁 拾分一銀……福島正則の時に定まる、諸材木を搬出する際、氷見村で改め上納
  一銀八二八匁 鉄札銀一三八丁分……諸木伐採の斧一丁に六匁ずつ、一柳拝領一九年以前に定まる
  一銀七一五匁五分 檜廉料……藤堂高虎代より上納、上板一枚一匁六分、中板九分、下板七分
  一銀四〇四匁 野根板銀……藤堂高虎代より上納 野根板五〇五間代、一間に付銀八匁
  一銀五四匁六分 新野根板銀……一柳拝領一九年以前より、百姓二人野根板四二間分、一間に付一匁三分
  一銀四一匁七分五厘 粉一七五束代……高虎代より、一束に付銀二分五厘
  一銀四○匁 槇樽代金……一柳拝領二〇年以前より、御台所入用桶樽代

 この他に茶運上・漆運上・鉄砲役銀(銀一四匁鹿皮二枚にく皮二枚分)、竹材に関してあじか作り(一二五匁八厘)・笠ふち竹(一三匁五分五厘)・根そ竹(鹿兎垣用竹伐代一一一匁六分)の各運上、檜笠運上(五○匁)等多様多額の運上を負担した(「西五ヶ山銀納請所願」)。
 こうして各藩用材は大坂に積み出され、大坂商人により販売されて藩の財源となった。また江戸御用材にっいては、伐採運送とも大坂商人に請け負わせることもあった。各村の公的普請や災害時には藩から用材が下付された。檜・杉・松・竹を除いては、極印付の用木に限り、城下での販売も許された。
 材木の取扱量が増大すると、山元でも材木商が必要となった。天保期の新居郡氷見は、千足山と大保木五か村の木材の集散地で、天保期には十余軒の問屋が並んでいた。西条藩の上方への出荷は、中山川河口の新兵衛港の番所で検査を受け、一一反帆の長久丸や泉丸に積み込まれる(『西条誌』)。松山藩では船持、柚組、柚夫や日傭取りを差配する山仕立の元締らも材木商まがいの商行為を行う者が増え、宝永五年(一七〇八)一〇月、同藩の材木商が無鑑札者の営業禁止を山方支配へ願った(資近上二-181)。他の藩でも、小売の免許札で大きな問屋の商いをしたり、柚取りの者が山仕札と称して、勝手に問屋営業をする者が増えている。

