データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

四 享保の大飢饉と松山藩の惨状

 飢饉の原因と当時の社会

 徳川家康が覇権を掌握して以来、二六〇余年にわたる江戸時代が、天災地変の少なくない期間であったことは、広く史家の認めるところである。慶長以来、明治に至るまでの飢饉は、小鹿島果著『日本災異志』(飢饉の部)によると、三五回の多数にのぼっているが、その被害の最も激甚であったのは、享保・天明・天保の三大飢饉であった。
 この江戸時代において、飢饉の頻発した原因を考察すると、その直接の誘因が古くから称された蝗害・旱魃・風害、および霖雨などの自然現象によることは論ずまでもない。ここに注意すべきは、現代と著しく異なる徳川氏を中心とする封建社会の情勢が、この天災に至大な影響を与えていることである。従って、私たちは飢饉を誘発した諸原因を、単に自然現象のみによる天災の勃発にとどめないで、これを広範囲に観察しなければならない。
 まず第一に留意すべきは、江戸時代の農民の生活が、経済的に窮迫していたことである。それは幕府の治農政策が自己の財政経済の根底となる農業を尊重しながらも、徳川氏を中心とする封建社会を維持するため、階級制度を厳守させ、かつ農民を貧窮ならしめたことに起因する。『徳川禁令考』によると、農民は彼らの生活上にいろいろの制限・圧迫を受けているが、さらに課税の負担が甚だ過重であったことは、本居宣長の『玉くしげ別本』をはじめ同時代の諸学者の著書のなかに、明確に指摘されているから、論議を要しないであろう。そのうえ、天下の泰平が続いて、世運が進展するにしたがい、農民の生活が次第に向上するとともに、その経費はますます膨張し、彼らが困窮におちいる結果となった。農民がもし不幸にも貪欲な役人にあうと、課税などの誅求に追われ、終始悲惨な生活を送らなければならなかったことは、熊沢蕃山の著した『集義外書』に書かれている。
 さらに飢饉を一層深刻に、かつその惨状を悲痛にさせたものは、津留であった。江戸時代において、諸侯は自己の藩内の経済的な事情――物価の調節、ならびに自国産業の保護など――から、他藩への移出入を制限し、あるいは禁圧した。これを津留と称したが、諸侯は天災が襲来すると、自国領内の物資、ことに米穀の積み出し・輸送を禁じた。飢饉の災害の甚だしい地方では、この津留によって、他国からの救助の道が絶たれる結果となった。
 この津留に関連して記すべきことは、当時の交通が甚だ不便であったことである。もし、一地方に飢饉が勃発すると、交通の不便なために、幕府あるいは他藩からの応急策は、容易に実施できず、かつ救助の手が届かないうちに、多くの悲惨事を続出させる場合が多かった。
 このような諸原因――農民の経済的窮迫と津留、および交通の不便など――が複合化成して、いわゆる飢饉が将来することとなった。換言すると、この時代を通じて、農民の間に宿命的に潜在した前述の禍根が、飢饉という大惨事を引き起こしたのは、天災地変の襲来によってであった。要するに、当時の農村の状態は貧窮を極めていたから、ひとたび凶荒にあうと、農民は危機に瀕し餓死者が野に満つる惨状を呈したのも、当然の帰結といわなければならない。

