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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

二 松平定直の施政と松山文化の誕生

 定直の就封とその初世

 第四代藩主定直の治世は、延宝年間から江戸文化の隆盛期である元禄時代を経て、享保の初期に至る四七年の長い期間にわたっている。この時期は、定行・定頼・定長三代の守成の業のあとを受けて、松山藩の飛躍しようとする傾向があらゆる方面に見られた。高内親昌(又七)による農政の大改革に伴う財政補強工作と、儒学・神道・俳諧などが松山に伝播して地盤を拡大し、郷土の文化の養成された重要な期間であったと言わなければならない。
 松平定直は、万治三年(一六六〇)一月に、今治藩主松平定時の長男として、江戸の今治藩邸に誕生した。幼名を鍋之助といったが、延宝二年(一六七四)一月二一日に、年一五歳で定長の養子となり万之助と改め、二三日に三田の松山藩中屋敷に入って、定直と称した。今治藩邸から随従した家臣は、山田四郎兵衛・稲川八右衛門・近藤亀右衛門・井上式三郎ら八名であった(本藩譜・津田家記)。
 延宝二年二月一二日に定長が三田屋敷で逝去したので、四月七日家督ならびに遺領一五万石を継承した。定直は一二月一八日に従五位下に叙せられ、淡路守となった。翌三年三月には飢饉による被害者救済のために、川普請を断行し、これに従事した男子には扶持米一升二合、婦人・童子にはその働きによって米を支給した。また、小栗市場に小屋を建て、城下町の郊外になる石手川地域のものにも、粥をたいて与えた(垂憲録拾遺)。翌四年四月に将軍家綱の紅葉山参詣ならびに増上寺参拝の際、幕府から辻固の命を受けた(津田家譜)。同年六月一一日、松山に大洪水があったが、定直は七月一六日に初めて松山へ入った(増田家記)。
 延宝五年(一六七七)二月に、藩庁では藩主の参勤の留守中、毎月二・七・一三・二〇・二六の五日間に、家老・奉行・町奉行・月番横目・祐筆ら各一名、小姓三名、坊主・歩行横目各一名ずつ出席して、会所寄合を開催するように決定された(垂憲録拾遺)。同年四月六日に定直は隠岐守と改めた(津田家記)。さらに預かり地である宇摩郡三六か村・一万三、五九一石八斗七升二合の地を、幕命によって返却することとなり、幕府の代官三田次郎右衛門にこれらの地を引き渡した。また幕命により、堀田正信の家臣堀江正通・天利源三左衛門ら一五人を預かることとになり、八月五日に藩士吉田十郎右衛門をはじめ歩卒数十人を、若狭国小浜まで派遣した。正信の家臣一行は、九月二五日に松山に着船した(垂憲録拾遺)。堀田正信は下総国佐倉一〇万石の城主であったが、万治三年(一六六〇)に、一通の諫書を老中に出して、江戸から佐倉へ無断で帰ってしまった。諫書には先の松平定政の述べたようなことが記してあったという。正信も狂気の沙汰として改易になり、弟の信州飯田城主脇坂安政に預けられた。寛文一二年(一六七二)に安政が播州竜野に転封になったので、小浜の酒井忠直に預けられた。しかし延宝五年に京都へ行き、清水寺と石清水八幡宮に参拝して、将軍家綱に継嗣の生まれるように祈願した。流人が勝手に上洛したというので、徳島の蜂須賀家へ預けがえされた。忠直は母方の叔父であったが、全く関係のない家へ移されたのは、正信の夫人が松平定行の女であったからである。この夫人が生んだ堀田正休は、後に上野吉井で一万石を与えられ、次いで近江宮川に移され、子孫は明治維新まで宮川にいた。
 天和元年(一六八一)九月一〇日、幕府から預かり中の堀田正信の家臣たちを家来として召し使ってもよい旨の伝達があった(松山年譜)。さて延宝五年閏一二月二六日に定直は従四位下に叙せられた(本藩譜)。
 翌延宝六年七月一八日に、暴風雨が松山地域を激しく襲来した。そのために、民家一、七九三軒が破損した。一一月二〇日に、かつて定行の隠居所であった東野茶屋の殿舎を取り除いた(本藩譜)。これらの建造物は極めて簡素なものであったので、破損も甚だしく、かつこれを維持するうえに、多大の費用を要したためであろうと想像される。

