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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

四 軍備の強化と安政の大地震

黒船来航

 嘉永六年(一八五三)になると藩の公用記録に異国船関係の記事が激増する。特に米国東インド艦隊司令長官ペリーが、軍艦四肢を率いて琉球那覇に来航(西月一九日)してから、六月三日浦賀に入港するまでの間の記事は、未曽有の国難との認識をもって対処している様子がうかがわれる。六月九日摂津麻田藩二万石、当時の藩主は青木甲斐守一咸)の家老江原市野右衛門が宇和島藩家老桜田数馬に面会を求め、侍具足四〇領の借用を申し入れた。当時麻田藩は日比谷門の警備に当たっていたから、黒船来航に対処するため急ぎ武具の必要に迫られ、親戚筋(宇和島四代村年の子一貫の夫人は麻田藩八代藩主一新の女である)の宇和島藩を頼ってきたのである。藩では、余裕がないとして断ったが、六月一〇日今度は吉田藩の松下求馬(浦上家文書、安政三年「席名」には家老とある)が鉄砲二〇挺と五〇〇両の借用を申し入れてきた。隣藩のことではあるし、放置することができず、とりあえず鉄砲一〇挺と五〇〇両を貸すことにした(『藍山公記』四五)。江戸の混乱の様子がうかがわれる。
 六月一一日幕府より異国船防御の手順が布達された。宇和島藩でも三貫目大筒三挺・野戦銃を用意して待機した。幸いこの時は戦闘にはならなかったものの、幕府ぱ海防充実の必要性を痛感した。

軍艦雛形

 ペリーは六月一二日、明春の再来を約して浦賀を去ったが、彼が持参し九大統領フィルモアの国書は幕府・朝廷に議論を沸騰させることになった。老中阿部正弘は、それから間もなく将軍家慶が没したこともあって山積する問題の処理に苦しみ、これまでの慣例を破って米国国書の取り扱いについて諸大名及び将軍御目見以上の幕吏から意見を聞いた。宇和島藩主伊達宗城の建白書は八月一〇日に提出された。
 伊達宗城の意見は、国書に対して返書を出すことに反対し、交渉の場所も長崎にすべしとし、アメリカがそれを受け入れず攻撃するならば国力を挙げて防衛すべきであると建白した(『藍山公記』四七)。宗城はこの建白を実現する条件として、①伊豆・安房・上総三国の大大名領有、②伊豆大島の防衛、③伊豆七島・蝦夷厳重防備、④軍艦建造許可、⑤大銃鋳造と幕臣下曽根金三郎の登用、⑥御手伝・上納金猶予、などを掲げた。
 幕府は内外の情勢を考慮して九月一五日大船建造禁止令を解いた。宗城の喜びは大変なものであったようで。
 『藍山公記』四九に「近来無比の快事と雀躍歓喜遊ばさる」と記されている。宇和島藩では早速オランダへ軍艦を一般注文すると共に、藩独自の技術で汽船を建造しようとして、各地へ視察・研究のため梁川荘左衛門をはじめとする人々を派遣した。薩摩の島津斉彬が軍艦製造に着手すると聞いて荘左衛門以下四人を見学に赴かせ、安政元年(一八五四)八月には村田蔵六・嘉蔵(前原巧山)を長崎に派遣した(嘉蔵は三度目の出張)。梁川荘左衛門は宇和島藩造船業の中心となる人物で、蔵六・嘉蔵の長崎出張に際しても、須藤段右衛門・松田源五左衛門・松沢良左衛門・渡辺作之進らと共に長崎行きを命じられた。なおこの時二宮敬作が一行と行動を共にしている。
 彼らは、航海運用術・造船学・砲術・船具学・測量学・高等数学・機関学などを学んで帰国し、安政二年三月より軍艦雛形の建造事業に取りかかった。製作は順調に進み、九月一日には宗城も試乗しての試運転が行われ、成績は上々であったという。ただし動力となる蒸気機関の完成は同五年のことであった。

前原巧山

 宇和島藩が自力で建造した蒸気船の機関部分の製作を担当したのは八幡浜の町人出身の前原巧山(一八一二~一八九二)である。通称を嘉蔵という。彼は大坂に出て目貫師谷元貞に入門して金工技術を身につけた。その後宇和島に住んで各種細工職人として生計を立てていたが、火輪船(蒸気船)の推進器模型を製作して藩に登用されることとなった。御船方に登用された嘉蔵は、早速長崎で火輪船製作法を修業せよと命じられ、安政元年の三月・六月・八月と都合三回遊学した。特に三度目は見学ではなく、本格的研究出張であり、村田蔵六と共に多くの知識を仕入れて帰国した。軍艦雛形及び推進器は比較的簡単に出来上がり、安政三年一月から蒸気船の建造に取り掛かった。同四年気罐は完成したが鋳物であったため実験に失敗、多くの費用を投入していたため嘉蔵は「おつぶし方」とあだ名された。蒸気船関係者は薩摩藩の技術を学んで再挑戦し、同五年七月蒸気発生器の完成を見た。翌六年二月気罐を汽船に取り付け、試運転に成功した。薩摩藩に次ぐ独力での汽船建造の成功であったが、小型で気罐も低出力であったため遠洋航海には不適当であった。
 宇和島藩の汽船建造計画は、財政難もあってこれ以後しばらくは西洋で建造した蒸気船購入が続くため中断する。しかし嘉蔵の技術力は高く評価され、明治二年(一八六九)船奉行水野八左衛門が汽船建造を計画した時、嘉蔵はこれに参画し、大坂からの鉄材購入・気罐の改良に尽力した。同三年完成した汽船は石炭を使用し、大坂への処女航海に成功した(『愛媛の先覚者』2)。