 享保一七年の藩内の災害

 近世史上、三大飢饉の一と称される享保の大飢饉は、霖雨と蝗害とによる凶作に起因するものであって、その災害は享保一七年(一七三二)から翌一八年に及び、主として西海・山陽・南海道などの諸国に甚だしかった。『日本災異志』(飢饉の部)によると、諸侯の領国中で、損毛半額以上のものは四六藩であって、これらの藩の収穫高五か年間の平均による一か年の概算が二三六万二、三九七石五斗三升九合八勺余であるのに対して、同一七年の収穫高は、わずかに六二万八、一〇七石四斗九升四合八勺に過ぎなかった。米の収穫の激減は、米価の騰貴を引き起こしたのみならず、さらに悲惨な事件を起こした。前掲書によると、全国の被害者数は二六四万六、〇二〇人で、餓死者は一万二、〇七二人に及んでいる。
 つぎに、この当時の松山藩内の飢饉の様子について、郷土の史料を中心として述べてみよう。松山地方では、同一七年五月二〇日ころから、天候が不順となって霖雨が続いた。そのために松山藩内を貫流する重信川(東三方が森に源を発し、今出浜に出て海に注ぐ)、およびその支流の石手川(湯山より発し松山の南方を流れ、出合で重信川に合流する)をはじめ諸川が増水して、閏五月一〇日ころには氾濫し、交通が途絶したのみならず、その流域の住民を脅かしたことは、松山藩士の旧記「西岡家記」に記述されている。
 この天候は七月上旬まで依然として晴れ間を見せず、なお雨が降り続いたので、同月中旬にすでに稲作の中には腐敗するものもあり、やがて枯死しようとする状態であった。そのため領分内の収穫は「皆無と相見え」、そのために町方なども騒動し、人心動揺の兆しさえ現れはじめた(西岡家記)。
 この水害による凶作のうえ、さらに農民の生活をますます窮地に陥れたものは、蝗害すなわちうんかの発生による災害であった。うんかはすでにこの年の六月以来、田畑に繁殖しはじめたので、藩庁にあってもまた農民側においても、死力を尽くしてその発生を防止しようと計った。道後の八幡宮、すなわち伊佐爾波神社、および味酒社、すなわち阿沼美神社をはじめ、付近の神社・仏閣において祈禱が行われ、連日うんかを駆逐するために、太鼓やかねで虫送りが挙行されたのもこの間の出来事であった(東雲神社旧記)。しかし、その効果もなく、うんかはますます猛威を振るい、稲作のみならず、雑草まで食い尽くすに至った。
 なお、この時の蝗害の素因をなした稲虫が何であったかについて、諸学者の間に多少の論議があるけれども、松山地方における諸記録を参照すると、この時の蝗害は全くうんかによるものであったことが立証される。それは、旧松山藩士の新藤家に伝わる当時の古記録、および「増田家記」のなかに、。〝浮塵子〟と明記し、松山市東雲神社所蔵の旧記によると〝雲蚊〟の文字をあて、この当時の文献「免租記録」に〝雲霞〟の文字を使用し、「御先祖由来記」および「味酒社日記」には、共に〝うんか〟と記載し、新藤尚盛(松山藩士、歌人)の家に伝えられた『松山城主御代々様御事跡略』の中にも、当年浮塵子(ウンカ)云々の語句があることによって、明瞭にすることができる。
 この蝗害にあった松山藩のうちで、最も災害の激しかったのは、伊予郡筒井村(現伊予郡松前町)付近であり、野に一草も見ることのできないほどの惨状を現出した。食糧の欠乏に苦しんだ農民は、わずかに貯蔵されていた雑穀によって、麦飯・粟飯・大根飯などを炊き、あるいは葛の根・楡の葉・糠の類などを米穀の代用食として、ようやく飢えを忍ぶありさまであった(西岡家記)。
 収穫皆無のために飢餓に瀕した農民の中には、路頭に食を求めて放浪するものも少なくなかった。ことに被害の最も甚だしかった伊予郡では、城下町松山に多人数打ち連れて、袖乞いをするものがますます増加した。また一〇〇人ばかりの飢民が松山の米屋の戸を破って乱入したほどであった。松山藩庁においては、この米騒動に対し禁令を発して、その取り締まりを断行した(西岡家記)。

