データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

二 太閤支配下の検地①

 福島正則の検地

 天正一五年の九州征伐後の論功行賞で小早川隆景は筑前に転封となった。隆景は伊予を去る時、これまで庇護してきた降将河野通直を備後竹原に移して再起を図らせようとしたが、通直は竹原到着後間もなく没した(第一章第一節参照)。また能島の村上武吉は秀吉から幾度か招かれたが一徹に反秀吉・親毛利の態度を固執したため秀吉に憎悪された。隆景は武吉を九州にともない、自領内の三五〇〇石を与えて保護した。これとは別に毛利輝元も武吉に長門の自領内で一万石を与えて彼等との旧誼を守っている。隆景転封の後には、福島正則と戸田勝隆が入り、隆景の旧領と秀吉の直轄地(蔵入地)の支配・管理を命じられた。
 福島正則(第一章第一節参照)は、尾張国に生まれ、早くから秀吉に従い各地に転戦して戦功があった。特に天正一一年の賤ヶ嶽の合戦では、七本槍の一にあげられた。天正一五年の九州征伐にも従い、その功によって小早川隆景転出後の伊予に、戸田勝隆と共に封じられたのである。
 正則が封じられた地域は、天正一五年九月の豊臣秀吉朱印宛行状(資近上一-36)によれば、左表上段のごとくである。これを慶安元年(一六四八)の伊予国知行高郷村数帳(左表下段)と比較すると、多少差のある郡もあるが、正則の所領はほぼ越智郡以東の全地域であったといえよう。
 正則は、同時に野間郡以西の中部の諸郡にある秀吉の直轄地九万石の管理(蔵入地代官)も命じられた(郡名不詳)ので、彼は早くも天正一五年の七月中旬もしくは下旬には、蔵入地の中心にある道後湯築城に着いたと考えられる。
 正則は着任すると早速検地を実行した。すなわち彼は、新居郡加茂郷大町組の長安村(現西条市永易)を選んで検地し、八月八日には終了し、その記録が「長安村本帳」として今日に伝えられている。この帳面によると、田畠を一筆残らずホノギ(小字)順に面積を計り、その生産力が検討された。田は最良を一反一石六斗として一斗くだりの九品位に、居屋敷はすべて一反について一石五斗とし、畠は一反一石二斗と八斗の二品位に格付けして、面積に乗じ、それを一筆毎の分米(法定生産高、前述の分米は年貢高のこと)とし、その下に耕作者の名を記録している。そして終わりに田方の合計面積と分米合計、畠方の合計面積と分米合計、最後に田畠分米総合計が書かれている。「長安村本帳」は、検地の最初であったためか、耕作者の所在の記録が長安村と流田村に入り交じり、いずれとも判明しない不鮮明なものもあるのが欠点である。
 長安村が検地の対象としていち早く選ばれたのは、この村が加茂川の東に並行して流れる室川と渦井川が長安の辺りで合流して遠浅の燧灘に注ぐ曲り角にあるので、耕地が川となったり、沼沢となったり、時には砂入りとなったりして、田畠の境界も不明瞭となり、住民や耕地も下隣りの流田村と入り交じりが起こり、行政上も不便であるので検地したものであろう。
 正則の検地は、宇摩郡においては、天正一五年(一五八七)川之江・余木・長須・新宮で、また年次は不明であるが、山田井・藤原・豊田・岡銅・大町・西寒川・具定の各村で実施されたと伝える。しかし既に江戸中期には川之江・長須間では、土地の帰属について争いがあったか、検地帳もないと当時の庄屋が幕府に報告しており、また後年加藤嘉明が検地した村方もあるから、正則の検地が宇摩郡全村に及んだとは考えられない。
