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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

五 一柳氏の伊予就封

 一柳氏の出白

 一柳氏は伊予の名族河野氏の後裔という。大永年中、河野弾正少弼通直の男宣高という者が、伊予国を去り美濃国に行き厚見郡西野村を領し、郡司土岐氏の知遇を得ていた(寛政重修諸家譜巻六〇三)。
 宣高はつねづね河野氏の名跡を汚すことを恐れ、土岐氏に河野に代える称号を懇願していたが、土岐郡司はある日、蹴鞠の場で宣高に一本の柳の木を指して「一柳としてはどうか」といわれ、喜んで「一 柳」を号したという。その孫又介、後に又右衛門尉直高は西野村を知行し、稲葉伊予守一鉄の姉の娘を妻とし、伊豆守直末、弟監物直盛が生まれた(一柳監物武功記)。

 伊豆守直末

 直末の幼名は熊・後に市介と呼び、信長の臣羽柴秀吉が美濃で二、五〇〇石を得たとき、二五貫の約束で奉公した。
 そのころ信長は近江の浅井長政と戦っており、浅井の小谷城に対する虎御前山に秀吉も城を構え、互いに交戦した。市介は度々武勲を顕し、秀吉から感状と二五〇貫の知行を得た。ついで天正六年(一五七八)秀吉は播磨に出陣し、別所小三郎の籠る三木城を攻めて陥落させ、賞として播州但馬を得た。また秀吉は手柄のあった市介に播州のうちで二、五〇〇石の知行を与えた。市介は美濃にいる弟の四郎右衛門を呼び寄せ、姫路付近で九〇石の一村知行を与えて被官とした。さて秀吉が伊豆守直末に与えた二、五〇〇石は、「天正六年より同八年迄両度に」与えられている(一柳監物武功記)。

 揖西郡の内二五〇〇石を以て、此内一〇〇〇石は自分遣いとして也、但し当年は知行取五ッの物成、無足人に六ッの物成申しつけ候条、百姓前に於て請取るべく候、所付の儀は来年申つけ候、
    天正八年九月二十一日                                   恐々謹言
                                                秀吉

       一 柳 直 末 殿
                                 (伊予小松一柳文書・東大史料編纂所影写本)

 給知の内容は「自分遣い」の一、〇〇〇石と、それ以外の一、五〇〇石から成っており、租率に従って百姓前から貢租を受け取るよう指示されている。朝尾直弘氏によれば、自分遣いの一、〇〇〇石の知行高の五割、それ以外の一、五〇〇石が無足人分で、六割が取り分であるという(岩波「日本歴史」〈豊臣政権論〉)。したがって天正八年の直末の取り分は五〇〇石、彼の召し抱え人が何人いたかは不明であるが、これが無足人と呼ばれるもので、一、五〇〇石の知行地から(弟四郎右衛門の九〇石もその中に含まれよう)計九〇〇石がその年の取り分であろう。
 秀吉は全国に画期的な石高割を樹立させ、そのために大がかりな太閤検地を実施したのであったが、その開始時点は天正一〇年であるという見解は多くの学者の容認するところである。しかし秀吉がこの大事業を確信を以て全国に実施するためには、それに先行するテスト・ケースが必要であっだろう。信長の一部将であった秀吉が天正八年に領国播磨に於て、家臣の一柳直末に知行高を石高で示し、知行地を明示し(この場合は来年)、年貢額を一、〇〇〇石に対し五ッと指示したほか、他の家臣(例えば片桐貞隆)にも同様のことをしている。
 これを石高制の成立後の天正一五年島津義久に摂津、播磨で与えた一万石の場合と比較してみると、全く同様であることを知る。
                                                     
   (上略)上方に於て壱万石宛行い訖ぬ、所付の儀は来春仰付らるべく候、当年は物成半納分を以て八木(米)五千石下され候
  条、各支配在之、(中略)
    天正十五
      十月十四日 (秀吉花押)
        嶋 津 修 理 太夫
                 とのへ

として、翌一六年七月五日付「知行方目録事」として与えるべき摂津・播磨計一九村の村名石高を掲げ、都合一万石に秀吉朱印を付して与えている(安良城盛昭「太閤検地と石高制」)。

