データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

3 吉田藩紙騒動

土居式部騒動

 吉田藩は南予の小藩で、明暦三年(一六五七)に宇和島藩主伊達秀宗が、四男の宗純に藩領のうち三間川筋・山奥筋等の地域を割き与え、古田藩主(石高三万石)としたのにはじまる。小藩のつねとして経済か潤沢でなく、領民に対する負担が過服であったことは、農民たちが御本家様すなわち宇和島藩主の統治をうけたいと熱望していたので明らかであろう。
 天明の大飢饉(天明二~七年=一七八二~七)の襲来は、農民を窮地に陥れる結果となった。天明七年に宮野下村(現、北宇和郡三間町)の三島神社の神主土居式部清茂は、農民を救済しようとし、同村の樽屋与兵衛と強訴の計画を企て、三間地方の農民を蹶起させようとした。しかしこの密計は藩庁によって探知され、両人は主謀者として捕縛され、やがて獄死するに至った。
 こめ式部騒動は次に述べる寛政五年二七九三)の古田藩紙騒動より七年前に当たり、その終末が失敗に終おったことは、農民側の希望に反して、彼らに藩の弾圧を強化させる結果となった。それはこの騒動の直後に、宇和島藩吏、が吉田藩に赴いて調査したところ、米一俵に四斗六升、大豆一俵に五斗もあり、彼らに驚異の眼をみはらせたこと、物成の上納に当たってば雨天を避げ、上納する米・大豆等を地面に置くことを厳禁したこと、さらに各種の夫食米の支給が宇和島藩に比して、著しく少額であったことなどによって明らかであろう。

吉田紙騒動の発端

 吉田藩か財政困難を救済しようとして、藩領内の農村、ことに山奥筋地域の重要な副業である製紙に対して専売制を断行し、これを取り締まるために紙方役所を設置した。この間にあって古田の豪商の法華津屋(高月与右衛門および同小右衛門の両家)が藩庁に融資することによって、その財政権を掌握して藩政に容喙し、製紙に関する専売事業にも強大な発言権を持っていた。すなわち法華津屋が高利貸資本家として、農民に対し、椿元銀を貸付けおき、その代金を返弁させるために、彼らが漉き出した紙を安価に買い取って、莫大な利益を獲得した。しかも製紙の売買について、藩庁の取り締まりは厳重をきわめ、諸産物抜荷改方の役人が絶えず監視を続けていたから、農民が自由に他地方へ転売することは不可能であった。この専売制を通じて生産物の独占徴収が断行されたから、製紙に関する利益は法華津屋に搾取された。この騒動の目的が「法華津屋両家の打ち潰し」にあったことは、むしろ当然の帰結といわなければならない。
 さらに藩吏のなかには、高利貸資本家と結託して、賄賂を貪るものがあったから、藩政は次第に腐敗して、農民たちを憤慨させる暴政が行われた。備荒貯蓄のために設けられた義倉・社倉も、天災時における穀物の放出後は、割付徴収が重いため彼らを経済的窮地に陥れる結果となった。この一揆勃発の予想は、早くから察知されていたようで、宇和島藩領野村の庄屋緒方氏の記録である『吉田御分百姓中騒動聞書』によると、山奥筋の農民が両法華津屋の家屋を引きたおすため、各村人に綱を用意させたことが明らかとなっている。

農民の嘆願書提出

 藩庁でもその真相を糾明するため、藩吏・庄屋を派遣して情報の収集にっとめたが、農民の結束は堅く、その片鱗をも知ることすらできなかった。吉田の商人提燈屋武兵衛は、秘密裡にその根拠を探究するため、山奥筋に潜入したが、何ものかに銃殺された。藩庁ではこれを放任することができなくなり、郡奉行小島源大夫をはじめ代官・郷目付を派遣し、各村ごとに庄屋宅へ農民を召集させ、嘆願があれば直ちに申し出て、穏便に事を運ぶよう訓戒した。
 そこで、農民らは協議を重ねたすえ、一七か条にわたる要望事項をとりまとめ、藩庁に提出した。残念なことに、この時の嘆願書が現存しない。しかし、のちに出された藩庁からの返答書「申渡之事」によって、その内容が把握される。その一部を列記すると、①紙・楮、②物成の納め方、③斗棒・升の改正、④井川夫食米の支給、⑤天災時の租税の減免、⑥法華津屋両家に対する措置、⑦商人と結託した藩吏の罷免などの痛切な嘆願であった。
 寛政五年に入って、ようやく藩庁から回答があったが、ことごとく農民の期待に反するものであった。彼らの憤慨は甚だしく、単に山奥筋のみならず浦手のものに至るまで動揺し、宗家の宇和島藩に強訴しようと申合わすほど、不穏な状態となった。藩庁では、万一に備えるために、村民所有の鉄砲を庄屋宅に預けるよう命令した。この当時藩所有の鉄砲がわずかに三〇〇挺であるのに対し、浦手の農民のそれは一、〇〇〇挺余に達していた。

