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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

五 交通の諸相①

幕吏の通行

 参勤交代の制は幕藩体制維持のための根幹政策であるが、近世最大規模の交通現象でもあり、各藩の要する費用と準備は大変なものであった。幕府は諸藩の動向調査に隠密、地方政治の視察に巡見使、特に海岸地方の調査や産物奨励に回浦使を送り込んだ。そのほか公家や外国人などの通行もあったが、それらの通行・滞在・接待・諸資材の準備などの負担は、すべて藩と領民に課せられた。小松藩ではこのほか測量方役人・銅山見分代官・京都銀座役人・罪人を伴う大坂盗賊方・分銅改方役人、宗教関係では京都大仏御用・紀伊熊野大宮司・信濃善光寺如来、大峰山修験者など多様の通行が公用の接待を受けている。その大半が陣屋町か街道の大頭村に宿泊した。
 朝鮮通信使は幕府の慶事や将軍就任の奉賀のため来朝したもので、元和三年(一六一七)から文化八年(一八一一)の間に一一回行われた。一行は約四〇〇人で滞在は数か月に及び、その費用は莫大なものであった。使節は瀬戸内を航行するが、幕府は壱岐-品川間を四〇区分し、接待を諸大名に分担した。規定では一万石に付三七両二分で、今治藩では計算上は一三一両余であるが、文化五年(一八〇八)七月の来朝では村高一〇〇石に付一両を割付げ、領内から四二三両余を集めた。
 宝暦一二年(一七六二)五月、江戸宿坊馳走役となった大洲藩では、その費用負担のため藩士にも給米の差上げを命じ、一〇〇石にっき九人扶持渡しとなった(「加藤家年譜」)。宇和島藩では、延享五年(一七四八)一〇月、五代伊達村候が備後輛での通信使接待役となり、浦方を除く村々から人夫一〇〇人を徴発し、郷中から銀一〇〇貫の上納を命じた(不鳴条)。航路筋に当たる風早郡津和地では同年の通行時に村方から薪五〇把、水一五荷、馬の飼料として大豆・糠など五俵を提供し、風早島から番船・案内先などに三九艘と水主一五六人を出した。同島では津和地を中心に長崎奉行の航行した明和五年(一七六八)八月に二九艘、安永八年(一七七九)八月には二七艘、水主各一二〇~一三〇人を出している(八原家日記)。
 慶長一四年(一六〇九)から嘉永三年(一八五〇)の間には、琉球使が賀慶使として一一回、恩謝使として一〇回来朝しか。一行は正使以下七〇~一〇〇人である。また通商の特権の返礼としてオランダのカピタン一行約一五〇人が毎年一回、寛政二年(一七九〇)からは五年に一回ずつ長崎と江戸を往復したが、これらも共に瀬戸内を航行し、諸藩の負担となった。
 寛文七年(一六六七)、天保一二年(一八四一)には西国海辺巡見使(回浦使)が讃岐から伊予に入り、番所や船・水主数・城米入津・出入船舶などを調査して御荘から豊後へ渡った。寛文の巡見ては五月に御用船二、荷船二嫂で吉田に入港し、同藩では郡奉行以下庄屋らが船を並べ、鐘を叩き船歌を唄って上使一行を迎えた。天明五年(一七八五)から、天保四年の間には四回、幕府の煎海鼠改方役人一行数十人が浦々を回った。これは、長崎での俵物の輸出増加を計るためであった。天保四年の場合は三月一七日に川之江に入り、一九日西条、二一日今治、二九日三津浜と泊り、四月一八日に宇和島を発って、緑村から二一日土佐宿毛へ向かった。この折の和気郡の諸入用は銀札三貫九匁余、米四石五升八合であった(『愛媛県編年史』9)。
 桑村郡壬生川村では宝暦一〇年(一七六〇)七月、安永年中、文化五年(一八〇八)四月、天保九年(一八三八)、嘉永七年(一八五四)三月に秤改め役人神善四郎の名代ら一行が、文政六年(一八二三)一〇月と安政元年(一八五四)一〇月には分銅改め方後藤家名代らの通行があった。一行は六、七人で西条領から小松領を経て入村し、同村では馬一二、三疋、人足二四、五人を用意して中村へ継ぎ送ったが、規定の請取賃銭は本馬六四文、軽尻馬三二文、人足一六文であった(『壬生川浦番所記録』)。

