データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

一二 松平勝善の治世と松山城郭の復興

 定穀の継承

 一二代松山藩主となった定穀(のち勝善)は、薩摩藩主島津斉宣の一一男で、文化一四年(一八一七)六月に江戸薩摩藩邸に生まれ、幼名を勝之進といった。天保三年(一八三二)七月二〇日に、松平定通の養子となり、養父から定穀の実名を与えられ、八月二八日に三田の松山藩邸に移った。この時定穀は一六歳であり、名を千松と改めた。同年一一月二四日に溜詰格従四位下刑部大夫に叙任され、翌四年五月一四日侍従に任ぜられた。
 天保六年六月一九日、定通が江戸愛宕邸で逝去したので、同年閏七月六日にその遺領一五万石の領有を承認され、刑部大輔を隠岐守に改めた。翌七年八月一五日に家中御目見の身分の子弟六三人に番入りを命じ、家中社会に生新の気風をもたらした。
 定穀が藩主となったころは、天保の大飢饉の最中であり、天保七年の松山領における損玉局は三万一、八九九石であった。翌八年二月大坂町奉行所与力の大塩平八郎が飢民救済のため、大坂城の風上に火を放って騒乱を起こした際、城代土井利位は大坂における松山藩邸在住の藩士に来援を依頼した。そこで、留守居見習森小十郎をはじめ足軽、水主ら総勢五六人が、大坂城あるいは天満橋の警備に参加した。二月二七日に、松山藩庁では、大塩の乱鎮定のために、目付長谷川角右衛門らに命じ、足軽二〇人を統率して大坂に派遣した。
 天保八年秋、幕府の命によって、将軍・左大臣・右大将などの宣下について京都御所への使者を務めたが、この時同役である松平頼恕・酒井忠器らと行動を共にし、禁裏・仙洞御所・大宮御所・親王御所・准后御所へ参内した。定穀はこの功績によって、朝廷から左近衛少将に補せられた。
 天保九年(一八三八)二月九日、定穀は松山に初めて入部し、それまで六割渡しであった家中の俸禄を七割渡しに改善し、また一〇〇石について銭札二〇〇目の割で支給した。定穀の入部一か月後、江戸城西ノ丸が焼失した。この時江戸詰家老奥平弾正が藩士を率いて駆け付け、江戸城内紅葉山の警備に当たった。松山藩は親藩であったため、西ノ丸復興手伝いを命じられ、三万両を上納することになった。
 松山での定穀は、甲州流の尾崎喜内・源家古法の野沢象水によって、藩士への兵学訓練が行われるのを見学し、自ら槍術改撰流の有間平次兵衛・砲術稲留流の亀島弥右衛門に入門するほどの熱意を現した。その後、特に砲術の訓練が繰り返し実施されているのは、時勢の重大さを示したものであろう。
 前藩主定通時代に仮遷式が挙行された東雲神社は、家中をはじめ町方・郷方からの寄付が相次いだ。家中からは石の手水鉢、城下町方からは惣石段の切石、三津町方からは神門、十郡の郷方からは周囲の土塀が寄進された。石段の普請は天保一〇年八月に行われ、新町組・府中町組・本町組・魚町組・松前町組・松屋町組・萱町組・藤原町組・河原町組・湊町組・柳井町組・大唐人町組・一万町組による石引踊りが盛大に挙行された。東雲神社本殿は翌一一年三月に完成し、同一四日に仮殿から本殿への遷宮式が挙行された。
 天保一〇年三月五日、定穀は一二代家慶署名の判物および領地目録を受け取ったが、翌々一二年一月二一日幕府から駿河国府中城転封の内意が示された。定穀はこれを辞退したので、この件は沙汰やみとなった。同一二年閏一月晦日大御所徳川家斉が逝去し、翌二月八日より二〇日までの間、家斉の遺骸を葬送するについて、小川町から筋違門までの警備を命じられた。同年一二月五日に、藩庁は家中の生計を助けるために、一〇〇石について銭札一貫目を、一〇か年賦で返却する条件のもとに貸し付けた。

