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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

1 藩校養正館の設立

 竹鼻正脩の登用

 三代藩主頼徳(直泰・直郷、在任宝永二年=一七〇五~享保九年=一七二四)は蝶庵・祖覚と号し、好学の藩主として知られた。また、詩歌・書道・茶道にも造詣が深かった。
 頼徳の死後、甥頼邦を経て、その子頼寿が五代藩主(在任延享元年=一七四四~安永八年=一七七九)となった。頼寿は藩内の教学振興を目指し、竹鼻正脩を登用した。
 正脩は通称を厚次、後に堅蔵、字を見遠、号を藍谷・流斎と称した。彼は一八歳の時に上京し、崎門学派石王塞軒の高弟山田静斎の門に学ぶこと五年、帰郷後は頼寿の信任を受けて中小姓に登用され、世子頼欽の侍読となった。さらに、天明四年(一七八四)には藩の参政(家老)に就任し、禄一〇〇石を与えられた。以後、正脩は文化二年(一八〇五)に病死するまで、藩校の設立、近藤篤山の招聘など、文教政策の上でも大きな功績を残した。

 藩校の設立

 正脩は、藩内の文教のため、七代藩主頼親(在任寛政八年=一七九六~天保三年=一八三二)に藩校設立を進言し、享和二年(一八〇二)培達校が設立された。同校には、御目見以上の子弟はすべて入学を強制され、社家・医師・農民・商人の中からも希望者は聴講が認められた(資近上四-4)。培達校は翌享和三年、制度を定めるとともに校名を養正館と改称した。
 養正館は御竹門の外に位置し、敷地は約四五〇坪であった。内部には講堂・教官詰所・講義所・素読所(講堂兼用)・文庫・練武場があり、教官として儒官(一名)・学頭(一名)・助教(三名)・同補欠(一名)・助読(三名)が置かれていた。
 同校には、御目見以上の一〇歳の子弟が入学を義務付けられ、少なくとも素読の過程を終了しなければ退学を認められなかった。また、練武場には一二、一三歳から入門するのが普通であった。在学数は、素読生五、六〇名、講習生三〇名くらいであったとされている。
 開講式は毎年正月に行われ、正月一七日が始業、一二月二〇日が終業であった。休日は朔望・五節句・中元・年始・歳末で、毎日の講義は辰(およそ午前八時)より申(およそ午後四時)までであった。毎年秋分には釈奠が行われ、この時には藩主から下士に至るまで出席することとなっていた。
 学科は漢学と習字に分かれ、武芸には弓術・馬術・槍術・剣術・柔術・拳法・砲術・水練・兵学があった。漢学は素読・講義・輪講会読・自習に分かれていた。剣術は無外流・真蔭流、槍術は一指流・大島流、馬術は大坪流、拳法は真揚流・浅山流、砲術は亀島流、兵学は甲州流が行われた (愛媛県教育史)。