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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

一 秀吉死後の政情

 秀吉の死

 慶長三年(一五九九)八月五日の夜半に、重態の秀吉は、ひそかに前田利家と徳川家康を伏見城の病床に招いて、気がかりな死後の処置について細々と懇願するところがあった。その大要は、

 一、朝鮮に在る将兵の速やかな帰国
 二、撤兵が完了するまで喪を秘すること
 三、五大老が力を合わせ、秀頼を守り立ててほしい

というもので、手交された五大老宛ての遺言状は六歳の秀頼の将来を案ずる文言で埋められていて痛々しい。そこには豪気一世を覆うた秀吉の姿の片鱗も見られず、俗人に帰って老醜をさらけ出している。遺言状の末尾には、

 「返す返す秀より事、たのみ申し候、五人のしゆ(衆)たのみ申候、いさい五人の物(者)に申わたし候、なごりおしく候、以上」

と結んである。「五人の衆」とは徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝の五大老をさしており、豊臣政権の最高決定機関の役割をになう客将・盟友といった別格の大名である。これに対し「五人の者」とは前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家の五奉行をさしている。これは豊臣政権の執行機関の役で、いわば秀吉子飼いの気のおけない大名たちであった。この日から一三日目の八月一八日午前二時ごろ、秀吉はこの世に数多くの未練を残して、六三歳で死去した。
 秀吉の念願は飽くまでも豊臣家の存続であり、そのために最も気懸りなのは徳川家康の存在であった。家康は家柄から閲歴から見て秀吉の客将で、いわゆる「天下取り」の次の順番を待っている人物である。大名としては関東六か国二五〇万石という最大の大名で、地位は五大老の筆頭、律義者で知られた三河武士を譜代の忠臣とし、朝鮮両度の戦争には出征を免れて所領の経済力蓄積に努めることが出来た。
 その家康が一目置いたライバルは前田利家で、家康よりは四歳の年長であった。秀吉が最も期待し、信頼を置いた盟友であったが、病気勝ちで健康を気遣われていた。
 秀吉の死後は、家康が伏見城に入って政務を執り、利家は大坂城で秀頼の補佐に当たることになった。しかし人々の期待にも拘らず、この信義に厚い利家は秀吉の死後、わずかに半年でその後を追って死去した。慶長四年 (一五九九)閏三月のことであった。豊臣家の将来について心痛することの多かったのが、死期を早めたといわれている。
 いま一つの豊臣家の不幸は、有力大名の中に文吏派と武将派の確執のあったことである。文吏派は五奉行派で、その中心は石田三成であった。戦場の働きによって地位を得た加藤清正・福島正則らに代表される武将たちからは文官の人々は君側の奸と見なされて、互いに反目し合っていた。さらに武将たちは早くから秀吉に仕えて北政所に親近した者であり、石田らは秀頼の生母淀君に近づき、武将派は北政所派、文吏派は淀君派の観を呈し、党派の争いは深刻となっていった。
 前田利家の死を機として武将派の人々は三成を除こうと図った。身の処置に窮した三成は、武将派も手の出せない家康に救いを求めた。家康こそは三成にとって最大の敵であったはずなのに、家康もまた懐に飛び込んだ窮鳥をかくまい、やがて護衛をつけて居城の近江国佐和山に送り届けた。そのため三成は五奉行の職務から外されることになった。
 利家の生前には言動を慎んだ家康は、利家の死と三成の閉居によって、今や恐れる者もなく行動し、自己の勢力拡充に努めた。しかし家康が大坂にいて、いかに政治の実権を握ったにしても、それは秀頼の後見としての豊臣政権の一政務に過ぎない。家康が豊臣家に代わって天下の権を握るためには、何人かに秀頼を擁して兵を起こさせ、これを破って武威を示すことが必要であった。
 その適任者は石田三成であった。しかし三成は居城佐和山に閉居の身である。こうした時、家康には都合のいい上杉討伐という機会が起こった。