 財政補強策と定免制復活

 定直が藩主となった延宝二年以降、同三年の洪水、同六年の大風雨などの天災が相次ぎ、不作による歳入の減少によって、藩の経済は安定しなかった。そこで藩庁では、この窮状を打開するため、高内又七(親昌)を奉行に任命し、財政の補強工作を図らせた。又七はこの時勢を洞察し、歳入の確保を図る目的から、定免制に復帰する方針を立てた。
 ここで彼が最も留意した点は、まず前回に実施された中島又右衛門の定免制が失敗に終わった経過を追求したことである。その結果、彼は農民の負担の均衡と、生産意欲の向上とが、その背景に必要なことを痛感した。また天災の場合に、常に犠牲となる小農民の保護育成を図ることの重要性を意識したに相違ない。そこで彼は農村に地坪(地割)制を遂行して、まず人心の安定と農産物の増収とを図ることにした。
 さて地坪制度とは、村内における農地所有者の地積を記載した地坪水帳、または人別地寄帳を作っておき、これらの土地の肥瘠、位置の便否、水掛りの良否を参酌して、三等~九等の等級をつけ、これらの土地を数十~数千分に公平に配当し組み合わせ、大体において評価の一様な組地をつくる。その組地を大小によって、一鬮分・一軒分・一人前・一株などと称した。彼らは神前で異議を申し立てないとの誓約をし、旧所有高に相当する分の鬮を引き、公平に配分された土地を新たに所有することになった。そこで良田のみを持つもの、あるいは下田のみを持つものがなくなり、彼らの負担が均等化した。これが江戸時代に盛んに行われた土地割換制度であった。
 延宝七年二月九日に又七は「諸郡村々江可被申渡覚書」を頒布したが、その法令は二五か条にわたっているので、これを「新令二十五条」とも呼んでいる。彼は定免制実施に伴う利点をあげ、農民たちに対して啓蒙に努めた。彼は農民側の有利な点を、次の項目にまとめて明示した。それらの要項を列記しておこう。(1)定免制によると、従来の検見法に比較して、藩役人の送迎および饗応などの諸費用が不要となり、著しく農民の負担を軽減することができる。(2)松山藩の領域は大体瀬戸内の寡雨地帯に属し、灌漑用水を十分にまかなう大河川もなかったから、旱害に備えるために、池溝の設置は特に重要であった。又七は溜池の新設をしたのを始めとして、在来の池の修復・拡張に努力を傾けた。この新令の文中に池の数について数十か所と書かれているが、それらの名称が明記されていない。松山平野の溜池のなかで、彼の発意によって構築されたと伝えられるものがあり、『野間郡手鑑』によると、延宝六年(一六七八)以降に造られた池溝は一六か所もあり、これに協力した農民には、扶持麦を給与した記録がある。
 (3)次に、彼は村落の経費の節減を図り得ることを強調した。それは彼が延宝五年から同六年にかけて、村落の入費郡大割組割などに関する諸帳簿を検討したところ、郡によっては村落からの徴収額が八、〇〇〇俵~六、〇〇〇俵に及ぶ巨額であった。そこで彼は代官に命じて、これらの諸費用を具体的に検討させ、できる限り冗費の切り捨てに尽力させた。これらによって、農民の負担が著しく軽減され、たとえ定免制の実施で租率があがっても、収支決算すれば明らかに農民側の利益になることを明示した。(4)本田のうち荒廃した耕地の再開発を奨励し、成功した時は六か年の無税を約束した。この施策は彼の農村更生策の一環として注目された。(5)また彼は農民保護政策の一端として、進物米・請合米・拝借米などの支払いを夏期まで延長することにより、従来受けていた小農の労苦を是正した。(6)さらに彼は農村における村吏の応待、番所への出費、松山における大宿・月番に対する負担節減、あるいは麦・銀米の借用の場合の手続きの極端な簡素化を図った。
 要するに又七は、前記の新令において、検見法の欠陥を列挙し、それを実施するための村落の準備―経費と労力―の多いことを述べ、ことに稲作の収穫時すなわち農繁期に受ける彼らの損害、あるいは検見を待つため、収穫期を過ぎての風雨による減収、米穀の質の劣悪化、そのうえ麦まきの時期の延引などによる農村の打撃を指摘している。
 又七は延宝七年から定免制を実施する趣旨を述べ、増産のために農民の覚悟を促した。ここで注意すべきことは、定免制の利点を理解できないため、従来通りの検見を希望する村落には、定免制を強要することなく、検見の藩吏を派遣する旨を明らかにしている。また庄屋に対し、農民指導の心得として和順の精神を高唱し、屋敷内にも植樹して、彼らの生計の助けとなるよう付言している。

