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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

九 社会経済の動揺

 天守閣焼失

 安永八年(一七七九)八月、定静逝去のあとをうけて、養子定国が九代藩主となった。定国は、田安宗武の二男であったが、明和五年(一七六八)幕命によって定静の養子となっていた。彼は養父定静の遺領一五万石の相続を承認され、安永八年九月一一日隠岐守、次いで一二月一五日には侍従に任ぜられた。
 定国は就封早々の安永九年一月一五日に、家中に対し同年七月から俸禄を七割渡しとすることを布達し、かつ一〇〇石につき銭札一貫目ずつ二〇年賦で貸し付け、賦札を家中貯銀として各々の番頭に預けることにさせた。また、同年暮れには一〇〇石につき米一〇俵ずつを給与し、武具の修理料に当てさせた。『本藩譜』によれば、これらの施策は先代の定静の遺志によって、奉行遠山新吾が断行したと述べている。時勢の推移によって藩士の生活が経済的に行き詰まっている状況を推察することができる。
 安永九年四月四日、松山藩預かり地である天領伊予郡南神崎村(現伊予市)一、五〇〇石余が、幕命によって大洲藩の領地に変更された。この時替地として大洲領忽那島(現中島町)の粟井・小浜両村と大浦村の大半が天領となった。
 天明三年(一七八三)八月一一日、大雨によって各地に被害があった。特に重信川が氾濫して伊予郡高柳村の堤防が約一〇〇間にわたって崩壊した(増田家記)。この大雨の被害は、二万四、九三〇石余であった。同年一一月一七日に老中の命によって、松山城詰米のうち六、八七二石を江戸の浅草御蔵へ納めるよう命じられた。
 翌四年元旦の真夜中に天守閣に落雷があり、そのため本丸の主要部分を焼失し、ようやく朝方になって鎮火した。この時、藩庁では煙硝蔵への類焼を恐れて、藩士たちを屋根に登らせて防火に当たらせた。この危険な状態を見た小出権之丞は、人こそ国中第一の宝である、と言って、彼らを煙硝蔵から立ち退かせた(資近世二-26)。また本壇(天守閣など本丸の主要な建物が集中しているところ)には将軍の判物が保管されており、焼失が憂慮されたが、無事に搬出することが出来た(垂憲録拾遺)。当時定国は三ノ丸邸に病臥中であったために、難を法竜寺に避け、翌朝に帰館した。その後、閏一月七日には河原町から出火し、足軽屋敷および町家およそ一〇〇軒を焼失している(本藩譜)。
 定国は本丸復興を決意し、元のままに再建したい旨を幕府に願い出て、六月二九日許可の奉書を得た。またさきの天守閣火災の事例を考慮した結果、判物などの重要書類は今後二ノ丸馬廻所へ、拝領の具足類は三ノ先大小姓番所へ置き、大小姓頭が保管の責任者となった(本藩譜)。この年は大火が多く、同年一二月一七日に竹之鼻町(のちの南夷子町)から出火し、足軽屋敷および町家一〇〇軒余を焼失した。

 農村の動揺

 天明五年夏は、旱魃のため不作となり、一万六、四二八石の損毛であった。翌六年一一月、浮穴郡直瀬村の農民が強訴を企てた。藩庁では奉行相田作左衛門・日下部太郎左衛門、目付白川佐々右衛門らを現地に出張させたが、解決に至らなかった。そこで家老水野佶左衛門(忠誠)が現地に赴いて直接農民たちを説諭したので、騒動はようやく鎮静した(本藩譜)。この農民騒動が起こった原因については、史料がないので不明であるが、事件直後に相田作左衛門が大小姓頭格、日下部太郎左衛門が奏者番次席に、白川佐々右衛門が馬廻番に、各更迭されているのを見ると、藩庁側の措置に欠陥があったためであると思われる。
 農民の不穏な動きは久米郡にも波及した。天明七年三月、久米郡日瀬里・来住両村の農民七四人が温泉郡立花村を通り、藩境を越えて伊予郡南神崎村(現伊予市)まで逃散した。この事件についても詳細は不明である。
 寛政元年(一七八九)一月四日、禁裏御所再建のため七七二両二歩を献納した。これは前年二月に御所と二条城が焼失したためである。次いで九月一五日、幕府より高一万石について五〇石の割合で、寛政二年(一七九〇)から同六年までの五年間、非常の備蓄用として囲米をするよう指令があった(増田家記)。
 翌二年夏は旱魃のため、七万四、五〇八石の損毛であった。同四年には七月二六日の大風雨のため凶作となり、損毛高は五万二、六〇九石余にのぼった(増田家記)。
 寛政五年一二月二三日に、松平定信・有馬頼貴と定国の三者の間で各の江戸屋敷の交換が行われ、定国は定信の巣鴨屋敷六、三五二坪を、頼貴は旧松山藩二本榎の下屋敷五、〇〇〇坪を、定信は頼貴の矢ノ倉邸を得た。
 寛政六年三月二日、定国は江戸を出て京都に赴いた。これはすでに前年一二月二日に、幕命によって一宮の入内に関する使者となっていたためであった。定国は一八日京都に着き、翌日参内して光格天皇に拝謁し、さらに中宮・仙洞・女院の各御所にも参上して、幕命を言上した。この時、彼は朝廷から少将に任ぜられる旨を伝達された。いっぽう藩庁では、翌七年七月家老に対して、年頭の五日および特定の日を除いて、八月一日から毎日出勤するよう指令があった(増田家記)。