巡見使の通行

 幕吏通行のうち、諸藩が最も準備万端に意を用い、多額の費用を要したのは巡見使であった。これは将軍の代替りその他に上使を派遣して諸藩の施政全般の視察を行うもので、寛永一〇年(一六三三)以降幕領では二一回、私領では九回行われた。巡見使は使番一人と両番(書院番・小姓組番)のうち二人の三人の旗本を一組とするもので、その家臣、従者が加おった。
 天保九年(一八三八)菊間浜村での宿泊者は一一五人であった。これに案内の村役人や人足を加えると数百人の大行列となる。
 一行は城下は避け藩政には関与せず、町方今村浦を回り、民情をみる目的であった。従って道路今橋の修理は事前にはしない定めであったが、改易や幕府の評価を恐れる各藩は、周到な準備を行った。宇和島藩では天和元年(一六八一)、藩船竜神丸以下一〇艘を豊後へ遣わし、家老・船奉行以下が一行を出迎えた(「御年譜微考」)。今治藩でも家老・郡奉行・代官らが藩境まで出迎え、宿所へは家老らが伺候した(国府叢書)。領内巡見中は郡境・藩境など要所に張番を置き、港や海岸にも見張りを立てて船舶の着岸を禁じ、不審者の侵入を警戒した。通行中は沿道や辻々にそれとなく小役人や足軽を配し、宿泊所では同心・夜回りや獲物をもった足軽五〇人が寝ずの番をした。
 しかし巡見使の表面上の接待役はあくまでも大庄屋以下の村役人で、彼等が賄方・荷物方・宿方・人馬方などに分かれて準備や応接に当たった。藩からは勤方・服装・上使からの質問に対する答之方を村役人に指示しており、松山藩は延享三年には七一項目、天保九年では九〇項目の解答例を示した(延享・豊島家文書/天保・紺原井手家文書)。それによると、城中や家中の経済や政治向きのこと、他村のことは知らぬと答え、善政によって飢人は一人もなく、各々が暮しに満足している旨を答えねばならなかった。勿論道路その他の修理・掃除は一切行わず、いつも行届くよう命じられていると答えるが、天保九年の場合、菊間浜村では橋を掛け、道を修理し、通行の邪魔の木を伐り、道筋の家々には垣・屋根・壁の取り繕いを命じた。喜多郡今坊村では大戸口新道を建設し、見苦しい家二軒と小屋・雪隠・牛小屋九軒を取り壊し、垣の取り除きと新設六か所をさせている(久保家文書)。
 巡見使の道順は、豊後佐賀関から三机に上陸し、八幡浜―大洲―灘町―松山―田野―三島と回り海岸を西条―小松―今治―松山―内子―宇和島と巡回して、緑村から小山番所を経て土佐へ向かうのが一般で、二五日前後の行程であった。御料巡見使の場合は約一〇日間で、宝暦一一年(一七六一)の場合では備前下津井から三津に上陸し、越智郡・桑村郡と進んで、川之江村から讃岐に移っている(長野家文書)。こちらも村継ぎに村役人が送迎し、人馬や宿・川越などの手配を分担して行った。
 一行の幕府公定の御朱印人足は、巡見使一人に人足七、八人と馬一三、四疋であった。しかし実際には天保九年の場合、大洲領大竹村では五四七人を用意し、新谷藩今坊村では出海・上須戒からの三三九人を加えて五四九人を要した。浜村では駕かき、荷物持ち、休泊夜人夫・予備人足合わせて八二七人を用意した。同年吉田陣屋に宿泊した一行のうち副使三枝平左衛門の接待は本亭主鳥羽古兵衛、脇亭主橋野屋古吉が勤め、その他加役・台所頭取・手代・書役・給仕・料理方などに六二軒が当たり、ほかの二人の上使へも各々六二軒ずつの計一八六軒が役割を分担した。これは町役を負担する吉田の全町家を三分したものである。なお同年の浜村の例では巡見使へは三、四両を村ごとに贈ったが、一行の足軽・小者までが金品を要求する状態で、他村での額を問い合わせている。巡見使回村の史料は各村浦とも極めて多く、西条領福田家文書中でも寛政元年二貰九)分のみに関して二四冊を残しており、村々にとっていかに大事件であったかが分かる。

伊能忠敬の測量

 忠敬の全国の沿岸測量は、文化二年(一八〇五)の第五回西国出張からは公儀役人としての待遇を受け、幕府天文方も加えて一付は初回の六人から一六人の編成となった。下役には坂部貞兵衛・柴山伝左衛門ら四人、内弟子に伊能秀蔵ら四人、その他供侍・竿取・小者らであり、これに各藩の郡方手代・絵図方など藩士六、七人が加わり、案内人・道具持・村役人らを加えると一行は五〇人余となった。
 伊予への入国は文化五年六月で、宇和島藩郡方吟味役都築九右衛門らが船四四艘と別に予備の付船二〇艘、加子四三〇人で宿毛湾に出迎えた。各藩内の人夫や馬、海岸測量のため特に必要とする船や水主、測量に要する費用と労力はすべて藩負担であった。村浦は入村を前に絵図面を用意し、小松藩作事方では四月に梵天竿・杭・掛矢・腰掛・股木・幟竿・休憩小屋(北条・広江・今在家他)を用意した。また忠敬が痰咳の持病を持つため医師の手配も行った(小松藩会所日記)。複雑なリアス式海岸と多島海の南予沿岸では、広い海域は三組に分けて測量したが、伊予での日程の過半三か月を要している。
 風早郡島方での測量は御用船七五艘を使用し、うち島方が三五艘を提供した。日程は約七日間で、うち畑里村の割当ては船三艘と人夫延四五八人であった。同郡総入費は一八貫九〇二匁余である(畑里村文書)。壬生川村の測量時には、同村の新田と高田村新田で境川付近の境界紛争中であり、無境界として測量を一行に願ったが拒否された。ために測量中のみ川の中に仮の境界杭木を立て、今後の村境の証拠とせぬ条件を大庄屋芥川源吾から願出た(『壬生川浦番所記録』)。なお、四国測量は忠敬の第六回測量であったが、越智郡島嶼部については、前回の山陽路測量の際の文化三年一月から安芸忠海に渡る二月一九日の間に行われた。松山藩域の越智島一七か村では一四~一九日の六日間で測量され、延六、〇〇〇人の人夫を提供した(三浦家文書)。
 新居浜付近では抗生に一泊、犬島に二泊した。測量刑具のほか薄縁・筵・雨覆七嶋など七六枚、野風呂、歩行板の準備に九〇人、諸道具・荷物運搬に一〇○人、召船・飛脚船・漕船・荷物船・小船など三六艘を用意した。両宿とも三宿に分かれたが亭主以下爛方・燈方・臥具方・髪結方・料理方・風呂方・給仕方と医師など垣生泊りで八九人、黒島宿では九二人が世話に当たった。測量中では両村合わせて延九四〇人の人夫、費用は犬島浦が銀二貫一三九匁余、垣生村が二貫八二一匁であった(白石家文書)。

