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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

2 文武の奨励と儒学各派の隆運

蘐園学派の登場

 定功は明和二年(一七六五)二月に急逝し、嗣子がなかったので、松平定章(第四代定英の弟)の子定静(一七二七~七九)が宗家に入って、第八代藩主となった。定静は綱紀を粛正し、藩体制を補強するために、文武の奨励につとめた。
 その現れとしては、蘐園学派の斎宮静斎(一七二九~七八)が儒者に採用されたことである。蘐園学派は畢世の大儒と称せられた荻生徂徠(一六六六~一七二八)にはじまる。徂徠は仁斎の古学に対して、古語の解釈を重んじ、儒教の重点を政治・経済にありとした。彼の門下から多数の学者・文人が輩出し、政治・経済の学に太宰春台(一六八〇~一七四七)、詩文に服部南郭(一六八三~一七五九)らが最も有名であった。静斎は南郭に学び、のち私塾を開いて多くの門弟子を擁した。彼は安永二年(一七七三)九月に、松山に来て、藩医沢田修事の宅に寓し、田辺半弥・早川新平らをはじめ奉行・代官らを教授した。彼の説くところは、単に学理のみではなく、政治・経済の広い分野にわだったので、民政のうえにも好影響を与えた。
 定静の封建制を補強しようとする意図は、安永四年(一七七五)になって具体策が明示された。それは家老竹内久右衛門が藩主の命令により、藩士に学問・武芸を錬磨させて士気の昂揚をはかり、ひいては政治的に効果を現すよう指示したことによって知られる。藩邸では儒教に関する月次講釈が、また大広間でも講釈が始められた。いっぽう江戸の藩邸でも講釈が開かれ、藩主が臨席するほどの熱意を示した(『垂憲録』)。同七年(一七七八)三月に、中山九郎次と浅山勿斎とが抜擢され、躑躅の間で経書の講義が行われた(「松府古士談」)。勿斎については、上巻で述べたように、藩医の青地快庵について蘐園学を修めた。快庵は有名な蘭学者林宗の父であり、「徂徠学の賢才」と激賞された(『却睡草』)。勿斎の藩政上における業績については、重複を避けて割愛した。
 この時期は、蘐園学の黄金時代であって、静斎・勿斎のほかに浄土真宗の僧明月(一七二七~九七)の活躍したことに留意すべきであろう。明月は周防国屋代島に生まれ、幼少の時に松山へ移り住んだが、服部南郭と親交を結び、蘐園学を修得して松山へ帰り、円光寺の法嗣となった。彼は詩文に巧みであり、かつ筆跡に長じていた。その学徳を慕って教えを乞うものが多く、地方の文運に貢献するところ偉大であった。

古学派の隆盛

 この時期に松山藩では、古学派が前代に引き続き活況を呈し、その流れをくむ学者が輩出した。そのうち著名なのは、丹波南陵(一七三一~八八)・人見正達・丸山南海(?~一八〇一)らであった。南陵は名を成美、字を収蔵といい、剃髪して京都に赴き医学を学ぶとともに、施政堂に寓し伊藤東所について古学の教えをうけた。帰郷ののち藩命によって還俗し、儒官として松山藩士となり、尾崎訥斎とともに藩士の教育に当たった。彼は詩文にも巧みであり、かつ謹言篤行の士であったから、その感化はひろい分野に及んだ(「欽慕録」)。
 正達は名を正典といい、三津浜に生まれ、医を業として京都に学び、施政堂に寓して東所について古学の教えをうげた。三年ののち帰郷し、郷党の子弟に医学・儒学を教えた。南海は名を惟義、字を大蔵といい、松山藩士であった。仁斎の学徳を敬慕して古学を信奉した。学統のうえでは、伊藤東所の門弟として取り扱われている。のち側用人となり、藩政に貢献した。また彼の講義は門弟子に対し懇切であり、説くところ明快であったので、門前市をなす盛況であった(「欽慕録」)。