データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

二 城下と職人町の形成

城下の職人

 城下町では各地から多くの職人が集められ、屋敷を与えられて職種ごとに職人町を形成し、家中や町人の需要に応じた。その代表的なものは紺屋町・大工町などであるが、日常的な桶屋・畳屋・左官、武具に関する鞘師・研師・柄巻師・金具や彫物・飾職などの細工人など多種の職人も居住し、そのほとんどが世襲で同じ場所にいた。職人の城下集中策はまた、農村支配の一手段でもあった。
 初期の職人は一般に商人よりも地位が高く、御用職人として扶持を給され、軽輩士分格の者もいた。地子は免除され、代わりに月二日前後の労役を提供した。彼等は職人頭(棟梁)をつとめて同職を統率した。しかし一般の平職人は借屋住いが多い。宇和島藩の元和四年(一六一八)分限帳では、御用職人は職人衆・大工衆として城番の足軽や船頭衆の上位に記載され、末尾に合わせて平人二七人・増人とも一〇人とある。扶持は四人分五石前後であった。元和八年もほぼ同様、明和八年(一七七一)分限帳では職人衆一八人、大工衆五人がいた。寛文三年(一六六三)二月の「作事方定書」によると、これら職人は上中下に三分され、年々仕事の吟味を受ける旨と賃金が公定されている。同二年二月の「細工直付定」では刀装は鞘の大小やはばき(鎺)の種類ごとに賃金が定められ、研賃は一寸に付古身六分、新身八分であった(『家中由緒書』)。
 今治藩でも小役人並と総称される世襲の奉公人の中に菓子師・砥師・庭方・御手大工・船手大工らの職人がいた。その地位は番手足軽格と同等で、六~八石を給された。うち鉄砲師・馬具師・矢師・柄巻師・白銀師・鞘師らは武具方小役人といわれ、武具櫓や城内の細工所に月六日間を詰めて、武具の修理点検や虫干しなどを行った。同人らの悴が一定年令に達すると細工見習として登城し、江戸や上方での修業を命じられた(「今治藩武具方記録」)。
 城下の職人は藩作事方の統制を受ける一方、城下の住人として町奉行・町同心配下の町年寄・町頭ら町役人の支配も受け、町入用を負担した。初期にはかなり移動もしたが次第に統制が厳しくなり、他国稼ぎは郷村の職人よりも強力に取り締まられた。後期には城下町人の増加に伴い、職人の階層分化も著しく、各町でも雑居・混在となり、本通りは商人が占有し裏通りの長屋が職人という形が一般となった。

今治城下と職人

 今治の城下は普請奉行の行原三左衛門、職人並歩卒金銀等支配方の田中喜助らにより建設された。紀州より呼び寄せられた喜助は三左衛門の甥で、後の豪商黒部屋となる。城下の町域は今治村の一部で百姓が住んでいたが、同村七四〇石のうち四三〇石を没収した。その代わり百姓には椛の製造や塩の専売権を与えて町造りに協力させ(今治南家文書)、また屋根職や桶職として城下への居住を許した。開町時には周辺の町村や備後三原・阿波などから実力者を招き、有力町人・御用商人として藩政末期まで藩財政に協力をさせた。
 職人は紺屋・鍛冶・大工・椛屋が多く、また明瞭な集住傾向がみられる。元禄一二年(一六九九)の『寸間改帳』では各町とも一、二丁目には間ロ一○間以上の大店が多く、三、四丁目では百姓や足軽も混住した。片原町は海岸に平行する通りで、宮窪屋・伊方屋など島嶼部の屋号を名乗る者が多い。享保二〇年(一七三五)の改帳では石屋・船大工などが多く居住した。米屋町四丁目は鍛冶屋町の別称があり、同町々民を氏子とする天神社を祀っていた。

松山城下と職人町

 松山城下では職人町名も職人数も多様で多い。しかし職人町名は初期に建設され、地子免許とされた古町に限られ、職人の分布も古町が多い。松山でも職人の地位は商人より高く、古町一一町の職人町の年寄役をほとんど独占した。元禄七年(一六九四)と天明四年(一七八四)の職人数の比較は、商工未分化や職種表示の差からやや問題があるが、それでも注目すべき点がある(表六-45)。全職人数は増加したが酒造・大工・木挽・屋根屋などは著しく減少した。煙草・綿屋・細物などは急増し、わずかずつではあるが多様な職人が誕生した。天明期では大工・紺屋・鍛冶・樽屋などを除くと一般に借屋人が多く、職人の地位に優劣がみられる。
 同藩は明暦元年(一六五五)ころに鍋座・紺屋座・鹿座などを設けて運上銀を課したが、鹿座は元禄六年(一六九三)、その他は寛文元年(一六六一)一〇月に廃して自由とした。また寛保元年(一七四一)七月には酒造家・抹香師・油絞り・紺屋藍甕の運上、桶師の役銀を廃した(『松山叢談』)。更に弘化元年(一八四四)七月、値下げを条件に酢造株・煉油屋・桛(紹)染屋・麺類屋・絞蠟屋・線香師の営業を自由とするなど、手工業の発達や職人の生活維持に意を用いている。

大洲城下

 大洲城下は寛永二〇年の絵図によると本町・中町・裏町の各一~三丁目と塩屋町大通りの四町が短冊型に配されている。町家は慶安四年(一六五一)で三〇二軒あり、うち桶屋六軒・舟役家一九軒が町役を免除され、残り二七五軒が役家であった。
 同藩でも職人のうち有力な者は下級の士分並の扶持米を受けた。『大洲秘録』によるとその定数は普請奉行配下に棟梁二・大工四人、作事奉行の下に木挽一・瓦師一人、武具奉行下に研師・鉄砲鍛冶・刀鍛冶・鍛冶・柄巻・弓師各一人、納戸奉行下に時計師・畳師・紙漉・蒔絵師・仕立師・塗師各一人・磨の者二人、江戸定府の大工一人の計二三人であった。
 大洲町には職人町名はなく、職人は全町域に分散するが、本町二丁目、中町一・三丁目に比較的多い。職種では紺屋・鍛冶・桶屋・大工の集住が著しい。
 新谷陣屋町では家中屋敷の南側に上中下の三町が配された。寛政八年(一七九六)七六軒の町家があったが、領内の他に大洲領や吉田・宇和島領からの来住者もいた。

吉田陣屋町

 文久元年(一八六一)の絵図によると、吉田の陣屋町は中央に本町、山の手に裏町、西側に魚棚町を配し、東西の三条の横丁で各三丁に区分された。各町一名の町年寄、各丁二名の丁頭、五人組頭及び丁代らにより支配されていた。
 職人は全町に分散し、特に集住傾向はみられない。職種では盛時には鍛冶屋・鋳掛屋・樽屋・石屋が多く、特に紺屋は一五~二〇軒が並んでいた(『吉田町誌』)。陣屋町は路地が多く、露地裏には数戸の棟割長屋があって、職人の借家となっていた。

表6-41 宇和島藩の職人衆

表6-41 宇和島藩の職人衆


表6-42 伊予各城下の職人町名

表6-42 伊予各城下の職人町名


表6-43 今治町の職人分布―但し、屋号のみ計上したもの―

表6-43 今治町の職人分布―但し、屋号のみ計上したもの―


表6-44 松山古町分職人町の軒数と年寄名

表6-44 松山古町分職人町の軒数と年寄名


表6-45 松山城下の職人数

表6-45 松山城下の職人数


表6-46 大洲城下と職人

表6-46 大洲城下と職人


表6-47 吉田藩の職人

表6-47 吉田藩の職人