樺崎砲台

 宗城の軍備強化策の一つに砲台の築造がある。すでに高野長英が来宇した時、久良砲台が天蟻鼻(南宇和郡城辺町久良)に築かれているが(完成は嘉丞三年)、安政二年(一八五五)二月から樺崎砲台の築造工事が始められ、元治元年(一八六四)には蛭山砲台が築かれた。
 樺崎砲台築造に先立ち、安政元年七月威遠流世話方宇都宮九太夫・松田源五左衛門・井関九郎介らの依頼によって大砲一四門がアメリカ風に改鋳されることになった。鋳立場は大本社南の延命寺預山の土取場と定められた。樺崎砲台(宇和島市住吉町二丁目)は、須賀川下流左岸の住古山の麓の南海岸に造られた。西海浦の二宍長兵衛が出資し、宇都宮九太夫・松田源瓦左衛門を奉行として、安政二年。二月完成し大砲を五門設置することになった。砲台の規模は、面積五一三坪余(うち器械蔵二二坪)、大砲は一八斤・一二斤・八〇斤砲が北部に、三六斤・一二斤砲が南部に置かれた。砲台築造の経過については、安政三年三月明倫館教授金子孝太郎撰文になる樺崎砲台碑文に記されている。

 威遠流砲術は、このころ宇和島藩砲術の中心となり、安政四年閏五月二六日砲術諸派が威遠流に統合され、小銃の不易流と共に近代軍制中核となった。同年八月二一日には西洋銃陣法への転換が行われ、翌日より月六度演習が実施されることになった。

安政の大地震

 水戸藩の藤田東湖が母をかばって江戸の藩邸で圧死したことで知られる安政大地震は、安政二年(一八五五)一〇月二目のことであるが、前年の一一月四日には東海道、翌五日には南海道にも大地震があった。この安政元年から同一一年にかげての断続的な地震による被害は全国的規模となり、死者は一万人を越えた。
 宇和島でも安政元年一一月五目に烈震があり、六臼の弱震・七日の強震と続いた。そのため宇和島城をはじめ大破した建物はおびただしい数に上り、領内各地で新田の上手の崩壊が報告された。安政二年三月になって被害状況が幕府に報告されているが、その主なものをまとめたのが表七-4である。
 人的被害は少なかったが、田畑・建造物の被害は大きく、藩財政は海防への支出に加えて災害復旧費の負担が嵩んだため、非常に苦しい状況となった。しかし宗城は復旧を再優先することとし、新田再開発のための人夫一四万五五人の夫食米二、三八〇俵余(銀杜にして一四二貫八五六匁一分)の支出を認め、軍用金のうちから可能な限り支出するよう指示した。もっとも砲台の築造や軍艦雛形・蒸気船建造計画は苦しい財源をやりくりしながらも予定通り進めるべく最大限の努力を払っており、汽船建造の予算超過分についても支出を認めている。
 新田復旧人夫見積高を見ると際立った特色が読み取れる。御荘組・津島組に較べて御城下組の必要人夫数が極端に多い。このことは、地震の被害が地盤の弱い干拓地、特に宇和島城下周辺地域で甚だしかったことを意味している(表七-5)。
 復旧作業の進捗及び実際に支出した夫食米などについては不詳である。

コレラの流行

 『藍山公記』巻一一二の安政五年(一八五八)八月一一日条に「流行病にて町内に本月一日より一〇日までに死する者二六四〇余人、治療中の者四、五〇〇余人」と記されている。
 同年五月長崎に入港したアメリカ軍艦ミシシッピ号が持ち込んだ病菌は、出島から九州各地へ、そして全国に蔓延し、江戸では三万人の死者を出したという。出島のオランダ医師ポンぺは、この病気をコレラと断定して、治療法及び予防法を書いて長崎奉行所に提出し、幕府もこれを受けて八月二三日コレラの治療・予防法を書いた薬法書を頒布すると共に救済のため五二万三、〇七六人分の救助米二万三、九一七石の代金として六万両を支出した。
 宇和島藩では、戸島(宇和島市戸島)に患者が多数発生し、死者が相次いだため、浦医東水の救援要請を受けて谷快堂が出張して治療に当たったが、治療薬ホフマンを使い果たしたので、町医清恭に出張を命じたが病と称して拒否したため、周伯を派遣した。(なお詳細については、愛媛県史『社会経済6』を参照されたい。)

表7-3 異国船防御の合図

表7-3 異国船防御の合図


表7-4 大地震被害状況

表7-4 大地震被害状況


表7-5 新田復旧人夫見積高

表7-5 新田復旧人夫見積高