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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

二 戊辰戦争と諸藩の出兵

開戦と江戸開城

 大坂城に入った慶喜は、出来るだけの兵力の大坂集結を幕臣に命じ、各国公使には公論によって政体が決するまでは、徳川政権が依然正統政府である旨を通告した。薩摩藩は幕府挑発のため藩士伊牟田尚平・益満休之助らを東下させて、浪士を徴募して江戸内外を騒擾させた。すなわち薩摩藩邸を本拠にして、相楽総三ら浪士は軍資金の挑発、陣屋の襲撃など江戸の攬乱工作を行った。怒った幕府は一二月二五目、庄内藩兵ら二〇〇人で薩摩藩邸を焼打した。この報が大坂に達すると、幕臣や会津・桑名の藩士らは激昂 して慶喜を動かし、慶喜ば慶応四年一月一日、朝廷に「討薩の表」を提出した。ここに討幕派の意図した戊辰戦争が開かれた。幕府勢力の徹底排除をねらう薩摩藩は、御一新を標語に幕府と朝廷を対立させて民衆を味方とした。
 慶喜の先駆として京都へ進軍する旧幕臣や会津・桑名らの兵は一万五、〇〇〇人、一月三日の午後これを鳥羽伏見に迎えた薩・長・土らの軍は五、〇〇〇人であった。しかし諸侯の日和見主義や人心の離反、銃砲の差などから旧幕軍の劣勢は明らかであり、六日には総崩れとなって大坂へ敗走した。前年の一二月八日入京していた高知藩兵は伏見にいたが、開戦を徳川・薩長の私闘とみる山内豊信のためらいで動かず、三日に藩内討幕派の判断で薩長軍と同調することに決し、一三日板垣退助の率いる迅衝隊六〇〇人が入京した。慶喜は六日の夜大坂城を脱し、八日開陽丸で大坂を出帆し江戸に敗走した。
 鳥羽伏見の開戦は新政府に本格的討幕の機会を与えた。政府は七日に「慶喜追討令」を発して諸藩に去就を迫り、庶民には「農商布告」を発した。この緒戦の勝利の意義は大きく、政局は一転して討幕派の勢力は決定的となり、公武合体派であった慶永・豊信らは議定を辞退した。一月末には、朝敵の名を恐れる西国諸藩の大半は抵抗なしに新政府の配下となり、東征が決せられた。
 東征軍の参謀西郷隆盛と幕臣勝海舟の会談によって江戸開城は四月一一日に行われたが、大混乱の江戸では関東一円に打ちこわしや一揆が起こり、旧幕諸隊の抵抗も発生した。その激しさは広沢真臣らの江戸放棄論が出る程であったが、江戸市中取り締まり指揮に当たる大村益次郎は、旧幕軍最大の拠点である上野寛永寺の彰義隊の平定を上策とみて、五月一五日これを壊滅した。朝議による徳川の処分は、異例の寛刑となり慶喜は水戸謹慎、徳川宗家は田安亀之助(家達)に継がせ、旧地の駿河・遠江・三河で七〇万石を与えた。彰義隊の残党や関東の反勢力は五月中にはぼ平定され、鳥羽伏見に続く戊辰戦争の第二段階が終了した。
 しかし彰義隊の総大将輪王寺宮は、寛永寺を脱して六月には会津の松平容保に迎えられた。旧幕府の海軍副総裁榎本釜次郎(武揚)ら二、〇〇〇人も、新政府の武器接収を不満として開陽丸、回天丸ら八艘により品川を脱した。

