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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

2 農村の支配

 支配組織

 領内の村数は、前述の如く、「寛文印知集」によると一五か村であった。このうち、河無北南村は、「慶安元年伊予国知行高郷村数帳」・「元禄十三年領分附伊予国村浦記」によれば、北川村・南川村の二か村に分かれており、庄屋もそれぞれ別に置かれていた。従って、普通には領内一六か村と数えることが多かったようである。
 これら農村の支配及び貢租の徴収は、藩においては奉行が統括し、そのもとで、代官がその実務を担当していた。原則として各村ごとに庄屋一名、組頭若干名が置かれたが、周布郡妙口村(現周桑郡小松町)の例にみられるように、東西二名の庄屋が置かれる場合もあった。幕領などにみられる百姓代の名は史料の上には登場してこない。庄屋は、代官の指示に従って藩よりの触書伝達・年貢割付・治安維持などの任に当たった。大庄屋は領内における最大の村高をもつ周布郡北条村(現東予市)に置かれており、各村の庄屋を指揮して農村の統制に当たった。
 小松藩では、他藩にみられるように、藩内をいくつかの行政区画に分割して支配する方法はとられなかった。一万石、一六か村の小藩であり、その必要がなかったためと考えられる。

 農民の負担

 江戸時代における農民の負担の中心は、所有する屋敷地及び田畑に課せられる本年貢(本途物成)で、米を徴収された。また、この外に、小物成その他の雑税が徴収された。
 小松藩における本年貢は、五公五民の率で徴収され、藩政成立以来の検見法が、宝暦元年(一七五一)ころ定免法に切り変えられた(会所日記)。また、付加税として、本年貢一石につき口米二升・延米一斗二升五合・目払米五合、合計一斗五升の米が徴収された(秋山英一「西条藩史・小松藩史」)。
 雑税のうち、小物成は山林・原野・河海などの収益に対して課せられるものである。小松藩では、各品目を貨幣に換算し、小物成銀として徴収した。品目には、綿・入木・雑木・下茶・鹿皮・麻・山手運上などがみられた。
 農民が労役を負担するかわりに納入する夫米も、雑税の一つであった。小松藩では村高の二分(二パーセント)の割で課せられ、米で徴収された。
 この外、本来税ではないが、毎年定額が税と同じように徴収され、事実上税に準ずる取り扱いを受けたものに御種子米と称する種籾を貸し与えて、その利子を徴収する制度があった。すなわち、春期、農民に種籾を強制的に貸し付け、年貢徴収時に種籾の量と利子三割分を同時に納めさせるもので、利率が高く、農民の負担を一層重いものとした(小松要録・会所日記)。小松藩における年貢惣取米高は、享保年間を例に取れば、享保一二年(一七二七)四、五〇一石余、同一三年は四、三六二石余、同一四年は三、七〇三石余、同一五年は四、二七三石余、同一六年は三、九八七石余(資近上七-17)であった。

 享保の大飢饉

 藩の記録である「会所日記」(資近上七-128)に、享保の大飢饉に関する記事が最初に登場するのは、享保一七年七月八日で、領内に虫害が発生したことを伝えている。以後、頻繁に飢饉関係の記事がみられるようになる。北条村の大気味神社祠官矢野義尚の覚書によると、同年は春先より多雨で、麦は半作となり、五月一四日から閏五月二八日まで雨が降り続いたこと、田植後三〇日間も続いた雨は稲作に悪影響を及ぼし、六月二〇日ころからウンカが発生したことなどが伝えられている(小松邑志)。
 飢饉の発生に対して、藩では、いち早く七月一五日に、本年度の藩士への渡米削減についての取り決めを行った。また、同日より八月一七日にかけて、領内に藩士を派遣して、被害状況調査を実施した(資近上七-128)。
 幕府に対する最初の報告は、七月二八日付で行われ、虫害発生のため収穫は皆無に近い状況であると届け出ている(資近上七-2)。以後、幕府への報告書は度々出されているが、九月一四日付報告によると、「海辺・里方」の村々の被害が特に大きく、「山寄」の村々ではいくらかの収穫を見込める状況にあるとされている(資近上七-7)。被害が大きいとして、後に藩から作敷(作食)を貸与されたのは、北条村・広江村・今在家村・新屋敷村・吉田村・大頭村・周布村・北川村・南川村であり、この報告の内容を裏付けている(資近上七-128)。
 また、領内の飢人発生状況に関しては、幕府への報告によると、享保一七年には一一月に二、五四一名、一二月に二、三〇〇名、計四、八四一名、享保一八年には、二月に五七〇名増、合計五、四一一名が数えられている(資近上七-28・29・103)。享保一七年の人別改による領内人口が一万一、三一六名であるから、その割合は四八パーセント弱となり、人々の苦しみの状況が察せられる。
 このような被害は、もちろん小松藩に限られたものではなく、幕府は、その救済のため西国諸藩に対する資金貸し付け及び回米を実施した。この貸付金は、石高によって額に差がつけられ、一万石から一万九、〇〇〇石の段階にあてはまる小松藩は、二、〇〇〇両を一一月一六日に受領し、享保一九年(一七三四)より五か年間で返済することになっていた(資近上七-51)。回米は享保一七年九月二三日から始まり、伊予国における陸揚地は、最初宇和島が予定されていたが、後に今治に変更された(資近上七-77・80)。小松藩では当初五〇〇石の回米を希望し、一一月二九日までに希望額を受け取った(資近上七-128)が、その後、さらに三〇〇石を追加希望し(資近上七―92)、翌年二月九日までに受領(資近上七-128)、合計八〇〇石の回米を受けた。この回米代金は、受け取った月の最終日から一〇〇日延の後支払うことになっていた。
 小松藩では、幕府からの援助以外に、藩独自の救恤資金調達のため、領内用聞き商人に対し、享保一七年(一七三二)八月より翌年三月までの間に二〇貫目の御用銀が命じられた。さらに、享保一八年二月には、追加して一五貫目の御用銀が命じられた(資近上七-128)。これら御用銀及び幕府よりの拝借金などによって、幕府への回米代金を支払い、尾道・大坂などにおける米穀の買い付けが行われ、領内飢人の救済が図られた。幕府よりの回米八〇〇石は主として飢人への夫食にあてられ、そのうち追願分三〇〇石は、飢人一人当たり一日一合の割合で五五日間の凌ぎになると幕府に報告している。また、享保一八年二月には、特に被害の大きかった「下三ヶ村」(北条・広江・今在家)をはじめ、新屋敷・吉田・大頭・周布・北川・南川の村々の飢人に、麦収穫までの間、一反につき米六升の割合で作敷(作食・扶持米)が与えられることになった(資近上七-128)。
 一方、享保一八年二月には、藩からの働きかけもあって、小松町の町年寄ら富裕者による救済も始まり、飢人に対し隔日に粥を支給することとなった。その外、藩は救済策の一つとして山林を解放し、蕨の根掘りを許可するなどの方策もとり、飢人解消に努めた(資近上七-128)。
 以上のような飢饉による被害は、述べてきたような藩その他による救済策もあり、享保一八年四月の麦の収穫期をもってほぼ終結したようである。同月一〇日には村々に支給されていた「飢人扶持」が、また同一二日には「飢人改役人」が廃止された。さらに同二四日には、村々の庄屋たちが、会所へ「村中御救之御礼」に来ておりその間の状況を示している(資近上七-128)。藩でもこうした領内の立ち直り状況を確認した上で、同年七月一六日付で飢人が無くなった旨を幕府に報告した(資近上七-120)。