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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

1 大洲藩の教学振興と明倫堂止善書院

儒学の黎明期

 元和三年(一六一七)に、米子城主加藤貞泰が大洲城主六万石に転封を命ぜられ、家臣団とともに伊予に入国した。この時、家臣中江吉長(俸禄一〇〇石)は、孫の藤樹(年一〇歳)を伴って大洲に来た。やがて吉長が風早郡の代官に任ぜられたので、同六年(一六二〇)まで柳原(現、北条市)に居住し、のち大洲に移った。藤樹は幼少のころ、吉長について儒学の手ほどきをうけた外は、ほとんど独学で儒教に関する重要な書物を読了したといわれる。彼の年一五歳の時、吉長が病死したので、そのあとをついで大洲藩に仕えた。
 このころ、大洲藩士の間には戦国時代の風潮が強く残っていて、剣術を尊ぶ半面学問を軽視した。藤樹は昼間武士としての勤務につとめ、夜間は専ら勉学に励み、『四書大全』を購入して、毎夜これを読むのを日課とした。ところが、藤樹は故郷の近江国高島郡小川村に老母が寂しく居住しているのを憂え、大洲に来るように懇望した。しかし母は老身であることを理由に拒否したので、藤樹の孝養を尽くそうとする念願は達成できなかった。元和九年(一六二三)に、藩主貞泰が逝去し、その子泰興が家督を相続した。同時に弟直泰が新谷藩一万石に分知され、寛永九年(一六三二)に藤樹は新谷藩に所属した。
 その後も、藤樹は郷里の母の存在を忘れられず、家老佃氏にその苦衷を訴えて、大洲を去る決意を述べた。しかし佃氏はこれを許さなかったので、同一一年(一六三四)に弁明書を書いて提出し、故郷に帰る自己の真情を訴えたが、その効果はなかった。そこで、一〇月に藤樹は決意して脱藩し、いったん京都に留まり、やがて母のもとに帰省した。翌年藤樹は京都の師について儒教の研究をすすめるとともに、独力で易学等の儒教の根本思想を極めることができた。
 このころから、大洲・新谷藩士のなかで、彼の名声と学徳を慕い、近江国に来て弟子となるものがあった。今川覚(勘右衛門)・中川貞良(善兵衛)・大野了佐(友庵)ら、さらに山田権・中川熊らは、そのよい例であった。そのほかに、藤樹の教えをうけた大洲地域の人たちは、名を知られているものが二六人に達している。同一七年(一六四〇)に、藤樹は伊予国および周辺の地域の要望に応じて、『翁問答』上下巻を著した。この書の上巻は孝経に啓発されて書かれたもので穏当であったが、下巻は世相を批判し、その時弊を痛論していた。晩年に彼はこの下巻の改訂を企てたが、病気のため果たすことができなかった。
 ここで藤樹にとって画期的な事件は、正保元年(一六四四)すなわち三七歳の時、はじめて『王陽明全集』を繰り返し読み、これに啓発された結果、従来奉じていた朱子学を捨てて、陽明学に没入したことである。王陽明(一四七二~一五二九)は明代の人で、儒学のみでなく仏教・道教にも通じ、朱子学を批判して、心すなわち理の説をうけつぎ、はじめて知行合一説を主張した。これをうげて藤樹は、心の当然とする理か物の理をなすと主張した。晩年には「良知を致す」の説をたて、人は良知を押しすすめて、その機能を十分に発揮しなければならないといった。
 正保四年(一六四七)の秋、藤樹は『鑑草』を著して、従来の学説を訂正した。これは七年まえに書いた『翁問答』が、彼にとって不満足の点が多いのに気づいたためといわれる。この『鑑草』の出版によって、大洲地域にも陽明学の本質が知られることになった。