遊行上人の回国

 遊行上人とは、相模藤沢の清浄光寺の住職が、幕府の保護により念仏教化のため諸国を遊行したことによる名である。通行には御朱印伝馬五〇疋と人夫五〇人を許され、大名に準じ巡見使同等の格式とされたので、諸藩今村浦の負担は大であった。伊予への回国は明暦二年(一六五六)四月、延宝三年(一六七五)四月、元禄一三年(一七〇〇)三月、正徳五年(一七一五)一一月~六年二月、延享四年(一七四七)五月、明和七年(一七七〇)、安永三年(一七七四)六月、寛政七年(一七九五)七月、文政九年(一八二六)七月の九回であった(越智通敏「遊行上人の回国」他)。今治藩は延享四年の回国を藩主松平定温の婚礼で断わり、宇和島藩でも正徳五年時は一度断わって後に二泊三日のみの滞領を認めた。
 一行の順路は豊後臼杵から宇和島へ渡り、卯之町・大洲・松山と北上し、今治・西条・三島と通って馬立を経て土佐へ入るのが通例であった。しかし幕吏とは異なり、旅程は自由で、元禄一三年では松山に二七日間滞在するなど、城下では長期間滞在し、庶民に賦算を与えた。上人と格別の関係にある伊予では、滞在期間は比較的長く五、六〇日であった。一行は上人・役僧・伴僧・供侍ら七、八〇人であるが御朱印持・神輿・乗物龍夫・荷物持などを加えると数百人の物々しい行列となった。上人らの泊る寺院や庄屋宅ぱ本陣と呼ばれ、衆僧以下は下宿に分宿をした。
 延宝三年、宇和島藩では一行の送迎に人夫一、〇〇〇人、馬一〇〇疋を用意した(『伊達家御歴代事記』)。寛政七年大洲城下では本坊に寿永々、下宿に町屋五軒を用意した。同年西条領松神子村通行のときは七七四人と馬二一疋の大行列であった。文政九年の通行では国領川に人足五〇人以上を出して仮橋を架け道路を清掃し人足七〇〇人を提供した。同年八月二六日には今治藩を通過したが、寺社奉行以下の下役人ら四〇入と大庄屋以下の村役人が総出で送迎し、道路は予め修繕をしておいたが、当日は降雨のため人足を動員して砂を撤いた。

参勤交代

 参勤は諸大名が出陣に擬した数百人の行列を仕立て、一年ごとに江戸と領国を往復するものである。伊予からは各藩とも片道二〇日前後を要し、その旅費は勿論であるが一行の在府費・江戸藩邸費なども莫大な出費となった。大名の財政窮乏は藩士の扶持米の借上げや領民への負担に転化されるが、大洲・宇和島藩など南予の遠隔地ではより費用が大であり、外様大名の統制も幕府の意図の一つであった。
 この参勤の法は大名が最も完全に守るべきもので、往復の際の将軍や夫人、老中以下への御礼の挨拶・献上金・献上物・帰国後の藩士らの出迎え、城中での目通りの挨拶や御歓び、社寺参詣などが極めて規則的に行われた。藩主の無事江戸着や帰国を祝して町人や村役、百姓も祝金・昆布・酒肴を献上した。しかし享保七年(一七二二)七月から同一五年四月までの間は、幕府への上げ米の代わりに在府期間が半年に短縮され、三月と九月の交代となった。また文久二年(一八六二)八月には妻子を国元へ帰してもよく、三年ごとの四か月間滞府と緩和された。慶応元年(一八六五)には旧に復したが、既に幕府の弱体により、あまり行われなかった。
 参勤は形式と先例を守り、綿密な計画と準備により行われた。海路による伊予ではまず船の修理・船団の編成・漕船や水主の動員、水や食料の積み込みが必要であった。万延元年(一八六〇)五月、松山藩主出船の際には一か月以上前に三島衆二七九人、岩城衆一三六人(うち一一人は生名村、九人は三津雇い)の浦水主が決定し、出発前日には三津に集結した(三浦家文書)。出発に当たっては先触れが先発し、領内の寺社には道中の安全を祈願させる。宇和島藩主伊達村候は、三机八幡神社の神殿を改築して自筆の神号額を掲げ、鳥居も建立した。出発の当日、沿道の道筋は清掃され、家老以下庶民まで見送りの者は定められた場所に並ぶ。城中から船手までの行列は、吉田藩の場合下目付―宰領―弓組など五三組に及ぶ壮大なものであった。出発は佳日の佳時が選ばれ、曳き船の水主は船歌を唄って藩主を慰めた。旅行中の状況は飛脚により国元や江戸に報告されるが、今治藩では往路は大井川を渡りきると、帰路は大坂着の報告があると藩士・村役人らが歓びの金銭を贈った。
 出港しても天候によっては何日も滞船した。明和六年(一七六九)三月、大坂に向かう吉田藩主伊達村賢の御座船が明石沖の暗礁で座礁し、天明二年(一七八二)三月には松山藩主松平定国の御座船が、播磨塩屋沖で難船した。

