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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

三 秀吉晩年の伊予領主

秀吉晩年の文禄・慶長期の伊予領主を、東予・中予・南予と眺めてみよう。

 池田秀雄から小川祐忠へ

 文禄四年七月に関白秀次は秀吉の怒りを買い、高野山に追放され、ついで切腹を命じられた。その検使役を国分城主福島正則と福原右馬助・池田伊予守が勤めた(甫庵太閤記)。その功によって正則は尾張国清洲城二四万石に転じ、池田伊予守(秀雄)に福島の跡、国分城八万石を賜った。
 池田氏は代々近江国伊賀郡池田に住んだが、池田太郎定信の一四世の孫、伊予守秀雄のとき信長・秀吉に仕え伊予国国分城に住し、朝鮮征伐のとき彼地に渡海し、慶長三年(一五九八)三月晦日、安骨浦において没した(寛政重修諸家譜)。秀雄の事績は全く伝わらない(須田武男は「豊臣記」によって秀雄を景雄とする)。国分城のあとは小川祐忠が七万石を領した(山之井本予章記・河野家譜)。

 加藤嘉明松前城へ

 淡路国志智城主一万五、〇〇〇石の加藤嘉明は、文禄の役に舟師七五〇人を率いて出征していたが、文禄三年一月に講和の内約によって帰朝を命じられ、翌四年七月に伊予国において増封され、旧領と合わせて六万石を得、同時に秀吉の蔵入地四万石の管理を命じられた。そのため淡路の志智城を引き払い伊予国正木城(松前)に入った(加藤嘉明公伝)。

 幻の領主粟野秀用

 秀吉時代の中予の領主に粟野木工助秀用がいたという(須田武男『豊臣時代の伊予領主の史料研究』)。粟野秀用は関白秀次に仕え、秀次の処分を不服として切腹したという。「粟野木工助は粟田口吉水の辺、鳥の小路所にて、秀次公聊御謀叛にてはなかりし由を申立、腹十文字に切腹す」と『甫庵太閤記』にある人物であるが、須田武男は「粟野秀用、屢軍功を樹で食邑を累加す、柾木城を賜い十万石、復三万石を加え、秀次に属し、封二万石を益す」(野史)や、「粟野秀用、伊予柾木城邑十万石を賜い、木工頭に任ず、また三万石を増封す、而して又三万(二ヵ)石を増封す」(大日本人名辞典)の記事などを挙げ、入部の時期は天正一六年福島正則が道後湯築城から東予に移った跡と推定している。しかし明確な史料はない。

 風早の来島康親

 来島兄弟は文禄の役に舟師七〇〇人を率いて出征し、水軍の中心となったが、兄の来島通之(得居通久・通幸ともある)は唐浦の戦いで戦死し、弟の通総はのちの慶長の役における鳴梁の戦いで敵将李舜臣と戦って戦死を遂げた。村上水軍の最後を飾るものであった。
 来島家のあとは通総の子康親が、父の遺領を継いだ。

 和気郡の安国寺恵瓊

 四国統一後、恵瓊は和気郡で二万三、〇〇〇石を得たが、彼が和気郡に居住したという証拠はなく、恐らくは安芸の安国寺に常住したのではなかったかと思われる。秀吉の側近として武人となり、文禄・慶長の役でも、朝鮮にあって専ら秀吉との連絡の役目を担当していたようである。

 喜多郡の池田秀氏

 東予の国分城八万石の池田秀雄は、慶長の役で安骨浦において死し、その子秀氏には父の遺領が与えられず、喜多郡に移されて二万石を与えられた(寛政重修諸家譜)。

 藤堂高虎宇和郡へ

 藤堂高虎は弘治二年(一五五六)近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)に生まれた。一四歳で父虎高に従って浅井長政に仕えたが、新旧両勢力の隆替を目のあたりに見た彼は、秀吉の弟秀長に仕えて戦功をあげ、有能な武将として秀吉にも注目されるに至った。秀長が早く没した跡、養子秀保に仕え、翌年には朝鮮半島に出兵して秀保を補佐した。三年後秀保が死ぬと、薙髪して高野山に籠ったが、二か月後に秀吉から伏見城に呼び戻されて伊予国宇和・喜多・浮穴三郡で蔵人代官を命じられ、文禄四年(一五九五)七月に板島城主として七万石を与えられた。四〇歳の時であった。宇和郡の人々は戸田勝隆の圧政から解放された。
 『清良記』に、戸田政信(勝隆)は神社・仏閣の由緒ある古木を伐り倒し、高麗陣に備えて多くの軍船を造ったが、天正一九年(一五九一)一二月二八日船倉より出火し、船は一艘も残らず焼失した。この火を消そうとすれば異類・異形の者どもが消火に当たる人々を殺傷したという。政信は出陣して高麗で重病となり、平癒祈願として等妙寺・仏木寺・三島大明神に願文の使者を遣わし、堂社の建立をしたが「神仏は非礼を受け給はねば、政信の病気平癒叶はず、文禄三年一〇月二三日に終に逝去ありし跡は、藤堂和泉守高法(高虎)へ預けられて(中略)国法正しく執り行われける」と新領主を迎えた宇和地方民の喜びのさまが記されている。