石王塞軒の来洲

 大洲第二代藩主加藤泰興(一六一一~七七)の子泰義(一六二九~六ハ)は、学問を好み、万治年中に山崎闇斎(一六一八~八二)を江戸の藩邸に招いて、たびたびその講義を聞いた。泰義の子泰恒(二六五七~三五)は、文武両道に達していた。ついで第四代藩主となった泰統(一六八九~一七二七)は父泰恒の影響をうけ、儒学・歌道・連歌の広い領域に通じていたと伝えられる。
 泰統が闇斎門の俊傑三宅尚斎の高弟であった石王塞軒を大洲藩に迎えたことは、注目すべき事績であった。塞軒は名を明誠、字を康介といい、若い時から尚斎の門に入り、屈指の高弟とうたわれていた。彼が大洲に来た時期は、享保六年(一七二一)ころと推察される。『先哲叢談』巻八のなかに塞軒の事績について、彼が「大洲に来てから文化事業がおこり、地元の人たちはその功労を讃美している。」と叙述している。彼の教育上の業績は単に大洲地域ばかりでなく、高弟の山田静斎(今治の人)を産み、静斎を通じて小松藩・今治藩の学問が興隆し、やがて藩校を生む母胎が形成された。
 要するに、藤樹ならびにその弟子たちによって培われた大洲地域の学問は、学派こそ違っていても、塞軒の来洲によっていっそう進展した。そのため、儒学に対する理解とその旺盛な研究心は、ますます磨かれる結果となった。

三輪執斎と陽明学の隆盛

 加藤泰統が享保一二年(一七二七)に逝去したので、その子泰温(一七一六~四五)が第五代藩主となった。泰温は幼年時代から文武両道に精進し、特に剣術・弓術・槍術・馬術に通じていた。はじめ朱子学の佐善雪渓に学んだが、のち陽明学の三輪執斎(一六六九~一七四四)の講義を聞き、その偉大さに感激し、専ら師事することになった。
 執斎は京都の人で、名を希賢、通称を善蔵といい、若年のころ江戸に赴いて、崎門派の佐藤直方(一六五〇~一七一九)の門に入り、秀才ぶりを発揮した。直方の教えをうけた執斎は、師の信頼が厚く、ぱじめ前橋城主酒井忠清の子忠挙の厚遇をうけたが、ほどなく京都に帰住した。
 それからのち、執斎は師の学問から離れて陽明学を研究した結果、ついにこれに転向した。そのために、彼は直方から破門される結果となった。さきに仕えた忠挙は彼の学識を信頼するの余り、彼を京都所司代の松平信庸(丹波篠山城主)に推挙した。そこで彼は信庸のもとで、藩士の教育にっとめた。その後信庸は累進して老中となり、江戸城に勤務した。信庸は執斎に江戸に出るよう勧誘したので、享保二年(一七一七)に小石川にあった篠山藩邸に移った。
 執斎は藤樹を崇敬するの余り、下谷荒神町に祠堂を建てその霊を祭り、明倫堂と名づけた。ここで彼は陽明学を講じ、あたかも門前市をなす盛況であった。泰温は執斎を江戸の藩邸に招いて、その講義に耳を傾けた。その結果、泰温は執斎を大洲へ招き、ひろく藩士の教育に当たらせようとした。しかし、執斎は六四歳の老齢であるため、大洲へ赴くことの不可能なのを自覚して、その要望を辞退した。泰温は彼にかわる信頼できる人物を推選するように依頼した。そこで執斎は高弟の川田雄琴(一六八四~一七六〇)を推挙した。このような経過によって、雄琴が大洲へ来ることとなった。