参勤の順路

 参勤の時期に当たる初夏から初秋の瀬戸内海は比較的平穏で、各藩の船団は大坂安治川を目指して東行した。しかし播磨灘の風波を避けて室津に入港し、陸路から大坂蔵屋敷に入り、淀川を上って伏見・京都と進むことも多かった。宇和島藩は三机を中継基地とするが、満潮時には奥南運河を通り、宇和海が時化れば下泊(三瓶町)かにに泊(八幡浜市)に避難をした。江戸を一〇月に発つ外様藩の帰路では海が荒れることが多く、藩主らは三机で上陸し、駕籠で塩成へ向かった。吉田藩では宇和―八幡浜の陸路をとることもあった。
 急変や帰路の連絡には狼煙が使用された。佐田岬を船団が通過すると宇和島藩では、塩成―大島―大崎―大良―九島、吉田藩では、喜木津―周木―皆江―南君―遠見山を経て城下に継がれた。松山藩では岩城から大三島・大下・岡村・宮崎・種子・菊間・せんば嶽・三津番所と継ぐ経路と波妻・岩城から鹿島・粟井、白石波妻から門田・興居島から三津へ継ぐ三経路があった(『松山叢談』)。今治藩では藩主着坂以前に今治から迎船を出し、弓削島へ家老以下が出迎えた。同時に山頂で上る狼煙が大島館山から今治海岸へ伝わり、城中・城下に知らせた。
 夏期の長旅は藩主には苦痛であり、松山・今治藩は往路は早く発って涼しい六月初めに江戸に入り、帰路は真夏をさけて初秋に入国した。今治藩主の天保七年の国入りは相模酒匂川で九日、大井川で八日の川止とな旦三六日も要した。初期には規則的であった参勤も、中期以降はやや乱れた。今治藩は宝暦以降涼しい木曽路の通行を度々願った。松山藩四代松平定直は延宝四年(一六七六)の初入から享保五年(一七二〇)着府の四五年間で、延宝六年の滞府命令を除いては一年の休みもなく、江戸―松山を二二回往復した。やや例外といえば貞享二年の国入りを病気で二か月延期し、享保三年の上陸地を風波のため波止浜としたくらいである。しかし九代定国は病弱もあって天明元年(一七八一)の初入りから在任二四年の間、参勤、国入りは七回で滞府は九年であった。一二代勝善は嘉永六年(一八五三)帰国中のところ、浦賀沖にペリー来航により大坂から引返した(『松山叢談』)。
 吉田藩では享保六年に三代伊達村豊か上屋敷類焼のため参府延期を願い、四代村信は経費の節約から道中の格式を省略できる中山道を利用した。また五代村賢も持病の痔を理由に度々滞府を願った。宇和島藩も弘化三年木曽路通行を許されたが、安政三年(一八五六)は不許可となり美濃路を願って許された(藍山公記)。
 藩主の供をして江戸勤番に向かう藩士は、吉田藩では前年の一〇月初亥の日に発表された。出発に当たっては藩士も神仏に安全を祈願する例で、今治藩では常夜燈や絵馬の奉納がみられる。天保一一年の小松藩の参勤では、道中は廸戸方・宿割・御使者方・駕宰領・賄方・駄荷払方など九つの役割を分担した。供の心得については松山藩延宝七年八月の法度によると道中での乱行や町人との争いを戒め、途中で親類宅へ寄ってはならず、宿銭や買物に規定の料金を払うこととしている(資近上二-38)。同藩の元禄二年(一六八九)一二月の布告や、今治藩元禄六年五月の心得書は更に詳細で、土産や餞別は親子兄弟に限ること、仲間は定めの人数のみ連れること、目立つ服装はしない、船渡や川越は役人の指図に従う、江戸詰めの長屋では天井や唐紙など美麗にしないことなどの項目がある。しかし藩士にはあまり好ましい出張ではないとみえ、後期の今治藩では籤引の例があり、小松藩では毎年数人の辞退者がいた。文化五年(一八〇八)三月の例では腫物・腰痛・癪などで長旅は無理として、五人が断わりを申し出た(小松藩会所日記)。