 最も確実な正則の検地の史料は、天正一九年九月に、越智郡鴨部郷中村(現越智郡玉川町)で行ったものであろう。
 この村は現在の玉川町下谷・庄原・中村の三集落にまたがる地域で、蒼社川が刻んだ広い河岸段丘の右岸に発達し、対岸には、法界寺・大野の村落がある。段丘の傾斜はゆるやかで、田畠の幅も広く、水利の便も良く、水害・旱害も少ない。したがって早くから開墾も進み、天正一九年には村には、四六〇筆(枚)の田と、二一○筆余の畠がひらかれ、畠の中には二三筆の居屋敷と一筆ずつの寺と祈禱堂があった。
 村の検地は天正一九年八月に、蒼社川の支流大野川に沿った御馬屋(御厩)村と鍋地村を終えてから着手し、約一か月を要して九月末に完了した。
 先ず正則が測地にどのような間尺(竿)を用いたかが問題であるが、正確な記録はない。しかし幕藩時代にこの地方を支配した松平氏の下で、税の公正を図るために耕地の面積と、その生産力を正確にするために、初めは村が自発的に「地坪」を行っており、この「地坪」は元禄五年(一六九二)以降は、租税の公平と、増収をも加味して、松山藩のような耕地割換を内容とする「地坪」に発展し、全領内で行われ、幾度も施行する村もあったが、その都度厳密な測地が行われた。その場合六尺五寸の間竿を使用するのは常法であったから、正則の時にもこの間尺を用いたものと推測される(浅野長政による宇和郡の検地参照)。
 さて測地の結果、村の田は合計四四町二畝余歩であった。次に一筆ごとに、地味の厚薄・日当り・水回りの良否などを中心として生産力(斗代)を左表のように九階に区分して評定し、石盛(斗代×面積)して分米(生産量)を出し、合計すると五三八石六斗八合となった。
 畠は、二一一筆あったが、長安村とは記録法が異なり、畠方として一括し、「ほのぎ=小字」の順に記載されている。しかし畠の場合「谷弐畝 壱斗 九郎左衛門」といった記載となっており、段の区分が記入されていないから、面積と分米から逆算して斗代と段を算出しなければならない。そのように計算してみると、畠も最上を一石五斗代とし、以下一石三斗・一石・九斗・八斗・七斗・六斗・五斗・四斗の九段に分け、また畠のうち二三筆ある屋敷地は、いずれも一石五斗代としていることがわかる。こうして荒畠・屋敷地も合わせた畠地の全面積は七町一反七畝余歩で、その分米合計は、五七石六斗三升余で、中村の田畠合わせた総分米高=村高は五九六石二斗となった。
 村では、この後寛永一四年(一六三七)・貞享五年(一六八八)に藩の検地があり、その記録が残っている。また、享保七年(一七二二)・元文四年(一七三九)・明治四年(一八七一)の免定帳もあるが、いずれも共通して課税の基礎となる村高は、五九六石が基本となっている。
 なお、検地の際、耕作者として登録され、それによって農地の耕作権(作職)を与えられ、同時に年貢の納付義務者となった者は、従来からの屋敷持ちの二三名の外に、約四〇名の屋敷無所有者が新たに含まれた。この事実は、秀吉の検地できわめて重要な意義があり、こうした現象は、戸田勝隆の中予における検地でも、浅野長政が行った宇和郡の検地でも見られる。