東北・箱館戦争

 鳥羽伏見の戦で敗れた会津藩は、この復仇のため全藩的動員体制を整えた。閏四月四日には仙台・米沢ら奥羽二七藩の重臣による白石会議がもたれ、会津藩の寛大な処置を要求する嘆願書が作成された。ついで第二次の同会議により五月三日には三〇藩の奥羽越列藩同盟を結成した。
 この奥州の軍事同盟化に対する政府の動きも早く、五月一日には攻防の要である白河口を敗り、七月一三日平城、二九日二本松城占領と進んだ。同日越後では河井継之助らが死守していた長岡城が陥落している。八月二三日新政府軍三万の兵は会津若松城を包囲した。仙台・米沢など始めから戦意の薄い諸藩は、次々と降伏し、若松城も二二目に落城した。会津と共に抗戦の主力であった庄内藩は翌日投降し、秋田藩を最後に同盟諸藩すべてが降伏した。新政府は一〇月二八日に有栖川宮の東征大総督の任を解いて、東北戦争が終結した。
 旧幕府の軍艦八般に分乗して品川沖を発した榎本軍は、九月末に仙台湾に集結したが列藩同盟は既に降伏の後で、フランス軍事教官や大鳥圭介ら七〇〇人を加えてそのまま蝦夷に向かい、一〇月二五日には箱館府と五稜郭を占領し、続いて松前城も占拠した。榎本武揚を総裁とする蝦夷政権樹立を目指したのである。
 翌年三月、品川を出航した政府軍は、江差の北部に上陸し、海陸から攻めて箱館を奪取し、五月一八日五稜郭も攻略した。ここに一年余に亘った戊辰戦争が終わり、新政府の国内統一が完了した。なお五稜郭は、開成所教授として江戸にいた大洲藩士武田成章が、幕命によって箱館に出張し、安政元年(一八五四)から一年半をかけて設計し、元治元年(一八六四)六月に完工したものである。

宇和島藩と戊辰戦争

 鳥羽伏見の戦では、伊達宗城は兵を動かさず中立の立場をとった。慶応四年(一八六八)一月八日、藩主伊達宗徳は宣秋門と錦旗警衛を命じられたが、宗城が軍事参謀を辞して下坂したため宗徳も同役を免じられ、阿波藩と交代した。しかし一月一五日松山藩征討の応援を命じられ、二七日桜田親興(出雲)を隊長として九五〇人余が陸路で出発し、二月一日郡中に到着した(桜田日記)。「塩屋記録」によると一月二九日から二月四日の間に、延五、四二三人の宇和島藩兵が四六軒の宿に泊まっている。隊長の桜田親興らは同月三日松山城内で土州総督と会い、松山藩の恭順をみて五日に郡中の陣を払い、八日に帰城した。
 一方一月一九日には江戸東征を命じられ、北陸道鎮撫高倉三位の参謀となった林玖十郎の率いる一小隊が出陣した(諸願伺届)。この折政府から軍資金一万五、〇〇〇両が下賜されている。一行は四月江戸城に入り、五月には甲斐の鎮撫を命じられた。そのころ宇和島藩の宗家である仙台藩では奥州の情勢が不利に展開する中で、和平論が高まりつっあった。同藩は五月二八日邸地没収・家臣の入京停止の処分を受けたが、事情も明確でなく藩論も不定ということで暫定的なものであった。
 仙台藩主伊達慶邦の養子宗敦は宗城の次男であったから、宗家の断絶を憂う宗城は六月一三日官を辞して、岩倉具視らを通じて慶邦父子の懇諭悔悟の役を乞い、二九日に東行を許された。七月一六日には宗徳も上京して仙台の件を相談し、一九日宗城に代わり宗徳が東行することになった。しかし白石会議で仙台藩が盟主となると新政府は慶邦の官位を奪い、討伐の令を発して宗徳の東行を禁じた。宗城父子も服罪を待つ旨を上書して謹慎し、藩士を使者として仙台に派遣し、内命による降伏帰順を説いた。使者は九月九日到着し石母田但馬と会見、一〇日仙台城内では降伏か抗戦かの論議の後、藩主の裁決により伊達家存続のため降伏と決した。一五日城郭と兵器を全て差出し、慶邦父子は城外に退去して謹慎した。一二月七日仙台城地は正式に没収となり、慶邦父子は東京
で謹慎を命じられたが、特別の朝旨により家名は残され、実子亀三郎に二八万石を与えて仙台城を預けた。
 慶応四年九月七日、宇和島藩は兵五〇〇人を至急箱館に派遣するよう命じられ、雇船料金一万九、八〇〇両を下付された。藩では翌日在京の士卒を帰郷させ、兵列を整えて下関と三机(現、西宇和郡瀬戸町)に待機させ、横浜で手配の汽船の到着次第乗り込ませて秋田に集結の手順をとった。但し五〇〇人も出兵させれば領内の警備が手薄となるため一〇日、一〇〇人分を吉田藩兵とすること、下関に置く兵を宇和島へ返して乗船させる旨を願って許された。軍務官の一四日付指令によれば箱館では太田黒亥和太の指揮下に入ること、一六日付では津軽藩の応援命令であった(『藍山公記』)。なお二三日には四〇〇人の出兵費用として七万両の貸し下げを会計役所に願っている(「宇和島藩願伺届」)。
 その後軍務官より度々出兵の督促を受けたが、汽船と契約出来だのが一〇月六日で、奥羽は既に鎮定されていて津軽応援の要はなくなった。桜田出雲は箱館直行を参謀大村益次郎に相談したが、大村の意見は遠方の兵を発するのは食料等に不都合であるから、近日京より停止令があろうということで汽船を解約し、軍務官の指示を待った。しかし一一月一七日突然に、出兵遅延の上何らの届なしとの罪名により重臣小島備中らは謹慎処分を受け、もはや出兵の要なし、と通告された(『藍山公記』)。
 驚いた藩は一二月一日箱館再出兵の命を懇願し、八目付で桧垣弥三郎や井関新五以下士分尾装銃隊・士分口装銃隊・大砲隊一七一人、足軽四中隊、兵隊外の医師や船手ら四〇人の陣容を発表した。九日・一二日と伊達宗徳は不行届を陳謝して待罪書を上書した。翌明治二年二月一三日桜田出雲に謹慎が命じられ、二〇日ころには松根図書も謹慎、二九日刑法官の推問があって三月五日宗徳も謹慎、一二日には宗城も不行届を陳謝して待罪書を提出した。謹慎を解かれたのは宗城が二七日、宗徳は四月五日であった。なお、吉田藩には処分はなかった。また、林玖十郎は明治元年一一月東京へ帰り、翌年七月三日箱館府判事となった。