川田雄琴の来洲

 雄琴は名を資深、字を君淵、通称を半大夫といい、はじめ琴卿、晩年雄琴、あるいは北窓斎とも号した。貞享元年(一六八四)四月に江戸に生まれた。この時期は藤樹が没してから四〇年後のことであって、蘐園学派荻生徂徠(一六六六~一七二八)の高弟服部南郭(一六八三~一七五九)の誕生におくれること一年、崎門学の高弟稲葉迂斎(一六八四~一七六〇)と同年であり、古学の主唱者山鹿素行(一六二二~八五)の逝去前一年に当たる。このころ、儒学の世界では朱子学のほかに、陽明学・古学・蘐園学派の学問が各地に伝播し、あたかも百花繚乱の黄金時代であった。
 彼は梁田蛻巌二六七二上七毛)について朱子学を学んだが、蛻巌は斯界の逸材である三輪執斎に就学するよう勧誘した。そこで彼は蛻巌のもとを離れて執斎の門に入って、専ら陽明学の研究に専心した。やがて雄琴は備中国浅尾領主蒔田定矩に仕えたが、ほどなく職を辞して江戸に帰った。ところが、執斎は病気のため京都に帰ることとなり、明倫堂の経営をすべて雄琴にまかせた。雄琴は、ここで陽明学の講義に全力を注いだ。
 さきに述べたように、雄琴は享保一七年(一七三二)七月に執斎の推挙によって大洲藩に仕え、教育事業に当たることになった。時に彼は四九歳であって、二〇人扶持を給せられた。師の執斎から依託された大事業は、藩校の建設と一般社会への教化の普及にあった。彼がこれらの事業の進展にいかに留意していたかは、この時の記録によって明らかである。しかし、雄琴が泰温の厚い信頼があっても、ただちに藩校設立という画期的な構想を実行に移すことは不可能であった。それは、彼が到着した年が有名な享保の大飢饉の時期であり、その後も洪水による田畑の流出が六回、虫害による凶作二回、旱魃による不作一回、さらに大洲城下町の大火による延焼が三回もあった。したがって、藩庁は荒廃した町村の復旧工事に追われ、新しい事業に手を出す余裕はなかった。
 雄琴の教育活動の領域は武士の世界ばかりでなく、庶民に至る広い範囲に及んだ。上は陽明学の次元の高い論理から、下は極めて平易な、しかも何人にでも理解できる教訓を中心とした講説を展開した。元文三年(一七三八)に帰国した泰温は教育の効果があがったのを見て、彼にいっそう教育的活動ができるよう御手廻の勤務から解放した。ここに雄琴は藩の雑務に追われることなく、神社・仏閣をはじめ庄屋の家を利用して、各地で盛んに講演会を開いた。
 雄琴の講義は、講書・教諭・夜話・切磋等に大別される。講書とは陽明学の書物を研究、教諭は極めて平易に講釈、夜話は主として夜間を利用し通俗的な講話、切磋はある題目について討論する会合を称した。議事の論題もひろい範囲に及んだため、藩政のうえに及ぼした影響も大きく、風俗の匡正に効果があった。雄琴がみずから書いた『予州大洲好人録』のなかで、村落を巡回して講演した時、一〇〇~二〇〇人の農民が入れかわって聴講するので、重さのために縁側が落ちた旨を記述している。

明倫堂止善書院の開講

 雄琴が大洲へ来てから一二年目の延享元年(一七四五)一一月に、泰温は藩校の設立に着手した。ところが、藩学創設に最も熱心であった泰温か翌二年六月に急死した。しかし幸いにして、後継者の泰衑(一七二八~八四)がよく養父の遺志をついで努力した結果、同四年(一七四八)に藩校の建築を完了した。その位置は大洲城東門の南方、桝形通の片原町・裏町にわたっていた。建設の財源については、泰温かみずから生活費を節約して基金を貯蓄したほか、藩士・庶民もこれに感激して、資金の寄進をしたことによる。また聴講に来た庶民も、わずかな持ち合わせの金銭を差し出して建築に協力した。要するに藩民全般をあげての基金の蓄積によって、藩校が実現をみたことに留意しなければならない。
 王陽明・藤樹の霊を祭祀した堂宇を明倫堂、講読の学舎を止善書院と称した。明倫堂は執斎の祠堂の名称をそのまま踏襲し、建築材は江戸にあった明倫堂の用材・瓦石等を主とし、これらは藩所属の吉田丸で運搬された。止善書院の名称は、松本山雪の描いた黄鳥画に、藤樹が賛を書いたものから着想されたと伝えられる。山雪は今治の人で、江戸時代初期に活躍した画家で、雪舟を慕ったという。雄琴はこの黄鳥の賛幅をおくられたことに感激し、学舎を止丘書院と命名しようとしたが、丘は孔子の諱であるため、これを避けて『大学』のなかの「大学の道は明徳を明らかにするにあり、民に親しむにあり、至善に止まるにあり」(原漢文)のなかの止善の語をとっ 学舎の建築も完成し、諸準備も整ったので、九月六日に落成の式典が盛大に挙行された。雄琴は「止善書院明倫堂成り、文成王藤樹先生に告ぐるの文」・「止善書院明倫堂成り、執斎先生を祭るの文」(ともに漢文)を霊前に奏上した。さらに、彼は『止善書院記』をつくって、その経過を明らかにした。これによって、大洲藩校が伊予国の他の七藩にさきがけ、最初のものとして登場した。雄琴にとって、執斎から依頼された学校設立の目的を達成し得たのであるから、その喜びは大きかったに相違ない。なお雄琴の著書にぱ『予州大洲好人録』五巻のほかに『藤樹先生年忌説』・『明倫堂記』、および『伝習録講義』とよぶ執斎の講説を筆録したものがある。また雄琴は兵学にも精通していて、越後流軍学の『伝書』・『軍礼』・『武者片袖』等の著書があった。
 後世の記録であるが、藩校には学校掛として家老一人、奉行一人、教授一人、助教二人、句読師五~六人、助読(定員なし)らが置かれていた。