西条・小松藩の参勤

 西条藩は定府のため一度も入国しない藩主がおり、入国したのは初代松平頼純、二代頼致、三代頼渡、九代頼学、一〇代頼英の五人であった。頼純は寛文一〇年(一六七〇)、元禄七年、同一一年、同一五年、宝永五年の五回入国した。頼学の天保六年(一八三五)の入国は、前回頼渡の享保一四年(一七二九)以来一〇〇年ぶりで領民は歓喜し、行列は壮麗を極めた。三月一三日江戸を発ち、途中和歌山に寄って五月六日市塚へ入港したが、大小六〇般の船団のうち一〇艘は和歌山藩船、三三般は借用商船で、藩有は一七艘であった(西条森家文書)。頼英の国入りは慶応四年(一八六八)七月で、市塚から御殿までぱ藩主の駕籠を中央に前後の砲隊八〇人、同槍持八八人、挾箱・御馬・傘・御馬・撒兵五二人の計三〇〇人が太鼓に合わせて二列で陣屋まで行進した。
 小松藩の召船などの修理は地元でも行われたが、新造や大修理は今治との入札の結果で、安芸倉橋島に注文することが多かった。初期の召船は豊丸、享保ごろは泰丸となり、元文以降は静丸が主となった。安政二年泰丸が破損したため新造まで回船業の大吉に年二〇両の上納金で貸与した。しかし、翌年再び大破したため四〇両で同人に売却した。
 同藩の船倉や作事場は広江の大持ヶ浦にあったが、後に小松川尻に移され、宝暦九年七月、更に広江川口に移した。しかし明和八年一一月、御船頭の池原長兵衛から船の出入や水主の通いに不便として変更の嘆願があった。天保四年(一八三三)には、作事場は北条川河口にあって夜業で静丸・小早などの建造に当たっている。
 小松藩の航路は新居浜沖・犬島・川之江と沿岸を進んで丸亀付近から北上し、備前下津井へ渡った。大坂を目指すが天候によっては牛窓・室津に上陸した。宝暦一二年(一七六二)三月では家中は針木川原、庄屋・年寄・町頭は大川裾で見送りをした。一一日に乗船したが潮流が悪く滞船、讃岐箱ノ岬でも雨のために滞船し、室津まで七日を要した。天保一。年三月は泰丸で六日に宮ノ下川で乗船し、七日に出帆、一〇日多度津から上陸して金刀比羅宮に参詣し、大坂川口まで八日を要した。参勤人数は寛保四年(一七四四)三月一柳右膳以下武士一八人、足軽・御小人・新小人の総計五七名、寛政九年(一七九七)四七人、同一二年五八人であった。
 帰路は享保一二年(一七二七)の例では泰丸・天神丸・西丸と宮ノ下惣右衛門船の四肢に藩士ら三九人、広江・宮ノ下・吉井各村の雇船四般に駕籠・足軽・馬などを積んで大坂まで出迎えた。嘉永六年(一八五三)四月には今治での雇水七を連れて室津に出迎え、同地でも雇水主や漕船雇賃の交渉に当たり、召船の水主を一〇人減らして一六人とした(小松藩会所日記)。

大名の軍役

 領主が幕命により将軍の名代として上洛したり、日光社参の供や代参、またそれらの警衛に当たる時は、格式以上の供揃や準備・献上物が必要で、徴発される人馬の費用も莫大であった。ちなみに、こうした道筋では庶民の旅は禁止となった。
 今治藩初代松平定房の主な事例をみても寛永一四年(一六三七)島原の乱鎮圧に加勢し、同一七年には高松城在番、正保四年(一六四七)には長崎警戒のため出張、寛文九年(一六六九)一〇月には女御藤原氏人内祝いのため将軍家綱の名代として上洛するなどがあった。この京都上使の際、江戸を発った人数は雑兵も含め一、七六五人(今治藩士の三倍)で、その上江戸留守居として四四九人を置いた。同藩はこの費用のため幕府から一万両を借財し、それ以降の財政窮乏の大きな原因となった(資近上三-8)。享保一三年(一七二八)四月、将軍吉宗が日光社参の時、松山藩主松平定英は大津―今市間の勤番を命じられ、惣人数二、七三九人を率いた(『松山叢談』6)。正保四年の黒船長崎入港事件では今治藩は三二艘・一、一九〇人で出陣したが、松山藩主松平定行も一〇九艘・六、三一一人を率いて出陣した(資近上三-5、二-23)。
 宇和島藩では寛永九年(一六三二)六月、肥後城主加藤忠広改易の際に船三一艘・水主五九六人、同一四年一〇月島原の乱に上使御用船五〇艘、水主一、二一四人を提供した(『伊達家御歴代事記』)。明暦三年(一六五七)三月、大洲藩主泰興が丸亀城在番を命じられた際は、藩船二四・雇船二五艘と総人数一、〇七八人、馬三〇疋で長浜を一六日出港、一八日に丸亀に入津した(『北藤録』)。今治藩主松平定陳の元禄一一年(一六九八)一一月、福山城請取の時は藩士一三〇名が入城したが、水主とも総人数二、〇八二名を要した。船は松山・風早からも雇い、大坂から日雇一〇〇名を雇うなどその費用は参勤の比でなかった。

