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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

2 今治・大洲・宇和島の各城下町

今治城下町人町の形成と発展

 慶長五年(一六〇〇)藤堂高虎は、関ヶ原役の戦功によって宇和郡板島丸串城(現、宇和島市)七万石から、越智郡国分城(現、今治市)二〇万石に大増封となった。
 彼は同七年六月から新に越智郡蔵敷村(現、今治市)に、今治城の構築に着手し、同九年九月にほぼ完成した。この間高虎は慶長八年二月今治城下町人町の町割に着手し、まず城郭の北方今治村内に、金星川を境とするほぼ四町四方をもって町域とし(今治城地に比較して四分の一の面積)、町の中央部にあたる三之丸の北門辰の口橋通りに本町を置き、西側内陸部へ室屋町・米屋町、東側海岸部へ風早町・中浜町・片原町と計六町を配置し、各町は一~四丁に区分され、各丁地は長さを六〇間、横を三〇間の短冊形に仕切られていた。また米屋町四丁目に鍛冶屋町、風早町四丁目に塩屋町を置いた(資近上一-六-97および「伊予国越智郡新城旧記」)。
 町割が決まったところで、城下町に集中された家中侍たちの御用達を勤める職人・商人達を誘致し、商工業の発展を図らねばならなかった。『今治拾遺』巻二四・二五にみえる町家の家譜をたどってみると、次のようなことがわかる。
 風早町に藩から屋敷を賜おった紀伊国屋(黒部喜助)は、今治城普請の際、総奉行原三左衛門(伯父にあたる)の招きにより紀伊から今治に来て、諸職人・歩卒などに対する藩からの金銀の請払いを担当していた。本町の国田屋(別宮基一郎)は、今治城下町割の際中村から今治に来て、大年寄見習を命ぜられ、御免屋敷に居住していた。同じく本町の上田忠兵衛(菱屋)は、町割の際屋敷地を賜わり、金銀の御掛合や御用聞を命ぜられた。室屋町の柳瀬七郎兵衛(柳瀬屋)は、野間郡来島村から来て、松平定房の代御用達を命ぜられ、大年寄の格式となった。
 このように今治城下開町当初、自領の郷村や他領から誘致された職人・商人が多かったものと思われる。
 この町人町のうち、室屋町と塩屋町の両町は、延享三年(一七四六)の「今治村庄屋南六郎右衛門の口上書」によって、町人町設置に当たって城主藤堂高虎がとった行政措置に由来することがわかる。すなわち室屋町については、今治村田畑高七四〇石のうち四三〇石余が、藤堂築城の際、御城地形御家中屋敷などに召上げられたので、その代償として今治村百姓どもに麹商売を命じ、居住の所を室屋町と名付け、この町以外の町村では麹作りを禁止し、麹値段を定めるなど百姓を保護した。また今治村の百姓が、水主役を負担する代償として塩商売を許され、居住する所を塩屋町と命名された。塩屋町の住人以外が塩商売をする際には、塩屋町に口銭を差し出すよう命じられた。このように町づくりに当たっては、城主の御用をつとめる代償として、販売特権を与えるなど周到な配慮をした。
 町人町の周囲は土手や溝に囲まれ、とくに室屋町の西側には、一丁目で幅四間、北へ進むにっれ四丁目では幅一間となる藪床が設けられている。この藪床は、開町当時より蒼社川方面からの洪水を防ぐ目的で設置されたものであろう。町人町の北端には、来迎寺・大雄寺・隆慶寺・円光寺・円浄寺・大仙寺・西蓮寺・法華寺などが集められ、東西に走る寺町通りを形成しているが、おそらくどの城下にもみられる防衛上の意味から出たものであろう。享保元年の今治町絵図(図六-2)によると、各町の道端には防火を兼ねて井戸が二基ずつ設置されている。また各町の出入口と中ほどの四ッ辻には番所が設置されている。
 成立当初六町であった町人町は、初代藩主松平定房の時代(寛永一二年~延宝二年=一六三五~七四)に、前記六町の南側と湾頭の広場の地に新町が造成され、延宝期(一六七三~八一)までに、本町四丁目の北側続きの地に北新町が造られ、これで今治八町が出揃った。この他時代ははっきりしないが、船頭町・住吉町・古新地・中州新地などの町が、船溜付近を埋め立てて造られ、北新町に続く町並みに慶応町が造られた。
 町人町の戸数・人口を表六-5に示そう。

          (表六-5 参照)