 地坪制実施の成果

 定免制の実施に当たって、現実には農民の間に抵抗もあったようで、地域によっては検見取のところも存在した。しかし、いったん定免制を実施した村落ではそれが歓迎され、ながく持続した。つぎに彼の農制改革の成果については、『却睡草』によると、奉行高内又七郡方を預りし節は、三万九、七六〇俵増で、惣納高三〇万二、五二〇俵余也、と記述され、また『右辺路道』には、延宝五年夫々御改の上、右入用併借用銀米合拾万俵余之分、或は年賦に相定り、又は其年切にも相払、元禄の始迄に、残らず返済したと書き、ともにこの政策が成功した旨を称讃している。後者の叙述には多少の誇張があったとしても、元禄初期までに借銀米の返済を完了したのであるから、財政補強工作は一応目的を達したと称してよいであろう。
 彼がどのような経過をたどって、定免制・地割制を確立するに至ったかは明らかでないが、いずれにしても延宝年間に実施された定免制の欠陥を克服する必要があり、彼が広範な準備工作のもとに遂行したことは、容易に想像される。彼の農事思想は、質素倹約の精神を農民に強制することによって、彼らの生活の維持を期待する伝統的な考え方に支えられた。この点は、この時代の為政者が普通にとった態度と変わらなかった。彼にはそれ以上に財政補強工作という重大な任務が課せられていて、まず藩庫の歳入の増加を図らなければならなかった。農政改革家としての彼は、村落の冗費の多い点に着眼し、その極端な節減を断行することによって、まず生活の安定を招来させようとした。ことに従来過重な賦課に苦しめられた下層農民に対する負担の軽減に、主力を注いだのも当然であろう。
 つぎに彼の留意したのは、藩政における綱紀の粛正と、農民の間における生産意欲の向上にあった。これらの点から考えると、彼にとって検見制は農村における秩序を乱す素因となるばかりでなく、収穫期に欠損を招く弊害の多いものと映ったに相違ない。それに代わった定免制をより一層効果あらしめるためにも、採りあげられたのが地割制であった。
 彼の実施した地割制について注目されるのは、従前の松山藩における検地の場合と同様に、六尺五寸竿が使用され、それが幕末に至るまでそのまま踏襲されていることである。もし彼が藩庫の増収を期するの余り、田畑の丈量に当たって、出畝を強行することは容易であったと思われる。彼が在来の農民の立場を考慮し、あえてこれに変更を加えなかったところを、特に重視すべきであろう。また地割制は早く宇和島藩に実施されていたから、恐らく彼はこれに重大な関心を寄せ、色々の角度から検討していたに相違ない。藩が異なるとはいえ、宇和島藩においてこの制が中絶したのに対し、松山藩で永く実施されたことも、興味ある事項といわなければならない。
 次に又七より遅れること半世紀後に活躍した有名な経済学者太宰春台(一六八〇~一七四七)は『経済録』を著し、その中で定免制を検見制に比し、最善の方策として推賞している。彼は検見役人を待遇する酒食の厚薄、進物の多寡が免の決定に重要な影響を与える点をあげて、それにともなう農民の負担の過重、検見に赴く藩吏の腐敗堕落をあげて、その弊害を極論するとともに、定免制が農民に利益の多いことを力説している。この『経済録』が書かれるのが享保一四年(一七二九)であるから、それより五〇年も早く又七が定免制に確信を持ち、これを推進したことは注目してよいであろう。
 すでに触れたように、又七は定免制・地割制を藩の全領域に強制したのではなかった。したがって、彼の農政改革が藩領域の隅々まで画一的に徹底したとはいい難い。幕藩体制下にある現実面からすれば、彼の対農村政策には長所もあれば、また欠陥が生じたことも否定できないであろう。ことに地割制が時代の推移によって次第に形骸化し、地域によりその本質を失ったことも、見逃してはならないと思う。

