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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

四 町人生活の統制

町 触

 各藩の城下町・陣屋町の町人たちは、支配階級である藩士たちと、居住地域に違いはあっても、同じ城下町・陣屋町に居住していた関係から、身分の相違がよくあらわされる衣・食・住・風俗慣習などの日常生活について厳しい統制を受け、士と工・商間の身分秩序を厳守させられた。
 慶安四年(一六五一)の「大洲町中拾人与」に対し、大洲藩当局から「仰せ出される御法度の条々」、貞享二年(一六八五)今治藩が公布した「今治・拝志両町法度」(資近上三-三-82)、松平定行が松山藩主であった時代(寛永一二年~万治元年=一六三五~五八)に公布した「町中之定」・「町中禁令」・「町中法度」(資近上二-二-107~109)など、各藩前期に公布した町触には、次のようなことが触れられている。
 まず町内の火の用心を堅くし、防火・消火につとめよ。町内の夜番は油断なくつとめよ。身許のわからない者を町内に宿泊さすな。無届者の宿泊は許すな。博奕など賭勝負事を禁止せよ。喧嘩口論は厳禁せよ。狼籍者は取り押さえて奉行所に届出よ。
 以上主として町内の治安・警備について触れているが、衣・食・住などの生活統制関係の法令は割合い少ない。しかし時代が下るにつれ、質素倹約令の公布とならんで、次第に向上してきた町人生活の統制は、微に入り細をうがって、厳しくたびたび発令される。以下例を松山城下町人にとって、町人生活の統制の実態を窺ってみることにしよう。史料は、文政四年(一八二一)から文久三年(一八六三)にいたる約四〇年間、江戸幕府および松山藩当局から公布された御触書のうち、松山町人関係の分を抜粋し、大年寄藤岡家歴代によって年次順に編集された『御触書控帳』(『松山市史料集』4)によることにした。

衣生活の統制

 これらの触書のうち衣生活関係のものを拾ってみると、櫛笄などの髪飾からはじまって、日傘・衣服・履物について、細かな制限がしるされている。櫛笄は木製に限り、かんざしは真ちゅうに限る。その他鼈甲・金銀・象牙などで作ったもの、紛らわしい品は一切停止する。草履および草履付下駄は革鼻緒以下に限り用いよ。指はま木履や絹鼻緒付の下駄草履は、一切無用。紺紙縁傘は停止する。向後白張りの傘に限り用いよ。日傘は七歳以下の小児は、目立つ印をつけた日傘を見逃してやる。町人はすべて一円被り笠を用いよ。出家・社人・医師・山伏・検校・勾当のうち御目見出来るものは、従前のように無印の日傘は差支えないが、それ以外の者は家内の者でも、領法により無印の日傘をさしてはならないなどと定めている。
 衣服については、町人間の身分の高下に応じて、布地を次のように規定している。まず大年寄と同格までは、男女ともに裏又は下着は、紬を用いても差支えない。大組頭とその格合の者までは、男女とも下着の裏には、有合せの紬を用いても差支えない。町医師・出家・山伏・検校・勾当らの着物は、紬以下を用い、裏又は下着は、粗末な・(糸へんに旨)類は差支えない。すべて平町人は、男女とも着類は、何によらず上下とも木綿、布晒に限る。少しの裏襟・袖口・帯・かぶり物・笠緒に至るまで、木綿晒に限り着用せよとある。天保一三年(一八四二)八月の触書には、近頃町方の婚礼の際、振袖仕立の衣類の着用が多くなったが、質素倹約の時節に不似合であるから、着用を差留めるとあり、御制服縮緬以上の反物は右に準じ売買を差留めるとある。
 上下・袴については、上下は晒以下に限り、秩父・麻類のものを着用してはならない。すべて町方で借家住まいの者や召抱えの者は、上下・袴は着用してはならない。だが召抱えの者であっても家持ちの者は、上下袴着用勝手次第であり、役家町年寄迄は、召抱えの者主人の名代をつとめる際は、着用は苫しくない。借家住まいであっても、御目見できる者は格別である。すべて召仕の者のうち手代分は、羽織着用勝手次第、その他下男小者など、羽織着用無用とある。
 服装はその身分をもっとも端的かつ明瞭に示すものであったから、一見してそれが町役人であるか、平町人であるか、借家人であるか、奉公人のうち手代か下男・小者であるかがわかるよう定められていたわけであろう。

食生活の統制

 天保一〇年七月の松山藩の郷触には、百姓の食物は、粗食であるのは勿論であるが、近年は奢るようになったから、享保大飢饉のことを伝聞したうえ、長百姓でも平日は麦飯以下半ごれを用いて、飯料を喰い延すようにせよなどと百姓達を戒めているが、これに対して文政一二年一〇月の前記町触の中で、町人は平常奢りがましい飲食をしてはならないと命ずる程度で、百姓にくらべ町人の食生活統制は、比較的ゆるやかであった。
 だが、とかく派手になりがちで町人の奢りの基となるからとして晴の日などの食事ぱ、厳しく戒めた。すべて祝儀振舞は、一汁一菜、肴一種、酒一献に限る。大年寄ぱじめ町役人が役用集会又は町廻りの者が吟味の筋があって止むをえず食事をする際は、有合せの一菜切にして、それ以外料理がましいことをしてはならない。勿論酒肴を差出すことは無用であると規制している。
 天保一三年八月の触書の中では、町人相互間の饗応などを戒め、町方の者が他所の神仏に参詣する際、親類は勿論町内の者が出立を見送り、留守見舞いまだぱ帰足歓びとして、それぞれ肴またぱ重詰などを贈るので、参詣人もかれこれ心配して相応の土産を持帰り、そのうえ帰足振舞として、町内の者を呼び饗応するようなこともあるように聞いているから、今後は親類ならびに両隣向こう三軒の他は、贈答・振舞などの儀は差留めるとある。次に祭礼の際、親戚の者に対し左の品で取賄って、御馳走がましいことはしてはならないと献立を提示している。

