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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

五 士卒の禄制改革

家臣団の解体

 幕末各藩の家臣団は、卒族や農兵の取立によって増大し、家禄支給額は藩費の過半を占め財政難の最大の原因となっていた。政府もまた家臣団の解体を、近代化には不可避の要件とみており、全国的には幕末一、三〇〇万石の家禄が、廃藩前には三分の一の四九二万石に減少していた。この士卒の解体は特権的身分の廃止だけでなく、帰農奨励や平民との通婚許可など四民平等の立場からも進められた。
 既に近世中期以降、各藩ともに藩士の俸禄は借上の形によって減石給付が一般であり、後期では人数扶持も珍しいことではなかった。大洲藩の場合、元文元年(一七三六)から明治二年の一三四年の間に百石に付二八~三三石渡しが四六年間、二〇~二五石が四〇年間、一二~一九石が四年間、人数扶持が五年間と、七割以上の期間が知行高に対して三分の一以下の給付であった。この減額給付は飢饉と倹約令に関係が深く、今治藩の人数扶持は文政一〇年から一〇年間、天保七年から七年間、嘉永五年、安政二~五年、元治元年といずれも倹約令が附随している。明治二年一〇月、今治藩が政府へ届けた士卒人数は上士一〇九、上士格~徒士二五四、徒士格~郷土一六、小役人一〇五、卒六八、歩兵九一、中間三七六、神官三、士族の次三男一九の計一、〇四一人であったが、明治四年八月では六五五人であった。

版籍奉還後の改革

 今治藩では慶応三年二月、従来上下等二分の藩士を上中下土と三分し、禄高は上薄下厚として平均二〇石二斗五升とした。明治元年二月庶政一新によってこれを減額し、役料や補米も廃止した。戸主が幼年の場合は三分の二渡しである。版籍奉還後は「諸務変革」によって藩主と上・中土層は現石の一〇分の一となる削減となったが、下士や卒は据置や増禄となる場合もあった。しかし上層藩士の大幅な減石によって抱えの多くの中間下僕層が整理された。
 小松藩では士卒が連署して明治二年七月家禄を奉還したが、そのまま士族九三人が四等級に、卒・外下卒・小者一五五人が九等級に分けられて給付をうけた。西条藩は宗家和歌山藩より附属された士卒六八人(扶持米計八七一石六斗余)を返還し、一代抱の水主・山回り・軽卒約一九〇人を帰農させた。新谷藩は士族三〇六人を九等級に分げて総計二、五〇〇石を給したが、九月一九日これを改めて士族は三四・三〇・二六俵、卒族は二五・二一・一七俵の各三等級、一代限りほかを加えて合計一一等級とした。同月二八日、士族の近郷移住を許可したが、翌年一二月帰農帰商の手続を簡単にし、授産資金として五年間は士族に八石、卒族には五石ずつ支給するものとした。
 吉田藩では明治二年六月、家中総出仕により職制改革・藩士服制が布告され、一二月には藩士の心得るべき箇条が指示された。宇和島藩でも禄制知行・扶持米・切米などの称がすべて廃され家禄に一定された。家禄は一家一人に限って給付され、役高が家禄以上であれば、在役中は足高が行われた。

藩制後の改革

 明治三年九月の「藩制」により、政府は諸藩の支出費目を規定し、家禄改正によって士卒の等級を簡略化し、階層を平均化することとした。家禄は更に減石され、役職のない者は僅かの家禄での生活を余儀なくされ、藩債を持つ藩では家禄の一割前後をその償還に充てたので実収は更に減少した。各藩は養蚕・機織などの授産事業を伝習させたが、あまり成果のないまま廃藩に至った。明治三年一一月、政府は帰農政策を進め各藩もこれに倣った。翌月民部省に開墾局を設置し、全国の不毛地を調査して入植を進めた。また、一代抱えだけでなく世襲の卒の解放も行われた。
 今治藩では明治三年五月、帰農帰商願いと通婚を自由とし、郷居を許可し、士族屋敷の二〇〇坪以上の分については地税徴収を布告した。ついで同年閏一〇月二五日の禄制改革では士族の家禄を二三・一九・一四・一二石の四等級とし、額も先の改正の半分以下とした。役禄に不足の場合は五俵増しである。大洲藩は明治三年一月、藩士への貸下銀の返却を督促し、九月には異国船警備のため設置した村々の郷筒を廃し、武器鉛薬を返却させた。一二月禄制を改革して六等級としたが上士は二石、下士一石、上卒二斗四升などを藩債償却のため差し引いた。召し出されない士族の家禄は一率三石、卒は一石七斗で郡中や長浜の非役の士族は郷居を許された。
 吉田藩は明治三年八月に「一藩均禄の制」を公布し、明治二年六月令の三割以上を減額し、一六等級とした。士族が幼年で無勤の場合はうち二割が軍資米として差し引かれる。同年一一月藩政改革によって官禄家禄の規則を立て、在職中は別に素禄を給さず、非役の士の四〇俵以上の者を減額した。士族の上中下の等級や卒の番号を廃し、農商希望の者は評議の上許可するとした。引退は五〇歳から願い出てよく六一歳には必ず願い出るものとした。
 明治三年四月、宇和島藩が兵部省へ届けた士族数は二、六四六人(男一、三〇九、女一、三二七)、卒族四、〇二六人(男二、〇二〇、女二、〇〇六)である。同年一二月、藩制を改革して士卒の切髪を自由とし、新株の廃止、雇勤の者の廃止(但し三年間は年四俵二斗給付)を定め、家禄の一〇分の一を藩債償却のため拠出させた。また「帰農商規則」を立てて卒・中間以下を解放し、士卒のうち希望者に山林荒蕪地を分配(城下近くは七~八反、遠隔地は一町)するとした。この土地は売却を禁止し、五年以内に開墾しないと返却するという原則であった。

廃藩前後の改革

 廃藩後は士卒の解体が益々進み、県の統合の度に役禄を失った。松山藩では既に明治三年閏一○月の給禄改正時に、五年間は一人~一人半扶持を与える条件で卒二、四二八人を廃止した。明治四年一月二五日には賜金を与えて士族の郷居を勧め、各郡毎に合計一、六六五戸の割当を行った。また移転の際の引越料として一里以内の場合は旧士族に五〇両と三五人役(以下一里増すごとに一〇人役増し)、新士族に三〇両と二五人役(同七人増し)の支給を規定した。卒の解放は各藩とも急激に進めたが卒族の不満も強く、明治五年一月には世襲卒のみ士族編入が布告された。しかしこれも請願の年限が切られ、平民籍となった一代卒・準卒らの士族編入への嘆願も強く、県はその取扱事務に追われた。
 大洲藩は明治四年五月、士卒の平民籍入籍を自由とし、七月にはすべてに短髪を許可した。また郷居や内職のため材木や竹類の必要なものには払い下げを行った。商売は代人に限って許していたものを当主や自宅での開店・官員の家族にも許可した。翌月には家督相続の際の青銅献上(上士三〇貫文、下士一〇貫文)や嫡子・養子の目見えを廃止した。また転職資金として五年間士族に八石、卒族に五石の支給を定めた。翌年一月、士卒屋敷は坪数、邸内の土地は広狭により家屋税・地税を取る旨を布告したが反対が大きかった。

表8-33 伊予各藩の禄制改革

表8-33 伊予各藩の禄制改革


表8-34 伊予各藩の禄高人員

表8-34 伊予各藩の禄高人員