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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

六 村方の支配と取り締まり

旧制度の廃止

 封建諸制度の廃止は、百事一新の風潮の中で村政や庶民の段階にも及んだ。藩士や社寺の格式の廃止はそのまま庶民の権利の拡大を意味するが、庶民の側からの庄屋・豪商らの不当な支配への不満、年貢軽減の要求なども年と共に強くなった。藩庁の仕事も庶民の教化や風俗の改良などが必要となり、明治二年三月二二日、松山藩は物産を開き農商増産の道、遊民を禁じ産業につかせる法、諸政のうち廃止すべきこと、旧に復したらよいことなどの方策を届け出るよう領民に布告した(古三津村日記)。
 封建的規制の廃止では明治二年一月、まず旅行や転居の自由が認められた。宇和島藩は同年七月、領内八か所の番所を廃止して往来を自由としたが役人は置き、不審者の取り締まりや商用などの運上は従来通り徴収した。領内の通行は自由であるが、他領へ出る場合は鑑札を要し、領内でも止宿には許可証を要した。大洲藩でも城下の内外もすべて郷中並みと考えてよく、領民の履物や持物に制限なく自由に通行を許したが、肱川を航行する川舟の屋形の形には身分による区別を残した。まだ三都旅行は厳禁であり、止宿・寄宿・旅行などに鑑札が不要となったのは廃藩以降である。宇和島藩は明治三年一二月、百姓の社寺修理の際の役夫や庄屋への農事の手伝夫、庄屋宅への下男奉公などを禁じ、出役の負担を減らした。
 明治三年九月一九日、太政官布告によって庶民にも苗字が許され、私的に用いていた苗字が公称されることになった。これは戸籍作成の前提でもある。名前については前年に、大和・伊予などの国名や弾正・大輔・主税などの官名、また左衛門・兵衛・大夫・祐などの使用が禁止され、今治藩では士庶ともに甚兵衛が甚平、多右衛門が多門などと改名された。苗字は住職や庄屋、寺小屋の師匠などに相談をしたようである。衣服や髪形への禁令も順次廃止され、吉田藩では明治三年閏一〇月、庶民の束髪・変髪を自由とし、大洲藩は従来兵士のみに許可していた短髪を士卒にも許した。明治四年一月、宇和島藩は百姓の権高袴・割羽織の着用を禁じたが、反対の陳情によって八月にこれを許可した。
 明治三年六月、民部省から戸籍編成について布告があり、翌年四月に「戸籍法」が制定された。人口の把握は政治の基本であり出生・死亡・養子縁組・旅行・移住希望などは戸長へ届け出る規定となった。吉田藩では戸籍調査の徹底を期すため同年六月、領内の数か村を連合した区制を採用し、城下を四区分、村浦を二八区分し、区毎に戸長・副戸長を定めて書類を作成させた(吉田藩政庁日記)。しかしこうした厳重な戸籍調査の布告に対して村を出奔する者もあり、大洲藩では同年四月その者の氏名を届けさせ、村方での探索を命じている。