 諸物価の騰貴

 享保一七年(一七三二)における農産物の欠乏は、さらに諸物価、ことに穀類の価額の騰貴を引き起こし、飢民を窮迫の極に呻吟させる結果となった。「味酒社日記」によると、同年七月のはじめすでに物価は騰貴して、二俵の値段は米が六〇目、白麦が一二五匁、小麦が一二○匁、荒麦が一〇〇目、大豆が一〇九匁となっている。前項に述べたように、松山藩ではこれよりさき享保一四年五月に米穀二俵の値を二四~二五匁と発表し、酒・豆腐などの日用品の値を二割引とし、職人の賃金に統制を加えている(西岡家記)。ところが穀類は暴騰を続け、同一七年一一月五日に至り、米が五五〇目、大豆が六五〇匁、小豆が七〇〇目に及び、つい『味酒社日記』の筆者をして、前代未聞の価也と叫ばしめるに至った。
 この当時の米穀の価額を平年のそれに比較すると、逸見佐平氏の調査によれば、松山の相場において玄米二俵の平均の価が、享保一五年は三三匁、同一六年は二八、九匁であったが、翌一七年には三二五匁に達し、ここにその前年の一〇倍に余る暴騰を表示した。
 農産物の収穫皆無と、諸物価の騰貴とは、ここに餓死者を出す悲惨事を招いた。飢餓に迫った農民はわずかに松山藩の救済策を待つだけとなったが、その対策は意のままにならず、町村の辻々に餓死者の放棄される惨状となった(御先祖由来記)。
 なお鈴木正良の著「農喩」の中に、この当時の松山藩内の惨状を見た僧正山(松山の人)の談として、一挿話を記している。それによると、藩領内に「衣類を始め身のまはり腰のものに至るまで美々しくて、なみなみならざる」ものが、金百両の大金を所持しながら、「餓を凌ぐべき僅か一飯の」食料を得ることができなかったため、斃死したことを述べている。この談話は、多少の潤色があるとしても、当時の状況を知る参考資料となるであろう。
 松山藩内の餓死者の数を考察すると、同年一一月二九日に幕府へ届け出の分のみでも、男二、二一三人、女一、二七六人、合計三、四八九人、斃馬一、四〇三匹、斃牛一、六九四匹の多きに達している(垂憲録拾遺)。
 なお松山藩士の安井煕載(右内)の随筆である『却睡草』によると、享保の大飢饉を通じて、松山藩内での餓死者を四、七八九人と記録しており、また幕府が編集した『虫付損毛留書』には五、七〇五人と記されている。松山藩の餓死者の数を、全国(山陽・南海・西海道地方)のそれの一万二、〇七二人(『日本災異志』)に比較すると、その数のあまりに多いのに驚くであろう(ただし、全国の餓死者数は、史料によって非常な相違がある)。また同書によると、南海道方面における餓死人五、八一八人、死畜(牛・馬)二、三五三頭とあるので、松山藩の災害を回顧した時、いかにその惨状が激甚であったかを、想見することができる。なお、死畜の数は南海道全体よりも、松山藩一藩のみの被害数が多い。ここにいろいろの疑問を生ずるけれども、交通が不便であり、かつ現今のように調査の精密を期し得なかった当時のことであるから、この数字に拘泥することなく、松山地方の災害の史実に心すべきであろう。

