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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

三 町人の負担

宇和島城下町人の町役

 宇和島城下町大に賦課されていた町役を、寛文七年(一六六七)二月の「御町役之帳」(『家中由緒書 中』)によって述べよう。
 まず年頭御礼とか、藩主が参勤交代に出る時辛帰城の際、銀子一枚御樽台銭二貫大を町中から献納する。正月七日・三月三日・五月五日・七月七日・九月九日の五節供と八朔・歳暮の際の祝儀として、御樽を藩主に、町奉行には、年頭の御礼として銀二三〇目程を献納した。
 また、正月三日の鷹野の際には、町中の本家借家総出で勢子の役をつとめる。藩主の参勤交代の上り下りの際、町から出す役は次のようにわりあい多かった。

  (1) 遠く塩成(現西宇和郡瀬戸町)まで、押手水主を袋町一・二丁目から出す。
  (2) 小船へ水主を乗り組ませ樺崎へ詰めさせる。
  (3) 御船出入の時、御船入の日土俵をほり、つくこと。
  (4) 御船作事の時、上をおろすこと。
  (5) 御船の帆幕をさしぬうこと。御船の苫をぬうこと。

 このほか、麻苧糸を紡いで網をゆい、藩主へ提出する町役があり、このすき賃・ゆい賃は、町人が負担しなければならなかった。畳糸・鷹網・鴨網の糸作りなどもあった。
 御城作事方が普請の際、町役として中ぬり・砂漕をやらねばならなかった。一宮祭礼の際には、市町帳書が詰めること。野川の井手せきの時、町から加勢の人足を出すこと。煤払いとか竹伐りの節、人足を出すことなどの町役もあった。
 このほか、山役銀三六〇目・商札銀・樽屋札銀などの運上冥加があり、問米三二俵・小走米二六俵・火ふせぎ米四俵・火番米一二○俵などの町役米の負担があった。

松山城下町の年貢

 松山城下町人は、町費のほかに藩当局から賦課されていた年貢・町役などを負担していたが、それらは郷村の百姓の負担と比較するといたって軽いものであった。
 年貢については、前に触れたように古町三〇町に限って免除されており、それ以外の四一町は年貢地であり、市街地であっても石高・斗代で年貢の賦課基準額を示し、それに免をかけて現物納の形式をとって、実際は金納されていた。
 しかし事情によっては、年貢が減免されることもあった。大和二年(一六八二)当時年貢地であった外側町のうち、清水末町・清水町・今市町・道後町・木屋町・同末水呑町・北新萱町・三津口町・本町筋今町・魚町筋今町などは、町通りが形成された分については、年貢が免除されたのはその一例である。

松山城下町の役高

 松山城下町の町役は、おそらく藩初の頃には年貢免除の代償として、古町三〇町のみが負担し、外側の町々や水呑町は負担しなかったと思われるが、元禄頃では次の役高表(表六-7)に示すごとく、一一町組七一町全部が町役を負担するようになっていた。役高というのは、各町組内にある本家総数に対する賦課銀とか夫役の割当基準額で、人数高であらわされている。
 表六-7によると、古町分六町組は、外側分五町組と比較して約四倍の役高を負担しているし、同じ古町分六町組内でも、豪商が多く商況活発な松前町の役高がもっとも多く、全城下町中で最高であり、魚町・本町の町組がこれに続いている。外側分五町組の平均役高は、古町分と比較して約四・五分の一で非常に少なく、河原町組の役高などは全城下町中で最低であり、最高の松前町組と比較して六分の一以下であった。

