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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

3 蒲生忠知時代

 忠知の入部

 加藤嘉明の会津転封後の松山へは、出羽国上ノ山四万石の蒲生忠知が本領の近江国日野牧(滋賀県蒲生郡日野町)を合わせ二四万石を得て入部した。寛永四年(一六二七)五月七日のことであった(寛明日記)。
 当主忠知は二三歳の青年、主従四〇〇余人は瀬戸内海を渡り三津に着船、直ちに松山城に入った。帯同した家臣は蒲生源三郎・志賀与三右衛門・福西吉左衛門・関十兵衛・池ノ内喜左衛門(以上重役)、蒲生源兵衛・蒲生蔵人・外池信濃・外池次五左衛門・稲田志摩・北川土佐・岡ノ左衛門佐・本山清兵衛・梅原弥五左衛門・佐々伊豆・本山河内・蘆野丹波・内堀伊予・奥ノ釆女・蒲生内記・岡ノ越中・三雲主馬・木本帯刀・外池蔵人・外池善左衛門らの高禄者、以下五〇石以上の者四〇〇余人であった(蒲生家支配帳・讃岐伊与土佐阿波探索書)。

 蒲生氏の系譜

 蒲生氏は藤原秀郷七代の後裔惟賢が、鎌倉時代初期に近江国蒲生郡に移住して蒲生を称したに始まるとされる。戦国時代に蒲生氏が本拠とした日野城(蒲生郡日野町)は蒲生定秀が大永四年(一五二四)に築いたと伝えられ、賢秀・氏郷と三代の居城となった(吉川弘文館『国史大辞典』)。
 蒲生氏は信長に仕えた賢秀・氏郷から著れる。本能寺の変の時は日野にいて、父子で信長の家族を引きとり籠城のかまえを見せている。氏郷は秀吉に従い、南伊勢で一二万石を与えられ松ヶ島城にいて、のち侍従となって松ヶ島侍従と称し、洗礼を受けてレオンと呼ばれた。九州征伐・小田原征伐参加ののち、奥羽征討で会津に入り、陸奥・越後一二郡四二万石を与えられ、会津黒川に居城した。

(図表 蒲生氏の系譜)

文禄元年(一五九二)黒川を若松と改めたが、これは郷里の蒲生郡の若松の森にちなんだものともいう。のち加増を受けて文禄検地後九二万石となり、文禄四年に、四〇歳で京都伏見で病死したが、その勢望を恐れる者によって毒殺されたという説が流布されるほどであった。
 氏郷の子秀行は父の跡を嗣ぎ、会津六〇万石を領し、妻は家康の娘振姫であった。『当代記』はその人となりを、「常々大酒、放埓」と記している。三〇歳で死去。二子があって、兄の下野守忠郷は会津六〇万石を受け、弟の中務大輔忠知は、寛永三年二二歳で出羽国上ノ山四万石を与えられた。忠知の忠は二代将軍秀忠の偏諱を与えられたものという。
 寛永三年の暮れ、兄忠郷は疱瘡を患い、忠知は上ノ山から来てその看病に努めたが空しく、翌四年正月に二五歳の若さで死去し、忠郷は嗣子がなかったため会津六〇万石は公収された(資近上一-129)。
 幕府は寛永四年二月一日に松山城主加藤嘉明を江戸城に呼び、松山を転じて会津若松の城四〇万石を与え、同日蒲生忠知に松山二〇万石と蒲生の本拠近江国日野牧四万石を合わせ二四万石を与え、また兄忠郷の江戸屋敷も与えている(「大猷院殿御実紀巻九」・「寛明日記」・資近上一-129)。

 幕府隠密の報告

 忠知の入部から三か月後、八月一一日から一五日までの五日間、幕府の隠密が松山に来て城郭の規模、侍屋敷、家中の動静、風評、町方、民政、豊凶などの調査をしている。隠密は九州の用務を了えて豊後国府内から伊予の佐田岬に渡り、八月九日に長浜に着き、大津(大洲)から松山を見、八月一七日に今治を終わって高松に向かい、徳島を見、高知を視察し中村を経て宇和島に至り、戻り足で大洲の見残し分を見て一〇月一一日に四国七城(大洲・松山・今治・宇和島・高松・徳島・高知)の巡見を終わり、幕府に復命書を提出している。
 松山については多少の誤伝・推測が混在するにしても比較的公正に客観的叙述がなされている。蒲生氏は僅か八年間という短い領主で記録の少ない中で、入国後間もないこの資料の占める位置は大きく、貴重である(資近上一-130・讃岐伊与土佐阿波探索書)。