吉田藩

 佐幕派の藩主伊達宗孝は旗本出身で滞府することが多く、藩士との間に意見のずれがあり、鳥羽伏見の戦でも新政府の出頭命令に対し病気として応じなかった。宇和島前藩主宗城は、眼前の小義について大義に背き、天朝の錦旗に向かうことは吉田藩の存亡に拘わると、吉田藩重臣郷六・今橋・今村らを上府させて宗孝の入京を説得させたが聞かなかった。ために藩論も二分、宗城は家中の心痛を察して吉田藩の政治向の件に関しては、兄藩である宇和島藩が指揮する旨の令書を家老中に渡した(「吉田藩時局関係年表」)。戊辰戦争の動きが活発となった三月には、両者の協議で出兵させ、四月一日には吉田藩主の名代として宗孝の養嗣子宗敬が上京した。この間再三重臣らも上府して宗孝を迎えんとし、在府中の飯淵貞幹らもその佐幕を諌めた。その結果四月一七日吉田藩は唐御門と壬生官務文庫の警衛を命じられ、一同もようやく安心した。
 宗孝が説得に応じて上京したのは六月一三日であった。二心のない旨を述べ入京の遅延を朝廷に陳謝し、宗城もここで吉田藩の管理を宗孝に返還した。新政府も藩士らの努力や、宗城の維新への功により特に吉田藩の悔悟を認め、処分はなかったが、七月二三日に宗孝が隠居し宗敬(九代藩主)が相続することで自ら責任をとった。宗敬の就封は藩士も歓迎するところで、藩論も統一され藩政刷新の好機となった。九月、宇和島藩と航海その他諸事相談の上で、一〇〇人の箱館出兵命令を受けた。