川田資哲・資敬

 宝暦元年(一七五一)二月、父雄琴のあとを継承して、大洲藩の教学の振興につとめたのは、子の資哲(一七二〇~九三)であった。資哲は字を子明、通称を要助のち半大夫といい、号を芝嶠、隠退して為谿と改めた。彼は藩主泰衑・泰武・泰行・泰候の侍講として、また藩校の教授として活躍した。彼は学殖がひろく、単に陽明学ばかりでなく、朱子学・神道等のひろい分野にも通じて、諸学の長所を採り入れていたようである。特に谷川士清に橘家神道を学び、これを大洲八幡神社の常磐井守貫に伝えたことは注目される。彼はその職にあること二九年、安永八年(一七七九)に長子資始に譲って隠退した。この間に、執斎の講義伝習録を補修したほか、『瓊矛自従抄』・『玉籤集』等を著した。
 資哲の子資始は、通称を半大夫といい、父資哲の隠退のあとをうけて、藩校の教授となった。しかし病身のため在職することわずかに五年ののち、教職を弟資敬に譲って隠退した。資敬(一七六〇~一五一三)は通称を安之進、字を文欽といい、紫淵と号した。藩校の教授として教職にあること一五年、寛政九年(一七九七)に教職を免ぜられて、広間番となった。これは幕府老中松平定信による「寛政異学の禁」令の影響による藩内の学風の変化であろうと想像される。異学の禁とは、幕府の存在を公認する朱子学を正学とし、その復興をはかるために、他の儒学を異学として排斥し、吏員採用の場合には朱子学を奉じたものを採用した。この幕府の方針に従い、各藩校でも朱子学を採用するものが増加した。大洲藩でも、陽明学は表面上姿を消したが、その底流には雄琴および門弟らによって培われた学問に対する情熱が燃え続けた。

常磐井厳戈と矢野玄道

 幕末期における大洲藩の教学について忘れてならないのは、常磐井厳戈・矢野玄道のような優れた国学者を生んだことである。厳戈(一八一九~六三)は通称を仲衛、号を惟神・静窩道人・青柴垣主人といった。大洲藩士斎藤正直の三男であったが、年一六歳で八幡神社の祠官常磐井家の養子となり、上京して小沢芦庵の門に入った。年二一歳の時、矢野玄道(一八二三~八七)と義兄弟の約を結び、国学について互いに啓発するところが大きかった。のち平田篤胤没後の門人となり、斯道の研究に専心した。
 玄道は幼名を茂太郎、名を敬達・直弓といったが、のち玄道と改めた。父道正は平田篤胤の教えをうけ、のち正式に入門し、国学に心酔した。玄道は幼少のころ父の指導を受けたが、二二歳の時上京し、さらに江戸に移って古賀侗庵の門に入った。さらに平田塾に入門するとともに、昌平黌にも学んだ。彼は刻苦精励のすえ、篤胤の国学思想の継承者と称せられるに至った。彼は師からうけついた本教、すなわち惟神の道の宣布に邁進し、幕末の中央の政界における尊主論の唱導に貢献した。師の古代史の研究をいっそう深化させるとともに、維新政府に献策して国立の皇学所を開設することに成功した。