 武芸の奨励

 天保一三年(一八四二)三月一三日に、定穀は内馬場において家老・大名分および嫡子をはじめ奉行用人・側用人、杉馬場において番頭・奏者番・三〇〇石以上平士の乗馬振りを閲覧したばかりでなく、自らも乗馬して奏者番以上の者に模範を示した。また明教館稽古場で精勤し、成績の向上した一五人(大小姓以上)に対し、不時の番入りを命じて、士気の昂揚を図った。
 同年七月七日、土佐国吾川郡名野川郷四か村の農民およそ三三〇人が村出して国境を越え、浮穴郡久万町村へ逃散した。その原因は村庄屋の非違と、これに対する土佐藩の措置が適切でなかったためである。松山藩庁では、久万山代官津田半助・見習桑原苞を派遣して両者のあっせんに当たったが、容易に解決しなかった。そこで、一九日に和気・温泉郡代官三浦正左衛門を、続いて二二日に奉行近藤弥市右衛門・目付杉山半之丞を同地に送って折衝させた。また持筒五〇人・足軽七〇人・諸郡手代二〇人・諸郡庄屋一一人をはじめ、久万山の農民三〇〇人を動員し、逃散した農民を捕縛する決意のある旨を伝達した。二六日になり、庄屋たもの説得が効を奏したのと、農民たちが久万山近辺の警備の厳重なのに脅威を感じたため、帰村することを承知した。やがて大宝寺裏門外で、農民たちが松山藩吏から土佐藩吏に引き渡され、この逃散事件も落着した。
 天保一三年七月二〇日、藩庁では諸商品に二割引の正札をつけるよう指令した。また一〇月五日に、これに関連して不正の売買をした商家に対し、高価に取り引きした理由を赤い幟に書かせ、懲罰として七日間門前に建てさせた。いうまでもなく、これらは物価上昇と世相の不安に対する応急措置であったが、果たしてどれだけの効果があったかはわからない。翌一四年四月一三日、将軍の日光東照宮参詣に供奉を命じられ、定穀は家老服部図書をはじめとして、騎馬の者二〇人、歩行の者五四八人を率いて将軍に随従し、一七日無事参拝を終えて、二一日に江戸に帰着した。
 弘化元年(一八四四)二月一九日に、藩兵が武具を装備して教練をする旨を幕府に届け出て、許可を受けた。これから盛んに各種の武術に関する調練が行われるようになった(松山年譜)。四月一日、家中のうち孝養をはじめ善行のあった進物番野中蔵之丞・堀江次郎左衛門ら二一名を表彰した。五月一〇日には江戸城本丸がことごとく炎上したので、定穀は将軍の避難先の西ノ丸へ参上し、また江戸詰の藩士を派遣して消火に尽力させた。本丸復興のため、藩では三万両を上納することとなり、納付金を捻出するため、家中に四万俵、郡方に二年がかりで四万俵、城下町方に二年がかりで三〇四貫目、三津町方にも同条件で一六貫目の拠出を命じた。家中からの四万俵は、弘化二年一月から一二月まで人数扶持を実施して、その余剰米でこの難局を解決しようと計画した。ところが、弘化元年一一月三日に幕府から上納金を七、五〇〇両に減額する旨の指令があり、三か年間二、五〇〇両ずつ納付することとなった(毎年一二月納付)。これによって人数扶持は中止され七割渡しとなった。
 弘化元年一一月、大名分遠山家において疑獄事件が暴露された。それは大名分遠山甚太郎の父三郎左衛門が家老職にあった時、藩の財政関係を知っていたため、番頭山本権兵衛・味岡九兵衛に対し、格禄の昇進を条件に調達金をたびたび出資させたことがあった。しかし権兵衛・九兵衛は目的を達成できなかったので、その実状を家老服部玄蕃らに訴え出た。取り調べの結果、遠山家では前記の二人を欺きこれらの金銭を着服して奢侈な生活に使用していたことが判明した。甚太郎は知行を没収のうえ越智郡大下島に、その弟市之丞は風早郡二神島に、権兵衛・九兵衛らは知行役儀を没収のうえ、隠居を命じられた。
 このころ藩士の間には退廃の気風が浸透し、文武の稽古場に出勤する者も少なくなっていた。藩庁ではかねてから文武両道に精進するようたびたび通達を出していたが、弘化四年(一八四七)九月諸頭を集めて、明教館を創設した定通公の趣旨を忘却してはならないと叱咤激励した。また去る天保一〇年(一八三九)までに奏者番以上の武具の点検が終了しているので、弘化四年一〇月一五日に頭分の武具点検が行われる旨が布達された。このように、藩庁では衰退した士風を奮い起こし、綱紀の粛正を図ろうとしたのである。
 嘉永三年(一八五〇)二月五日、江戸愛宕下の上屋敷が類焼したので、同四年三月二七日に再建のため台所柱建始め式を、同年一一月一日には上棟式を行った。翌五年五月二二日江戸城西ノ丸が炎上し、松平定成(松平頼恕の弟増之助、弘化四年定穀の養子となった)は江戸駐留の藩兵を率いて出動し警備に当たった(池内家記)。