大洲城下町人町の形成

 大洲城が近世城郭として整備完成されたのは、藤堂高虎(文禄四年(一五九五)から四か年間)、脇坂安治・安元(慶長一四年より二代八か年間)の三人が城主であった頃とみられる。彼らは城郭とならんで城下町の形成にもつとめたらしく、慶長一〇年(一六〇五)藤堂高虎の命をうけた部下の田中林斎が、城下町の東端に塩売買の塩屋町を設けた。同年七月二八日林斎が同町年寄に宛てた書状に「今度塩屋町のことを申し付けたところ早速立ててくれて満足した。町中として塩の売買をしてよろしい。もしほかの場所で売ったならば曲事に申し付けるから此方へ届け出るよう」と記している(資近上一-103)。これが城下町についての初見である。
 寛永四年(一六二七)の『讃岐伊予土佐阿波探索書』の中にみえる大洲城下の記述の中に、「町、三ノ丸之北二有、北南長さ三町ニ三筋有、家之数四百計も有」とあり(資近上一-130)、寛永二〇年の「大津惣町中之絵図」によると、この頃東から西流する肱川筋に並行して、東西約三町の長さの本町・中町・裏町の三つの町筋が北から南に並んでおり、この三町を横断する南北の通りが。東から塩屋町・上横丁・下横丁と三筋あった。各町の家屋は短冊型で長方形をなし、間口が約二~四間、奥行が約八~一五間程度のものが多く、宅地面積は約四〇坪平均であった。なかには間口七~一〇間の大規模な町家があった。
 慶安四年(一六五一)には、独立町家は三〇二軒を数えた。幕末期(一八六〇年頃)に作図されたと推定される「大洲町内図」(滝正市蔵)によると、町家の総戸数は三四三戸、内訳は本町一丁目は三七、本町二丁目は二九、本町三丁目は四〇、中町一丁目は四五、中町二丁目は三五、中町三丁目は三七、裏町は四三、志保町(塩屋町が改称)は二八、比地町は三九の戸数となっていた。町家総戸数は、二世紀にわたって大きな変化はみられなかった。

宇和島城下町人町の形成

 戦国末期に家藤監物が在城し、天正三年(一五七五)西園寺宣久が監物に代って在城した板島丸串城には、既に永禄六年(一五六三)に城下町が形成されていたことが『清良記』にみえる。文禄四年に宇和郡七万石の領主となった藤堂高虎は、慶長元年から同六年にかけて、板島丸串城を近世城郭にふさわしい本格的修築に着手するのに伴い、城下町の建設・造成を図った。この事業は、城主富田信高(慶長一三~一八年)に引き継がれ、須賀川の付け替えと埋立て、辰野川の付け替えなどにより、城濠の東部に南北に通ずる職人町が建設され、これら町づくりが基盤となって以後の町の形成発展が続けられた。
 寛永四年の『讃岐伊予土佐阿波探索書』には、「町人町の東西は一〇六間、一町七反四間、町が三筋(袋町通・本町通・裡町通)ある。北南は四六三間、七町七反一間、家数六、七百あり」としている。また続けて「惣宇和島の内、西東五町、北南八町之内あり、東南西三方山へ八八町あり」とその規模を記している(『愛媛県編年史』6)ので、寛永期頃までには、この程度の規模の町人町が形成されるようになった。
 次に元禄一六年(一七〇三)頃の「宇和島御城絵図」をみると袋町通(一・二丁目)・竪新町通・横新町通・山伏町・大工町・木挽町・本町通(一~五丁目)・御足軽町・裏町通・御小人町・御足軽町・内河原町・佐伯町の一三町と辰野川口北海岸沿いに御足軽町・塩屋町・御旗町・船大工町の四町が記載されている。うち下士・卒の居住地とおもねれる五町を差引き勘定すると、伊達家史料の「手控之写」に記された城下町数一七町になる。
 安政・文久(一八五四~六三)頃の「御城下屋敷割御絵図」によると、御足軽町が鋸町、山伏町が愛宕町、御足軽町・内河原町が北町と変わり、辰野川北方の干拓造成地には、恵美須町・船大工町がある。このように部分的に多少の変化はみられるが、町勢には大きな変動はみられなかった。

図6-2 今治町絵図

図6-2 今治町絵図


表6-5 今治城下町の戸数・人口変遷表

表6-5 今治城下町の戸数・人口変遷表


図6-3 大洲総町中の絵図(『大洲市誌』所収)1

図6-3 大洲総町中の絵図(『大洲市誌』所収)1


図6-3 大洲総町中の絵図(『大洲市誌』所収)2

図6-3 大洲総町中の絵図(『大洲市誌』所収)2


図6-4 宇和島城下町(元禄頃)

図6-4 宇和島城下町(元禄頃)