 定国晩年の財政難

 寛政九年七月七日より一六日まで、大林寺(藩主松平家の菩提寺)において、信州長野善光寺如来の出開帳があり、一〇日間の参詣人は一六万六四三人、賽銭四六〇両に達した(増田家記)。
 同一〇年一二月二三日、山田五郎兵衛事件が発覚し、家老菅五郎左衛門ら要職の処分が明らかにされた。この事件は、岡厚斎(備中倉敷代官野口辰之助支配下)が府中町の三津屋孫兵衛を強迫して金銭をゆすった際、藩士の山田五郎兵衛がこれに加担したことに由来した。事件は露見し、五郎兵衛は吟味を受けた。この時、馬廻役の荒川猶右衛門・杉浦市郎右衛門・山野内喜内(喜六とも)らは、五郎兵衛を弁護する挙動に出て、彼らの上役を差し置いて、直接に家老菅五郎左衛門に刑罰を軽減するよう申し出た。裁決の結果、五郎左衛門と大名分の長沼吉兵衛は、その措置が不始末であったため下屋敷へ蟄居、荒川猶右衛門・杉浦市郎右衛門・山野内喜内らは共に久万山へ蟄居を命じられた。その外に処罰された者頭・馬廻らは五人であった(増田家記)。
 寛政一一年一〇月一五日、家中のうち生計困難な者が多いので、一〇〇石につき銭札五〇〇目の貸し付けが行われた。この年の損毛高は六万七、〇一五石であった(増田家記)。それから四年のちの享和三年(一八〇三)一月一九日に、藩の借財が四五万俵に達するという財政難のため、七月から三か年間家中への俸禄削減を強化し、五割渡しにする方針が明示された(本藩譜)。財政難に追い打ちをかけるように、同年八月九日夜、桑村郡壬生川村で火事があり、翌朝になってようやく鎮火したが、百姓家一〇九軒を焼失した(増田家記)。
 定国は晩年健康に恵まれず、文化元年(一八〇四)六月一六日江戸愛宕下邸で逝去し、済海寺に葬られた。同二五日、定国の三男立丸(はじめ辰丸、のち定則、当時一五歳)は、遺言に従い家督相続希望の旨を幕府に届け出た。同年八月二日、立丸は定国の遺領一五万石および松山城を継承し、譜代に列する旨を伝達されるとともに、定則と称することになった。

 定則の治世

 定則は文化元年から同六年に至るわずかに六か年藩主の職にあった。彼の治世における主要事項は次の通りである。文化元年一二月に、幕命によって一万石につき、囲籾千俵の割合で備蓄するようにとの指令があった。したがって、松山藩では一万五、〇〇〇俵を留保して非常時に備えることとなった。
 翌文化二年六月二三日、幕命によって東海道筋に沿う甲斐・美濃・伊勢・尾張の各国にある河川の改修工事に従事した。この時相役で勤務したのは、松平大和守・小笠原伊予守・奥平大膳大夫・中川修理大夫・松平大隅守・岡部大膳らであった。それについての出費と、文化元年の損毛が三万六、〇五八石に達したこともあって、さきの貯蔵米のうち、二、六二五石を割いて、これに充てるよう幕府に願い出て文化二年(一八〇五)二月一七日にその許可を得ることができた(本藩譜)。またさきの河川普請についての上納金一万八、五二四両一歩と永二〇五文のうち、八月下旬に五、〇〇〇両、九月下旬に六、〇〇〇両、一一月下旬までにその残りの七、五二四両と永二〇五文を納付することとなった。それに関連して、文化二年一〇月二三日、藩庁では川普請の出費が多いため、本年の囲籾の不可能な旨を幕府に願い出て、その許可を得ることが出来た(本藩譜)。同年一二月一日、川普請の完了によって、幕府から定国に時服、総奉行の遠山三郎左衛門、副奉行鈴木幸右衛門、普請奉行皆川武大夫、山中設楽ほか五名に賞与を給された。同日藩庁は家中に対し、一〇〇石につき一〇俵を取替(貸し付け)の名儀で支給したが、のち返却の必要がない由を通知した(増田家記)。
 文化三年四月二五日、藩庁は俸禄を七割渡しとすることを通達した。この年は、夏に旱魃があり、損毛は一万三、四三二石であった(本藩譜)。翌四年一月一一日、越智郡岡村に火災があり、農家一一三軒が焼失した(三田村秘事録)。同年六月に囲籾改めのため代官大岡久之丞が来松したが、七月以降囲籾の制を廃止する由であった。同年夏は長雨のため不作であり、翌年一月になって損毛高が一万四、五九三石余であることを報告した。文化五年三月五日浮穴郡久万町村に火事があり、農家一〇二軒を焼失した(三田村秘事録)。
 文化五年六月一五日、藩庁は七月から翌六年七月まで俸禄を五割渡しと発表した。同六年四月一日、温泉郡北江戸村沢山で湊町円光寺の梵鐘の鋳造が始められた。この時の見物人は五万人、賽銭五〇〇目であった。同年五月八日に従来松山・江戸の家中ならびに庶民に供給していた菜種・綿実の絞油が不足するので、問屋に命じて増産をはからせるとともに、農民に荒地を利用して植え付けを励行するよう指令した(増田家記)。
 文化六年七月に入って、定則は重病となり、同月五日江戸愛宕邸で逝去した。わずか一七歳(公称二〇歳)で没した彼は済海寺に葬られた。定則には継嗣がなかったので、弟保丸(実年齢六歳)を一三歳と称し、また勝丸と改名して、後継者とする旨を届け出て、幕府の許可を受けた。やがて勝丸は松平定信から定通の名を与えられ、第一一代藩主となった。