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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

2 加藤の家臣たち

 佃 十成

 佃十成(一五五三~一六三四)は松山藩加藤嘉明の筆頭家老、三河国西加茂郡猿投郷の出身で岩松次郎十成といった。徳川家康に仕え武名を顕したが朋輩と戦功のことで争い、これを討って立ち退き摂津国西成郡佃郷に蟄居し、佃次郎兵衛尉と改め、天正一四年(一五八六)加藤嘉明に仕えた。慶長二年(一五九七)、朝鮮再征のとき唐島の戦いで、十成は諸舟に先立ち敵の番船に乗り移る時、敵兵が槍を口中に突き入れたのにもひるまず乗り移ったのを、また敵兵が、筋鉄の入った棒で甲の真向を強く打ち、十成は海中に落ちた。泳ぎ上る所へ従者の熊谷覚兵衛の差出した長刀に取りつき共に番船に乗り移り、船中の兵を悉く討ち取ったと(佃十成覚書)。
 関ヶ原の戦いでは従軍を願ったが嘉明に松前城を堅固に守れと命じられて留守居を勤め、来襲の毛利勢を撃退し、松前城を護った。その功によって浮穴郡久万山六千石の知行所を与えられた。慶長八年に松山城の北に一廓を構え、石を畳み塀を堅くし五か所の高櫓を設け、ここに居住した。佃櫓と呼び、主として道後の湯築城跡の石を移したものであった。後世これを高石垣と呼んだ。
 また城下町清水に中屋敷、山越に下屋敷を置いた。下屋敷の跡にはのち千秋寺が建立されたが、当時は庭に花卉を植え阿弥陀堂を建て仏像を安置していたという。中・下屋敷ともに建築は輪奐の美を極めたらしく、当時の俗謡で、

 さても見事な次郎兵衛様の屋形、四方白壁八棟造り、阿波にござらぬ讃岐に見えぬ、まして土佐には及びはないぞ、伊予に一つの花の家、

と歌われたという。
 加藤嘉明の領分の久万山は地理的には久万高原と呼ばれる海抜五〇〇メートル以上の山間地で、土佐国に隣接し、二〇か村六、四〇八石余の石高を持っていた。戦国時代に湯築城主河野氏の支配地で、重臣大野直昌が大除城を中心に三〇余の支城を持って土佐勢の侵入に備えていた。秀吉の四国統一後は国人大野氏に率いられていた多くの枝城主たちは久万山村々の庄屋職を与えられていたが、なお戦国の勇武不覊の気風を温存していたので、新領主としては警戒を要する地域と考えられた。嘉明の家臣で地方知行を与えられたのは佃十成ただ一人であったのもその間の消息を物語るものであろう。
 果たして寛永三年(一六二六)二月に久万山庄屋どもは、大川村の土居三郎右衛門、日野浦村の船草次郎右衛門を代表者として、加藤嘉明に対し直々に支配者の更迭を願い出ている(入野村庄屋文書中「古今見聞録」)。その理由として、
 ① 年貢の取り立てが厳しく百姓困窮に及ぶ。
 ② 両明神村、菅生村、畑野川村、大川村に自らの手作地を設け、百姓を使役する。
 ③ 城下屋敷に連日人夫を呼びつけ使役する。
という箇条を挙げている。地方知行であるから年貢率を決定して徴収し、農民を使役し処罰する権利も佃氏が保留していたが、それが過重であり、年貢以外に手作り地を置き、城下の花屋敷経営に連日百姓を呼びつけて酷使したことが不法とされたのであろう。もっともこの代表二名の庄屋には佃十成に対して特に含むところがあった。それは元和元年(一六一五)大坂夏の陣で、佃十成の軍勢に久万山から土居・船草両人が属して出陣した。十成が大坂長柄川から退く時、敵勢に追撃され危急のとき、両人は決死の覚悟で敵を鉄砲で追い、また槍で数名を打ち取り、沈んだ十成を救い上げ、軍のしんがりを勤めて事なきを得た。十成も両人の働きに対し「帰国後は必ず恩賞を与えるであろう」と約束したのに帰陣後は何の沙汰もない。両人は憤って直々訴えに及んだという。
 嘉明はこの両人の訴えを聞き届け、十成の知行所を取り上げ、嫡子三郎兵衛が知行を相続することになった。両人は押し返し別の知行主を嘆願したが、家老堀主水・足立新助から「三郎兵衛に自今狐疑の心を持たさぬ」旨の証文を貰って引き退った。三郎兵衛の知行主は一年で、翌寛永四年に加藤嘉明の会津転封に従って立ち退いたので、佃氏の久万山支配は終わり、また次の領主蒲生氏も地方知行制を採らなかった。
 寛永四年に会津に移った十成は嘉明から一万石の隠居料を与えられた。同一一年病重く、子弟を集めて、「我若かりし時より戦場で一三か所の疵を蒙る、うち予州久米の合戦に鉄砲、頸の右に中り猶その玉皮の中にあり、然れ共運尽ざれば死せずしてかく老年に及び、病の為に死せんと覚ゆる也、是を以て思うに弓箭取る身は少しも汚なびれたる志有るべからず、かたみに是を残さん」とて剃刀を取て皮を破り、鉛丸を取り出し前に置き、三月二日八二歳、端座して終わったという(松山叢談二下)。