松山城下町の町役

 町役のうち大きなものは、藩主にとって第一の勤務である参勤交代に奉仕することであった。すなわち藩主の参勤・帰城に先立って、総町七一町から一五〇~二五〇人の人足を出して、三津口番所から衣山村の地蔵前までの街道を清掃し、三津町人足による三津方面の清掃とあいまって、三津街道全体の清掃を済ませることになっていた。文政三年(一八二〇)以降、清掃はすべて請負入札となり、銭札一五五匁で請負った町人によって行われ、人足を出さないで済むことになった。
 なお参勤の際、貨物を三津まで運送するため、町役として人夫一〇〇~一五〇人くらいを古町三〇町から出していたが、その後三二〇人に増加し、文政三年以降これまた入札請負となった。
 公用荷物を運搬する伝馬も町役の一つであった。元禄二年(一六八九)現在、城下町中の駄賃馬七八頭のうち三二頭を、町役で伝馬として常備しなげればならなかった。寛政四年(一七九二)の伝馬は四四頭であった。
 また臨時の公役として、町役を賦課されることもたびたびあった。正保四年(一六四七)藩主松平定行が長崎奉行として赴任した際、召集した浦水主に対し給与する扶持米の三津下げ用伝馬の供出は、臨時の町役としては最初のものであったが、以後これが先例となり、延宝元年(一六七三)には水主扶持米用の永蔵米四〇〇俵を、三の丸から三津まで運搬するため、伝馬二〇頭を用立てている。
 最も大規模な町役は、宝永五年(一七〇八)三月大坂への登せ米一、五〇〇俵を、永蔵から三津まで運搬する町役であり、『諸事頭書控(二)』によると、馬七五〇頭、大組頭はじめ係町役人・人足等一三〇人余の出動をみた。また延宝二年(一六七四)八月大風・高潮のため、陸地に吹き上げられた藩船の引き降し作業を町役として命ぜられ、城下町より杖突・人足一、〇一九人が、三津御船場まで出動させられたことなどがあった。
 弘化三年(一八四六)には異国船警備のため、兵粮・塩・味噌の手配をしたが、城下酒造家一三軒に対しては、臨時粮食の炊ぎ出しを引き受けさせ、六軒で一回一、○○○人分米一〇石の炊ぎ出しが円滑にできるよう命じた。
 藩から命ぜられる町役のうち、前述の宇和島城下の町役のように、藩主の狩猟の際勢子を町人中から出す町役があった。松山藩の場合延宝七年一二月、太山寺山での狩の際、町人中から勢子六〇〇人(古町分六町組で四八五人・外側五町組で一一五人)・大頭年寄八人・町々年寄三五人・杖突・人足三五人が出動しか。また三津町人二〇〇人も勢子としてかり出されている。天和二年(一六八二)二月にも、御幸寺山から山伝いにツツラクズ山までの追鳥狩が行われ、勢子二〇〇人(うち一六四人は古町町人)が召集された。なお右二か所と畑寺で狩が行われる時だけ、町役として町人から勢子を出す慣例となっていた。享保七(一七二二)・九・一二年と三回にわたって行われた興居島での追鳥狩には、三津の町人から勢子として三〇〇人と町船一五艘を負担している。
 城の清掃手入れも、重要な町役の一つであった。『手鑑』によると、毎年六月一目町奉行より月番家老に伺いを立てたうえで、七月中堀の藻を取り除げ手入れするのに、左のようにかなり大勢の町人足が出ていた。これは古くから行われていたが、年代の明らかなものだけを記すと表六-8のようである(資近上二-三-173-(14))。
 貞享三年以降は、入札請負となり、町から人足を出すことはやんだ。この際藩の竹藪から、藻取り用の諸種の竹約三〇〇本を払い下げることを常例としていた。城山の下草刈も毎年の恒例として、町役で奉仕したらしいが人数はわからない。
 このほか三津港停泊藩船の帆幕の縫糸を、町役として差し出す定になっていたが、延宝九年以降廃止となった。苧績(紡)という町役も、古くから賦課されていたものであった。引苧・地苧ともに斤目一〇〇目につき、績賃一匁宛を藩当局から給与することとなっていたが(資近上二-173)、武器の一つとなる麻綱の材料に使ったと思われる苧を紡ぐことが、町役の一つとなっていたことは、いかにも城下町らしい仕方といえる。同じことは、町奉行の就任または退任の際、引越し人足として、それぞれ二〇人または一五人を差し出さねばならなかったことについてもいえる。
 公用というより町の自治体用として警備・防犯・防火などのために設けられていた自身番所・舫番所・外廻番所・上番所・火番所・木戸に詰めて警戒に当たった(表六-9を参照)。
 洪水防止の一手段としては、表六-12のように石手川底を浚える町役として瀬掘人足を町中から徴発している。
 洪水の際には別表(表六-13・14)の通り、水防の人足を出動させたりした。外側の東部を南北に流れる小唐人川については、大浚・中浚のほか、毎年五月以降、掃除人足を川掛三組から差し出したうえ、溜ったごみを流し、排水をよくしたが、これも町役の一部であった。寛政五年から始まったこの町役は、文化二年(一八〇五)以降入札請負となって、人足を出すことは中止となった。
 以上町役のあらましを述べたが、藩主および藩当局に対して提供する町役が意外に多いことに気がつく。藩体制に寄生して生計を立てる被支配者の町人たちにとっては、支配者である藩に対する不可避の奉仕であったのであろう。藩から年貢免除の特典を与えられ、経営上の保護をうけていた古町三〇町は、その故に町役が他町に比べ多いのは、当然のことと思われる。なお、藩初に労務提供の形をとっていた町役が、漸次金納に代わっていったことは、注目せねばならない。
 町役に包括されているものに、町会所破損銀・御雇人足手代給銀・御礼銀・江戸惣代銀・各寺社初穂銀・祭礼銀などの町入用諸費がある。