大洲・新谷藩の出兵

 在京中の新谷藩士香渡晋は、大政奉還の議を西郷吉之助に確かめて直ちに大洲藩主加藤泰秋の上京を促し、まず家老大橋播磨が兵を率いて入京した。慶応四年一月三日大洲藩は大津口出兵を命じられたが、在京の兵は一小隊しかなく、また戦況不利の場合の天皇動座計画における乗輿守護の密命を受けていたため、出兵を免ぜられた。鳥羽伏見での官軍の勝利は、同藩周旋方の窪田省吾から播磨に知らされ、更に飛脚で国元に知らされ、領内各村へも直ちに廻状によって京摂の平穏と安心すべき旨を触れている。
 新谷藩は慶応四年一月四日錦旗奉行五条為栄の警衛を命じられ、同日錦旗を奉じて鳥羽口に出陣し、六日には淀城から姫路まで随従した。ついで九日には南門御旗と内侍所の警備を命じられた。藩主加藤泰令は一月一七日には入京していたが、国元取り締まりのため二月一四日出発、一九日に帰藩した。
 松山征討以前の一月一〇日、新谷藩は矢野淳作ら三名を送り、松山藩の老臣菅五郎左衛門良弼と会って城郭と兵を新谷藩に預けての恭順をすすめた。勿論五郎左衛門には決する力はなく、そのまま別れている(『愛媛県編年史』9)。大洲藩も前々から探索方久次郎を送って松山藩の動勢を調査していたが、松山出兵命令により高知藩と連絡して二六日、三ノ隊二〇〇人余を伊予郡郡中(現、伊予市)に出動させた。新谷藩も同日隊長加藤弘人以下二小隊五〇人が出動、翌月大洲藩は一ノ隊を同郡米湊に、二ノ隊を喜多郡内子まで進めた。二月一七日、諸藩の協議により大洲藩は松山城下萱町口、新谷藩は立花口の警備についた。その後新谷藩は高知藩の要請で三津へ移り、藩の蔵米を管理して兵糧米を供する役割に当たった。全兵員の引き揚げは大洲藩三月六日、新谷藩は、五月二五日であった。
 時勢の急転により大洲藩主加藤泰秋は病をおして二月五日入京し、直ちに御所警衛を命じられた。三月の大坂行幸供奉の後、五月一四日軍務官から四条隆謌指揮下に入り甲府城警衛を命じられた。早速国元で武成隊二小隊を編成し、二六日隊長加藤赳之丞以下一一八人と持夫三〇人が
出発し六月七日京都着、七月一日甲府に入った。しかし小田原・川浦両関の守衛を命じられて四日に中津藩と交替、一六日更に江戸への転進命令をうけた。一八日甲府を発つが暴風雨のため勝沼で二二日まで滞陣し、東海道へ迂回して八月三日漸く東京に到着したところ、既に七月二九日付で奥州出陣令が発せられていた(『愛媛県編年史』9)。
 八月七日、品川で肥前藩の翔鶴丸に同乗して九日出帆、殆ど全員船酔いに苦しみながら、一〇日夕、常陸平潟港に到着、一一日に上陸した。この平潟口は七月初旬の激戦で焼土となっており、漸く飢を凌ぐ程度の食料で進軍し、一五日磐城をすぎ一九日相馬中村の城北万日寺に着営した。このころ大洲藩船洪福丸は、蒸気船の故障した東北遊撃軍将久我大納言通久に、下関で水夫ともに借り上げられ、越前敦賀港に向かっていた。
 八月二〇日、苦戦の伊賀藩応援のため、寺西作左衛門の率いる一番小隊四四人が砲声の中を今泉へ、続いて筑前藩応援のため加藤赳之丞以下二番小隊四五人が駒ヶ峰方面へ出動した。この時の激しい銃撃戦で、大洲藩も死者一人、傷者二人の犠牲を出した(『愛媛県編年史』9)。二一日には藤崎へ転進し、二三日北向に進軍して翌日砲台三か所、番所二か所を設置して守備に当たった。九月一七日仙台藩か降伏したため翌日出発して一〇月六日仙台に入り、官軍参謀世良脩蔵を殺した仙台藩家老但木土佐以下五人の東京護送を命じられた。道中費用七〇〇両を下付されて一六日出発し三〇日に千住宿に到着、預かり人を宇和島藩に渡して任務を終了した。
 大洲藩兵引き揚げの東京出発は一一月一六日で、英国蒸気船により一七日横浜を出帆し二〇日神戸に入港、船を換えて二三日出帆、大洲城帰着は一二月一日であった。参戦中各所で食料毛布等の給物、酒肴等の慰労金を受けていたが、明治二年六月、改めて二、〇〇〇両の褒賞金を行政官から下付された(大洲岡田家文書)。
 なお新谷藩は慶応四年五月二二日、京都市中巡邏及び潜伏人の探索召捕を命じられ、総督平野勘兵衛以下二三人が上京し、九月八日までその任にあった。同年六月二日、軍用金三〇〇両の上納命令のうち五月分を上納している(『愛媛県編年史』9)。