 戸田勝隆の検地

 戸田勝隆は天正一〇年(一五八二)ころから秀吉の麾下となり、各地に転戦して功を立てた。天正一五年の九州征伐後の輪功行賞では福島正則とともに伊予を領有することになった(第一章第一節参照)。この時、勝隆が伊予のどの地域で何万石を受領し、またどの地域の蔵入地の代官に任ぜられ、最初はどこの城に入ったのかなど、確かな記録はない。しかし残存している史料(資近上一-42~一-53)を総合すると、彼の領土は、今の宇和四郡(東・西・南・北)と宇和島市・八幡浜市を含む地域と喜多郡の一部で、石高では一〇万石に近く、また代官地は忽那島など風早郡(現北条市・中島町・松山市の一部)の一部と、喜多・浮穴両郡の一部で六万石から一〇万石の地域であろうと見られている。
 天正一五年勝隆は九州で任命をうけると、早速伊予に来て、七月一四日には、本領地と代官地の百姓どもに、近く行う検地の心得を次のように通達した(資近上一-32)。

 ① 検地の役人には、こちらから食事を準備するから、百姓は賄方については心配する必要はない。ただ検地に使用する用具や馬糧については、手配せよ。経費は当方から計算して支給する。
 ② 検地の役人にお礼の金平品物は一切出してはならぬ。酒や肴も出してはならぬ。もしこの規則に反して役人側から物品を要求すれば、黙って承知してはならぬ。必ず申し出よ。
 ③ 検地の役人に見違いや、測り違いがあって、田や畠に帳面通りの収量がなければ、領主か給人、あるいは代官に申し出て、ことわり、ゆるしを請うて立毛の三分の一を百姓(耕作者)が取り、三分の二を領主か、給人か、代官に納めよ。
 ④ か様に申しつけた上は、逃散している者どもや、領主の命令にそむいて逐電している者があれば、おとな百姓らがきもいり(世話)して呼びかえせ。
   万一、以上の主旨に反した無理な申し出が役人からあった場合、これを黙認することなく、領主や給人あるいは代官に「直訴」をせよ。これを怠った場合は、要求を黙認した百姓も処罰する。

 通達を発した戸田勝隆は、早速瀬戸内海の要路にある忽那島(現温泉郡中島町)に渡り、神浦村で検地を実施した。続いて天正一五年(一五八七)中に長師村・大浦村・宮野村でも実施した。同島の他村でも検地は実施されたであろうが、史料は残っていない。
 もともと検地は、戦国大名の中でも独自の内容で行った者もあったが、秀吉の検地は、天正一〇年の山崎合戦直後に、山城国で始められ、それから天正一五年に至る間に畿内及びその近国で繰り返し施行されて、その形式や内容が定着したものである。田畠の収穫物の三分の一は百姓が取り、三分の二を領主が取る定めは、天正一二年七月に秀吉が山崎源太左衛門尉に発した指令に明らかである(安良城盛昭『太閣検地と石高制』)。また百姓を村に緊縛し、耕作を強制する条令は天正一四年に、さらに小作制度を否定することは、同一五年に浅野長政が領国若狭の検地で発した条々の一つに、次のように記されている。

 一、おとな百姓として下作に申付、作あいを取ることを禁止する、今まで作っていた百姓が年貢を直に納める事、
 一、地下(村)のおとな百姓、又はしゃうかん(荘官か)などにひらの百姓は一時もつかわれてはならぬ、

 秀吉の検地は、結局、六尺三寸を一間とし、一間四方を一歩(一坪)とし、三〇歩を一畝、一〇畝を一反、一〇反を一町とする制として、以前の田制と異なった。次に耕地の生産力を量るのに田は最上の一反で一石六斗を産するとし、以下一斗降りの九段を原則とし、畠は一石五斗を最上とし、それ以下は田の区分とは異なっており区分は九段としたが、これには地方の土地事情によって差異を認めた。
 こうした全国的基準にもとづいて田畠の一筆(枚)ごとの生産量(分米という)を定め、これを人別に寄せれば個人の持高となり、村全体のものを集めれば村高となる。収穫物は個人(百姓)が持高の三分の一を取り、三分の二を領主(地頭)に納めるのである。
 次に留意すべきことは、検地に当たっては、従来行われていた小作制(作合いを取る制度)を認めず、現に耕作している者を耕作者と認めて、耕作権(作職)を与え、耕作者として上地台帳に登録し、同時にその者を年貢の納付義務者とした点である。これによって今まで父の家に同居して兄と共に働いていた次男や三男、あるいはそれ以下、場合によっては主家に隷属していた農夫にも現に耕作している人として、耕地の作職が与えられたことである。これによって、大地主や大家族の主が抑えられ、小農ができれば彼等は定着して住居も構え、耕作に励めば期せずして増産となり、兵・農も分離し、治安も安定し、人口も増加する。秀吉はこうした郡・郷・村社会を部下の将士に、彼の意図のままに、彼の支配の代理者として配置して統治させることが、天下太平・動乱の世鎮定につながると考えた。従って全国を同一基準で徹底的に検地することこそ彼の封土建国策の核心であった。
 検地の成否を左右するものに、従来地方の土地を支配した国侍や、名主層との関係がある。秀吉もこれに着目し、肥後一国を与えた佐々成政に対しては、特に、天正一五年六月六日付で、

