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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

4 伊予八藩の在町

 江戸時代初期にほぼ形成された伊予八藩の藩府である四つの城下町と四つの陣屋町に加えて、一つの幕府領の陣屋町の形成について述べたが、各藩領内の郷村には、これらの府町以外に、在郷町とか在町とよばれた町場が形成された。
 在町は近世前期の成立で、各藩領の確定や藩経済の発達に伴って、郷村内に農民の不自給品を供給販売する商人、農具や農家関係などの工作をする職人たちが居住営業する町場として、当該地域経済の中心として形成された。
 松山藩を例にとると、寛永一二年(一六三五)大洲藩との替地により取得した桑村郡に同一八年新町を、周布郡に正保元年(一六四四)丹原町をそれぞれ新設した。引換えに伊予郡南部と浮穴郡北部を藩領とした大洲藩の場合をみると、替地後間もなく伊予灘沿岸に開発建設された湊・灘・三島の三町と、砥部川右岸の原野に開かれた原町に、それぞれ諸役運上免除の特権を与えて、在町の繁栄をはかった。明暦三年(一六五七)宇和島藩から分封、立藩した吉田藩は、鬼北盆地西部の在町宮野下とならんで、元禄七年(一六九四)藩領東端予土国境近くの吉野に、新在町を建設した。
 加藤嘉明は、慶長七~八年松山築城と同時に伊予灘沿岸旧港山城下の江の口に、松山城下の外港として、藩船の基地三津港を築く一方、松山平野の農産物や伊予灘の水産物等を集散する港町三津を建設した。元和三年(一六一七)大洲に入封した加藤貞泰は、伊予灘沿岸肱川河口の長浜を、大洲城下の外港、藩船の基地とするとともに、肱川の水運によって大洲藩領郡内地域の農林産物や特産物を集散する港町を建設した。この二在町は、開町当初から他の多くの在町と違って、どこの村方にも編入されることなく、町方として取扱われた。
 瀬戸内海や宇和海などの海運の発展により、当該藩域の物資集散の小商港や小漁港が、町場を形成し在町としての行政をうける例は、おりあい多かった。宇摩郡三島は今治藩のうち五千石分の港町として発展し、桑村郡壬生川は松山藩年貢米の積出しの港町、野間郡波止(現、今治市波止浜)は天和三年(一六八三)竣工の塩田を控えた港町、宇和郡の八幡浜・川之石は宇和島藩の商港・漁港の町として発展した。
 街道筋など内陸の交通の要地にも在町が設けられた。喜多郡内ノ子(現、内子町)のように、中世以来の市場町として、六日市・七日市(のち八日市となる)・廿日市から形成された町を、内山盆地一帯の地域経済の中心となる大洲藩の一在町として位置付けた例もある。
 在町の中には、温泉郡の道後湯之町や宇和郡の卯之町のように、中世以降河野氏の居城湯築城、西園寺氏の居城黒瀬城というそれぞれ中世の城下町であった伝統をもちながら、廃城に伴って松山藩・宇和島藩の一在町となった町もあった。

図6-5 伊予における在町の分布

図6-5 伊予における在町の分布