小松藩と西条藩

 小松藩は藩主一柳頼紹が大坂滞在中の慶応四年六月一七日、兵部卿宮随従による越後出兵の命を受け、総督黒田左之助、隊長黒川知太郎以下御目見以上一六人、足軽隊二六人、御小人九人の計五一人が大坂屋敷から出陣した。大津・守山・長浜と進んで二七日敦賀に着陣し、調練などを行いながら七月六日まで滞陣した。八日福井・一〇日金沢・一四日滑川・一六日糸魚川・二〇日柏崎と進み二四日に長岡に到着した。同日は河井継之助以下六〇〇人余の長岡城奪還の日に当たり、藩兵は休息するまもなく同城攻撃軍に加わり、二九日ようやく落城させた。その後ぱ参謀山県狂助(有朋)の指揮下に入り、新潟へ進軍し、八月一一日の村上城落城、越後全域の制圧により八月中旬ころは村上城下に滞留した。
 八月二三日、三日月藩や与板藩らと共に進発し、越後大蔵村山峠を経て杉平村に到着、二七日の高畑越の際に会津兵と激戦となり、藩士元山源太が即死、負傷者二人を出した。九月は杉平村、荒川口付近で土州兵らを応援し、二九日に落城後の鶴ヶ岡城に到着した。藩兵らは食料不足に悩んでいたが一〇月三日に凱旋が決定し、四日庄内を出発した。村上・新潟・柏崎・高田・新井と進んで善光寺に参詣、塩尻・妻籠・美濃路を通って守山から一一月一〇日京都に入り一九日大坂乗船、二八日朝周布郡広江港に帰着した。この間の戦闘や行程の状況は、会計方として出陣した岡田吉左衛門の日記「越後出兵略記」に詳しい。
 徳川一門ではあるが多くの勤王の士を出した西条藩では、藩士長谷川元右衛門を土佐に派遣して連携をとり、早くから新政府に恭順の意を表した。また藩士六〇人を江戸へ送り、藩主の帰藩を要請したという。慶応三年一○月二二日、藩主松平頼英は朝廷から出京命令をうけた。しかし病のため家老片野長左衛門が代わって一一月二九日入京し、天機伺いのため参内した。翌慶応四年一月一〇日、相応の人数による京都守衛を命じられ三月五日三宅勘兵衛の率いる西洋式銃隊一小隊四五人が入京した。頼英も同年三月九日江戸を発って二六日に入京した。四月参内して二二日、二条城々北猪熊口柵内の警衛を命じられ閏四月二日まで勤めた。五月二七日に帰府を願うが、同月一五日の上野戦争の報により滞府を命じられた。その後帰邑を許され七月一日出発して一二日西条に入った。一一月三日江戸藩邸の藩兵により吹上御門警衛、同二七日水道橋関門警衛を命じられ、翌明治二年二月二四日まで勤めた(「松平頼英家記」)。
 鳥羽伏見の開戦では早速領内に、朝命を尊奉し平穏にあるべき旨を布告し、進撃隊へ出張の用意をさせた。高知藩兵の松山及び幕領進駐については、領内通行に協力すること、また上州預かりの村々との融和を命じている。しかし万一の場合を警戒す全局知藩は、同年二月一三日藩兵を送り込んだ(久門日記)。小松藩も一時西条城下に出兵したが平穏のため帰藩したという。藩では二月、前年の上納金未納の村々に督促し、三月には諸役所、村役人へも軍役を主とするよう命じ、操練の研究を行わせた。五月には衣類等について奢侈を戒め、林政・海運・水主役等の扱いを改正し、村費の支出や役人出郷の手当てなどの諸政を改革した。また高齢者への慰労金や、西条領の米が他領より高値の場合には、貧困者には他領と同価で下付するなどの配慮を行っている(荒川山村近藤家文書)。