 一、五十二人之国人(国侍)には今迄の如く知行を渡すこと。
 一、三年間は検地を行ってはならぬ、

などと指示したが(圃庵太閤記)、成政はこの命に反して国人に知行も与えず、検地を行ったので、肥後一国を覆う大一揆となり、成政は秀吉によって罷免された。
 伊予国のうち東予地方では、小早川隆景による在地勢力制圧が成功していたため、福島正則の検地は容易であった。それに反して小早川勢力がまだ浸透していなかった宇和郡を領有した戸田勝隆にとって、宇和郡の検地は着手困難な状況にあったと思われる。
 勝隆が着任後宇和郡検地に向かわないで、風早郡忽那島に渡ったことは、秀吉の本陣との緊密な協議の上のことと思われる。宇和郡へは、検地に深い経験のある浅野長吉(長政)を向かわせ、勝隆を瀬戸内海航路の要衝にある忽那島に向かわせたのであろう。彼はこの島で、前述したように短時日の間に数か村を検地したが、そのうち天正一五年(一五八七)「風早郡忽那島長師村御検地帳」によって検地の実態を明らかにしてみよう。
 この検地帳は、他の村の検地水帳の記帳順と異なり、最初に田畠屋敷の合計を記載しているので、この検地帳には、別に基本となった野取帳があり、それを整理したのが本帳であることがわかる。この島では最良の史料である。
 史料を詳細に見ると、田の検地の基準としての段の区分とその斗代の数値は、福島正則が東予で行った検地の場合と同一である。検地の結果は、田一四一筆のうち、半数が上田の三階級に属し、四分の一は中田の三階級、残りの四分の一が下田の三階級に属した。田の総畝は九町九反三畝九歩である。屋敷地は寺を含んでもわずかに一六筆で、広いものは五畝を超えるものが三筆あるが、大部分は一畝(三〇歩)前後で、最も狭いものは八歩(八坪)にすぎず、屋敷をすべて合わせても二反五畝一五歩にすぎない。屋敷はいずれも、一石五斗代に評価している。
 畠(菜園)は三六筆ある。面積は合計一町七反余で、いずれも上で、斗代は屋敷並の一石五斗代である。畠はこのころの自給自足の農民の生活にとっては極めて重要な役割を持つが、屋敷持の人の中にも、畠を所有しない者も数人ある。その反面、新たに耕作権を得たけれども屋敷を持っていない者の中にも畠を持っている者もある。これらの人々は数筆の畠を持つ有力な地主たちから独立した人々であろう。以上の田・畠・屋敷の分米高は合計一五一石七斗一升である。

      目 録

   田数九町九段三畔九歩
   屋敷弐段五畔拾五歩
   上畠壱町七段九歩
   山畠拾町五段弐畔八歩
   ………(欠)………畔拾壱歩


    高弐百拾六石四斗壱升弐合三勺
   わき
    壱反四畝拾二歩下々  壱石壱斗五升弐合   与三左衛門
   おきた 
    壱反六畝拾四歩上々  弐石六斗弐升四合七勺 与三兵衛
   同所
    壱反六畝三歩 上々  弐石五斗八升五合三勺 左衛門尉
   同所
    四畝五歩   上ノ下 五斗八升三合五勺   文 二 郎
   同所
    五畝□□□  中ノ上 七斗□升五合六勺   藤 一 郎
   ……
    ……………(欠)……………………勺八才   真 福 寺
   ……
    九畝拾八歩  中ノ中 壱石壱斗五升二合   与三右衛門
   同所
    八畔二拾六分 中ノ上 壱石壱斗四升四合四勺 神 三 郎
   同所
    弐反四畝十三歩上々  三石九斗一升八合七勺 新 兵 衛
   同所
    七畝拾歩   下々  五斗八升七合     一郎左衛門

