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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

2 寛延―天明年間の一揆

西条三万石騒動

 前述の内ノ子騒動の起こった寛延三年(一七五〇)には、吉田藩領でも宇和郡喜木津および広早の両村(現、西宇和郡保内町)の農民が、徒党して騒動を起こした。その原因および紛争の内容については不明であるが、一二月に郡奉行が一揆の顛末を調査した結果、庄屋の五郎右衛門・次郎兵衛らを追放の刑に処したのを見ると、庄屋側に非違があったものと推察される(堀内家文書)。
 次にあげられるのは、宝暦三年(一七五三)に勃発した西条三万石騒動である。西条藩は草高三万石と公称しているが、そのほかに鉱毒の見かえりとしての増高、高外の新田畑をあわせると、本新高合わせて四万三、一〇八石余(『治藩の余波』)であり、他藩に比較すると、検地も寛大であった。ところが宝暦前後には財政困難が年とともに甚だしく、かつ同藩主は定府であったから、江戸の消費生活に租税の多くをさくありさまであった。そこで、藩吏はこの窮状を打開しようとして、同年が未曾有の豊作であるのを幸いとして、田租の増徴を企てた。
 そこで同年一一月に、藩吏は大庄屋・庄屋らを西条に召集し、検見による免定の通告をした。この時の田租の賦課は高率で、昨年分のほとんど五割増であったから藩吏すらこの過分の高免であることを認めた。農民たちは藩庁に対し田租の減免を嘆願したが、全く効果のないことを知り、強訴することとなった。この時、彼らを指揮したのは、郷村(現、新居浜市)の平兵衛、宇高村(同)の孫兵衛・弥市左衛門らであった。なお彼らに参画しかのは、郷村の山本寿渓であって、嘆願書を弥市左衛門が、連判状および一揆の参集に用いた立札等を寿渓が書いたと伝えられる。この間、農民が動揺していたことは、一宮神社の神主が静謐に鎮まるよう祈願をした旨を記載しているので明瞭であろう(「神事御用留控帳」)。
 一二月一〇目に、農民は指導者の指示に従い、加茂川磧に集合した。これに参加した農村の範囲は、新居郡五〇か村のうち一六か村であった。藩庁では、この情報を得て狼狽し、直ちに藩吏を派遣するとともに、各村の序屋らを動かして、その拡大と蔓延の防止に努力させた。この時、藩当局と農民側との交渉の結果、彼らの要求ぶ全面的に承認せられたか、あるいはどのような程度で妥協したかについて、明確な史料がない。この事件後に、藩庁から示された「在中に申聞せ度書附」のなかに、免合を四ッ五分余に決定した旨を述べていること、およびその後は定免制となっていること等から推察して、いちおう強訴の条件が承認せられたと思われる。はじめ農民の結束は意外に堅く、容易に解散する様子もなかったが、翌一一日に説得が効を奏し、ようやく帰村させることができた。
 藩庁は一揆落着ののち、騒動の主謀者平兵衛・孫兵衛・弥市衛門を捕縛して入牢させることおよそ一か年、翌四年一一月に斬罪に処した。この強訴事件は、農民側に犠牲者を出したけれども、彼らの希望による定免制がとられるようになったこと、また藩庁もその実施に当たって慎重を期し、それ以後四ッ三分以上の田租を課さなかったことによって、相当の成果をあげ得たと思われる。

多田組騒動

 宝暦四年~六年(一七五四~六)にわたる宇和島藩の多田組騒動について述べよう。はじめ宝暦四年に、宇和郡多田組の上松葉村(現、東宇和郡宇和町)ら一二か村の農民が騒動を起こした。その原因および経過についてはわからないが、やがて騒動の主謀者が同郡鹿島に配流されているのを見ると、おそらく庄屋との対立抗争によったのであろうと考えられる。ところが、この時点で両者の対立の雰囲気は解決していなかったようで、その後多田組では「御下ヶ金」について紛争が発生し、翌五年一二月に農民らは村出して坂戸村(現、宇和町)に集結することを申しあわせた。藩庁ではこれを洞察し、郷目付組付を派遣し、坂戸・東多田・真土・清沢の各村(現、宇和町)の頭取を捕縛した。この強圧手段によって、一応この騒動も鎮静した(小原村清家日記)。
 しかし、翌六年一月になって、再び多田組一二か村の農民が徒党して騒動した。おそらく前年の問題が彼らの希望するような解決を見なかったので、その不満が爆発したものと想像される。藩庁も引き続き三か度勃発した事件に留意し、農民側の感情を緩和するためであろうか、上松葉村の庄屋ら村役人の役職を取りあげた。さらに、一揆の主謀者を流罪に処した(小原村清家日記)。