領主・代官の回領

 代官らの検見など領内回領でも、道筋や休泊の村々は道橋の整備や案内、休泊・警戒の準備・船や人足・賄の手配などで大変であった。正式の定例の回領以外でも、大洲藩の例では御鷹野・青島鹿狩り・長浜川狩り・御船引・御遠乗といった種々の巡遊があった。これらは藩士の士気高揚をねらい、本陣を置いて軍事演習に擬して行われたが、領民には大きな負担であった。同藩の巡遊には駕籠のほか騎馬・徒行・川舟の形もみられた。松山・今治両藩の歴代藩主も鹿狩り・追鳥狩りなどを好んだ(表三-104参照)。
 領主の回領は、今治藩のような小藩ではそれ程日数を要さず、三代松平定陳の例では元禄五年八月で四日間、同七年八月は地方三日、島方四日間であった。供は家老以下二四、五人である。宇摩郡へは家老・代官が回領し、藩主の例は少ないが、天保一三年(一八四二)四月には定保が二日に出船し、一二日に帰城(途中、風波で大島に一泊)した。明治三年知藩事の定法は陸路で四月四日出発し、大町に泊って五日夕三島本陣に着き、一一日夕に帰藩した。供は久松修理・服部泉ら一五人であった(「土州役用帳」・『今治拾遺』)。
 松山藩では享保七年(一七二二)三月、松平定英の回領が、陸地部のみで一一日間、うち久万山で三日を要した。また、安政五年(一八五八)の春、松平勝成は御先馬・大小小姓・下目付・奉行・用人・家老など五〇余の役職二二〇人を従えて、混乱する幕末期最後の回領を行った。行程は、三月一九日久万町泊―菅生―久米―千原―丹原―周布―大町―土居―天満―川之江―小松―壬生川―古田―桜井―波止浜―浜村―味酒で八四里二八丁を回って四月二日帰城した(「三好源之進手控」)。川之江・大町間は人足三一〇人と馬一五疋で送迎しており、一行は五三〇人の大行列であった(「土州役用帳」)。領主に代わる中老・番頭らの郡ごとの回領も多かった。
 領主や重臣の野遊びでは多くの領民が勢子として動員された。松山藩主松平定直が延宝七年(一六七九)一二月、太山寺で行った鹿狩りは一、五〇〇人、享保五年(一七二〇)三月、興居島での追鳥猟では三〇余映が渡海に徴発された(『松山叢談』)。今治藩主松平定時の延宝四年一月の大島鹿狩りでは、家老以下六五人の藩士と地方の持筒庄屋・木地村狩人ら三〇余人が五日間も滞在し、勢子一、〇六〇人が集められた。翌月には藩士四〇人が南方(桜井、古谷、別所、松尾方面)と北方(大浜・石井・法界寺方面)に分かれて雑子追鳥狩りを行い、勢子は双方で五、〇〇〇人を動員した。同年五月には召船と供船五、六艘により友浦沖で鯛網見物も行われた(『今治拾遺』)。両藩の検見など代官の回領は、上下一七、八人により代官所轄ごとに三、四泊の単位で行われた。順路や昼食・宿泊の場所ぱほぼ定まっており、今治藩天保ころの北方代官所では大野・竜岡上・大浜、南方代官所では町谷・松本・八幡に泊まった。
 藩士の公用の旅は、各藩とも「道中法度」・「旅中定」・「御供達道中御定」・「御家中旅扶持被下覚」などにより旅費・茶代・会釈向きまでが支給され、供人数が定められていた。旅中の不行跡はもちろん、武士としての対面を汚す事は厳しく戒められた。松山藩では宿の悪口をいわぬことや、供の小者の行儀作法についても指示した。宇和島藩の場合、五〇〇石今治藩は六〇歳以上て目付役以上の者へは継駕と馬一疋が支給された。四~七歳は籠賃・旅籠賃・船中の賄銀などは八歳以上の者の半額であるが、子供でも当主には一人前が支給された。三歳未満には手当てがない。藩主の入国や占凶事、年始などには隣藩との間に多人数の使者の往来があり、今治藩では松山・高知・小松藩へよく使者を発した(国府叢書)。
 特殊な旅費の例であるが安永二年(一七七三)八月、西条藩洲之内村の百姓孫太郎が、藩買上げの馬三疋を江戸へ運んだ二二日間の旅費は一九両で、うち馬の分は九両であった(久門家文書)。また、今治藩高橋村の神主伊豆太夫が駕籠訴をして、江戸から護送された費用は五二両二歩であった(『今治拾遺』)。