 享保の凶荒救済策

 この大飢饉の勃発に際し、実施された松山藩の救済策について考察する。これらの対策は、これを広義に解して災害の勃発前より講究された備荒貯蓄と、天災の襲来後に採用された救済策とに大別される。
 たまたまこの大飢饉にあい、当局者として、またその救済事業の責任者として枢要の地位にあったのは、藩主松平定英であった。この時の藩当局者の苦心は、想像以上のものがあった。すでに述べたように、松山地方は享保年間における凶荒の最も甚だしかった地域に属し、霖雨に続く蝗害によって、農作の収穫は皆無であったから、米穀の最も尊重されたこの時期において、その対策はいろいろな方法によらなければならなかった。
 まずその救済事業の第一にあげられるのは、救済に必要な米穀類の確保であった。享保一七年(一七三二)七月二〇日に至り、藩当局者は武士に対して給与する俸禄の制限令を断行し、家中に対して人数扶持の沙汰(資近上一-52)があった。人数扶持とは藩士一戸の家族数を調査し、一人当たりの供給穀類の量を一定し、その割合に応じてこれらを与える制度であった。藩士は経費の節約を行うとともに、生活の合理化を計り、この難局を切り抜けなければならなかった。なお注意すべきは、人数扶持の実施された場合が、すべてこの目的によったのではないが、同一七年におけるそれは、米穀の確保にあったと断じても過言ではないであろう。
 つぎに、藩当局による救助米および賑救品の分与による応急策であった。これらは飢餓に瀕していた庶民にとって、どのくらい待望されたことであろう。前に述べたように、凶作による米価の騰貴は、穀類の売買を不可能としたので、松山藩ではその救済策として、町方に対し「其町組々へ家門高にて、一人前八勺程」ずつを支給した(味酒社日記)。しかし、松山藩にあっては、のちに述べるように、藩当局者の飢饉の軽視、交通の不便および穀類の不足などによって、これらの対策が完全に施行されない以前に、悲惨な事態が続出することになった。しかし、これらによって享保の大飢饉に、松山藩が拱手傍観したと考えることは早計であって、この間に実施された救済方法について検討することを忘れてはならない。
 松山藩はこの惨状を重大視し、同年の末に至るまで、一日に飢人へ三勺六才ずつの穀物を給したが、翌一八年元旦より五勺に、さらに一月六日よりは一合ずつ給与した(西岡家記)。この記事は久米郡に関するものであって、他の地方の分については、記録の残存しているものがないから、明瞭を欠く。しかし、松山藩の救済策実施の状態を検討すると、久米郡のみに行われたと考えることはできないから、おそらく前述の救助米の頒与は、藩全体にわたったものと解すべきであろう。その後も引き続き、藩庁では時期に応じて、米穀の賑恤を行ったことは、「西岡家記」をはじめ種々の文書に見える。
 この応急策に関連してあげなげればならないのは、これよりさき七月一二日に米穀の代用食ともいかれる雑食の原料となる野菜・大根・蕎麦などの植え付けを農民の自由として、その増産の奨励に当たったことである。また賑恤品も、頒与を見ることとなり、翌一八年一月四日には松山藩領の各郡に対し、塩・味噌および薪用の材木などが、一〇月一一日は塩・あらめなどが、さらに同月二六日には神馬草・ひじき・ひえ・小粕・芋のくき・醤油の実・糠・漆の実などが、同月二八日には薭・醤油・糠・漆の実などが支給された(西岡家記)。これらの賑恤品の頒与された状況を見ると、大飢饉勃発の翌年に多く実施されたのは、一見不可思議に考えられるけれども、これによっていかにこの災害が各方面に甚大な影響を与えたかを察することができるのみならず、将来の凶荒に対する用意、あるいは増産の企図をも意味したものであろう。
 これらの救済策に使用された米穀の出所については、正確な史料がないために明瞭を欠くけれども、恐らく松山藩庁の貯蔵したもの、および後述する幕府の賑恤のための廻米、拝借金による米穀の購入、ならびに城詰米(ただしこの城詰米の使用は享保一八年以降)の融通等によったものと思われる(津田家記)。
 ここで考慮すべきは、藩庁の払い下げ米による庶民への救済策であった。この方法によって、藩当局者は廉価な米穀を購入させて、罹災民を救助したのみならず、その半面に穀物の欠乏による物価騰貴の調節に役立ったことが察せられる。享保一七年(一七三二)八月一一日すなわち被害の最も激しい時、松山藩は米が不自由で難渋していたものを救助しようとして、米穀の払い下げを断行した。その一例としておのおの三〇俵を伊予・和気の両郡に、二〇俵を浮穴・久米の両郡に払い下げた(西岡家記)。その際に高騰した米価の下落を計ろうとして、銀札一匁につき米穀五合と規定したのは、この間の消息を伝えたものである。
 つぎにあげられるのは、幕府からの拝借金による賑恤策である。幕府は同一七年九月に夥敷虫付損毛のあった西国・四国・中国筋の諸侯のうち、半物成以上不足の分――すなわち年貢の半分以上が減少した諸侯――へは、拝借金の貸与が行われた。この時の幕府の諸侯に対する拝借金の規定によると、松山藩は石高一五万石であったから、拝借金高は金一万二、〇〇〇両であって、その返還に際しては、翌々年から五年賦で上納するよう命じられた(資近上七-35・49)。なおこの拝借金は大坂において渡されることとなり、松山藩がこれを受けたことは、「津田家記」一〇月の条に「一万二千両 定英公へ」とあるから明瞭である。
 しかし、この時松山藩の借入した拝借金が、いかに使用されたかについては、いろいろの疑問を生ずる。それは、この当時執政の衝にあった奥平藤左衛門が翌一八年九月五日に、ついに役儀召放され、久万山へ蟄居を命じられたことであって、この当時の藩庁の記録によると、藤左衛門の罪責の一つとして、大坂において受け取った幕府の拝借金を平野屋五兵衛へ残らず渡したことをあげ、不調法の至りと評している(山内家記)点てある。したがって、この時の拝借金の使途ならびにその結果が時宜を得なかったことは明らかである。ところが、この間には政治問題が介在しているから、この史料によって直ちに拝借金が救済策に使用されず、ことごとく他に流用されたと断ずることは、軽率のそしりを免れないであろう。
 藩庁による救済策とともに、あげておかなげればならないのは、民間に行われた救援策であって、幕府はこれを友救と称して、その勧誘に当たったことである。松山藩では、生活に多少の余裕あるものが、穀類などを飢民に賑恤した。久米郡鷹ノ子村の農夫平左衛門、および五左衛門は飢饉勃発以来、翌年の収穫のあるまで、同村の飢人に大豆・蕎麦などを給与し、また久米郡古川村の勘右衛門という農夫は、同村の難渋した者に、一日につき大麦五勺ずつ救与している(西岡家記)。藩当局はこれらの農民が、藩の救済事業に協力したことを大いに賞揚した。民間に行われた小規模の救恤策も、決して等閑視することができないのであって、このほかにおそらく記録に載らなかった無名の士の功徳も、また多かったことであろう。