今治藩の奥州転戦

 慶応三年(一八六七)一二月二五日の薩摩藩邸襲撃の際、家老久松彦兵衛長世は江戸にいたが不穏の形成に驚き、注進のため翌日江戸を発った。翌年一月三日京都着、上京中の家老服部外記正弘と対談中に鳥羽伏見の戦の砲声を聞いた。四日急拠天機伺いのため参与役所へ出頭し、今治へは久松一学を走らせた。一月八日藩主へ出頭命令があり、皇居警衛の出兵命令をうげ、鈴木永弼を隊長とする天応隊が着京して守衛した。今治藩の担当は主として華頂宮で、兵員は家老・番頭各一、野戦砲五門、銃手六〇人など総員一一七人であったが、四月四日これを強化して隊長四人、銃長一二人、野戦砲二八門、銃手三二〇人、総員四八八人としている。
 藩主松平勝吉(定法)は三月一九日、二九日と天機伺いのため参内し、閏四月一九日在所取り締まりのため京を発って二九日帰郷した。天応隊は閏四月六日に服部和泉の率いる二番隊の風撃隊と交替した。風撃隊は六月一二日京を発って一七日帰城した。この間軍資金は池内重華が大坂の御用商より調達、今治藩は開戦に遭遇する好運もあって、戊辰の動きに素早く対応し、新政府の要望に応えた(『今治拾遺』)。また貢土井上豊龍は、四月二八日慶喜処分についての意見を上申しているが、その要点は①亡家滅身の処置も不当ではないが、徳川祖先来の勲功により罪一等を許されたい、②所領は駿・遠・参付近で百万石余がよかろう、③徳川の相続は越前侯がよい、であった(「西京役所御届書控」)。
 五月一四日同藩は軍務官より甲府城警衛、彦根・大洲ら五藩兵と共に四条隆謌の指揮下に入る旨の指令をうけた。二五日戸塚政輝隊長の三番手隊一三八人(久松定弘家記・今治拾遺では一〇七人)が出帆し六月一日大坂着、一一日京を発って七月二日甲府へ到着した。しかし九日に江戸転進を命じられて一三日甲府を発ち、一九日江戸藩邸に着陣した。二三日肥州・中津・人吉三藩と下野国今市出陣を命じられ二八日出発、途中戦もなく行軍して八月六日今市に到着した。
 八月七日下野国丹生で戦闘があり、一九日芸州藩と交代しての日光警衛命、更に二一日には白河口総督より昨二〇日総軍の会津討ち入りにより会津進軍命令をうけ、分隊が藤原口から進軍した。九月三日大内村で戦い、四日関山口の戦いで負傷二人、五日本郷村から若松城下材木町まで攻め入り、六日白河口、八日と一四日に城西飯寺村でも戦った。会津降伏後日光方面に旧幕軍多く手薄のため応援依頼により二〇日に若松を出発し、二六日日光に到着、小競合いで負傷者一人を出した(「鎮将府日誌抄」「木村滝三郎日誌」)。
 今治への帰陣は一二月一日で、藩主定法に謁して酒肴のねぎらいをうけた。新政府からはこの奥州出陣の慰労金として一一月二二日三六四両、翌明治二年六月二日二、〇〇〇両の下賜をうけた。

維新政権の樹立

 慶応三年(一八六七)一二月九日、王政復古の大号令により幕府や摂関制が廃されて、総裁有栖川帥宮、議定山内豊信、島津茂久ら一〇人、参与大原重徳や薩・長・土・芸・越・尾の藩士ら三〇人による三職が置かれた。遅れて上京した宗城は一二月二八日議定に就任したが、政権の実務を握る参与に宇和島藩士の名は無かった。翌年一月の改正では副総裁や内国市務総督を置き、神祇事務以下七科を分け、参与を三〇人に増員し参与助役を置いた。この時大洲藩主泰秋は、京都御見巡り役に就任した。