 波止浜塩田の構築

 天和元年(一六八一)六月二六日、幕命によって越後高田城主二五万石松平光長を預かることとなった。光長の一行は京極備中守に警備されて、七月一日江戸を出発し、八月一日いったん松山城の三ノ丸に入り、翌二年三月に城北にある北郭に移った。一行は家来三八人、雑兵四〇〇人からなる大勢であった(津田家記)ので、幕府では翌年から光長一行を預ける間、配所米として宇摩郡で一万俵分を松山藩に渡した(本藩譜)。光長はそれから六年のちの貞享四年(一六八七)一〇月二四日に赦免となったので、藩庁では翌一一月二五日に家老奥平貞胤・番頭松下八郎右衛門らに命じ、歩卒一〇〇余人を率いて送還の警戒に当たらせた。一行は一二月一五日無事に彼らを、江戸に送り届けた(予松御代鑑)。
 これよりさき、天和二年一一月二八日に、江戸三田の中屋敷が類焼した(津田家記)。この中屋敷の再建に対し、家中をはじめ軽輩の面々、また郷町の有力者たちから献金する旨の議がおこり、集められた銀局は五〇貫目に達した。しかし翌天和三年(一六八三)一月四日に、定直はこれによって彼らの家計がますます苦しくなるから、献金を受け付けない旨を家臣に通達した(垂憲録拾遺)。
 次に注目されるのは、野間郡波止浜塩田が開発されたことであった。この地域は来島の南方にあたり、箱潟と呼ぶ遠浅の干潟があった。同郡波方村の浦手役長谷部九兵衛義秀がこれに着眼し、延宝九年(一六八一)二月に同村長谷から高部村にわたる海岸一帯に堤防を築いて塩田を設置しようと、郡奉行園田藤太夫成連に願い出た。定直はこれを聞き、その実現を図るために、義秀に命じ安芸国竹原に赴かせ、食塩製造の方法を習得させた。義秀は苦心の末、製法を会得して帰郷したので、定直は同年九月に公許し、さらに義秀の願望によって野間・越智・桑村の諸郡の農民を動員することを許可した。定直は成連に塩田に関する一切の事務を執らせ、天和三年一月から築造工事がはじめられた。
 成連は海岸の区域を二分し、義秀に北方、波方村元締めの佐賀兵左衛門に南方の工事をつかさどらせた。この工事に従事したものは、両者あわせで一、○八三人であった。同年三月に堤防の汐留工事が竣工した。定直は野間郡菊間浜村の長野某を食塩問屋としてこの地に移転させ、塩田関係者のために新たに寺院・修験道場を設置した。そのため従業者数も次第に増加し、成連の在職中に三三軒となった。その後、林源太兵衛が奉行となり、元禄四年(一六九一)までに一〇軒増加した。さらにその周辺に新田が開発され、これらの地域は波止浜・波方・高部・樋口の四村に分属された。
 四三軒の塩浜は、宝永二年(一七〇五)の整理統合によって三六軒となった。当時の面積は四〇町九反七畝一四歩、高五九一石七斗一升二合であった。波止浜塩田は、一軒当たりの面積は諸国の塩田とほぼ同程度であったが、生産性が高く、享保一一年(一七二六)の「竹原塩浜覚書」によれば、当時竹原に七二軒の塩浜があったが、その五割の軒数である波止浜が、竹原の七~八割の生産をあげているのにもかかわらず、運上銀は一〇貫目内外で竹原の四三貫目に比較すると異常に安かった。享保元年の領外売りは一四万八、五〇〇俵余で、代銀は一、四〇〇貫余であった。(竜神社文書)。
 貞享元年(一六八四)二月に、幕府から大名領地の朱印状改めの命令があり、感状および墨付については、家臣所持の分まですべて提出するよう申し渡された。藩庁では林弥五兵衛にこれらを集めて一八日に幕府に提出させ、一二月二七日に村岡安右衛門がこれらを松山に持ち帰り、各所有者に返付した(本藩譜)。これよりさき、六月八日に愛宕の下屋敷の工事が落成した(津田家記)。翌貞享二年(一六八五)閏二月七日に大三島宮浦の大山祇神社に五〇石の社領を寄進した。
 同年六月二日にポルトガル船が我が国の漂流民一二人(伊勢国出身)を乗せて、長崎に来航した。長崎奉行は直ちに幕府に報告するとともに、松山藩へもその旨を通告した。松山藩庁では佃杢之允に命じ、鉄砲一〇挺・弓五張・槍六筋・長熊手二本などを部下に持参させ、長崎の警備に助力させた(常憲院殿御実紀・垂憲録拾遺)。幕府は漂流民を受け取り、同国に対して再来を禁ずる旨を通告した。
 同年一二月四日に大地震があり、城郭の数箇所に被害があり、また道後温泉の湧出が一時とまった(津田家記)。貞享三年四月晦日に酒造業者からの願い出により、酒の価額について、来る五月から八月までの間、諸白一升を一匁、中酒を八分、下酒を六分とし、丑年一一月より翌年四月までは諸白八分、中酒六分、下酒五分とすることとなった(垂憲録拾遺)。七月に、江戸城大手門の番役を命じられた。
 貞享三年(一六八六)七月二九日に、堀之内三ノ丸へ居室を造営する願書を幕府に提出し、翌月一日にその許可を得ることができたので、直ちに建築に着手し、翌四年九月三日に落成した。同日定直は二ノ丸邸よりここに移り、家臣に対し祝儀の料理が給与された。この地は蒲生時代に外池備中の屋敷跡で、岡田五左衛門の宅のあったところであった。一二月二三日に、藩庁は者頭級の生計が困難となったので、二五〇石に当たる役料を給与し、徒士頭六人・目付八人の役料を二〇俵とした(垂憲録拾遺)。

