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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

七 松平定喬―定静の治世と御償新田

 延享―宝暦年間の災害

 享保の大飢饉以後における松山藩の農業の状況を眺めてみよう。享保一八年(一七三三)五月二一日に逝去した松平定英のあとを受けた第六代藩主定喬(一七一六~六三)の治世は、宝歴一三年(一七六三)に至る三一年間であった。大飢饉から八年後の寛保元年(一七四一)は、久万山農民騒動が起こり、同地域の農民が大洲領に逃散した時である。藩庁は、この年の風雨による損毛高を一万四、〇八三石余、その後の不熟五万四八六石余、合計六万四、五六九石余として届け出た(本藩譜)。定喬の治世の凶作は左表の通りである。
 寛保元年から宝暦七年にかけて、風水害の被害が三年に一回生じたわけであるから、藩財政に与えた打撃も甚大であったに相違ない。
 宝暦一三年(一七六三)三月一八日、定喬が急病にかかり、嫡男がなかったので、弟定功を養子にする旨幕府の許可を受けた。同月二一日定喬は四八歳で逝去し、遺骸は江戸芝の済海寺に葬られた。定功は五月一六日、定喬の遺領一五万石を継承することを認められた。同年九月、郡方に対して、無利息一〇年賦で借用米を支出しているのを見ると、定喬時代の連年にわたる凶作がいかに農民たちを窮乏させていたかがわかるであろう(増田家記)。
 定功の治世は、この年から明和二年(一七六五)にわたるわずか三か年間であった。この間における災害に関する記録は、史書に姿を現していない。

 松平定静の一万石上知

 定功が明和二年二月一一日逝去すると、松平定章(五代藩主定英の弟)の子の定静(一七二九~七九)が宗家を継いで第八代藩主となった。定静か分家から入って宗家を継いだため、分家である松山新田藩は廃止されることとなり、幕府から一万石を上知するよう命じられた。この一万石上知は松山藩が一五万石から一四万石に減少するという重大問題であった。
 支藩の消滅が宗藩である松山藩の石高減少を招くということである。この事柄を理解するためには、これより四五年前の、享保五年(一七二〇)に行われた松平定章への一万石分知事情を知る必要があろう。
 松山藩四代藩主定直は、三男の定英を後継者としたが、その弟定章に領内の新田一万石を分与する願望を持っていた。定章は定直の四男である。定直が享保五年一〇月に逝去した時、その遺志を幕府に願い出た結果、五代藩主定英に遺領一五万石の継承と同時に、定章に一万石を分知することが認められた(資近上二-6)。
 定章に分知された一万石は、特定の知行地はなく、蔵米で給与されていた。定章が延享四年(一七四七)に逝去すると、その子定静か遺領を継いだ。ところが、宗家では前述の通り男子がなかったので、定静が本家に入って松山藩主となった。定静は、定功の遺領一五万石を継承することを認められるとともに、分知の一万石を上知するよう申し渡された。この一万石分は蔵米で支給されていたのであるが、幕命で領地を返上することになったのである。
 藩庁では、分知の事情を説明して、一万石上知を回避すべく画策したが成功しなかった。そこで幕府の命令を実施するため、桑村郡のうち本田畑・新田あわせて五、三七一石余と越智郡のうちで四、六二八石余、合計一万石を上知することを申し出た(資近上二-9)。
 その領域は、桑村郡では高田・河原津・楠・中村・桑村・国安・宮内・大野・黒本・新市の各村であり、越智郡では桜井・長沢・孫兵衛作・旦・登畑・宮崎・朝倉下・朝倉上の各村であった。明和二年(一七六五)七月二二日これらの地域は、松山藩から幕府代官竹垣庄蔵に渡された(資近上二-9)。

 御償新田

 松山藩はこの一万石の上知によって、実質的に一四万石に領地が減少したわけであるから、領域内の村落における既開発の新田畑、及びこれから開発すべき田畑によって、その不足分を補充しなけければならなかった。
 明和七年(一七七〇)になって、領内の一〇郡三一七か村の本田畑を一四万八五五石七斗余とし、不足額九、一四四石二斗余を諸村における新田畑で生み出す方針を決定し、幕府に届け出て、同年五月一日に許可の朱印状が出された。この際不足分を補った田畑は、これ以後御償新田と称されることになった(資近上二-10)。
 この御償新田は、領内の一〇郡三一七か村のうち、一九五か村に割り当てられ、その合計高は九、一四四石となった。償い高の大きかった郡は、和気・伊予・野間・浮穴の四郡であった。

