データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

4 明教館の設立

藩校設立の進捗

 定通は藩校設立の計画が進捗したので、文政一〇年(一八二七)八月に藩士の頭分二〇〇余名を大書院に集め、みずから文武の振興によって、藩風を粛正する必要性を力説した(「古今紀聞」)。さらに家老服部正弼に、藩校建設の事務を命じた。この時の設計によると、二番町の西端にあたる旧東門屋敷に武芸稽古場を、その南隣の天岸昇安の邸跡に学開所を、物見下に講堂が建てられることになった。
 翌一一年(一八二八)一月に、藩校の総教に家老稲川好徳、教授に日下伯巌・高橋復斎、助教に近藤八之進ら四人、学開所諸御用頭取役に谷左平太ら二名が任命された(「増田家記」)。やがて好徳から藩校を明教館と呼ぶ旨を明らかにし、これに関する諸規定二一条を通達した。その規定のうち主なものには(1)明教館に出入りする時、学問に志すものは南門、武芸の修練者は西門によること、(2)武芸・兵学を志すものは、年齢一五歳以上であって、それ以下のものは専ら素読・習字に励むこと、(3)従来藩邸内で行った月次講釈をやめ、明教館で開講するから、公用に差し支えない限り出席すること、(4)学問所では長幼の序によって行動し、講席の場合もその心得で臨むこと、(5)いったん学開所に集合し、廊下にある板木の合図で講堂に入場すること、(6)講師が講堂に着席したあとは入場を認めず、欠席扱いとすることなどであった(「明教館学校法度」)。

教学の方針

 明教館におげる教学の方針は、朱子学によるものであって、講堂の正面に掲げられた「白鹿洞書院掲示」・「論語課会説」の額によって想定される。教科課程は、小学と大学とに大別された。小学では、生徒を一等~五等の五階級に区分した。論語・中庸・小学を修了したものを一等とし、孟子を修了したものを二等とし、大学・中庸・小学を修了したものを三等とし、詩経・書経を修了したものを四等とし、易経・春秋・礼記を修了したものを五等とした。五等を修了したものは、一五歳に達しなくても、大学の教程に入ることができた。大学には六等・七等の二階級があり、六等には四書の講解、七等には五経の解釈を課した。藩士に対しては入学を強制しなかったけれども、五か年の間一日も文武場へ出頭しない場合は、処罰されて位階を落とすことになっていた。
 同館には、入学規則が定められていて、徒士以上の子弟に限り、馬術については平士以上でなければならなかった。入学資格は八歳以上に達したもので、父兄より申し出て、毎月二・七の日に入学式を行った。幼年の生徒を対象として、小学所がつくられ、素読・習字の学業に当たった。もと小学生徒を修学させるところを養正舎と称し、はじめ館外にあったが、のち館内の学開所に移された。館内に設げられた寄宿舎は、はじめ三寮であったが、のち五寮となった。寄宿舎の課業は小学生徒に句読を授けること、三の日の輪講、四・九の日の会読に出席して漢籍を講究することであった。余暇に史書類を読むこと、教官から提出された漢籍について発表をすること、さらに課題の漢作文・作詩をすることが規定された。また学業の成績によっては、江戸の昌平黌へ遊学する道が開かれていた。寄宿生のうち、成績優秀で品行方正であるものは、寮長に選ばれて寮中の取り締まりをすることとなっていた。

明教館の構造と職員

 明教館の敷地は、南北がおよそ六〇間、東西のうち南側が四五間、北側が三五間で狭くなり、また東側に屈曲があった。その敷地はおよそ二、五〇〇坪あり、南半分に学問所、北半分に武芸の稽古場があった。敷地の南西部に位置する講堂は外側に橡があり、内側は畳一〇八枚敷となっていた。学問所はその東方にあり、広間と二つの別室と教授詰所・助教詰所等とから構成された。
 これに対し、敷地の北半分を占める稽古場には、弓術・剣術・槍術・柔術・兵学等の道場があって、各流派の訓練がなされた。武芸関係の道場は師匠の座席以外はすべて土間で、器具には屋根を設けて雨露をしのぐようにした。明教館の東隣に教授・助教の住宅があり、館内の取り締まりに充てたので、別に宿直を置かなかった。
 同館の開設当時には、惣教(家老)・教授・助教・読長・句読師・諸用頭取等の職員が置かれたが、その後変遷があり、幕末期までに新たに監察中明教館用懸・素読頭取・助教手伝・諸用方が加えられた。