宇和島藩領へ逃散

 農民たちは要望を貫徹できないと考えたらしく、二月九日にまず山奥筋の農民が蜂起し、付近の村落に働きかけて、同一行動をとるよう強要し、不参加者には放火をもって脅かした。一揆に参加した地域は次第に拡大し、最初にたちあがった同藩東部の山間地域から、西端の浦方にあたる喜佐方村まで波及したから、その範囲は同藩の全領域にわたり、八三か村のうち不参加のものはわずかに高野子ほか二か村に過ぎなかった。彼らは三間川筋の宮野下村に屯集し、参加者は五、〇〇〇人に達したといわれる。
 藩庁では事の重大なのに驚き、郡奉行横田茂右衛門をはじめ代官らを現地に派遣し、訴願を受付けるから帰村するよう説得した。しかし藩吏らはかえって農民の罵倒をうけ、身の危険をすら感ずる状況であった。さらに農民らは一挙にこの紛争を有利に解決するため、隣接する宇和島藩領に逃散し、同藩主に強訴することに決定した。一部の農民は宇和島藩領の近永村(現、北宇和郡広見町)に入り、代官に願書を提出した。さきに宮野下村に屯集した彼らは、大挙して越境して中間村(現、宇和島市)の八幡川原に到着した。その数は八、〇〇〇人余といい、彼らは村ごとに木綿のぼりを立てて結束をかためた。
 吉田藩家老尾田隼人は、宇和島藩との連絡のもとに八幡河原に赴き、彼らと直接折衝しようとしたが、拒否にあった。両者の対峙するなかで、吉田藩家老安藤継明は苦慮したすえ、一四日に農民の前で割腹自殺する劇的シーンを現出した。

宇和島藩の調停

 この間、宇和島藩では支藩のために調停に乗り出し、農民側に要望事項をとりまとめ、改めて提出するように態憑した。そこで彼らは、翌一五日に一一か条にわたる願書を提出して、斡旋を依頼した。その内容はさきに吉田藩に訴願したものとほぼ同様であった。宇和島藩家老桜田数馬・若年寄松根図書は、古田に赴き打合せの結果、吉田藩では農民側の要望を全面的に受け容れることになった。吉田藩庁側かこの事件を解決するためとはいえ、譲歩をあえてしたことに、宇和島藩の圧力があったことは明らかである(「吉田御役人へ被仰渡御書付」)。
 同日夜、宇和島藩庁は農民側に対し要望事項を承認し、一揆主謀者を探索しない旨を申し渡した。農民が八幡川原に屯集して以来、宇和島の豪商長蔵屋長滝四郎兵衛・中屋居村九兵衛・大坂の加島屋忠兵衛・法華津屋久治らが、食料を給与したが一度に米三〇俵を要したと記されている。二六日に吉田藩は、正式に農民側に申し渡しを行った。それによると、①豪商との結託によって多くの弊害を生んだ紙方役所の廃止、②椿・紙の独占販売の解消、③大豆等の納入について藩吏が必要以上の干欠の割増を停止すること、④夫食米については一人につき四合五勺を渡す、⑤備荒貯蓄のための義倉・社倉米の徴収をやめ、提出した分については返却する、⑥浦方における雑穀・薪炭の他国への販売を自由とする等であった。
 ここにようやく一揆も落着したが、庄屋らの村役人は藩庁側に密着して行動し、藩吏に利便を提供した。したがって、村役人と全く反対の立場にあった農民のなかに有力な指導者があり、これを誘導したに相違ない。翌年藩は一揆の主謀者として武左衛門を捕縛し、やがて処刑した(『日吉村誌』)。ところが前年までの記録のなかに、彼の名が見えないのは、農民たちは首領の名を堅く秘していたため、一般に知られなかったためであろう。

吉田紙騒動の意義

 要するに、この騒動は楮・製紙の専売制による高利貸資本家の中間搾取に対する反抗と、商品貨幣経済の発展に伴う農民層の政治意識の向上等を誘因として勃発した。時勢の進展は後進地域である南予の山間僻地にも、農民の間に政治的自覚を喚起させずにはおかなかった。はじめ山奥筋の農民が、法華津屋征討を目的として蜂起したが、その他の地域における農民の藩に対する平素の憤憑は、ついに彼らを一揆に参加させる結果となった。ここに、この騒動は同藩の全域にわたる未曽有の大規模な逃散に発展した。
 もとより大洲・吉田・宇和島等の南予地区の諸藩には農民の示威運動とも見なされる逃散による騒動が、その件数において最も多かった。ゆえに、この騒動は南予地区の特性をよく現した典型的な運動といわなげればならない。しかもその対象が、中間搾取によって繁栄していた高利貸資本家、およびこれと結託して貢納の重課をあえてした藩吏らであったことは、すでにこの小藩において商品貨幣経済の侵蝕の甚だしかった事情を明確に示している。
 いっぽう藩庁においては、この事変を予知していたにかかわらず、彼らの要求に対しあらかじめ何らの打開策をも講じ得なかった。さらに騒動勃発後も、吉田藩の鎮撫策は全く抹殺され、拱手傍観するばかりであった。宇和島藩の斡旋によって、ようやく解決したけれども、彼らの要望のほとんど総てを承認し、藩政の大転換を計らなければならなかった。したがって、この事件がその後同藩に発生する農民騒動に与えた示唆と影響と、同藩の民政上に及ぼした暗示と教訓とは実に偉大なものがあった。