 一柳直末の武功

 一柳直末は主君羽柴秀吉から播州で二、五〇〇石の知行を得、弟四郎右衛門(監物)を呼び一村切九〇石を与えて被官とした。秀吉はその前年因幡に軍を進め、スクモ塚城主根屋親光を攻略して一柳兄弟も先陣をつとめ、監物は一六歳の初陣で城から落ち行く大太刀使いで知られた槇野十右衛門を生け捕りにし、鳥取城主畑野作太夫を攻め、監物ら数人で城兵を城に追い込んだ。直末は弟に褒美として脇差・革羽織を与えている。
 天正一〇年(一五八三)四月には備中高松城を攻め、兄弟も参加し、同年六月摂津山崎の戦から、賤ヶ岳に戦い、山上に陣を布く佐久間盛政の偵察のため兄弟二人で先駆したが、秀吉は高声で「兄に劣らぬ者也」と監物の武者振りを嘆賞したという(一柳監物武功記)。
 直末はついで小牧の役には美濃国竹鼻城を陥れ、同城三万石を得、紀州征伐、四国討伐に従い、大垣城に転じ伊豆守に任ぜられ、天正一五年美濃国軽海五万石に封ぜられた。同一八年小田原の役に、伊豆山中城攻撃の先鋒として奮戦し、流弾に当たって討死した。秀吉の朝食中、小寺官兵衛が「伊豆守手負候」と申し上げたところ秀吉は「伊豆守手負候と申すは討死致し候や」と問い、官兵衛は「其通にて候」と答えた。秀吉は「城を攻破りても無益、関東にも代えまじき伊豆守也」といい、御膳の上へ落涙し、其後は食事も進まず、愁傷の由で、直末の跡を弟監物に嗣がせたという(一柳監物武功記)。

 直盛の勲功

 一柳直盛(一五六四―一六三六)は直高の次男で、直末の弟である。兄伊豆守直末に引き立てられ、小田原攻略で兄の最期まで従軍した。それまでに与えられた賞禄を列記すると次のごとくである。
    九〇石  播磨にて     二五〇石  丹波にて    
   七〇〇石  美濃大垣にて  一五〇〇石  美濃軽海にて 
  一〇〇〇石  勢田にて、 以上は伊豆守家人として受禄
 天正一八年(一五九〇)に直末が討死したので家督を相続して尾張黒田で三万石を与えられた。
 慶長五年家康に従い、伯父一柳正斎に黒田城を預け置き会津征伐に加わった。その留守に石田三成の回文を持ち、小川祐忠の被官稲葉清六が黒田城を尋ねて三成口上の趣を伝え「今度び一味なされご同心に候はば本国の美濃一国、金銀何程なり共お望み次第進むべき由」と述べた。正斎は「家康公へお味方するときめた上は金銀・知行いか程与えられても石田方に味方は出来ぬ」ときっぱり断った。清六は重ねて「味方に加わらねば母・妻子三人とも人質とし、濃州三津屋の堤に曝すことにきめてある。それでもよいか」という。正斎腹を立てて「人質を三津屋の堤で火焙りにするなら見物に行く、再び来るなら首を刎ねよう」と回文を留め置き、清六を追い返した。その後八月九日に監物は黒田に帰城して右の様子を聞き、伯父正斎に対して「三成方への返答の趣き残す所がない。かようの事も有ろうかと思い留守を頼んでおいた。このたびの処置に対し、お礼の申しようもない」と涙を流し、くり返し礼を述べ、「右の回文は井伊侍従まで遣した」と述べた(一柳監物武功記)。