宮窪騒動から下川騒動へ

 宝暦六年に、今治藩領越智郡大島と伯方島との間に起こった宮窪騒動がある。大島の宮窪村・余所国村(現、宮窪町)の農民たちは、宮窪村カレイ山の下草を採取する慣習を認められていた。藩庁は隣接する伯方島の有津村(現、伯方町)の農民に対して、同地に入って肥料としての下草を刈り取ることを許可した。そこで同年九月に、宮窪・余所国両村の農民は徒党して今治に上陸し、大手門前に屯集した。藩庁では大島に郡奉行町野勘右衛門のほか代官・大目付・目付を派遣し、事件の調査に当たらせた。その結果、宮窪村の嘉右衛門・弥惣右衛門・伝蔵らをその村出の主謀者と断定し、入牢のうえ斬殺した(『今治拾遺』)。
 宝暦九年一一月には、松山藩領周布郡久妙寺村(現、周桑郡丹原町)の農民が施政に不平ありとして、村出して隣接する小松藩領に逃散して、新屋敷村(現、同郡小松町)に屯集した。同地の明勝寺の住職は、窮迫した農民に同情し、藩庁にその実状を訴えた。やがて彼の努力によって、藩との間に解決策が成立したので、農民一同は彼の誠意に感謝して帰村した。この事件は小松藩でつくられた『小松邑志』上巻に掲載されているが、その紛議の内容および経過については記述されていない。
 明和年間(一七六四~七二)、大洲藩領喜多郡蔵川村(現、大洲市)では凶荒が続き、農民の生活は窮迫し、藩庁へ救済策の嘆願が相ついだ。しかし何ら援助の手が差し延べられなかったので、生活に窮した彼らは、同七年三月に越境して、宇和島藩領宇和郡野村(現、東宇和郡野村町)へ逃散した。いっぽう宇和島藩吏は彼らを説諭して、帰村させることとなった。
 その後、大洲藩庁は逃散の主謀者を探索したが、ついにそれを発見することができなかった。そこで、庄屋・組頭を責任者として処罰しようとした。これを知った農民吉右衛門・新之丞らはその苦難を憂慮し、みずから主謀者と名乗り出て、村民の犠牲者となった。この事件の結果については不明であるが、前後の事情を考察すると、騒動は失敗に終おったと考えられる。
 明和八年(一七七一)冬、宇和島藩領宇和郡下川村(現、宇和町)の元庄屋(隠居)伝四郎は、組頭に不都合なことがあったとし、それについての箇条書をつくり村民を教唆した。農民らは憤慨の結果騒動をおこし、藩庁に訴え出た。藩では組村庄屋を同村に派遣して、訴状について調査させた。その結果、組頭に非違のないことが明らかとなったので、村民もこれに納得し、騒動は鎮静した。藩は伝四郎を追放し、その養子久右衛門(庄屋)に隠退を命じて、事件は落着した。
 天明八年(一七八八)に、宇和島藩領宇和郡惣川村(現、野村町)を中心として騒勤が起こった。はじめ同村上部落の農民が天明飢饉による生計困難から異様な雰囲気に包まれていた。その不穏な状況は西組・寺組・稲屋組にも伝播した。その結果、彼らは同年円月に徒党して、大洲藩領の喜多郡人久喜・占田の両村(現、五十崎町)ヘ逃散した。宇和島藩庁では、郡奉行川原治左衛門らを派遣し、農民を説得のすえ、帰村させることに成功した。のちに藩庁は主諜者沖右衛門を日振島へ、覚左衛門を戸島へ配流した(『不鳴条』)。
 前述の惣川騒動に農民が喜多郡へ逃散した刺激をうけて、天明八年九月に宇和島藩領宇和郡遊子谷村(現、東宇和郡城川町)の農民が、生計困難ななかで庄屋・組頭の措置に不平を懐き、徒党して村役人の居宅を襲撃した。さらに越境して人洲藩領喜多郡平和川村(現、肱川町)に逃散した。宇和島藩庁では彼らに帰村するよう説得につとめ、さらに郡奉行稲井儀仲に目付・足軽らを統率し魚成村(現、城川町)に急行させた。この時藩庁の態度は極めて強硬で、指今に応じない場合には、逮捕する旨を明らかにした。農民は藩の強圧手段に恐怖心をおこし、ついに帰村するに到っだ。藩は実状を調介の結果、庄屋の非違を認めて差控を命じた。ついで寛政二年(一七九〇)に主謀者久之允を戸島に、彦右衛門を日振島に配流して、紛争は終了した。