薪炭の積み出し

 薪炭は日用の他製塩用、鍛冶・窯業などの手工業用に重要であった。町方、特に上方の需要量は膨大であった。そのため近世では、用材となる針葉樹より製炭用の椎・櫟の方が高価であった。今治藩家中の嘉永七年(一八五四)冬の木炭渡方の規定は、五〇石取りで一五俵、一〇〇石までは一〇石に付き一俵増し、一〇〇石以上は半俵増し、一〇石取り一〇俵、七、八石取り八俵であった(「勘定役勤用控」)。薪については嘉永四年二月に、藩有林の下草刈りを家中に許し、御目見以上は一人、奉行以上は二人の入山を許した。家中用の大束(割木)は、安政三年一一月には、搬出の人手がないため足軽二人ずつに、御林大谷口まで取りに来させている。
 薪炭の移出は問屋経由が原則で、問屋は株による運上と積出量による分一を負担し、相対売りは禁止、抜げ売りは過料であった。宇和島藩では御用鍛冶用の木炭も、小物成の一つである。炭焼きは山奉行の許可が必要であった。幕末に薪炭が高価になると領民は困窮し、藩は文政四年(一八二一)二月に他所売りの分一銀を二割四分値上げした。山林の乏しい村方も自村用の燃料に困り、藩有林の払い下げを願った。その後不況により天保一二年(一八四一)一月に値下げ令が出された。再び高騰すると文久三年(一八六三)一一月からは薪炭の他所売りが停止となり、物産方が買い上げて領民へ払い下げた。公定値段は「馬目木国木一俵五匁、樫木四匁五分、椚四匁二分、椎木三匁八分」以下であった。松山藩でも安政四年九月、上干割木一〇貫目二一○匁、上炭五貫目俵四匁五分、中四匁一分七厘、下四匁と価格を公定した(湯山村公用日記)。西条藩領でも下泉川・沢津両組一〇か村の百姓は、薪の値上がりに困り、惣代の名で天保一四年一月、船積みの差し止めを願っている(松神子小野家文書)。
 松山藩の三津屋・壬生川両港からは、文久~慶応ごろに年間約六、〇〇〇俵の木炭を移出した。分一銀は一俵に付き一分で、出船については「薪松葉問屋定書」により、問屋の申し合わせ事項を守り、薪炭の出所を糺し、移出高を公正に届け出ることとした(『壬生川浦番所記録』)。文化ごろ、桑村郡田滝村奥山の炭焼きは、川根村の新左衛門が年間一貫二五〇匁で、請け負う例であった。炭山の増加は百姓には迷惑であり、炭山差留願が出されることもあった。
 宇和島・吉田両藩の薪炭は、上方への重要移出品の一つであった。宇和島藩は文化年間、御荘組藩有林の開発に乗り出し、深浦に御山方の支局を置き、山井出や満倉など六か所にも掛役をおいた。雑木を伐採して薪炭を作り、跡地には国木を植林し、椎茸や樟脳を作って大坂へ移出した(「郷土誌雑稿」)。これは藩の増収策であったが、貧民救済の意味もあったので、村人はこれらの開発林を御介抱山と呼んだ。なお、作業や貧民の灯火用に肥松が利用されたが、これも村人の収入源となった。宇和島藩津島組には天保四年五月、入札で定められた三軒の松明問屋があった。
 御預山の枝下しは藩・村ともに大きな収入源となり、全村あげての大事業であった。今治領大浜村はそれほど山林は多くないが、元禄七年(一六九四)以降、二、三年ごとに順に山々の枝下しをしている。しかも、その数量は毎回三〇~四〇万乗で、代銀は一五~二〇貫にものぼった。松葉は波止浜の問屋三軒に売られ波止浜塩田の窯焚きや菊間瓦の焼成に利用された(大浜柳原家文書)。

椎茸の生産

 宇和島・吉田両藩では、近世の初期から山方の許可を得て椎茸の生産が行われた。文化文政期以降は特に盛んとなり、乾燥して大坂・兵庫などに出荷した。生産は庄屋や百姓・町人らの請負で、一〇年間を単位として運上を上納したが、更に延長を認められた場合が多い。上納額は、熊野屋の場合七斗入一箱(二貫五〇〇匁~三貫入)に付き銀六匁であった(宇和島藩御用場日記)。
 他国への進出もみられ、所属は不明であるが、予州商人久松屋久蔵が、土佐国安芸郡下津井村佐川の留山で天保八年に生産を行っている。シデ木四万二、〇〇〇本を許され、請負額は即銀で四貫一一〇匁余であった(『高知県史』)。

入会と山論

 林野はもともと公有・共有的性格のものであるが、私有化や利用の集約化につれて山論が増加した。特に組や村の寄合持ちである入会山では、入山の時期や入会料、利用量や場所をめぐる紛争が極めて多い。争論に郡や藩境がからむ時は騒動が大きくなり、解決にも長期を要した。西条領大町組下島山・半田など八か村の小松領大生院村山への入会は、寛延ごろから争われたが、寛政一一年(一七九九)に全面的に入山を拒否されると、享保一六年以降の願書や入山料請取書、諸契約書を持ち出して吟味を奉行所に訴えた(松神子小野家文書)。
 大洲領砥部地方の八七〇町歩の林野へは、替地以来伊予・浮穴・温泉三郡の松山領二八か村が入山しており、刈敷と牛馬の飼料用の草は無料、柴札は一枚一匁で五八六枚、割木札は一匁五分で六枚の慣行であった。しかし大洲藩が同地に高付の田畑を開き、入木銀や山札銀、竹銀などを値上げして取り締まりを強化したため紛争を起こした。天明三年(一七八三)にはついに松山領民の乱入乱伐事件となり、大洲藩も譲歩せざるを得なかった(上野玉井家文書)。久米郡小野谷山は、同郡二一か村と浮穴郡四か村の入会であったが、文久年間から紛争が起き、明治三年の松山藩治農局による境界決定で解決した(『久米村誌資料集』)。
 宇和島・吉田両藩の係争地となった目黒山は、同山が吉田分封により同藩の飛地的状況となり、周辺がほとんど宇和島藩領であったのが原因であった。争論は明暦四年(一六五八)に始まり、材木を没収したり柚人を追う、山路を通さないなどの紛争が各所で起こった。万治二年(一六五九)から両藩が交渉したが解決せず、寛文四年(一六六四)目黒山庄屋らが出訴して幕府の裁断を仰いだ。幕府は双方に絵図面の作成を命じ、双方立ち合いの下に解決に当たったが、文化九年(一八一二)にもこの紛争が再燃した(建徳寺文書)。境界論が幕府裁定にまで発展した例は、万治二年一一月の、高知藩との篠山問題がある。