 入国の家臣

 忠知は兄忠郷の会津六〇万石の家臣と、自らの上ノ山四万石の家臣を松山二四万石で扶養しなくてはならない。会津家臣の人数制限をしたに違いないが「今度与州へ参候侍数、中務(忠知)殿本之馬乗百廿人、百程と申者も御座候、下野(忠郷)殿侍三百人以上四百廿人之由申候」とあり、百人衆と呼ぶ鉄砲の者も「鉄砲の衆も会津より多くは不参候由」とあり、また「持筒之者、百人ならでは会津より来らず候由」ともあるので、まず百人までであろう。また「会津より小者は多く参らず候て、伊与にて抱え申す由」ともある。           
 加藤の時代は「侍屋敷七十七間(軒)、堀より外に侍屋敷四御座候、国替の時侍屋敷帳に付(け)、町中より番を仕る由」とあるのは上級家臣を住まわせた「堀之内」を指すのであろう。領主交替の時は、侍屋敷を町人が張番で管理したとみえる。侍屋敷はそのほか、「侍町、城より西南の方に大分有、西の方五百四十間(軒)、町に〆八町卅四間、南之方三町、此外に惣かまへ有、北南六町、西東四町」とある。また会津方面からの侍は「跡より一人二人づつ御下り候などと申候、今はあき屋敷も無之由申候」とあるのは一〇月ごろのことと思われる。
 家臣の知行割は八月にはまだ決定していない。六〇万石が二四万石となったので蒲生氏も知行割には腐心したようで、一般には会津知行高の三分の一と想定されたが、九月になってきまったのは、「会津で三千石を取っていた者が、伊与では千石というもあり、又ハ七百石というもあり、又ハ三千石取りで弐千石あるいは其まゝという衆もあるようで、何わりへりという極めはない」といわれ、一律の決定ではなかった。

 民政一般

 隠密の報告には、「百姓への御あてがい、今迄は事のほかやわらかに仰せられ、人足などへも御使いなされず候由」とある。入国のとき三津の舟着場へ百姓が出迎えて、荷物を持とうと申し出たところ、忠知は「加藤殿の政治向き悪く百姓は疲弊していると聞く、かようなことに百姓を使用してはならぬ、何者が指図して百姓を参らせたのか」と不機嫌であったという。その後、詰夫・江戸夫の課役もなく、また馬の飼料の草なども以前は納入させていたが、百姓から取ってはならぬと厳命し、糠・藁なども取らず、奉行衆も一か月銀六〇目ほどの草を購入した、とある。八月のころは租率はまだ決定していなかった。百姓の言うには「今迄は事の外やわらかに御あたり成され候、とかく所務の時ならでは知れずと申候」とある。年貢納入の時期でなくては藩主の意向は察知出来ないとしながらも忠知の評判は悪くないようである。入国以来鷹野にはまだ一度も行かず、川狩は二度行った程度とある。
 「町人への御あてがい」としてまだ課役はない。他所より使者のあるとき、振舞い熨斗は町が代わって出す慣例である。城下町での商売は不振で、酒さかなの類も加藤の時ほど売れない。酒は夫々にごり酒を作るので、侍町の端々で所望する所がある程度である。在郷の大工は加藤の時は年に六〇日使役されれば百姓並みの課役はなかったが、蒲生になると年一〇〇日とも風評され、また松山に多い紺屋にも課役が風評され、ともに迷惑がっているとある。

 豊凶

 昨年(寛永三年)の稲作は「半分日にやけ申由」「当作虫付三ヶ一稲かれ申候由申侯、其分に見へ申候」とある。松山藩の稲作は虫害で三分の一は枯れたと聞いたがそのように見えた。松山から西四里ほどは全く枯死し、晩稲(おくて)は風害にも遇ったようで、稲穂が重く垂れ下がっているものはない。みな茎がピンと立っている。水田面積は多い。八月一〇日ごろ検見を願う所へは出向いて調査したという。この地方は二年続きの不作であった。しかし裏作の麦はよく出来て百姓の食糧は困らぬように見えた(資近上一-130)とある。