 関ヶ原戦後の直盛

 家康の西上に先立ち、東軍諸将は八月一四日までに福島正則の清洲城に集結し、木曽川を挾んで織田秀信の岐阜城、犬山城、竹ヶ鼻城の西軍側城砦と相対していた。しかし家康は容易に西上して来ない。焦々した東軍はまず二一日に木曽川下流の竹ヶ鼻城を落とし、二二日に岐阜山城攻略を企て、福島正則と池田輝政が木曽川の先陣争いを演じた。池田はこの土地に明るい一柳直盛に木曽川の先導を命じた。監物は河田の堤に陣取り、浅い一瀬の川を渡り中洲へ乗り上げ敵状を観望し、貝を鳴らし下知して八〇〇ばかりの敵中に乱入し、大勝を得た。二三日は米野に陣取り、未明に稲葉山瑞竜寺出丸に取り掛かったが、山上から石火矢鉄砲を打ちかげられ苦戦したが、やがて城主織田秀信より使者が来て、城を明け渡すとの連絡を受け、、岐阜山は落城した。直盛は木曽川先陣と岐阜城攻略の手柄を挙げた。
 九月一五日、家康は関ヶ原に陣を移すと、直盛を賞して「木曽川先陣及び瑞竜寺攻取りの粉骨忠節の上は、江州佐和山と濃州大垣の押えの通路、長松の城を相守り申すべき旨」を命じられた(一柳監物武功記)。
 なお『恩栄録』によれば、一柳直盛は

 一、慶長五年本領安堵  三万五千石 尾張黒田
 一、慶長六年加一万五千石 合五万石 伊勢神戸
              尾州黒田より移る
 一、寛永十三年加一万八千六百石   伊予西条
     合六万八千六百石 六月朔日勢州神戸より移る

 こうして一柳監物直盛は関ヶ原、大坂の陣で加増されて寛永一三年(一六三六)に六万八、六〇〇石を得て伊勢神戸から伊予西条に転封になった。一柳家発祥の地が伊予国であり、老後郷土に帰住を志し、自ら移封を幕府に請うて許されたものと伝えられているが、実は西条の地を踏まず、同年八月一九日赴任の途次、七三歳で大坂で死去している。現に大阪市天王寺区谷町大仙寺境内に、多宝院殿心空思斎居士一柳直盛の五輪塔が現存する。また伊勢国神戸町臨済宗竜光寺は一柳家の菩提寺で、ここにも一柳監物直盛髪塚及び追悼碑・彰功碑があり、また慶長一七年伊豆守直末の二三回忌に当たり、追善のため弟監物が寄進した門(その後延享五年原型を模し再建、現存)がある。恐らく大坂で死し、谷町大仙寺境内に葬り、遺髪を伊勢の菩提寺に葬ったものと想像される。
 さて直盛には三子があり、死に先立って遺領を三子に分与した。長男直重西条三万石、次男直家分知二万八、六〇〇石、川之江・播州小野を合わせ、三男直頼に分知小松一万石、同年就封した。

 西条一柳藩

 長子一柳直重(一五九八~一六四五)は一七歳で父に従い大坂陣に初陣の経験を持つ。三万石の中心を西条陣屋町におき、新居・宇摩・周布を支配したが一〇年ののち正保二年四八歳で死去し、長子直興に二万五、〇〇〇石、次子直照に宇摩郡津根五、〇〇〇石を分封した。
 その後、直興に役目不行届きのことがあって、寛文五年(一六六五)二万五、〇〇〇石は収公され、藩主直興は加賀松平藩預けの処分をうけた。その罪状とするところは、

 一、京都女院御所の助役を命じられ、二度とも遅参した。
 二、このたびの参勤も病気遅参し、病状の報告もせず届けも遅れた。
 三、京都造営のとき密かに所領に帰り、遷幸のとき欠席した。
 四、平常家臣領民を苦しめ、内寵多く、女色に耽る。
 五、近日領民罪なき者を刑すること三〇余人に及ぶ。
                                           (「厳有院殿御実紀」)

 このあと紀伊頼宣の次男松平頼純が三万石を与えられて、西条に就封するのは、寛文一一年のことである。

 川之江一柳氏

 直盛の次男直家は宇摩郡・周布郡で一万八、六〇〇石と播州小野で一万石、計二万八、六〇〇石で川之江に入部したが、六年後の寛永一九年に四四歳で江戸で死去し男嗣なく、養子直次が播州小野で一万石を得て一柳家を存続し、川之江の一万八、六〇〇石は天領に組み入れられた。また西条の直重の次男直照の得た宇摩郡津根五、〇〇〇石も子の直増が元禄一六(一七〇三)に播磨に転封となり、そのあとは天領に組み入れられた。こうして一柳家は直盛の三男直頼が分与された小松藩一万石のみが幕末まで続き、明治になり子爵を授けられた。

図一-18 一柳氏略図

図一-18 一柳氏略図


図一-19 一柳氏略系図

図一-19 一柳氏略系図