木地集落

 伊予の山間、銅山川流域や高縄山麓、面河などには盆や椀の木地を作った木地師の集落がある。木地師は近江国愛知郡小椋村筒井八幡神社の祖神である惟喬親王より、良材を求めて山谷を移動する権利を得たとする書き付けを持つ。銅山川流域にも元亀三年、天正一一年などの江州筒井公文所の名のある木地免許状を伝えている(新宮村郷土館蔵)。高縄山系の竜岡木地・鈍川上木地・同下木地では木地師の定着が早く、今治初代藩主松平定房入封直後の寛永一三年(一六三六)には検地をうけ、庄屋も置かれて村方として支配をうけた。三村の林野の利用も、留山への入山禁止、焼畑や切替畑の停止など山方の支配に従い、木地山の中にも藩有林や家中拝領山があった(資近上三-83)。
 木地師は、全国の仲間の連携や本山の維持のため「氏子狩り」によって戸数を調査し、上納金を徴収した。これによると新宮村には明暦三年(一六五七)の立川山を初見とし、元禄七年に小川山、寛保二年に中之川・馬立山、延享二年川之江山、明和元年新瀬川山の六地区がある(新宮村郷土館蔵・『川之江郷土物語』)。戸数は六、七軒から数十軒である。上浮穴郡では直瀬・梨下・小田深山・梅ヶ市・笠方などに分布し、夏は山畑で蕎麦・稗・粟を作り、冬は木炭や木地を作って里村に販売して生活した。

鉄砲と猟師

 林野の鳥獣については、各藩とも留山の制により保護した。また鹿狩や鷹狩は藩主や上級藩士の特権でもあった。大洲藩では領内の山林を三分し、中村・徳森など九か村は完全禁猟の御鷹野場で、池の周囲三丁の間でも狩猟は禁じられた。柚木・北多田村などでも鳩以上は禁猟となったが、大洲・高山村などでは小鳥でも狩猟が許された(有友家文書)。同藩には鳥目付がいて鳩以上の狩猟及び死鳥の発見は必ず届けさせた。西条藩は寛延三年(一七五〇)一〇月の布令により、猟期の厳守、鶴以外の鳥は与えるが鶴は届ける、違反者が出れば村中の者を禁猟とするとしている(福田家文書)。
 領内の鉄砲は用途から三分され、持ち主や玉目は鉄砲改めにより藩に報告された。今治藩内には家中持ち分以外に貞享四年(一六八七)二一月では用心筒三三、猟筒二六、威筒三一、新筒二二の計一一二挺があった。猟師は元禄元年(一六八八)に一〇名と定められたが、幕末期には増加している。松山藩天保九年(一八三八)の郡々鉄砲改めでは用心筒一一〇、威筒三一三、猟師筒三六一挺で、元治元年野間郡浜村のみで三九挺があった。新谷藩今坊村では、文政四年三月に玉目四匁から二匁二分まで七種類六九挺があった。鉄砲改めでは狩猟以外の目的に使用しない、隣領大洲では使用しない、親兄弟でも貸さないなど十数か条の誓約を行った。そして、猟師を止めれば鉄砲は代官所へ返却する規定であった。なお、管理、名儀の変更その他すべてが庄屋の責任であった(久保家文書)。

表3-36 今治藩の小物成

表3-36 今治藩の小物成


表3-37 松山藩野間郡の山年貢

表3-37 松山藩野間郡の山年貢


表3-38 宇和島藩の椎茸仕成

表3-38 宇和島藩の椎茸仕成


表3-39 宇和島領内の鉄砲数

表3-39 宇和島領内の鉄砲数