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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

2 市之川鉱山の開発

 小松藩領新居郡大生院村市之川(現西条市市之川)の市之川鉱山は、かつての我が国有数の輝安鉱の産出地であり、また明治一七・一八年(一八八四・八五)ころ、長さ一㍍に及ぶ美しい巨大な結晶を産したことで世界的に名前を知られている。世界の有名な博物館には、例外なく市之川産出輝安鉱の大結晶が飾られているといわれる。
 「続日本紀」によると、文武天皇二年(六九八)、伊予国からしろめ及び(・金へんに葛)鉱を献じたと記されている。しろめはアンチモンのことである。この記事には、伊予国とだけしか記されておらず、県内には他にも輝安鉱を産出する鉱山が存在するので、献上されたしろめ産出場所を特定することはできないが、後の産出規模などから考え、市之川である可能性は大きい。
 市之川鉱山の発見は延宝七年(一六七九)と伝えられている。宝暦七年(一七五七)から、新居郡金子村(現新居浜市)の伝右衛門による請負採掘となったが、明和六年(一七六九)に至って廃業した。その後は請負主が転々と変わったようであり、また、藩直営の採掘が行われた時期もあったようである。文化九年(一八一二)、銅山師泉屋代理石見屋善兵衛より請負申請がなされ(資近上四-8)、文化一一年、大坂の泉屋(住友)吉左衛門は、年間一、五〇〇斤のしろめ購入を藩に申し出た(資近上四-10)。また同年、藩は江戸におけるしろめ売却代金として九貫五四二匁余を受け取った(資近上四-11)。さらに文政元年(一八一八)には、藩はしろめ六、〇〇〇貫を担保として銀三〇〇貫を大坂商人より借り入れている(資近上四-15)。これらの記事から文化末年から文政初年度は、藩による直営の時期であったと考えられる。その後、天保三年(一八三二)以後は、曽我部某による採掘が行われ、天保一二年、藩直営の採掘が復活した。さらに、文久元年(一八六一)から大坂屋源八による請負となり、明治四年(一八七一)、廃藩置県後石鉄県に引き継がれた(新居郡誌・会所日記)。
 以上の如く、小松藩にとって数少ない貢租以外の収入源であった市之川鉱山は、藩政期を通じて請負の形で採掘されることが多かった。しかし、請負主がごく短期間で交代していることから考えると、経営は必ずしも安定していなかったようである。