 足立重信

 足立重信(?~一六二五)は、嘉明の内政方面の功臣として名がある。松山では松山城を築き、開市の恩人として讃えられているが、その業績をたどる確実な資料を欠いている。生年不詳、永禄(一五五八~六九)初年に美濃国に生まれ、早くから加藤嘉明に仕え、文禄四年(一五九五)主君の松前城転封に随って伊予国に来住した。通称半助、のち半右衛門、諱は重信、また兼清、元清ともいう。その人となりについては「謹厚剛毅にして智略あり、恪勤励精、倫に絶し頗る政務に長じ、殊に土木治水に精通す」とある。慶長初年に松前城市を洪水から護るため、伊予川の下流一二キロメートルの河道改修、堤防を築き、沿岸の荒地を開発して約五、〇〇〇ヘクタールの耗地の灌漑、水防に成功し、世人は以後伊予川を重信川と呼ぶようになった。
 慶長六年ごろ松山築城が計画され、城山南麓を流れる石手川の流路を南方に迂回させて水制工事を施し、堅固な堤防を築いて松山市街地を開発した。同七年、普請奉行として、城の縄張りから五層の天守閣を中心とする楼門その他堀の構築等に尽力し、完成は着工後二〇余年の歳月を要した。
 食禄五、〇〇〇石、家老職として西堀端に邸を与えられていたが多年の大土木工事の責任者としての重信は寛永期に入って著しく健康を害するに至った。ことに歯痛を患い苦しんで再び立たず、寛永二年(一六二五)一月一七日に死去した。病革まると聞き、嘉明は自ら病床を見舞った。
 重信の墓所は城北の来迎寺の丘上にある。「なきがらを城の見える所に」という功臣の遺言を聞き、「重信は死してなお我を護るか」と嘆じたという嘉明が、自ら選んだ墓所という。ここは松山城の裏正面にあたり、石手川も望見される景勝の地である。大正八年正五位が追贈されたとき、地元有志は足立彰功会をつくり、同一四年に「足立重信頌功之碑」を来迎寺境内に建立した。

 堀 主水

 堀主水(?~一六四三)加藤家家老、主君嘉明の会津転封に従い会津若松に移り住み、引きつづき家老として三、〇〇〇石を給せられた。二代明成となり、主従の間か不和となり、これが原因で寛永二〇年(一六四三)五月二日、会津城主加藤明成の所領四二万石が収公された。「大猷院殿御実紀巻五三」は「藩翰譜」の記事をとって次のように載せている。
 明成には世の非難を受ける言動が多く、老臣堀主水は常々直諫したため主従の間が不和となって行った。ある時、主水の家僕と他家の僕との争論事件があって、堀の家僕の言う所が正しかったが明成は却って堀の家僕に非ありとして罰した。主水はこれを嘆き明成に訴えたところ、明成怒って主水の職を奪い追放した。
 主水はその処置をうらみ、弟の多賀井又八郎、真鍋十兵衛ら妻子従類凡て三〇〇余人を引き連れ、会津城下を出て中野という所で鉄砲を発ち、倉兼川の橋を焼いて退去した。明成は討手を差し向けたが、討ち洩らした。主水は逃れて鎌倉に忍んでいたが討手がかかったので高野山に逃れた。高野山では明成の申し出に対し、山には来ておらぬと答えたため、明成いよいよ怒り、己の所領に換えて主水一族を追討せんことを訴え、軍兵を高野山に差し向けようとした。主水はたまりかねて紀州家の所領に隠れた。明成はまた紀州侯に訴え、討手を差し向けようとした。主水はいたし方なく江戸に出て、老中に一通の書面を奉って自らに罪なきよしを申し出た。
 遂に上裁を受け、「主水の申し条理りあれど、主の国を出るとき鉄砲を発ち火を放って橋を焼くなど、君臣の礼を失い国家の法を紊す罪は許せぬ」とし、明成の請う如く兄弟三人を明成に引き渡した。明成大いに悦び、これを芝浦の別邸で斬罪に処し、「我が身多病にて国務に堪えず、封地悉く返上し奉る」と幕府に申し出て遁世した。
 幕府は嘉明の家の絶えるを憐み、その子明友に石見国安濃郡山田で一万石を与え、父明成の身柄をも預けたという。その三代明友は天和二年(一六八二)六月に近江国水口二万石に転じ、子孫相ついで一三代明実に至って明治を迎え、加藤家は子爵家として残った。現在、水口町字東邸に加藤嘉明を祭神とする小社、藤栄神社がある。