新政府の基本方針

 新政府は鳥羽伏見の勝利で極めて優位に立ったが、全国的には日和見の藩も多く、これらを天皇の名の下に反幕勢力として結集させる必要があった。そのため一月一九日、大久保利通は総裁局に遷都案を提出し、政局の一新を図った。天皇親征の発表もそのためである。一月中旬から起草され三月一四日公布された「五ヶ条の御誓文」も、江戸城総攻撃を前に攘夷の風潮を排し、公義思想と開明をうたって討幕勢力を結集し、列強に対しても支持を得んとするものであった。
 政府は翌一五日、「五榜の掲示」によって民衆にも基本方針を示した。それは旧来の儒教道徳の五倫の道をすすめ、徒党や強訴・切支丹を厳禁し、密告者には褒美を与えるといったもので、取り除いた旧幕府の高札と少しも変わらぬものであった。飢えて動揺し政治の改革を求める民衆には、初期の政府の態度は保守・強圧的であった。
 閏四月公布された「政体書」は、高知藩上福岡孝弟や福井藩士由利公正らの起草で、冒頭に五ヶ条の誓文を掲げ、同文を政治の基本方針とする旨を示している。全文一五条で大権を太政官に集めてその下に七官を置き、合衆国にならって立法・行政・司法の三権に分けた。立法を行う議政官は上局に公卿・諸侯から議定・参与を選び、下局は徴士・貢士から構成されてその運営は公議世論によるとした。
 貢士は各藩主が藩内の国事に通じた者を任命するもので、その定員は大藩(四〇万石以上)三人、中藩(一〇万石以上)二人、小藩(一万石以上)一人、であった(『今治拾遺』)。諸官吏を公選とし任期を四年と限ったのも特色である。外見はこのように諸藩の協力を得るため民主的なものであったが、戊辰の戦勝により全国統治の進展と共に、次第に中央集権化の色合いを濃くしていった。また府藩県三治一致の方針を定め八府二一県二六三藩と区分、鳥羽伏見の戦後に接収した旧幕領には府県を置いて直接支配を行った。しかしいずれも末端への支配力は弱く、庶政は旧来の藩と庄屋体制に依存していた。

明治改元と遷都

 新政府は民衆を味方とするため天皇の権威を最大限に利用し、絶対性の強調に努めた。事実慶喜追討の錦の御旗を掲げて東征する官軍に、群集は熱狂した。五ヶ条の誓文も天皇が神の前に誓う形で発布された。改元と遷都も人心掌握上不可避の道であった。関東制圧後は江戸に鎮台を設置して駿河以東を管轄していたが、旧幕府の拠地をおさえ、東国の人心の把握のため次第に江戸遷都論が台頭した。
 遷都の準備は六月から主として大久保利通によりなされた。京と共に東西同視の立場から七月一七日江戸を東京と改称し、江戸鎮台を鎮将府に改組して臨時政府とし、八月四日に天皇の東幸を布告した。同二六日、政府は九月二二日の天皇誕生日に天長節の執行を布告し、翌二七日に神道儀礼による即位の大礼を挙行した。九月八日には明治と改元し、一世一元の制を定めた。
 天皇東幸の行列は九月二〇日京都を出発し、道々金品を施しながら一〇月一三日江戸城に入城し、市民には酒肴が振る舞われた。天皇は一二月八日東京を出発して一度京都に戻り、翌明治二年二月二四日太政官を東京に移すことを決定(事実上の遷都)し、三月七日京都を発ち二八日に東京に到着した。
 大洲藩は鳥羽伏見の戦の際の天皇乗輿警衛命令に続き、慶応四年二月六日御所警衛御番加入を命じられた。一二日藩王加藤泰秋の願いにより二〇日、薩摩ら五藩と共に大坂親征の供奉先陣が命じられ(『愛媛県編年史』9)、国元では家中一同が総登城して、武門の冥加とこれを祝した。大坂行幸は三月二一日出発し大洲藩は藩主・家老以下銃隊二小隊合計二二七人が参列した。大坂では練兵や各所への行幸があり、閏四月七日還御の行列では大洲藩は後陣を勤めた。新谷藩は同年一月一九日から三〇人余で、建礼門に立てられた錦旗守衛に当たっていたが、閏四月八日の帰京により同役を免じられた。
 東京行幸についても大洲・新谷藩ともに供奉を志願し、八月二九日公式に拝命した。大洲藩は長州隊に続く先陣で、泰秋は騎馬で先駆をつとめ、新谷藩は後衛で長州・備前隊に続いた。泰秋は一二月八日の還御にも供奉御先警衛を勤め、明治二年一月一四日帰城した。なお宇和島藩も東京行幸の際士分人足合わせて三六人を負担し、別に自分仕成で列外に四五人、通し日雇人足三一人を提供した(藍山公記)。