御用金

 町人の負担のうち、最も重かったものは、恒常的な町役ではなく、臨時の御用金の賦課であった。松山藩の財政は、一八世紀初頭頃から窮乏の兆しをみせ、宝永七年から家中侍たちの俸禄の一部を借上げすることでやりくりをつけていたが、明和二年(一七六五)二月新田分知一万石の上地や、同年五月の江戸数寄屋橋より日比谷御門までの御堀浚いの御手伝いなどで、支出が多く財政難に陥り、同四年一~二月には上方銀の借金が莫大となり、支配を立て直すために、新に町方から御用金を徴収している。以下『御触状控帳』(四冊)によって御用金の状況を記そう。
 文政四年(一八二一)には、「永久銭」と名付けた公債を募ったが、これは大年寄どもの願い出によるという形式をとっているが、実は藩が発起した利付藩債といえるもので、町人らが提出した銭札一〇貫目に対して、毎年米八俵の利子が、年末に出資者である町人に支払われるだけで、元金はいつまでたっても償還しないから、藩がこの藩債を「永久借銭」と自称しているのもうなずけるものであった。藩はあつかましくも、元金は永久に借りるが、毎年定額の利子だげは支払うから、町人どもは定収入を得る結果、「万代不朽の家督に有付」くこととなるから、永久銭差し上げについての藩当局の取り計らいを、「御慈悲の程難有く仕合に思え」と町人らを諭している。恩をきせて借金を強請する藩のやり方は、まことに図々しい。
 永久銭だけでは財政窮乏は解消されなかったので、文政七年には御用銀として銭六〇〇貫目を、毎年一二○貫目宛五か年間納付するよう命じ、三津町方にも二五〇貫目を強制賦課している。それから八年後の天保三年(一八三二)には、近年藩の支出が嵩んだという理由で、御用銀として銭札三八〇貫目を城下町方から、同三八貫目を三津町方から提出させた。これは二か年の分納で、しかも御用銀の半額は、藩から返済するという条件が付いていた。天保一五年五月江戸城本丸が炎上し、復興普請金として三万両を幕府へ献納することにした藩当局は、財政難の折柄、上納金の捻出は思いもよらなかったので、これを家中や百姓・町人達に転嫁した。すなわち御用銀として、銭札三〇四貫目を城下町方に、一六貫目を三津町方に割り付けて、三か年分納としたが、城下町からの拠出分のうち一〇〇貫目は、家質場所からの出金によった。安政三年(一八五六)一一月には、藩当局は御用銀として、銭札一五〇貫目を町方より出銀するよう命じ、出費の多い折柄町人にかかる迷惑を少なくしようと、藩の非常救いの備銀のうちから、銭杜四九貫三八〇目を償ってやり、残りの銭札一〇二貫六二〇目を町人達が割符出銀するよういっている。
 安政六年末には、本丸復興寄付金一万両や神奈川表砲台築造のための入費莫大のため、財政が逼迫して取渡りが難かしくなったということを理由に、またまた御用銀として、銭札三〇四貫目の拠出を城下町方に命じ、三津町方も一六貫目を供出することにした。城下町方の御用銀は、家質場所徳用と非常救助の備えのうちから一〇四貫四九〇目を償い、残りの一九九貫五一〇匁を七一町のおもな町人に割付し、翌七年から三か年の分納とした。藩当局は、「町方は近来米価が高値で融通が宜しくない、端々の者は別して難渋しているように聞いている」といって、町方の窮状がわかっていながら、背に腹は替えられず、財政難切抜けのため、莫大な御用金を賦課したわけである。
 ここで安政年間の『御用銀割符録之写』によって、城下町人の御用銀負担力をさぐってみよう。表六-15によって地域別にみると、古町分では中心街松前町の割当額が意外に少なく、府中町・本町の両町組に多いのは、繁華街が転移したためであろうか。外側分では、湊町をそれぞれの町組内にもつ、藤原・河原の両町組の割付高が多い。しかも割付総額において、古町分は外側分の半分くらいで、藩初以来町役・差上銀等で、藩当局に対し多大の貢献をしてきた古町町人の富力は、おおいに後退し、代って外側町人の富力が高揚してきたことをうかがうことができる。なお御用銀高に対する割付人数の割合を対照すれば、外側各組の富力=御用銀負担力が古町分各町組を、断然引き離していることがわかるであろう。

運上冥加

 これはいわば営業税であり、物品税ともいうべきもので、種々雑多の種類があったが、その一部をあげると、酒運上・紺屋藍壷運上・油運上・生綿運上・油板運上・塩運上・木綿運上・帆別銀・桶師役銀・絞り?屋銀・鬢付屋礼銀・薬種屋共礼銀・古手屋共礼銀・綿実問屋礼銀・肴口銭など多数あったが、冥加という言葉のニュアンスから受け取られるように、営業収益と比較して、そう多額なものではなかった。

表6-7 古町・外町各町組の本家役高表

表6-7 古町・外町各町組の本家役高表


表6-8 除藻人足

表6-8 除藻人足


表六-9 町方番所表 付公儀番所

表六-9 町方番所表 付公儀番所


表六-10 町方消防人員道具の町組別割当

表六-10 町方消防人員道具の町組別割当


表六-11 火災時における人員配置

表六-11 火災時における人員配置


表六-12 石手川瀬堀人足

表六-12 石手川瀬堀人足


表六-13 町組別洪水時出動人数

表六-13 町組別洪水時出動人数


表六-14 石手川筋水防人員配置表

表六-14 石手川筋水防人員配置表


表6-15 弘化1・安政3年城下町人に対する御用銀割付

表6-15 弘化1・安政3年城下町人に対する御用銀割付