 この村には畠よりは生産力の低い山畠がある。菜園に対し、野畑とも呼ばれることもあるが、その筆数は一〇七余もあり、一筆で二~三反に及ぶものもあれば、中にはわずか数歩のものもある。山畠には上はなく、中の八斗代も少なく、ほとんどが下の五斗代である。それでも山畠の全面積は一〇町五反にも余り、その分米高も六四石七斗で、前記の田・畠・屋敷と合わせて村の分米高は二一六石四斗一升二合余である。
 この検地で重要なことは、この村では検地時に居屋敷を持っている者は、わずかに一六人であったが、検地の結果、居屋敷を所有していない者三六名が、田畠の耕作者・年貢米の納付義務者として登録されたことである。またそれ以外にも、山畠のみの耕作権を認められ、登録された者も一一名ある。これらの人にとって早速必要なのは屋敷であり、父・兄から分離独立した家屋である。狭いながらも新しい屋敷が作られ、小さいながらも家が建ち農村に次第に新風が興るのは当然である。この風潮を示す例として、天正一五年(一五八七)と貞享三年(一六八六)の長師村村勢を比較してみよう。
 表一-4によれば、明らかに天正一五年から貞享三年の間の一〇〇年間に屋敷地が四・六倍に増加している。このことから新しく耕地を得た人々が新居を構えて、定着したと想像できる。
 検地によって新しく耕作権を持つ百姓が生まれ、彼等の住む家屋が構えられ、農村は一挙に活気を生じたことは、同じ忽那島の大浦村でも想像できる。大浦村は、忽那島で最も大きな村であるが、天正一五年の検地時には、屋敷の広さが一反以上一筆、一反未満~五畝以上五筆、五畝未満~三畝以上五筆、三畝未満~一畝以上三九筆、一畝未満~一〇歩以上四筆、一〇歩未満三筆の合計六八筆で、面積は一町四反二歩であった。検地によって、新たに耕地に名付けされた者は八〇名に及んでいるから、間もなく戸数の大増加があったであろう。大浦村の戸数は、約一五〇年後の享保一八年(一七三三)には天正検地時の約三倍の一八八戸に達し、その後はあまり増減がなかったから、この村でも検地が農村社会の変動の大きな契機となったことが認められる。
 さて勝隆は忽那島の検地後、本領地の宇和郡に入るため、天正一五年一〇月中旬彼の代官地にある喜多郡大津地蔵嶽城に入った(資近上一-44)。ここで彼は既存の在地勢力対策に全力をあげた。まず勝隆は、小早川隆景によって在城と地域の行政を許され、また隆景の九州征伐の際には随伴させた法華津前延・土居清良・勧修寺基詮を下城させて政権から完全に離脱させた。また天正一五年一二月勝隆の入部に先んじていち早く下城して遠く丸串(のち宇和島)の九島の願成寺に隠栖していた宇和郡の旧領主である西園寺公広を欺いて、大津(大洲)に招いて自刃させるなど、旧来の侍勢力の一掃に努めた。
 次に勝隆は、侍たちの手足となった村々の名主=名本たちも押さえるため、彼等の持つ耕地の面積や生産量の外、所蔵している武具を残らず書き上げた「指出し」(申告書)を提出させた。名主たちは新しい領主の勝隆に自らの家門を誇示する好機と考え、求めに応じて有りのままを記録して提出した。勝隆はこれに基づいて年貢を徴収し、武具を安価に供出させた。名主たちの中には年の暮も近く手持ちの五穀も少ない者も多く、要求には応じ難く、武具を出し渋る者もあった。勝隆はこれを許さず、反抗者はことごとく捕えて厳しい体罰を加え、その難は家族の婦女にも及ぶことがあったので、彼等の中には、家族と共に他国に逃亡する者もあり、また自害して辱めをのがれる者もあった。追い詰められた名主たちは、ついに隷属する人々の協力を得て徒党を組み、一揆を起こして板島(現宇和島)・津島・成妙・吉田からの集団は丸串城へ、また宇和の集団は黒瀬城へと押し寄せ、その総数は二〇〇〇人にも及んだ(清良記)。
 武力の少ない勝隆の部下たちは、一揆との武力衝突を極力避けた。勝隆は先に下城させて政権を奪っていた成妙の旧大森城主土居清良に調停を要請した。清良は止むを得ずそれを請けて丸串城で徒党と折衝し、難局を収めた。
 危局をのがれた勝隆は、時を移さず、天正一六年(一五八八)二月に大津から丸串城に入った(清良記)。彼は態度を豹変し、先の一揆の主謀者たちは勿論、この地方で武力において名のある者共をことごとく捕えて処刑し、その上彼等を三間、あるいは吉田から板島(宇和島)・津島から板島に至るおよそ一〇里四〇キロの路傍にさらした。その数は七八〇人余に及び、勝隆の凶暴・非道なこの処置は領民をふるえ上がらせ、畏縮させたと伝える。
 しかし勝隆は、同一六年八月ころから西園寺氏支配の時代に地方の小領主であった人々の中から数人を選んで、一〇〇石~三〇〇石の知行を与えて家臣としたり、離島である日振島の地主たちに年貢の免除をするなど(資近上一-46~一-51)、懐柔策も怠らなかったので領民も次第に安堵した。こうした情勢となったので秀吉が天下統一の重要政策の一として実施を急ぎ、勝隆もその旨を受けて、忽那島で取り掛かった検地が、ようやく宇和郡でも実行できる雰囲気が醸されるに至った。しかしこの地域の検地は、既に秀吉の本陣から浅野長政に命じられていたので、勝隆の宇和郡における検地は、彼が朝鮮半島から帰還後にわずかの例を見るのみである。
 それは、文禄三年(一五九四)八月の保内郷喜木津浦村の検地である。村は佐田岬の頸部にあり、地形上孤立した瀬戸内海側の狭い海岸地域にあるので、宇和郡を検地した長政も放置したものであろうか。喜木津浦の検地で勝隆は、屋敷の斗代は忽那島よりはるかに低い八斗としたが、田畠は忽那島と同じ基準で測地し、段分けした。しかし狭陰な地域であって、水利も悪く、上田はほとんどなく、中・下田が三町五畝あるのみで、畠も下畠が多く、田畠合わせた分米は一四石五斗九升にすぎなかった。しかし、検地によって、従来からの屋敷持百姓一三名の外に、新たに二〇余名の無屋敷持が耕作権者として登録されたことを見のがしてはならない。