貧民救済と扶助

 慶応四年二月と明治二年一〇月の政変に伴って大赦が布告され、宇和島藩でも後者において謹慎中の大塚市郎左衛門や阿下村はまら九人の罪を許している。細民や病気の者などの救済は幕政期以来の伝統でもあり、新政府も人心懐柔の意味もあって毎年正確に行われた。養老にっいては慶応四年八月「養老之典」によって八八歳以上の者は二人扶持、百歳以上は三人扶持が給された(大洲岡田家文書では八八歳以上一人扶持、一〇〇歳以上二人扶持)が、翌年七月の「養老令」により八八歳以上米二俵、百歳以上一人扶持(四俵半)と改められた。明治二年一一月調査の宇和島領内では、該当者は一七人(男五人、女二天)である。年次や藩によっては七七歳や八〇歳以上についても村毎に調査され、氏名が行政官に報告されている。士卒については明治三年二月、新谷藩では七〇歳以上を藩庁に招き、酒肴・菓子・真綿一把を贈ってねぎらった。明治二年一二月には鰥寡孤独の者、廃疾者、孝悌の者、極貧者の氏名のほか、疾病療養所建設場所や費用の報告も命じられた。また、宇和島藩は同年二月、貧困者二五人に野村深山の開拓を許した。
 種痘の普及も大きな課題であったが、大洲藩は明治四年三月、城下・長浜・郡中・内子など六か所に種痘所を設置し、高畑幸庵ら七人の医生を配置した。翌月、未実施の小児の氏名を村毎に報告させたが、実施者・希望者の一人も居なかった喜多郡五百木村は庄屋を叱責し、再調査を命じた。座頭・山伏の勧化や止宿を願う者、非人・物貰い・遍路体の者は禁止であり、村継ぎで生国へ送り返すよう指示された。領内の座頭・瞽女の救助は松山藩の場合諸郡は郡費で米麦、町方は銭札で給付していたが年々増加して不足するため、明治四年四月には藩庁の職員が俸給の一、〇〇〇分の一を拠出した。

産業政策

 各藩の産業政策は、政府の重商主義の方向に対応して積極的な殖産興業策をとった。大洲・宇和島など森林資源に恵まれた藩は、藩有林を入札によって伐採し上方へ移出したが、西条藩への明治四年六月の兵部省布告をみると栗・樫など軍艦製造用に適した良材の伐採は一切禁止されており、ここにも軍事優先策がみられる。漁業では今治・大洲藩などが網漁業を保護して漁区を設定し、水揚げ増を期待した。操業や魚の販売については鑑札を改訂して増額し、抜け売り・抜け荷については、大洲藩では発見者に銀目の七割を与えるとして取り締まった。
 工業面では国産品を指定し、藩か製品の指導や販路の開拓に当たった。今治藩は木綿の丈巾や品質を検査し、大坂市場での価格維持に努めた。大洲藩は楮・紙・蝋の増産を指示し、櫨・楮の買取りや伐り方、製法についても細かく規定した。櫨や生蝋の生産高は蝋屋、出蝋高は必ず経由すべき掌蝋社によって把握された。農産物や鉱産物の出荷は藩営の製産社が当たり、年一割余の利息による資金融通も行った。また明治四年一月には西京・大坂に産物役所を開き、販売の便を図ると共に金目の一割を取って一般の仕入れの希望にも応じた。
 酒・醤油の製造については造石高によって冥加金を定め、苧・綿・漆・炭などは価格と運上を公定した。今治藩は大坂や島々への渡海の船賃を改定した。その他、領内の職人数は村毎に度々調査され、職人札の交付時の札銀が増額された。