 儒学の勃興

 定直は将軍徳川綱吉の影響を受けること多く、積極的に儒学の興隆をはかった。この時期は松山を中心とする地方文化の勃興期に当たり、あらゆる方面に目ざましい発展が見られた。その誘因は、藩主自身が率先して学問を愛好したことであって、儒学をはじめとして神道・俳諧が盛んとなった。貞享二年に、岳父稲葉正通(小田原城主)の斡旋によって南学で有名な大高坂芝山(一六四六~一七一二)を白銀一〇〇枚、三〇人扶持で召し抱え、学問の振興に着手した。芝山は土佐国の人で名を秀明、字を清介といい、はじめ姉の夫であった谷一斎に南学を学んだ。一斎は朱子南学の祖といわれた南村梅軒のあとをついた谷時中の子であった。したがって、芝山は南学の正系を継承した人で、江戸では稲葉正通に仕えたことがあった。彼は『南学伝』を著して、学統を明確にするとともに、また悲憤慷慨の士であって、『適従録』を著して山崎闇斎・伊藤仁斎・木下順庵らを忌憚なく批判・排斥し、ひいては時弊を痛烈に論難して、その名を知られた。彼は正徳三年(一七一三)五月に江戸で、六七歳で没した。芝山の子義明、孫延年も松山藩に仕えたから、同氏一族の藩文化の向上に尽くした功績は大きかった。
 芝山の妻成瀬維佐も、『唐錦』などを著して、儒教の普及に貢献するところ少なくなかった。彼女は阿波の人成瀬忠重の女であって、小田原城主稲葉正通の女(亀ノ方さらに松ノ上と称し、のち正心院夫人と呼ぶ)に仕えた。亀ノ方が延宝八年(一六八〇)九月に松平定直に嫁したので、維佐も松山に随従し、夫人に侍した。『唐錦』 一三巻は、春の巻・夏の巻・中央の巻・秋の巻・冬の巻に分かれ、そのうち女則九章は、さきに仕えた稲葉正通の命によりつくったものという。また『装束抄』 一巻・『姿見』 一巻は正心院夫人の問に答えたもの、『古教訓』 一巻は芝山の命により編集したもの、『柳桜集』四巻は正通ならびに正心院夫人のために作成し、『写絵』 一巻は正心院夫人の死後にその生前を追憶して書かれたものと伝えられる。なお『唐錦』は江戸時代に編集された女訓のうちで、最も完備されたものと
評価された。