 浅野長政の宇和郡検地

 長政は、天文一六年(一五四七)尾張国春日井郡北野村の安井重継の長男として生まれた。幼名を長吉と呼び、長じて織田信長の弓衆の一人である浅野長勝の養子となり、その実娘=その姉は秀吉の正室となる=を娶って、信長に仕え、秀吉に属した。長政は天正元年に所領一二〇石を受けたのをはじめとして、摂津・播磨・但馬・伯耆などで歴戦して功を立て、同一一年近江国大津・坂本の二万三、〇〇〇石を与えられるに至った。翌年八月には、秀吉の近江国蒲生郡中野今堀村の検地を掌り、秀吉の検地にかける真意と情熱を体得した。また彼は京都所司代も務め、行政の一端をも経験した。天正一三年には、七二〇〇石を加増され、従五位下弾正少弼となった(浅野家譜)。同一五年には、九州に出征した功によって若狭一国を与えられ、同年一〇月この地を検地した。その時領民に発布した「条々」に、

 一、おとな百姓として、下作に申しつけ、作あいを取候儀無用に候、今まで作仕候百姓直納仕るべく候(地主が小作料を取って小作させることを禁止するの意)
 一、地下のおとな百姓、又はしょうくわんなどに一時もひらの百姓つかわれましき事(地元の大百姓や国侍となっている荘官に、平の百姓は使われない事)

を明示した(安良城盛昭『太閤検地と石高制』)。長政は、この「条々」で秀吉の検地の本意の一つを表現した。従って、天正検地が地主たちに不利で、地主に寄生していた血族や時には小作たちには、今までの束縛から離脱し、自立する絶好の機会であるから、検地に対する住民の態度は自ら明らかである。しかしながら検地施行者の武力の強弱が住民の態度を左右することは勿論で、秀吉も天正一五年(一五八七)に佐々成政を肥後の支配者に任命した際には、「三年検地してはならない」としたが、天正一八年に秀吉が奥羽を征服した後の検地では「城主でも百姓でも反対者は徹底的に武力弾圧して断行せよ」と指令したことも周知のことである。長政は緩急を心得て日本七四州のうち三三州の検地にかかわったといわれ、伊予国でも福島正則・戸田勝隆と同時期に、勝隆の領土で、まだ国侍の勢力の残っている宇和郡で勝隆に代わって検地の総指揮(竿大将)をとった。
 長政は、天正一五年七月一八日に宇和郡魚成村(現東宇和郡城川町魚成)に入って竜沢寺門前に、

        条々
 一、この寺や寺内に対し、非分(不合理・不通)の事を申しかける者は厳罰に処する。
 一、自分が検地奉行として検地を支配する。
 一、山林・竹木は伐採してはならぬ。
   右の旨に背く者は、成敗を加える。