庶民の旅

 庶民の長期の旅行は社寺参詣や遊山的なものと、出稼や船稼など生計上必要なものとがあった。近世初期には藩の規制も厳しく制限し取り締まる方針であったが、天和、貞享ごろからは遊山的な旅が増えはじめ、後期では頻度も団体の人数も急増した。寛永四年(一六二七)八月の幕府隠密使の探索書にも、請人のない旅人に宿を借すことを伊予の諸藩は土佐や讃岐よりも厳重に取り締まっているとしている(資近上一-130)。松山藩も承応ごろに町中・郷中ともに同様のことを指示していた(資近上二-109・111)。大洲藩では慶安四年(一六五一)三月に、城下で十人組長を出させてその旨を誓約させ、他国商人はもちろん親戚の者でも十人組で相談し、年寄の許可を得て宿を借すものとした(『愛媛県編年史』6)。
 しかし寛文ごろからは不審者でなければ一泊ぱよいと緩められ、大洲藩の天和三年(一六八三)四月の布令でぱ、止むを得ない事情なら二、三泊は認め(『愛媛県編年史』7)、やがては木賃を公定し、人足・馬方の世話役を決めるなど旅人を保護するに至る。小松領萩生村では文化一三年(一八一六)一月から六月の間の、庄屋の発した往来手形七通の控が残っているが、その旅行目的は宮島参詣二通・伊勢参宮・有馬入湯・四国遍路・上方大社・信州参宮と多様で計一八人であった(『小松史談』71号)。これは現状の寺社参詣の状況からみても多い数であるが、実際の数は、これらの数倍と思われる。
 庶民の旅行には代官所の許可を得て、庄屋・年寄・寺院が発行する往来手形が必要であった。手形には旅行目的や宗旨等が記される。出船の場合には出船手形、上陸の場合には有料の上り切手を必要とした。帰国をすれば、その旨を届けた。ただ後期以降は、これらぱやや形式的となった。旅行は社寺参詣が中心であるが、その道中はゆっくりとしており、農事や日常から解放されての物見遊山の傾向が強かった。しかし沿岸では押切り船を使用し、今治―大坂間も一、二枚帆の小型船で、順風でも一〇日余りを要した、海陸ともに危険な旅であった。したがって各藩が倹約条目などで再三禁じた旅行前後の振舞いや坂迎えも、段々と派手になった。長旅では親戚や村人から物品を贈られ、船着き場・寺院・峠までの見送りを受け、家族と惜別の盃を交した。

社寺参詣

 社寺参詣は四国巡拝・金毘羅参り・伊勢参宮が代表的であった。金刀比羅宮は水神・海神としての航海者の信仰から、幕府、諸大名の警護によって中期以降は生業の神、病気や災難除けの神としても広く信仰された。講参りや代参も特徴である。また門前町は文化年中で二、〇〇〇軒といわれ、例祭のほか大市・大芝居で賑わい、遊興も楽しみの一つであった。松山や今治からの街道に並ぶ道標の数や規模が、その信仰の強さを示している。
 文化九年(一八一二)年一月、浮穴郡中田渡村菅原某の「讃州道中記」によると一二日に出発、松山の伯父方に一泊してから金毘羅参詣をし、二一日に帰宅した。宿賃は一宿一二○~一三〇文、松山札では二匁五分、茶代三文、草鞋は九束(一束七文)を使用し、総費用は四四二文と松山札一八匁八分であった(玉井家文書)。また文化一一年二月の伊予郡上野村の玉井三右衛門忠友の「讃州道中記」では、二六日に出立し、三月二日に帰宅した。難所の大町―関ノ峠間の三里は伝馬に乗って一匁六分三厘、帰路三島―関ノ峠間も馬で二匁八分四厘であった。総費用は二六匁二分七厘であった(玉井家文書)。
 伊勢参りは太々神楽講などによる本参りの他、御蔭参りや抜参りも盛んであった。特に慶安三年(一六五〇)、宝永二年(一七〇五)以降ほぼ五〇年ごとに爆発的な参拝が行われた。明和八年(一七七一)五月には、一日の参拝客が一〇万~二〇万人に達し、六月になると小松藩でも旱魃の後西迎寺や吉郎右衛門宅の屋根など各所に御幣が降って抜参りが流行した(『小松邑志』)。宇和島藩では明和六年二月に、幼少者が家を忍び出て抜参りすることを厳禁し(『記録書技』)、松山藩も文政一三年(一八三〇)五月、親や主人の許可のない御蔭参りを禁じた(「御触状控帳」)。
 伊勢参りは一生に一度の憧れの旅で、帰村後は村人に大振舞いをし、氏神には絵馬を掲げた。海路で山陽路に渡り、奈良から伊賀越えで伊勢路に入るが、上方や京見物を加えるので通例四〇日前後を要した。宝暦三年(一七五三)夏、桑村郡明理川村の幸吉による「伊勢参宮西国道中記」(東予市越智隆秀氏蔵)では六月一三日に出発し、丸亀から下津井に渡り、姫路―天ノ橋立―小浜―竹生島(琵琶湖)―桑名―四日市を経て七月三日に伊勢に入り、帰路は熊野路の尾鷲―新宮―大坂―今治と回り、八月一日に帰宅した。道中は四八日間で総費用は約一○両であった。