 免租及び負債免除

 つぎに、救済策の一つとして間接的に相当の効果をあげたものは、免租ならびに負債免除であった。松山藩庁においては、凶荒以来役人を派遣して実地検分を行い、その被害状況の調査を怠らなかった。ことに、享保一八年(一七三三)一月には家老の久松庄右衛門らの巡回見分が行われ、その救済状態の点検のみならず、凶荒による被害の再調査――その状況によって大痛、中痛に区分した――があった。この時藩吏に対し、被害者のうち着物も無く、または着物が薄く、寒気に堪え兼ねているものを取り調べ、かつ飢人に給与された品物の分量、および員数などを吟味するよう指令している。
 ところが、同月二三日になり、藩庁から免租、および負債免除の令が発せられた。この令の概要を考察すると、享保一七年の年貢は、村付けをもって仰せ出された分は取り立てることにし、その余の畑の年貢はことごとくこれを免除した(西岡家記)。その災害の最も激甚を極めた筒井村およびその付近は、全免であった(岡田徳右衛門文書)。またこの時の免租は、いろいろの方面にわたり、奉公人・寺社ならびに町方共屋敷などの上納残りの分もすべて包含された。負債の免除も相当広範囲に及んだようであって、各郡において拝借した穀物、ならびに金銭は一年借のものも、年賦償還のものも返済を解除された(西岡家記)。
 要するに、松山藩がとった救済事業は、被害者に対する直接の救恤策と、高騰した物価の抑制策とを併用したのであって、幕府のそれと呼応して施行された。しかし、大飢饉の猛威は、このような対策をもってしても、この難局を克服することは不可能であった。
 翻って、松山藩の救済策が予期した効果をあげ得なかった原因を探求すると、
 (1) 松山藩においては、慶長以来しばしば水害を受けた外、他に特筆するような天災の経験がなかった。そのため備荒貯蓄が不充分であったうえに、この享保年度の大飢饉も、そのはじめは軽視されがちであったこと。
 (2) したがって、その災害の激甚なことを予想するものもなく、かつその救済策も飢饉の勃発後に施行されたものが多かったから、その対策が自然に手遅れとなったこと、換言すると救済策の普及しないうちに、餓死者を輩出する結果となったこと。
 (3) あたかも藩主定英は享保の大飢饉勃発前に、参勤交代のために江戸に赴き、在国中の藩士との連絡が不充分であって、その処置の時宜を得なかったこと。
 (4) すでに述べたように、幕府からの拝借金の使途の不始末であったこと。
などをあげることができる。
 このように、松山藩にあっては大飢饉に対する救済策が思うような効果がなく、多数の餓死者を出すことになったので、享保一七年(一七三二)一二月に幕府から裁許不行届との理由のもとに、藩主定英は差控を命じられた(久松家系譜)。この問題はのちにいろいろの紛争を引き起こし、松山騒動として有名な久万山農民騒動の勃発の一因をつくった。