 神道思想の影響

 次に注目すべきは、貞享四年に大山為起(一六五〇~一七一三)を京都稲荷神社から招いたことである。彼は山崎闇斎に唯一神道を学んだが、のちに国学四大人の一なる荷田春満の師となった人である。彼は松山の味酒神社(阿沼美神社)の神職を勤め、この地に居住すること二五年の長い期間に、多数の門弟子に山崎学および垂加流神道を鼓吹し、地方の学界に一新生面を開いた。彼の指導によって、寺院に隷属していた神社がそれから離脱し、独自の道を歩むこととなった。彼は『味酒講記』五五巻のほかに『神名帳比古保』 一五巻・『稲荷私記』 一五巻・『賢木葉集』 三巻・『職原抄玉綴』 九巻・『天孫牢記』 二九巻・『神人母鑑』 四巻・『古語拾遺私考』 二巻などの著書があった。彼は多数の門弟を養成し、玉井将監・烏谷近江・玉井能登・島谷信濃・玉井豊後らが輩出した。
 彼が神道の鼓吹に努めたことは、『松山藩譜』のなかに、元禄三年(一六九〇)三月二四日三ノ丸で書紀神代巻の講義を始めたとの記事、職原抄の講義をした記録などによって推察することができる。彼は晩年に京都に帰り、五条問屋町音羽橋の近くに草庵を結び、葦水と称して悠々自適の生活を送り、正徳三年(一七一三)一二月に六三歳で逝去した。

 大月履斎の活躍

 定直は元禄五年以降、将軍綱吉の講書を聴聞する機会が多かった。この環境が定直の朱子学への情熱をますます高くしていった。この当時、松山には堀河学派の伊藤太助・中村喜左衛門や、彼らと見解を異にする和田茂助がいたが、正徳五年に崎門派の大月履斎を二〇人扶持(およそ一〇〇石の知行士の実収に相当する)で採用した。履斎は名を吉廸、字を正蔵といい、大洲の人であって(欽慕録)、崎門の俊傑浅見絅斎の門に学んだ。松山に来た彼は、国用に役立つ家臣を養成する必要を力説し(却睡草)、地方の儒学界に清新の気風を与えた。かつ優秀な子弟三戸新兵衛・松田通居(東門)・小倉正信(勇助)・片山省斎らを養成した業績は、偉大なものがあった。
 ことに彼は『燕居偶筆』を著して、米価調節の必要性を論議し、米一石銀六〇目(大体当時の一両)を目標とし、当局者の買い上げと売り出しの操作によって米価を調整し、民心を安定すべきであると主張した。このころ米価については、伊藤東涯が『東涯漫筆』の中で「穀貴に傷むものは小民なり、穀賤に傷むものは大農・仕官の家なり」といい、太宰春台が『経済録』の中で、「米価貴ければ士人悦び、米価賤ければ士人困る」と述べているが、米価をいくらに定めるべきかについては具体的な提言がない。それらと比較すると、履斎の論議は理論的に終わることなく、はるかに具体性を持ったものと評価される。藩庁が彼の説をどのようにとりあげ、実際の米価をどのように定めたかは明らかでないが、その所説は高い妥当性を持つものであった。少なくとも、米塩を語るを避けた世論と異なっていたことは、経済に極めて明るかった彼の態度によって理解できるであろう。彼ののちに活躍した松山藩儒官宮原竜山は、履斎を評して「その論は痛切にして愷実、みな世の宿弊にあたり、その言は俚なりといえども、その慮甚だ遠し」と称讃している。
 また貞享四年(一六八七)一二月には、定直の命によって、城北の地に黄檗宗の千秋寺が創建された(予松御代鑑)。この寺は中国僧即非を勧請開山とし、その高弟の千呆が第一世、別峰が第二世、大休が第三世となった名刹で、伽藍は大雄宝殿をはじめ中国風の異彩を放った豪華なもので「松山に過ぎたるものの一つ」と評価された。定直はこの寺に、和気郡のうちで新田五〇石を寄進した。