四国遍路

 中世には修行僧らの苦行の道であった四国巡拝も、近世には庶民のものとなった。往来手形からみれば宝暦ごろから特に多くなり、文化・文政期にその頂点となった感がある。近世初期には危険や難所も多かったが、次第に遍路道が整備され、道標も増加し、各所に善根宿の風習が成立すれば、さほど苦しい旅ではなくなる。高野山の僧真念の『四国遍路道指南』(貞享四年)、寂本の『四国遍礼霊場記』(元禄二年)などが版を重ね、大淀三千風や十返舎一九の紹介なども刺激になったであろう。行程は澄禅の『四国遍路日記』(承応二年刊)では「世間流布四百八十八里、私ニ二百九十五里四十町、阿波十日、土佐二十日、伊予二十日、讃岐八日」とある。『四国遍路道指南』や『四国遍路名所図会』(寛政一二年)では三〇四里半余である。
 明和五年(一七六八)五月、宇和郡則村(現、三間町)では藩命によって送り遍路(重病人を村継で送り返すこと)のため遍路宿を建てた。道中記や納経帳も数多く残されるようになった。安政七年(一八六〇)二月のみで、野間郡小部村から四国巡拝に出たものは六組八四人にも上った(紺原井手家文書)。四国遍路が流行すると、遍路に名を借りる浮浪の徒や生活困窮者も各地から流入して取り締まりも行われたが、余り効果はなかった。

旅日記

 宝暦一二年(一七六二)八月、伊予郡上野村の玉井三右衛門惟友は、大洲藩士の供をして同郡上灘村の大庄屋甚右衛門と共に上坂した。旅の目的は問屋に紙を売るためであるが取引の結果は三九〇貫五〇〇目の利益があり、大役を果たすと問屋のもてなしにより奈良や京にも遊んだ。この旅の模様は『上坂日記』に詳細であるが、往路はほとんど連日の風波で、「もはやこれまで」と何度も死を覚悟し、神仏に加護を祈っている。八月四日夕長浜を発ち一一日上灘を出船―御手洗―尾道―輛―赤穂―室津―明石―兵庫―尼崎と進んで九月二日大坂安治川に着船した。帰路はこの逆であるが九月一三日に乗船し二六日に長浜に帰港した(玉井家文書)。
 宇和郡城辺村の諏訪神社の神職岡原常嶋は、文政八年(一八二五)四月、同郡深浦村庄屋二宮綱美ら四人と一か月余の旅をし、旅日記を残した。神主職を継いだので京都吉田家への礼と伊勢参宮を兼ねた旅で、舞子の浜・道頓堀・伏見稲荷・天満などでも遊んだ。四月八日に発ち陸路を柏坂―岩松―宇和島―卯之町―鳥坂―大洲―道後―小松-西条と進み、金刀比羅宮参詣の後、丸亀から船で下津井に渡った。途中、松山領中村の茶屋でいい(乾飯)を食べたとある。帰路は二五日に難波から出船し、五月九日夕深浦に入港した(「岡原常嶋旅日記」)。
 文化七年(一八一〇)二月二八日、野間郡県村の貞隣が浜村岩童子から出船した。旅の目的や貞隣については不明であるが、二か月をかけて九州を一周し、山陰へも回っている。各所の神社仏閣を訪ね、湯田(長門)・嬉野(肥前)・日奈久(肥後)等の温泉に泊まり、夜は芝居見物という優雅な旅である。行程は広島―宮島―岩国―山ロ―小倉(三月一二日)―博多―太宰府―柳川―長崎(二二日)―熊本―阿蘇宮(四月一日)―八代―鹿児島(四月一五日)―霧島―油津―延岡(五月二日)―大分―宇佐八幡―小倉(五月一二日)―萩―津和野と進んだが、五月一九日浜田着以降を欠いている(「道中婦もふき」)。
 村内平穏や家内安全を念じて日本回国を発心し、無事に大願成就した人も多く、各所に感謝の回国記念碑が残っている。越智郡井ノロ村のように藤井園十郎(天保九年建立)と此蔵(嘉永七年建立)の、父子の回国碑が並ぶ例もある。「甘藷地蔵」で著名な瀬戸村の下見吉十郎は、正徳元年(一七一一)六月二三日から同三年四月二一日の間、各地で報謝をうけながら全国行脚の旅を続けている。旅は前後に分けられるがその間道中は一日七里余を歩いて四五二日、風雨その他で逗留は一六三日、木賃は一夜銭三〇文、旅寵は一匁二分前後であった(「日本回国宿報謝帳」)。

表3-94 宇摩郡泊村の公儀道行

表3-94 宇摩郡泊村の公儀道行


表3-95 伊予国通過巡見一覧(公料巡見使を除く)

表3-95 伊予国通過巡見一覧(公料巡見使を除く)


表3-96 伊能忠敬の伊予測量工程

表3-96 伊能忠敬の伊予測量工程


表3-97 参勤交代の人数

表3-97 参勤交代の人数


表3-98 西国大名の参勤交代時期

表3-98 西国大名の参勤交代時期


表3-99 伊予各藩参勤交代の規模

表3-99 伊予各藩参勤交代の規模


図3-26 参勤航路図

図3-26 参勤航路図


表3-100 伊予各藩の参勤航路(通常経路)

表3-100 伊予各藩の参勤航路(通常経路)


図3-27 吉田藩の参勤交代船団行列

図3-27 吉田藩の参勤交代船団行列


表3-101 宇和島藩主の参勤

表3-101 宇和島藩主の参勤