との制札をかかげた(井関又右衛門著『宇和旧記』)。
 竜沢寺は、今は肱川上流の城川町内の深い渓谷にあるが、一四世紀に創立された竜天寺に起源し、一時衰微したが、一五世紀に薩摩の国守島津元久の長男梅寿丸が僧侶となり、成道して仲翁守邦となった後、巡り来てここに杖をとどめ、島津の財力に成立って寺を興し、その後数代を経て今の地に移転し、名も竜沢寺と改めた。仲翁の後も名僧が相次ぎ、地元の武将・豪族なども厚く帰依し、一五世紀末には七堂伽藍も完備し、伊予・土佐にまたがり五〇余の末寺を持つ大寺となり、修業の雲水が群れ集まる大道場でもあった。こうした次第もあって、天正一三年九月に大津(大洲)に入った小早川隆景は、更に進んでこの地に来て、寺門に軍勢の濫妨狼籍をいましめる禁制札を掲げた(資近上一-9)。この故事もあるので長政が戸田勝隆の領土に来て、地侍令名本(名主)たちと利害の衝突が予想される検地を進めるに当たって寺門の前に札をあげて、来意を宣明したものである。
 竜沢寺に入ってから後の長政の行動は必ずしも明瞭ではない。吉田藩士森田仁兵衛が延宝九年(一六八一)に著した「吉田古記」によれば、長政はこの年の八月に成妙郷(現北宇和郡三間町)の村々で結んでいた連合体の「ありま総」にあてて、

 早生稲や、太唐稗は、時期を失わず刈取れ、年貢の率(免)は後で示すが、領主が示したように、作の三分の一は百姓に間違いなく与えるからそのつもりでおれ、

という刈り取りを促す意味の書翰を送ったことをあげているが、この便りでは検地にはふれていない。
 長政の指揮によって行われたと考えられる検地の記録のうち、今日に伝えられているものは、天正十六年八月の宇和郡多田郷川内村(現東宇和郡宇和町川内)と、同年同月の同郡岩野郷真土村(現東宇和郡宇和町真土)の検地帳である。これらは長政が喜多郡から宇和郡に入って実施した最初の検地と推定される。この両村は、大洲から宇和に入る街道のそばにあり、小早川隆景の侵攻までは共に西園寺公広の所領であり、天正一五年から領主が戸田勝隆に交替した所である。
 長政の検地で問題になるのは、測地に用いた間尺の長さである。普通天正の検地尺は、六尺三寸(一㍍九一㌢弱)を一間とし、一間四方を一歩(坪)、三〇歩を一畝、一〇畝を一反とすることが、文献上では常識とされている。ところが長政の検地では、これと異なり六尺五寸を一間としている。
 宇和郡の地方では、中世の末には六尺五寸を一間としていた。宇和郡成妙郷の土居水也が著したとされる「清良記」に、永禄七年(一五六四)成妙郷大森城主土居清良が家臣に農事に関する諮問をして、これに対し同郷の篤農松浦宗案が答申した一節がある。宗案は清良に対して、「田畑の三六〇坪を一反とするのは、この一反の田畑から取れるものが人一人の一年分の食料に相当するからです。一年は三六〇日なので、一坪から取れるもので一日の食糧とするのです。一坪を六尺五寸四方と決めているのにはそれなりの理由があるのですが省略します。」と答えており、一間が六尺五寸であったことを明らかにしている。なおこの間尺は、この地方では徳川初期から正保年間(一六四四~一六四七)まで慣用されており、その後また改正されて一間=六尺となった。「不鳴条」には、