 元禄俳諧の展開

 すでに俳諧は、初代松平定行の時、松永貞徳の直門の秦一景が松山に現れている。一景は初め桑名にいたが、定行の松山就封とともに移住した豪商の一人で、屋号を楠屋と称した。その後、談林派の岡西惟中や、大淀三千風らが伊予国を遍歴して松山に滞在し、俳諧を唱導した。
 定直自身も俳諧を愛好し、壮年のころに蕉門の双璧と称された宝井其角の門に入った。その当時、芭蕉は健在であったが、諸国に行脚に出ることが多かったので、其角の門をたたくことになったのであろう。彼は三嘯・橘山・日進堂と号し、単に其角について俳諧に精進しただけでなく、しばしば服部嵐雪・水間沾徳らを藩邸に招き、また軽輩とも膝を並べて句作に耽った。定直が松山藩主の地位にあったこと、および参勤交代のために江戸・松山間を往来したことが、いかに地方の俳壇に好影響を与えたかは、私たちの想像以上のものがあったに相違ない。
 三嘯とほとんど時を同じくして活躍した俳人に、久松粛山(一六五二~一七〇六)と青地彫棠(一七一三逝去)とがある。前者は名を庄右衛門貞知といい、定直の信任が厚く、その世子の万之助定仲の傅に選ばれて江戸詰となり、のち家老代理を命じられ、藩政に貢献した。彼も其角の門に入り、のち転じて芭蕉の教えを受け、中央俳壇の新鮮な空気に触れたことは、注目すべき事項であろう。芭蕉が「奥の細道」の旅を終えて入京した元禄四年(一六九一)に、粛山は烏角巾を贈ったことがあった。また粛山は狩野探雪の描いた琴・笙・太鼓の画幅を私有し、その賛を芭蕉・其角・素堂に求めたことがあった。この画幅は三幅対からなっていて、それに三大家が賛をした逸品で、「俳諧三尊画賛」と称された。
 彫棠は名を伊織といい、常府の医官であったから、其角に接する機会が多く、その師および粛山と両吟している。其角と交情が深かったことは、彼の句が『其角全集』に多いことから推察される。

 赤穂浪士の松山藩預かり

 元禄一五年に大石良雄ら四七人の赤穂藩浪士が、主君浅野長矩の仇吉良義央をその邸に襲撃して、これをたおした。
 幕府はこれらの浪士たちを、松山藩主松平定直・熊本藩主細川綱利・長府藩主毛利綱元・岡崎藩主岡崎忠之の四家の江戸藩邸に預けた。そのうち松山藩邸で預かったのは、部屋住の大石主税良金、馬廻二〇〇石の堀部安兵衛武庸、祐筆一〇〇石の中村勘助正辰、馬廻一〇〇石の菅谷半之丞政利、一〇〇石の不破数右衛門正種、御絵図役一五〇石の木村岡右衛門貞行、一〇〇石の千馬三郎兵衛光忠、二〇〇石の岡野金右衛門包秀、国庫奉行十両三人扶持外五石の貝賀弥左衛門友信、膳番二〇石五人扶持の大高源吾忠雄らの一〇人であった(久松家赤穂御預人始末記・浅野内匠守家来松平隠岐守江御預け一件)。
 松山藩でははじめ浪士を芝愛宕下の本邸に迎えたが、翌日一行を三田の中屋敷に移した。彼らが翌一六年二月四日に、幕命によって藩邸で自刃するまで、藩庁はつねに彼らに同情の念をもって厚遇した。この間の浪士の動静は、定直の筆になる『吉良浅野一条聞書』と、松山藩士波賀朝栄によって書かれた『波賀清大夫朝栄覚書』と、『松平隠岐守殿江御預け一件』などに詳細に記載され、ともに赤穂浪士研究の重要な史料となっている。
 『吉良浅野一条聞書』は江戸城における刃傷事件から復讐に至るまでの経過を、定直自身が浪士一〇人について直接に聞いて、筆録したものである。『波賀清大夫朝栄覚書』は徒士目付をつとめ、剛直謹厳で名を知られた朝栄が浪士の接待に当たりながら、彼らの動静と松山藩の待遇の状況とを綿密に書き留めたものである。

図2-5 波止浜塩田開発推移図

図2-5 波止浜塩田開発推移図