 塙 直之
                                  
 塙直之(?~一六一五)通称団右衛門は『中古武名記』に、もと横須賀衆(遠州)、牢人して時雨左之助と名乗り加藤左馬助嘉明の歩小姓に出る(『武功雑記』に、団右衛門は元来上総ヨフロノ崎の者とし、朝鮮の役に従軍したことを記す)。関ヶ原戦の時、指図の場より先に足軽を出して嘉明から「一代将帥には成れぬ者」と叱責され、松山を立ち退いた。その時、大床に張紙して「遂に江南の野水に留まらず、高く飛ぶ天地一閑鷗」と大書して去った。嘉明は立腹して朋輩の大名を廻り直之の仕官の途を断った。小早川秀秋・松平忠吉に仕えた後、広島の福島正則に馬廻り一、〇〇〇石で勤めたが嘉明に妨げられ、牢人して道心者となり鉄牛と称し京都妙心寺の大龍和尚の門下におり、常に衣体に刀脇指を帯した。ある時、法会の時間に遅れ、和尚の怒りを買ったが、

 一鞭遅れて到るも骨怒するなかれ 君は大龍に駕し我は鉄牛

と詠んで一座を感嘆させたという。
 『武辺咄聞書』に、大坂冬の陣に塙直之は蜂須賀至鎮の陣に夜討をかけ、家老中村右近を始め究竟の士二四人を討ち取り、雑兵数十を打ち捨て本町橋の上の床几に腰かけ角取紙の馬印で士卒を指揮した。旧知の林半右衛門がかつて団右衛門の「大名に成るとも自身槍を取り太刀を振わぬは勇士の本意にあらず」と豪語したことを詰ると涙を浮かべ「今度の夜討に大将の仕形をしたのは加藤嘉明から、おのれは一代人数を引廻す大将には成れぬと叱られたを無念に思い、一生に一度釆配を取る姿を嘉明に見せたいと手の痒さを忍んで釆配を取った。もはや望みたりた上は、事あらば太刀は目釘の耐えるまで、槍ははがねの抜るまで働いて林に見せよう」と言ったが、果たして翌年四月二九日、泉州(大阪府)樫井合戦に晴なる討死して名を雲井に揚げた。団右衛門はその時、田子(多胡)助左衛門、亀田大隅、八木新左衛門、浅野家人左衛門、横井平左衛門上田宗古家来などと戦い、田子の放つ矢に当たり深手を負ったが田子の弓の弦を団右衛門十文字の槍で上げた所へ八木新左衛門掛り、手負の団右衛門は小家の壁に寄りかかり、八木と槍を組んで討死し、首を八木に取らせたとある。『浅野家譜』に「樫野井で討取る甲附の首十二、本多上野之助両御所(家康・秀忠)に披露し、塙団右衛門の首を上座に備えた。家康機嫌斜めならず、「是れ則ち合戦の一番首、御実検有るべし」と仰せ出され、上野は「首悉く暑気に損し上覧に備うべき体には御座なし」と言上したという(大日本史料第十二編之十八)。
 嘉明の松山時代の家臣録は失われているが、会津転封後、あまり年数を経てない時期のものが「会津鑑巻之十一」に掲げられている。それによると家老以下、禄高一〇〇石以上の家臣四三五名が列記されている。



  一万五千石   加 藤 監 物(嘉明二男)     三千五百石   安達次郎三郎(同重信長男新助事)
  一万石     堀 部 主 膳(嘉明夫人生家)   三千石     本 山 豊 前(同)
  八千七百石   佃  三郎兵衛(十成長男)     三千石     堀   主 水(同)
  七千石     中 島 七兵衛(家老)               二本松 右 京(同)
  四千石     守 岡 主 馬(同)                 以下略