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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

4 吉田藩の時観堂と国学の発展

藩校時観堂の誕生

 吉田藩が生まれたのは、伊達宇和島初代藩主秀宗が明暦三年(一六五七)に四男宗純に対し、所領のうち一一郷七七か村、三万七、〇〇〇石余を分与したのによる。吉田藩の制度・政策は、宇和島藩のそれに追随するところが多かった。小藩の常として経済は潤沢でなく、領民に対する負担が重く、また封建制度の進展に従って、政界は腐敗し、藩士のなかには豪商と結託して私腹をこやすものがあった。その結果、寛政五年(一七九三)に全藩領にわたる紙騒動(武左衛門騒動ともいう農民一揆)が勃発した。六代藩主村芳は綱紀を粛正し、文武両道による人倫の道を確立する必要に迫られた。
 村芳は藩政刷新の一対策として、翌六年に吉田町横堀に藩校時観堂を創立した。隣の宇和島藩では内徳館を改めて敷教館とし、教育面の充実をはかった時に当たる。時観堂の教授となっだのは、森華山であった。彼は名を嵩、別号を退堂といい、朱子学を井上四明に学んだ。四明の養父蘭台は林鳳岡の門下であったから、林家の学統を受け継いでいた。華山の子秋水、秋水の第四子蘭谷も、引き続き教授となった。蘭石は名を松樹といい、朱子学ばかりでなく、陽明学・老荘思想、さらに蘭学にも通じた人であった。
 藩校では徒士以上の青少年を入学させた。その学科は漢学・国学・武芸等にわたり、はじめ教授二名・同副役および書生おのおの一人、句読師一〇人がいたが、のちに監学司・学監目付が置かれた。入学者は四書五経の素読をうけ、夕稽古と称する武芸の訓練を受けた。その外に日時によって、詩会・講義・輪講が開かれた。武芸では弓術・剣術・槍術・馬術・柔術・軍学・砲術等が実施された。

吉田藩の国学

 村芳の治世の教学について留意すべきは、国学者本間游清ならびに門弟が活躍し、国学が隆盛であったことである。彼は典医として吉田藩に仕え、本草学・朱子学を修めたが、国学を賀茂真淵の高弟村田春海に学び、国学者として名を知られた。ことに和歌に秀でていて、春海の門下片岡寛光とともに、錦門の双璧とうたわれた。
 文政三年(一八二〇)に村芳が逝去し、宗家の宇和島藩伊達家から宗翰が入って、その後を継いだ。宗翰は村寿の四男で、宗紀の弟であった。彼は質素倹約を守って、藩財政の再建につとめるとともに、文武両道の振興による綱紀の粛正をはかった。教授森華山の死後は、游清を重用して一五人扶持の待遇を与えた。游清の指導のもと、山田常典・横山由清らの俊秀の門弟が活躍した。吉田藩士が他藩に比較して、国学に素養の富んだものが多かったのは、游清ら一派の影響による。
 天保一四年(一八四二)に宗翰は隠退し、宇和島藩主宗城の弟山口宗孝が入って、そのあとを継承した。宗孝も文武の奨励に力を尽くし、沢田義書・坪井襄らを教授とし、家老飯淵貞幹に時観堂総教を兼ねさせ、教育の効果をあげるようにつとめた。明治元年(一八六八)に宗敬がその後をつぎ、藩校を文武館と改称するとともに、就学者の範囲を拡げ、卒以下のものの入学をも認めた。

表4-1 伊予八藩藩校一覧

表4-1 伊予八藩藩校一覧