   酒 肴
  鉢 鱠のあえまぜ
  鉢 すし 但し丸漬すしはしてはならない。
  飯 煮染 並くつし ねぎ いも 午房 とうふ
  汁 豆腐 並くつし さいの目

この触書が一片の禁令にとどまらなかったことは、これが発せられた直後、小唐人町梶村屋徳右衛門が、時節柄を弁えず祭礼の際、禁令に背いた料理をしたというだけで、押込と過料一二貫文の処罰をうけたという事実が証明している。

その他の統制

 つぎに吉凶について町人間の交際は、為政者のいう町人の奢りの基となるものであったから、交際関係について次のような厳しい規制をもうけた。
 まず土産・餞別・音物等は、いたって軽く取計らい、費用の外は他人へやってはならない。吉凶音信は、銭札一匁に限り取遣す。婚礼時祝儀取遣いは格別のことであるから、結納や聟への進物は共に白銀三両に酒肴を取添えて贈り、余儀ない近親へは二本入扇子一箱を贈ることにする。婚礼の際嫁持参の道具は、身上のよい町家であっても箪笥一つ・長持一つ・葛寵一荷・挟箱一つをこえてはならない。それ以下分限に相応して減すべきである。
 節供の際の飾物については、華美にならぬよう統制している。雛人形は、内裏雛一対代銀札一〇〇目以下、人形雛一対五〇目以下、裸人形一対二〇目以下と値段をきめ、なるたけ粗末な品で済ますように命じ、破魔弓・羽子板は値段二匁以上は売ってはならないとし、幟は二本に限り多分紙幟とし、絵馬印は華美でないよう、内幟は禁止すると命じている。
 この他天保一三年八月の触書には、高価奢侈贅沢と思われる金銀・珊瑚・馬脳・琥珀・鼈甲・ぎやまんの類および袋物類・和羅紗以上の品々、印伝唐草類・小児守袋・銀鏈ならびに懐中煙草入金具、金銀の類、子供の手遊物銭札二匁以上の品、さいかるた紋付紙絵双六すべて不正の品、草履ならびに裏付草履下駄共ぱなお天鵞絨真田絹織の物付の品、五〇匁以上の飼鳥・庭木・鉢植・草花、一〇匁以上の箱人干菓子・中以上の蒸菓子など一切の商品の売買を禁ずるとともに、諸祝儀の節は五〇匁以上、重詰の場合は二〇匁以上の料理、一〇匁以上の仕出しの調製を禁じている。
 町人生活の統制としては、趣のかわったものは、松山城下町人の若者たちが城下近くの道後温泉に行き遊惰に流れることを、町方衰微の基になるときめつけて、以来必ず慎むよう、もし心得違いの者があれば、吟味のうえ咎方申し付けると厳しい禁令を出したことである。この他すべて産業のない者は、町方に差し置いてはならない。町役人・隣家の者が平常心を付け、不筋の商売あるいは人集めなどする者がいたら早速申し出よ。遊芸のみを事とし、若い者を集めて、三味線浄瑠璃等を教え、道後などへ誘い出す者があるよう聞いている。不埓なことである。町役人隣家の者は平常注意をして、早速申達せよ。町内に遊民の者が居たら立除かせよ。以後商家の本業を旨として聊かも心得違いのないようにせよなどと示している。
 以上述べた町人生活の統制が特に厳しくなったのは、松平定通が第一一代藩主となり、松山藩中興の政とたたえられた藩政改革をはじめた文化六年(一八〇九)頃からであり、同年二一月の藩当局が公布した「御家老中之御内制」および「御家中御法制」に基いて、翌文化七年に前記町人生活の統制を盛り込んだ触書が、町方に公布された。続いて同様な内容の町触が文政一二年(一八二九)一〇月、天保一一年(一八四〇)五月、同一三年一月、嘉永二年(一八四九)八月、安政四年(一八五七)七月、文久二年(一八六二)六月と繰り返しほとんど同一の文言で公布されているところをみると、文化七年に町人生活の統制の基本的法制が規定され幕末に及んでいることが知られる。
 これらの基本的な町触のほかに、幕政改革にあわせて発せられた藩の倹約令、例えば天保改革の一環として、幕府が発した特別倹約令についての、天保一三年二月の御触書の趣旨を敷衍した松山城下同年八月の町触、藩当局が三~五か年の期間を限って、「法外之倹約」・「格別之倹約」・「厳敷倹約」を命じた際の特別倹約令などを盛り込んだ町触があって、町人生活の統制は一層厳しさを加えて行き、幕末の文久二年七月から慶応二年(一八六六)六月にわたる五か年間の非常倹約期間中に及んでいる。
 二〇〇年余にわたる藩内商工業の独占的経営によって蓄積された町人の経済力は、「同床異夢」の家中侍のそれをはるかに凌駕するものがあった。藩体制の基底をなす身分制が、町人の富力で動揺しはじめる。前述のごとく身分制的立場から、倹政の名実のもと町人生活を厳しく統制する必要がここにあったわけである。
 町人生活を律した前記の町触が、ほとんど同一趣旨・文言の繰り返しであって、格別新しいものは見あたらず、まったくマンネリズムに陥った触書という感じがする。しかも同工異曲の触書が、数年間隔で公布されたが、町人生活の統制の成果はあまりあがらなかった。