村浦支配の強化

 政府は村落支配政策には余り関与せず、旧体制をそのままとし各藩にまかせたため、混乱や動揺が生じた。特に南予では維新の改革の不満が庄屋に集中して一揆が多発した。また村治対策の上から庄屋・組頭など村役人の名称や村浦の組み合わせが目まぐるしく変化した。宇和島藩は慶応三年、民事係によって村役人の不正の糺弾を行い朝立浦庄屋、垣生浦組頭など庄屋三人、組頭三人、横目一人が役儀召上げとなった。西条藩は明治四年四月、組頭と郡手代を廃し、組頭の代わりに年番判頭を置いたが、村政に手馴れた組頭を廃し、年限を区切った年番判頭では惰弱に流れ庄屋一人では手に余ると、領内の全庄屋が連署して組頭・郡手代の復活を要求した(近藤家文書)。
 松山藩は明治二年三月、「郡中制法条々」により五人組の協力強化、村内の融和と村治強化を指示した。今治藩も同年一二月に郡役所へ庄屋を集めて風俗取り締まり、勧農・公平・年貢運上収益の増加を指示し、村治ぱすべて庄屋の首尾によると訓示した。また五人組を組み替え、五人組二つを合わせて一〇人組とし、不幸事や盗難・火災・水難などの際の相互扶助を強化した。さらに一〇人組五つを合わせて組とし、組頭にまとめさせた(大浜柳原家文書)。しかし世情は不穏の時であり、宇和島藩海域では海賊船の徘徊する時勢で、明治三年同藩矢野組の庄』たちのごとき不能短才の者では施すべき術もなく、一日もその職掌に堪えられないとある。
 宇和島藩は明治三年三月庄屋を村長と改称し、五月三日これを廃して組頭・横目・年行事に村務を扱わせ、吉田藩もこれにならった。しかし翌日の民政局布告では、庄屋以下の役人は藩より吟味の上申し付けるので然るべき人物があれば旧役人でもよい申し出よ、とした。庄屋の廃止は多発する一揆への擬勢で、藩が村政への監視を強化したことが分かる。一一月には村浦に民事係を置いて近村の庄屋を監察させ、村政・租税を司り、藩への願伺・訴訟を仲介させた。吉田藩は同年五月に庄屋・町年寄を廃したが、旧役人がそのまま農商民事係に任じられた。
 宇和島藩内では明治四年一月ころから庄屋の家督の三分の二を藩庁へ取り上げる旨の風説があり、多田・山田・野村・山奥各組の庄屋は従来からの無役地は個人の給田である旨を連署して藩庁に訴えた。同年三月、庄屋家督田畑引揚令が発せられたが庄屋一同も所有権を主張して譲らず、六月には藩庁も四割は交付すると折れた。
 明治二年八月、松山藩ぱ五人組に組内の節倹と取り締まりを指示し、明治四年五月「伍組心得」によって更に相互扶助・法令遵守・各戸の表札掲示の徹底を布告した。同藩は同年三月に庄屋を里正と改称した。

郷中取り締まりの強化

 幕末には産業や交通の活発化、海岸防備の必要などから旧来の村域を越えた広域の行政が必要となった。領民の動揺への対処法としてもより効果的であったと思われる。慶応四年一月、高知藩に追討されることになった松山藩は、村々を組み合わせて治安の維持を図った。今治藩でも同年三月、領内五五か村を八組に分け各組に二人ずっの頭取を置いて組内村々の取り締まりを命じた。四月には藩庁は収納や検見のための回村を廃止、宗門月手形の廃止、博突や家内喧嘩の際の回村や遍路病死時の検死も廃止、他所稼ぎや縁談の願いも届出不要とし、藩役人の仕事を簡素化した。しかし同時に一六人の頭取を郡役所に集めて博突取り締まり・喧嘩口論の停止・収納の迅速化・役人入込み時の充分な世話などを要求し、庄屋らの負担はかえって増加した。
 宇和島藩は明治二年に一〇組の代官制を廃し、そのかわりに従来の村組を二組ずつ合わせて奥野・御荘・鶴島・宇和・青石の五郷に区分し、取締役の郷令を置いた。しかし、翌年一一月これを旧来の一〇組に復した。明治四年三月には「市中郡中改制」によって庄屋を廃し、士・卒・平民から八七人の差配役を選んで数か村を支配させた。また惣町年寄を名主、組頭を添役、横目を締役と改称した。こうして支配と収税の徹底を図ったが失敗したためか翌四月には差配役を廃して庄屋を復活した。この時村の規模を平均化するため、明治三年の二〇九か村を一六二か村にまとめた。例えば須之川・成川坊城・平山・深泥の四か村は内海浦へ、向灘・栗野ら五か村を八幡浜浦へ合併した。また坂尾村を増田村、影之平村を和泉村などと村名を嘉称に変更した。
 松山藩も明治三年に郡毎の代官を廃した。久万山では久万町村の大庄屋会所で、代官代理の元締が郡政司として郡政を担当したが、一年余で農政司と改称され、廃藩後は大区区長が事務を引継いだ。