 竿寸ノ事ハ往古ハ一間六尺五寸ノ由、正保年中、岡谷兵右衛門検地ノ節六尺三寸ニ成シ、又寛文年中ヨリ六尺竿ニ成也

と記されている。またそれより後の宝永年間及び宝暦年間に編さんされた「大成郡録」にも、六尺五寸竿で測った時の村々の分米を「本高○○○」とし、六尺三寸竿で測った時の分米を「竿高○○○」、六尺竿で測った時の分米高は「内ならし高○○○」と区別して明記している。以上の資料から、天正の検地はその当時この地方で使われていた六尺五寸竿を用い、六尺五寸四方を一坪としたことは、動かぬ史実と考えられる。なお六尺五寸竿は東予・中予でも用いられた。東・中予で江戸時代を通じて行われた「地坪」の場合の測地に六尺五寸竿を使用することが常法であったことからも知られる。
 次に長政が宇和郡川内村で用いた耕地の品位(段)区分と一反の生産量(斗代)の関係は、田については福島正則・戸田勝隆の場合と同じく、上ノ上を一石六斗とし、以下一斗降りの九段とした。
 川内村の田の反別と筆(枚)数の関係は表一-5の通りである。田の枚数は、中ノ下と下ノ下田が多いから、総面積が一六町である割には分米は少なく、一九四石七斗余にすぎなかった。
 畠は一九九筆(枚)で、そのうち三七筆は屋敷地で、一六二筆は普通畠で、野畠(山畠)はなかった。屋敷は、福島正則・戸田勝隆の領地の場合よりは平均して面積が広いが、斗代は低くして一石三斗代とした。普通畠はその可否により田同様の九段に分けたが、表一-6に示す通り、上畠と認められたものは少なく、下畠の下に格付けされたものが全畠の筆数の五割に近い。そのため畠の面積は九町二反余でありながら、分米合計はわずかに五八石余に過ぎない。川内村の田畠合計は、二五町二反三畝余、分米高(村高)は二三五石二斗五升弱であり、瘠地の村であることがわかる。
 また検地の結果、耕作者(百姓)として耕作地(作職)を与えられ、同時に年貢納付義務者として、検地帳の田畠一筆毎に記名された者の数は、従来から屋敷地を持ち、家長であった三四名の外に、新たに検地の時点で屋敷地を持たず、父や兄、あるいは他人の家に隷属していた者五〇名が加えられ、合わせて八四名となった。こうして検地は自作農の大増加となるが、何分にも限られた耕地の中での分与が行われたので、結果は様々であった。その一、二例を示そう。村で庄屋の元祖と称する将監の持地は最も多く、持分は村一番の持高で一一石七斗七合となったが、持地の質は表一-7の通り過半は上田である。
 将監に次ぐ持高(一〇石一斗五升余)の三郎兵衛は表一-8の通りで従来からの地主の強味が認められるが、表一-9の「やまめ」のように屋敷はあるが零細な地主もあった。
 これに対し、検地前には自分の居屋敷はなく、血族の家に寄生して農耕に従事していた者が、検地によって耕地の名請人と認められて、耕作権(作職)を分与されて独立して百姓となった五〇名の中には、表一-10の孫右衛門や、表一-11の四郎兵衛のように、持地が多質で持分米高(持高)も五石を超え、一戸の百姓として自立し得るものも生まれた。勿論前述の五〇名の中には表一-12の紀久助平、表一-13の小八郎のように、直ちには自立し難いものも多かった。
 また、ほとんど時を同じくして検地が実施された近接する肥沃な真土村では、従来の屋敷持二九人に対し、新しく無屋敷者三二人が百姓として認められた。彼等が分与されたものは、表一-14のように五石以下で、一石未満の持分の者も多い。これでは自作だけでは自立し難い。
 以上によって検地を受けた従来からの屋敷地持層の人々の検地に対する姿勢は、家によって、また村によって異なることが見られる。いずれにしても、検地は村の情勢を大きく変動させる原因であった。

表一-2 東予五郡石高

表一-2 東予五郡石高


図1-7 長安村付近(国土地理院5万分の1地形図「西条」使用)

図1-7 長安村付近(国土地理院5万分の1地形図「西条」使用)


図1-8 鴨部郷中村(国土地理院5万分の1地形図「今治西部」使用)

図1-8 鴨部郷中村(国土地理院5万分の1地形図「今治西部」使用)


表一-3 中村の斗代

表一-3 中村の斗代


表一-4 長師村村勢

表一-4 長師村村勢


表一-5 川内村田方斗代

表一-5 川内村田方斗代


表一-6 川内村畠方斗代

表一-6 川内村畠方斗代


表一-7 将監所持田畠

表一-7 将監所持田畠


表一-8 三郎兵衛所持田畠

表一-8 三郎兵衛所持田畠


表一-9 やまめ所持田

表一-9 やまめ所持田