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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

第四章 文教の発達

 徳川家康によって江戸幕府が樹立されてから、秀忠・家光の三代の間は、まだ戦国の余風が残り、強力な武断政治が展開した。その反面に家康は政治顧問に崇伝・林羅山らの学僧・儒者を任用し、江戸城内に冨士見亭文庫を建て、また和漢の古典書の出版にも意を用い、文教政策にも重大な関心を示した。羅山の子鷲峰、孫鳳岡が儒官となり、五代将軍徳川綱吉は林家の塾舎を湯島に移して整備した。この学寮をのちに昌平坂学問所(昌平黌)とよぶようになり、林家の朱子学が官学として尊重された。
 各藩ではこの昌平黌にならって藩校をつくり、儒教・兵学・武術を修業させた。江戸前期に出現した岡山藩の閑谷学校、会津藩の稽古堂、米沢藩の興譲館等は有名な藩校であった。中期以降になると、その他の藩でも藩校が相ついで設置された。伊予国では延享四年(一七四七)大洲藩に止善書院明倫堂がつくられたのを最初とする。ついで翌年宇和島藩に内徳館がおかれた。この二つの藩校は全国的に見て比較的早い方であった。このころになると、家中におげる綱紀の粛正のための文武の奨励が必要となり、封建制度の補強策としての色彩が強くなった。寛政六年(一七九四)に吉田藩で時観堂、享和二年(一八〇二)に小松藩で培達校、文化二年(一八〇五)ころに西条藩で択善堂が誕生した。同じ年に松山藩で興徳館がつくられたが、文政一一年(一八二八)にこれを拡張して明教館と称した。これよりさき文化二年に今治藩に講書場(のち克明館)が設置されたので、延享四年からこの年に至るまでの六〇年間に、伊予八藩の全部の教育機関が出揃ったことになった。