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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

2 藩域

 初期の藩域

 西条藩の領域は、伊予国新居郡の大部分、宇摩郡、周布郡の一部分から成り、現在の川之江市、伊予三島市、宇摩郡土居町、新居浜市、西条市、東予市に及んでいた。愛媛県の東予地方のうち、さらにその東部地域を領したことになる。藩成立当初の村数及び石高は、城下町(陣屋町)を除いて五八か村、三万石であった。元禄一三年(一七〇〇)「領分附伊予国村浦記」によって、各郡別に村名、石高を示すと、表二-26のようになる。

 その後の変動

 以上の成立当初の藩域は、宝永元年(一七〇四)に至って若干の変動をみた。すなわち、幕府は、住友家請負になる別子銅山産銅を海岸まで輸送する最短通路を、国領川峡谷~新居浜浦に求め、また、かねてから続いている別子銅山・立川銅山の境界争いを解決するために、この年、幕府領と西条藩領との替地を実施した(第二章第五節参照)。これにより、西条藩領新居郡内の大永山、種子川山、立川山、東角野、西角野、新須賀の六か村が幕府領となり、幕府領宇摩郡内の蕪崎、小林、長田、西寒川、東寒川、中之庄、上分、金川の八か村が西条藩領となった。西条藩にとって、差し引き二、三二六石余の増加となっている。
 また、元禄一六年(一七〇三)宇摩郡津根に陣屋をおき、五、〇〇〇石を領していた一柳直増は、播磨国(兵庫県)三木に転封となり、その領地は幕府領となった。
 さらに、宝永三年(一七〇六)、西条領のうち宇摩郡西上野村、東上野村が幕府領となり、幕府領の同津根村、野田村が西条領となった。ただし野田村のうち西条領は三一六石二升二合で、二三六石九斗一升八合は幕府領として残された。
 以上のような藩域の変動や、後述するような新田開発の進展等により、時代とともに石高は増加し、幕末には、新田高などを含めて、四万三、一〇八石八斗九升五合となった。また、枝郷の独立や分村等により村数も増加し、「西条誌」(天保一三年=一八四二)によると、六八か村となった。

表2-26 西条藩領域の村(元禄13年=1700)

表2-26 西条藩領域の村(元禄13年=1700)


図2-24 新居郡諸村(宇摩郡については図2-33参照)

図2-24 新居郡諸村(宇摩郡については図2-33参照)