 江戸湾警備

 嘉永六年六月三日にアメリカの使節ペリーが艦船四隻を率いて浦賀に入港し、強硬な態度で開国を要求し、幕府に大きい衝撃を与えた。藩庁では一八日に警備応援のため騎馬隊を派遣したが、ペリーが来年の再来を約して去ったので、大坂から松山へ帰還させた。同月二二日に、将軍家慶が亡くなり、一一月二三日に家祥が将軍職に就き、家定と改名した。そこで、松山藩でも家定の名をはばかって、定穀は実名を勝善、定成は勝成と改めた。
 安政元年(一八五四)一月一三日に、再びペリーが来て、前年の確答を求めたので、幕府は江戸湾を防衛する必要に迫られた。松山藩は幕命によって武蔵国大森村から不入斗村までの海岸警備に努めたが、一七日に不入斗村から大井村の間に転じた。この時家老菅良弼が藩兵六〇〇人を率いて参加した(松山年譜)。二月二七日に至り、アメリカ軍艦との間に何の紛争も起こらなかったので、松山藩でも幕命に従って藩士を引き揚げた。三月に至り幕府はペリーの要求に従って日米和親条約を結び、次いでイギリスなどの国々ともほぼ同様の条約に調印した。こうした情勢に対応するため、五月に入って藩庁は三貫目及び二貫目の弾丸を発射する大砲鋳造の願書を幕府に届け出た。
 安政元年一一月四日、江戸・大坂をはじめ各地に大地震があり、松山城郭も被害が多く、石垣の孕んだところ二か所、同所の塀・屋根瓦崩壊、二ノ丸の石垣の孕み一か所、塀・屋根も同様、また三ノ丸の屋根も破損した。家中の住居の崩壊は半壊を合わせて二〇軒、土蔵は一七か所、下級武家の住居の全半壊は一一四軒、町家では六八軒・土蔵四か所、農家では一、二七三軒・土蔵や納屋一、〇三八か所、郷蔵一〇一か所が被害を受けた。このほか池堤・樋などの破損八四か所、井手道・橋の分二〇二か所に及んだが、幸い死者は二人であった。道後温泉も地震のため湧出が止まり、翌年二月まで復旧しなかった(池内家記)。

 城郭復興

 定穀の事績のうちで、最も注目されるのは、多年の懸案事項であった松山城郭の復興事業を竣工させたことである。その間の経過は『御本壇御普請被仰出候ニ付荒々日記』に述べられているので、それに基づいて概略を述べてみよう。
 定穀は弘化四年(一八四七)一一月に、小普請奉行の小川九十郎を作事奉行に任命して、専ら城郭復興の指揮に当たらせた。一二月四日に九十郎は、城郭の礎地を綿密に検分し、八日には家老の服部玄蕃も参加して天守閣の位置を検討した。天守閣・小天守閣及びこれらを囲む各櫓楼の設計は翌嘉永元年(一八四八)に完成したので、鍬初めの式をあげ、常信寺・味酒神社・東雲神社などで完成を期する祈禱が行われた。建築に先立って石垣が再築された。本壇の石垣は火災に遭って脆弱となり、重力を支えることができなくなっていたため、根本的に築き直されたのである。このことは現存の石垣を見れば判明するであろう。
 四月に入って、役夫として藩領内の和気・温泉・久米・浮穴の五郡から、農民六〇〇人が毎日徴発され、材木の荒木拵えに取りかかった。これらの用材は、主に楠・槻・栂・松などであって、来見(現周桑郡丹原町)・須之内(現温泉郡川内町)・杣野(現上浮穴郡面河村)・東野(現松山市)などをはじめとする久万地方産出のものと、三津浜御船場に貯蔵されたものとが、その大部分を占めた。
 八月八日の吉日を卜して本壇の普請が始められた。翌嘉永二年(一八四九)四月に基礎工事が完成し、櫓の建前に取りかかった。次いで翌三年二月一五日、天守柱建て初めの式が挙行され、四月三日には上棟式が盛大に行われた。
 工事に着手してから六年を経て、嘉永五年一二月二〇日に本壇の城郭全部が完成したので、藩主から工事関係の者に酒肴の饗応があり、多年の労苦をねぎらった。なお、落成の式典は翌々年の安政元年(一八五四)二月八日に盛大に催された。天明四年(一七四八)の天守閣焼失からこの時まで七一年を経過し、また前藩主定通が復興計画を樹立した文政三年(一八二〇)からは三五年後である。工事に従事した諸職人の員数は七〇〇人にのぼり、それに要した扶持米高は三、〇一六俵であった。実に松山藩としては、大規模な土木工事であった。
 安政元年(一八五四)四月、京都御所が炎上し、すべての建造物を喪失した。翌二年一二月二九日その復興工事を命じられ、経費分担金二万四、九五八両余を拠出することになった。
 城郭の復興や禁裏の再興などは巨額の出費を要したが、これらの経費の大部分は、藩の歳費の節約によるものと、家臣に給与される俸禄の制限による余剰および藩領内の庶民の寄進などによって捻出された。
 こうした多年の苦心と努力とによって、復興完成を見た松山城は、我が国の城郭のうち連立式の最も完備した形式と偉観を持つことになった。連立式の城郭とは、天守閣が並立する二基以上の城櫓によって形成されたものをいい、普通は中庭の設えがある。松山城の場合、天守閣を中心として玄関・北隅櫓・南隅櫓およびこれに続く小天守閣があり、さらに東北に天神櫓を、南東に一ノ門内櫓を配置している。この様式を持つ城郭としてその名を全国に知られているものに、姫路・和歌山の両城があるが、中でも松山城は、安政元年復興であるから、江戸時代の城郭としては最も新しく、かつ完全なものとして注目すべき存在であろう。
 安政三年に入り、勝善は病気になり、療養を続けていたが、八月一一日に逝去し、済海寺に葬られた。勝善の治封は二二年間、四○年の生涯であった。彼の後は養子勝成がその後を受けて、九月二五日正式に遺領を継承し、一〇月二日隠岐守に任ぜられた(池内家記)。

表二-8 松山藩の藩士家禄割引渡明細

表二-8 松山藩の藩士家禄割引渡明細