朱子学の隆盛

 定通の時代における文運の発展に伴い、多数の学者・文人を輩出し、まさに百花繚乱のありさまであった。日下陶渓(一七八五~一八六六)は名を梁、字を伯巌といい、代々松山藩士であった。はじめ藩儒の杉山熊台について蘐園学を修めたが 藩命によって昌平黌に入り、古賀精里について朱子学を研究した。これから陶渓は朱子学を奉ずるようになり、明教館が創設されると教授となり、藩学の振興につとめた。彼は温雅寛厚で包容力に富み、また詩文に長じ、書家としても有名であった。四〇年間もその職にあり、名声を慕って来り学ぶもの多く、藩の子弟で彼の指導をうけなかったものはなかった。
 高橋復斎(一七八八~一八三四)は名を栗、字を寛といい、はじめ崎門学の宮原竜山について学んだが、藩命によって昌平黌に入り、古賀精里について朱子学を修めた。また定通の侍読となったが、明教館の創設により教授となった。鈴木栗里(一七八七~一八二五)は名を良翰、字を憲叔といい、杉山熊台について蘐園学を修めたが、篤学の士であまねく古書に精通した。江戸に赴き昌平黌に入り、林大学頭の講義をうけて朱子学に転じた。帰藩ののち興徳館の提学となり、また側用達に抜擢せられたが、年僅かに三八歳で病没した。
 青地林宗(一七七五~一八三三)は諱を盈、号を芳滸といい、藩医快庵の子として松山に生。まれた。父快庵は蘐園学の賢才と称せられた人物であった。林宗は少年時代に父について蘐園学を修め、また漢方医学の心得を学んだようである。壮年に江戸に出て、杉田玄白の門に入って蘭学を学んだ。玄白の子に立郷(錦腸)があり、のち林宗とともに『日本遭厄紀事』を訳したことからすれば、杉田一門との交わりは深かったようである。寛政一二年(一八〇〇)に快庵が逝去したので、林宗は医業を継いだ。その後、大坂ついで長崎に遊学し、さらに江戸に赴き、幕府天文台の訳官馬場佐十郎と交わり、ますます蘭学に没頭した。文政五年(一八二二)に天文台翻訳方に任ぜられ、洋書や輿地誌の翻訳に苦心のすえ、万国地誌の最も完備した書の訳述に成功した。また『格物綜凡』の要点を摘録して、『気海観瀾』を著し、物理学を解説・紹介した。なお、『格物綜凡』はオランダ人の著書で、原名を『アルヂメーネ=ナチュールキュンヂフ=スコールプーク』といった。さらに水戸藩主徳川斉昭に招かれ、同藩の医員・西学都講となった。惜しいことに、林宗は翌年に江戸において、五九歳で逝去した。彼の著述・訳述は、総数八部・一〇九巻に達し、わが国におげる物理学の紹介者として知られた。

心学の普及

 定通は下級武士と庶民の教育の発展のために、心学の振興をはかった。心学の祖は石田梅巌(一六八五~一七四四)であって、神儒仏の長所を採り、これらを融合して、平民教育の基礎を構成した。
 この心学を松山へもたらしたのは、田中一如(一七六九~一八四八)で諱を利久といい、松山藩士であったが失明したので家督を弟に譲り、京都に出て心学を修め、さらに江戸でその研究を続げた。彼は梅巌の高弟手島堵庵の門弟の大島有隣について勉学した。一如は松山に帰り、藩の援助のもとに道後に六行舎を開設してその普及にっとめた。藩が六行舎を明教館に入学できない卒族以下のもの、および城下の町人に対する教育機関としたことは重要である。さらに藩は六行舎を藩費で小唐人町に新築し、さらに一如らに命じて庄屋を通じて農村へ巡回・出講させ、彼らの知育・徳育の向上をはかった。