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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

七 長州征討と宇和島藩

第一次長州征討

 大老井伊直弼が暗殺されて後、京都における尊攘派勢力は次第に強くなり、長州藩尊攘派などによる外国人災撃事件が続発した。宇和島藩は公武合体派であったが市村敏麿のように尊攘運動に走る者もあった。敏麿は文久三年脱藩し、大和国五条の天誅組の挙兵に参加を企画し、のち長州三田尻の忠勇隊に走った(『新愛媛風土記』)。
 元治元年(一八六四)七月一八日、長州藩は前年の八月一八日の政変で京都における尊攘派勢力を一掃されたことに対する報復として京に兵を入れ、薩摩・会津を中心とする幕軍と戦って敗れた。この事件は蛤門付近で起こったため、蛤御門の変もしくは禁門の変と呼ばれている。
 同年七月二三日萩藩(長州藩)追討の朝命が、禁裏守衛総督徳川慶喜に伝達され、同二四旦幕府は西国二一藩に対して出兵を命じ、第一次長州征討が開始されることになった。京都に居た上甲貞一、が第一報を藩に入れたのは同二九日であり、宇和島藩も出兵を命じられた旨を報告した。林玖十郎には二六日中国筋派遣が命令されている。
 八月一目、早速出兵準備のため井関斎右衛門・松末杢兵衛が中津(大分県中津巾)に派遣された。これは長州攻撃の指令があれば、豊後から豊前小倉にかけての出馬の可能性があるので、熊本藩・中津藩などと宿や兵粮の手配などについて打ち合わせをするためであった(「防長就御征伐御出陣控」)。
 八月二〇日、金子孝太郎・吉見三弥が九州より帰藩し、長州に外国船が来襲して長州が敗北した旨を報告した(八月五日の英・米・仏・蘭四国連合艦隊の下関砲台攻撃)。翌二一日、京都発一四日付の報が到着した。それによれば、四国から長州への討手の一番手が宇和島藩で、二番手が松山藩、中軍を徳島藩、後備が丸亀藩・今治藩という編成で、八月下旬から九月上旬にかけて、伊予国に集結して出陣を待てというものであった。
 宇和島藩では攻撃・出陣の準備を進める一方、幕府に対して蒸気船二彼の借用願を出したが、幕府にも余裕がなく断られている。一方隣接する吉田藩は出陣命令が出なかったため、同藩の家老飯淵庄左衛門に対し網船借用を頼んだところ、七〇艘を手当てしたとの返事が来た(「御出陣控」九月一一日条)。
 宇和島藩主伊達宗徳としては、長州攻撃の命は出たものの積極的には動こうとせず、河原治左衛門・上田一学を徳山へ派遣して動向を確認しようとしている。前述したように宗徳の先妻(孝子)は長州藩一一代毛利斉元の女であったから、親戚として可能なかぎりの手を打っておこうとしたのであろう。
 八月二八日、長府藩家老からの手紙が到着した。蛤御門の変における本家長州藩家老の失態を詫び、長州追討の風聞があるけれども、長府藩としては支藩ではあるけれども本家の上京については何も知らなかったのであるから、宇和島藩から事情を説明してほしい、というものであった。
 その前日、江戸一五日発の使者が到着した。それによれば宇和島藩は二ノ手となり、徳島・松山藩を一ノ手として今月(八月)中に出陣せよというものであった(御出陣扣)。宇和島藩では大砲五門・野戦砲二門などの火器を準備し、先手一、〇九〇人余・旗本隊二、三六〇人余・船付水主類四、六〇〇人余から成る総勢約八、〇〇〇人の編成を終えて出発することになったが、蒸気船が無いことや、海が荒れていることなどを理由として長州への到着日を確約できない旨を報告している。結局一一月一一日までに長州との境界まで出陣することとなったが、この日は長州藩が降伏した日である。長州側では保守派が急進派をおさえて恭順の意か表し、蛤御門の変の責任者である家老益田右衛門介・国司信濃・福原越後に自刃を命じた。幕府側としても藩主毛利敬親父子が恭順の意を表したので、で一月二七日征長総督徳川慶恕の名で撤兵が通達された。直接の戦闘なくして第一次長州征討は終了したわけである。

第二次長州征討

 長州保守派の恭順論が藩の大勢を占める中で、元治元年一二月一六日藩士高杉晋作らは遊撃隊を率いて下関新地会所を襲撃し、翌年三月には急進派の主張する武備恭順が藩論となった。こうした中で薩摩は次第に長州に接近し、六月には西郷隆盛が土佐の坂本竜馬の仲介で薩摩藩名義で武器を購入して長州に渡すことを了承した。七月に入って長州の井上馨・伊藤博文は坂本竜馬の社中及び薩摩藩の斡旋によって長崎のイギリス商人グラバーから鉄砲を購入し、同月末には井上・伊藤が鹿児島を訪問した。
 こうした長州の動きに対して、幕府は長州再征を決意し、九月二一目勅許を得た。幕府の長州再征に対する諸藩の反応は第一次征長とは全く異なり、薩摩藩は当初から出兵を拒否し、諸藩にも再征反対の空気が強かった。
 薩摩藩と親しい宇和島藩では、実際に出兵しなくて済むようにと種々工作をした。幕軍は芸州口・石州口・上之関口・下之関口・萩口の五か所から討ち入ることになっており、宇和島藩は上之関口よりの一ノ手として松山藩(松平勝成・定昭)と協力することになっていたが、四国のすべての藩が参加していないことなどを挙げて攻撃の容易でないことなどを説いている。またパークス来訪をも出兵延期の理由として願い出ている。
 第二次長州征討は慶応二年(一八六六)六月七日、幕府軍艦の周防大島郡砲撃によって戦闘が開始されるが、諸藩の意志が不統一であったことや、軍備の近代化が進んだ長州奇兵隊の活躍により幕軍の旗色は悪く、七月一八日には広島藩主浅野茂長・岡山藩主池田茂政・徳島藩主蜂須賀斉裕か連署して征長軍解兵を幕府及び朝廷に建言している。同二〇日になると薩摩藩主島津忠義・父久光が、一揆・打ちこわしの激発する世情を考慮して停戦を関白に建白し、こうした情勢の中で将軍家茂が没し(同日)たから、家茂逝去より少し前の八月ニハ日徳川慶喜も遂に征長続行をあきらめ、解兵を朝廷に奏請して同二二日勅許を得た。