 城郭

 城については隠密の最大のねらいと見え、最初にそれを記している。「山上本丸には加藤嘉明の時からも平生は登らず、蒲生の代になってもそのようにしていると聞いた。山へは登れないので遠望に止めた」とし、「山上は北南へ百四五十間程も御座有べき様に見及候、東西は何共知れ申さず候、西東はせばく見へ申候」とある。二の丸については「山下、西の方五十二間」とあり「石垣高さ七間程」「堀のはば十七間程、地より水へは二間計」とあり、三の丸については「西の方、二百廿三間、町三町四十三間、南の方百七十間、町二町五十間、東の方二町四十三間、三方合九町十六間也、土手の高さ五間程、堀の口十七間、三方共にへいなし」とある。また「城山のまわり十九町三十一間有、此内南三町三十七間家なし、東に一町計家なし、惣まわり侍屋敷なり」とある。
 町人町については、「町は城の西に西東三町に北南三町三十間の所、町三筋、六町の所二筋、八町三十間の所一筋、以上、町は五筋」とあり、また「松山中惣まわり北南十三町三十四間、東の田のあるかまへ迄、西方より合七町八間西東八町三十四間、西方合十七町八間、四方合四十町四十六間也」とある。町屋の家数は千ばかり、「舟着へは三津と申所ヘ一里」とする。

 忠知の治世

 寛永五年(一六二八)七月、忠知は奥州平の城主内藤政長の七女某(一三歳)と婚儀を行った。前年将軍秀忠の台命により婚約中の夫人であった。
 その翌六年正月に水無又兵衛という者が首魁となって、松山地方の郷民を手なずけ総勢一、〇〇〇人ばかりで一揆を起こし、在々所々の豪家に押し入り財宝穀物を掠奪した。代官の力では制し切れず、家老蒲生源左衛門、町野長門守、梅原弥左(五)衛門らの重臣が家臣を率いて鎮定し、又兵衛を生け捕って磔刑に処するという騒動であった。これは旱害などによる不作と藩主交代による政治の不安定に乗じた騒動であったが他に波及することなく鎮定している(資近上一-131・寛明日記)。
 同年一一月に忠知は、重信川上流右岸の徳威原の開墾を計画したと伝える。奉行三雲主馬・伊勢兵庫らに命じてこの地(松山市南北梅本町)にあった法水院神護寺の伽藍を移し、葉佐池を掘り、溝を通じて耕地四三八町歩余を得たという。葉佐池は別名蒲生池とも呼び、治世短い忠知の残した最大の民政事業と考えられる。
 同七年三月に蒲生家の重臣間に対立が激化し、江戸に出て将軍家光の裁決を仰ぐという、いわゆる蒲生騒動が起こった。
 寛永七年三月十六日家老福西吉左衛門が主謀者となって、関十兵衛・岡左衛門・志賀与三右衛門らと共に、筆頭家老蒲生源左衛門・弟源兵衛・同宗長の三兄弟の悪事を訴え、仮に閉門にして江戸に在る主君忠知に申し出た。将軍家光がこれを聞き、何故に筋無き者を執権にして、勝手に代々の家老を閉門にするか、と双方を江戸に呼び出し上裁を仰ぎ、福西は切腹、他の三人を追放に処した(資近上一-132・寛明日記)。
 この事件は「大猷院殿御実紀巻二〇」によると寛永九年(一六三二)七月一〇日の事件としてくわしく記されている。訴訟を起こしたのが七年三月で解決を見たのが九年七月と見るべきであろう。「大猷院殿御実紀」によると

 (寛永九年七月)十日、松平中務大輔忠知家司蒲生源左衛門、福西吉左衛門、関十兵衛、御前に召て其訟論を聞召る、よて、尾水両卿及諸番頭、物頭ことごとく伺公す、

とあって、将軍家光直々に訴えを聞き、翌一一日に判決が下った。同書に、

 (十一日)この日松平中務大輔忠知の家司福西吉左衛門は伊豆大島へ流され、関十兵衛は追放たれ、蒲生源左衛門は忠知が封内へ篭居せしめらる、

とある。「寛明日記」には福西は切腹とあるが、これは事件解決後のことであろう。ところで、福西らはいかなる理由で蒲生源左衛門を訴えたか、「大猷院殿御実紀巻二〇」には、

 このおこりは蒲生、福西の両人、彼家にて城をもあづけしほどの重臣なりしが、忠知と源左衛門は、共に内藤左馬助政長が聟なれば、そのゆかりによりて、忠知転封の後は、ひとへに源左衛門がはからひのみになりて、その権藩中に専なり、よてほしゐまゝなる挙動も交りけれど、忠知これをとがめざれば、福西、関、并結解文右衛門などいへる家司等、はかりあはせて上裁を仰ぐにいたりき、

とある。これによると藩主忠知の妻も、源左衛門の妻も共に奥州平城主内藤政長の娘であった近親関係から、筆頭家老として源左衛門の専横は目に余るものがあったのであろう。ことに隠密書に記してあるように、寛永四年九月以後に決定したと思われる知行割などは源左衛門の差図に出たはずで、一律でなかったため、不平は源左衛門に集中したようである。
 さて福西らの訴訟した事項については「大猷院殿御実紀巻二〇」に、