 定静時代の諸事件

 上知問題のほかに、定静の治世で特に留意すべき事件を掲げておこう。ただし藩政に関する特記事項は、次の「浅山勿斎の藩政改革案」で詳述する。
 明和五年一〇月二七日に、定静が江戸城へ赴いた節、老中阿部正右から、田安宗武の二男豊丸を養子にするようにとの指令があった。豊丸の弟定信はのちに老中となって寛政の改革を断行した。豊丸は一一月一四日定国と改め、翌六年五月江戸愛宕下屋敷へ移った。
 明和七年一二月二六日の夜、山手代町(のちの千舟町)足軽小頭の家から出火し、新立付近まで類焼したが、同夜北清水町からも火が出て、鉄砲屋町東詰まで延焼した。両者を合わせると、侍の家一一・徒士以下の家二九〇・町家六五〇・寺院二が被災するという、松山にとって最も大きい火事であった(増田家記)。
 朝廷では同年一一月に後桜町天皇が譲位し、後桃園天皇が継承した。翌八年四月二八日に即位大礼が執行されるので、定静は幕府から参内御使を勤めるよう命じられた。彼はそのため四月九日江戸を発して、京都に赴いた。定静は二八日、即位式の挙行される清涼殿に赴き、その後仙洞御所・女院御所・准后御所へも参上して、各所へ祝賀の進物を献上した(本藩譜)。同年六月二三日定静は溜間詰となった。
 定静は弛緩した藩士の綱紀を粛正するため、文武を奨励した。安永四年(一七七五)九月二一日、これよりのち一か月に三度、三ノ丸大書院で経書の講義が実施されることとなり、家中の頭分および殿中詰の諸上が聴講することとなった。この時、講師となったのは、堀河学派の松田東門(者頭)・尾崎訥斎(書簡役)・丹波南陵(同)、朱子学の佐藤道右衛門(勘太夫の子で常詰)らであった。またこの年には三津港に荷物専用の大廻船が進水し、また三津の塩田が完成して、三津元締片山三郎右衛門が庶務を掌握した(本藩譜)。

 人数扶持

 定静の治世には、家中への俸禄を削減したことが多かった。その最たるものが人数扶持である。明和二年七月藩主就任早々に人数扶持を命じている。これは天災に基づく措置ではなく、藩財政の困窮から発した応急策(一万石上知により減収となったことに対する対策)であったと思われる。この措置は翌年六月まで継続され、藩士は生活に窮した。そこで同四年七月、藩庁では家中救済のため、一〇〇石につき銭札二五〇目の割合で貸し付けを実施している。藩庁の困窮も甚だしく、明和四年(一七六七)一二月五日には、借金莫大による財政窮迫のために、同年七月から三か年間にわたり人数扶持を命じなければならなかった。
 安永五年(一七七六)定静は、一〇代将軍家治の日光社参の御供を務めた。財政難の松山藩にとって相当な負担であったと思われる。郷町に対しては、天災や不時の備えとして貯銀米を命じ、支配向番頭がこれを預かることとなった(本藩譜)。また、同八年から三か年間にわたる人数扶持の実施が予告された。しかしこの措置は布告のみにとどまり、藩士の生活が維持出来ないであろうとして人数扶持は中止された(資近上二-80)。これらを総合すると、藩財政の行き詰まりから人数扶持の措置に出たが、藩士の生活も困窮の極にあったと断ずることができる。

表二-5 定喬在任中の凶作

表二-5 定喬在任中の凶作


図2-7 上知された越智郡桜井地方(国土地理院5万分の1地形図、今治東部使用)

図2-7 上知された越智郡桜井地方(国土地理院5万分の1地形図、今治東部使用)


表二-6 諸郡御償新田畑

表二-6 諸郡御償新田畑