 義農作兵衛の事績

 後世に義農とうたわれた作兵衛は、元禄元年(一六八八)二月一〇日に、松山藩領の筒井村(現伊予郡松前町筒井)の一農夫の子として生まれた。資性は極めて温順恪勤で、若年のころからよくその業を励んだ。しかし家は貧困であって余財とてなく、わずかに他人の田畑を耕作して家計を営んでいる貧農に過ぎなかった。作兵衛は壮年のころに良縁を得て、妻を迎えた。妻(名を玉といったと伝えられる)は貞淑で、よく舅姑に仕え、専心家事にいそしみ、その後作兵衛との間に一男二女をもうけた。
 たまたま村中において高入れがあったので、作兵衛は大いに喜び、田畑八畝歩を買い入れようとして、その旨を庄屋八右衛門に申し出た。八右衛門は作兵衛の生計の逼迫した有り様を見て、その無謀なわけを懇諭した。しかし、彼はこれに屈する色もなく、かえって荒廃の地を鋤きかえして、増産の途をはかるのが、農夫たるものの責任であることを強調した。
 八右衛門もその義気に感じ、彼の希望をいれたので、作兵衛は大いに喜び、妻子とともに専心耕作に従事した。その結果、数年もたたないうちに予期した良田となり、村人を驚かせたのみならず、年貢・小物成を村民に率先して、納める有り様であった。
 作兵衛夫婦はますます精励し、夙夜怠るところがなかったので、四〇歳に達したころは、田地三反三畝歩を得たほか、小作地一反五畝歩を耕作して、近郷で模範の農夫と仰がれるようになった。しかし、彼の喜びも瞬時であって、妻は享保一六年(一七三一)七月一〇日に、わずかな疾患が因となって、ついに帰らぬ旅路に赴いた。今や内助の功の多かった妻を失った作兵衛の悲しみは、筆舌に尽くすことができなかった。
 こえて翌享保一七年五月より降りはじめた霖雨は、七月上旬までやまなかったが、その中旬に至り、凶作に運命づけられていた村民を恐怖させたのは、浮塵子が夥しく発生したことであった。浮塵子はますます猛威をふるい、稲をはじめ雑草に至るまで食い荒らすに至った。穀物の収穫はもとより皆無となり、この地方は茫々とした広野に、一点の青色すら見いだすことのできない有り様であった。窮民はわずかに貯蔵していた雑穀・葛根・糠類などを食して飢えを凌いだが、それさえなくなり、今や全く死を待つよりほかはなかった。ことに作兵衛の住んでいる筒井村は陰湿の地であるのみならず、付近の横田川・重信川が氾濫して、その被害はことのほか甚大であった。筒井村近郷の大智院・善正寺・妙寛寺・大念寺などの檀家内の餓死者は、実に八〇一人にもなった。
 九月に入って次第に涼しくなり、麦種をまく季節となったから、作兵衛は農夫としての職責を遂行しようと、悲痛な決意をした。作兵衛は飢餓のために、ともすれば倒れようとする身体を起こし、三歳の幼女を担って、田に出て耕作しようとしたが、疲労の極に達しており、たちまちその場に倒れた。作兵衛は隣人に助けられて、我が家に帰ることはできたけれども、麦袋を枕として臥し、気息奄々たる有り様であった。
 この様子を見た近隣の人々は、その袋の麦を食い余命を全うするように勧めた。作兵衛はにわかに眼を開き、「農は国の本であって、種子は農事の基である。今もし私一人がこの麦種を食して数日の生命をつなぎ得たとしても、来年の麦種をどこから得ることができるであろうか。我が身はたとえここに餓死しても、この麦種によって幾万人かの生命を全うすることは、もとより私の願うところである」といい終わって、四五歳を一期として逝去した。実に享保一七年(一七三二)九月二三日のことであって、あたか享保の大飢饉のまっただ中のできごとであった。作兵衛の死後間もなく、長女もわずかに年一六歳でその後を追い、幼女も相次いで死去した。この災厄に遭遇した作兵衛の一家は、全滅の悲運を見たのであった。