 そのうへ福西等申しけるは、源左衛門公を蔑如し、忠知が居城に新櫓をかまへ、御敵たりし真田左衛門幸村が女を、子の妻とせるよし、

とあり、幕府が蒲生源左衛門を糾明したところ、

 新櫓の事は転封の時、忠知より執政の人々に請て許可せられし所なり、又真田が女を子の妻とせるは、使番滝川三九郎一積が女と心得たり、更に幸村が子たる事をしらずと答ふ、又三九郎一積を糺聞ありしに、三九郎一積、幸村が縁の身なれば、かの妻子飢餓をみるに忍びず、その時の執政本多上野介正純に請しに、女子の事ははゞかるべからず、心のまゝに養育すべしとゆるされて、養育せしなりと答へしとぞ、

とある。蒲生源左衛門の答弁は、松山城に新櫓を構築したのは転封のとき忠知が幕府執政の人に請い許可を得ているとし、子の妻は幕府の使番滝川一積の娘と考え、幸村の娘とは知らなかったとした。滝川は幸村の縁故者であったから、幸村の死後妻子が貧窮しているのを引き取り養育した、その際執政本多正純の許可を得ていると言っている。
 以上が、蒲生騒動であるが、「大猷院殿御実紀巻二〇」は、後日この事件に関し、二つの追加記事を載せている。

 寛永九年七月十六日条
 けふ使番滝川三九郎一積追放たる、こは真田幸村が女子を養ひ、蒲生の老臣蒲生源左衛門が女の婦となし、又豊後の横目としてまかりし時、舟を四国に着て蒲生家に立より、種々の饗をうけしが故とぞ。
 寛永九年七月廿六日条
 松平中務大輔忠知には、家政にこゝろ用ふべしと面命せらる、こたびその家士訴論して、上裁を加へられし故なるべし

とある。
 忠知は城山の南麓にある二の丸邸に住んだといわれる。これは加藤嘉明によって造営されたものであるが、手狭であったか、あるいは別の理由でか、これを改築したという。
 彼の治世に近江国日野の住民が松山城下町に移住したという。城下町の東北端の町がこれに当てられ日野町としたが、のち火災が起こったため、町名を忌み、これを水口町と改称したという。彼等は日野蕪を栽培し、地方名産にまで名声を高めた。
 忠知は江戸東禅寺の嶺南に師事して参禅し、華岳という道号を受けた。同寺内に塔頭興聖院を建立し、師の隠栖に供したという。
 彼は松山城西に臨済宗見樹院を建立し、蒲生家の菩提寺とした。見樹院は兄忠郷の法号である。この寺はのち松平氏によって浄土宗大林寺となった。彼はまた和気郡祝谷村多幸の地に弘真院円福寺を建てて祈願所とした。弘真院は父秀行の法号であるから、その冥福を祈るための建立であったと考えられる。この寺はのち松平氏によって天台宗常信寺とされた。真宗光明院明楽寺(松山市二番町)も彼の建立で、当時の住持は祐賢と呼び、柴田勝家の曽孫と伝えている。
 蒲生忠知の松山治世はわずかに八年、「まないた石」とか「泣かぬ蛙」など殷の紂王もどきの伝説があって評判がよくないが、前代領主は悪しざまに評されるのが通例で、当てにはならない。「寛明日記」に「寛永十一年八月十八日、松平中務大輔忠知本名蒲生、疱瘡ニテ卒ス、于時三十歳、興聖院殿華岳宗栄大居士卜号ス」と記されるが、江戸邸で没した(古川弘文館『国史大辞典』)とも、参勤交代の途次京都において卒し、遺骸を松山見樹院に葬った(家譜・松山史略等)ともあって死去の地が定まらない。
 嗣子がないため蒲生家は絶家となった。墓標は松山市末広町興聖寺境内にあるが、これも城西大林寺から移したものである。未亡人は一九歳で内藤家に帰り再嫁せず、元禄一三年(一七〇〇)六月二七日死去、八五歳で、相州鎌倉翁ヶ谷薬王寺に葬られ、松寿院殿青山日縁禅定霊尼(内藤家記録)という。
 蒲生氏の本領の滋賀県日野町には荒れ果てた日野城址があって、蒲生家を祀るという小さな涼橋神社が忘れられたように建っている。まことに落莫たる風景である。この地は元和六年(一六二〇)以来、市橋氏二万石の仁正寺藩の陣屋跡でもあり、「藩主市橋家邸阯」という石柱が建っている。

図表 蒲生氏の系譜

図表 蒲生氏の系譜


表一-15 会津・松山知行高比較表

表一-15 会津・松山知行高比較表